BUG & BOM !  憂いのCHAMPION Hop Step Paradise  16


 

 

 

 

平安時代、貴族の朝は早い。

平安京条坊図を見ていただくとよく分かるが、大内裏の北辺から数え一条から九条までの区切りの中、ここ師輔の屋敷はその一番端、九条に位置していた。平安京全体で五.三キロ、朱雀大路が三キロの道程だから、彼は毎日四キロ近くの距離を通っていたことになる。通勤には牛車を使用するがこれを牽くのは当然牛の役目だった。馬だったら馬車、人なら人力車。…どうして牛力車や馬力車とは言わないのか、そんな疑問はあっちの方へポーイと投げておいて取り敢えず。

右大臣という職務を得る師輔はその忙しさも多忙を極める。彼は右大臣でありながら、権力ではその上を行くはずの左大臣を抑え実質"天皇の次"という要職なのだ。日がな一日笛などピープー吹き鳴らしているどこかのアホなどと一緒にされては困る。更に内裏での就業時間というのは日の出の頃より昼までと決まっているのだ。だから彼は日も昇らぬうちに屋敷を出て、暢気すぎる牛に引かれ漸く辿り着いた宮廷では書類を持って決済を待つ部下に負いまわされその日も漸く昼を迎えた。目が痛い。頭も痛い。ついでに朝食の粥を取らずに出たことで空腹でもある。占いによれば"朝晩はしっかり食べよう!"ということだったので、これはそれに背いた罰であることは確かだろう。

飛ぶ鳥落とす勢いの右大臣が、このところなぜか沈みがちである。その噂は忽ち内裏中に広まりいま、帝の耳にも入ってしまった。

一苦しいニである以上、成明だって気を遣う。具合が悪そうだと聞けば見舞わない訳にはいかないのだ。と言っても帝が出向くことなどなく、当然彼の方を呼び寄せることになるがそれは仕方ない。

かくして師輔は清涼殿に召し出しされ、成明の前にその憂鬱そうな顔を晒すことと相成った。

 

 

 「なにやらお悩みであると聞きましたよ」

 「はあ…いえ、そのようなことはござりませぬ」

 「顔色が優れません。そなたには重責があるでしょうが、みな頼みにしているのです。気鬱があるなら私に打ち明けてみませんか」

 「勿体無いお言葉にござりまする。しかしこの師輔、僅かな気鬱にて帝を煩わせるなど以ての外。まことに申し訳なく存知まする」

 「僅かな、と申しましたね。やはり何事かを案じているのですか」

 「は、あ、それは…は、まことに、なんと申し上げますれば、」

語るに落ちる、というほど大袈裟ではないにしろ、"実は少し悩んでいて"と打ち開けてしまったのだ。こうなれば話さない訳にもいかず師輔は額の汗を袖で拭い笏(しゃく)を握り締めた。

 「恐れながら私の心内にございます気鬱をお話し申し上げまする」

 「申してみよ」

はは、と頭を下げた師輔は正直なところこれで問題が片付くなどとは思っていない。御簾の中に押し込められた帝になにが出来ようはずもないのだ。まして相手はあの煮ても焼いても干しても摩り下ろしても食えるはずのない安倍晴明。

 「七日前の朝のことにてござりました」

 

彼の打ち明け話を聞く成明の眉が跳ね上がったことを、師輔は知らない。

 

 

 

 

 

 「殿。とーのっ」

ぐすん

 「とーのとのとのとのとのとの」

ずずっ…ひっく

 「とーの、ひろまささまぁ」

ひっ…ずずっ…ぐすっ

 「ほぉぉぉらご覧くださいませぇぇぇ、是非とも殿にお納めいただきたいと、高正中将様がこぉーんなに素敵な和琴をお持ちくださいましたよぉぉぉ」

ぐすん

 「とのー、ほら、ぽーんと指先で弾いてみれば、天上の調べが響き渡りますよぉぉ」

ずっ…ちら

 「ね?」

いやいやいや

ぐすっずっ…ずずっ…ひゃっく

 

鬱陶しい。

俊宏ははぁぁぁぁと肺に溜まった空気全てを吐き出し肩を落とす。晴明が旅立ってより七日、博雅の恋煩いと失恋のダブル攻撃は源家全体をどんより嫌な空気に叩き込んでいた。いまやこの家に仕えるものは全て虚ろな顔になっている。ただ一人、俊宏だけはなんとか踏ん張ってはいるがそれも時間の問題と言うところにまできていた。なにせ博雅は初めて味わう"不治の病"のこと、免疫がない分その威力は通常の十割増になっていた。

なんとか浮上させようと彼と楽を通じ親しくする友人に訪ねてもらったり、盛大な宴まで開いてみたがそのどれもに真っ赤な目で"イヤイヤ"をするのだ。もうこれ以上は成す術がないとさじを投げても仕方のないことだろう。

痩せてしまった。

なんとか食べさせてはいるが心に懸かる辛い思いが常に能天気に輝く彼の笑顔を消し去ってしまっている。笛も、琴も、なにもかもを受け入れずただただ彼の人の名を呟くのだ。思いを込めた、けれど儚く弱々しい声で。

鬱陶しい。実に鬱陶しい。

俊宏は胸の内でそう繰り返した。"鬱陶しい"と思っていたい。冷たいその言葉を使っていたい。

だって。

 「殿…こちらを向いてください。俊宏にお顔を見せてください」

こんなに哀れな博雅様を見るのは辛すぎて…苦しくて自分まで泣けてきてしまうんだもーん!

 「俊宏…」

 「はい」

 「俺は…バカな男だな」

 「なぜです」

 「大切なものを大切にすることが出来なかった。なにが大切かも分かっていなかった。側にあるから、それはいつまでも変わらぬものと思い込み気遣うと言うことをしなかったのだ。いや、気遣いが必要だとさえ思うてはいなかったのだから」

 「なにを仰られます。博雅様はお心深く、そしてお優しい方にございます。俊宏は重々承知いたしておりますよ」

 「だが、やはりバカなのだ。バカで、どうにもつまらぬやつなのだ」

 「殿…」

小さくなった背中にいくら手を這わせ励ましたところで、それは彼の欲しがるものではないのだ。この七日間、相手も仕事だからの一点張りで吉野を訪ねることを許さなかった上に文の一つも届けなかった自分を今更ながらに後悔するがもう遅い。

大切な博雅をここまで傷付けたのは自分であると、責任感の強い腹心はきつく唇を噛み締めた。

意地悪したい気持ちが確かにあった。いままで振り回されたのだし、これからもそれは続くと思った。だから少しばかり寂しい思いをして、大人しくしていてくれればいいとそういう思いが確かにあった。ここまで追い詰められるとは夢にも思わず、だから意地悪をしていたに過ぎないのにこれでは。

晴明は本当に彼を捨てたのだろうか。考えたくはないがこうなるとありえぬことではないような気がしてくる。好意に鈍感な博雅が"捨てられた"と言い張るのだから、その確信を彼が持つようなことがあっても不思議ではない。そうだと考える方が自然にも思えてくる。

涙で赤く潤んだ瞳が来るはずもない者の姿を浮かべ宙を見る。

それがどれほど辛いことか、俊宏にも分からないことではないのだ。

 「殿」

こみ上げた感情を無理やり押さえつけ、俊宏はその背中を叩いた。ポン、と気合を込めるように叩かれ虚ろな表情の博雅も意識を向けざるを得なかった。何も考えたくないのに、目は、そう物語っている。

 「俊宏が随身いたします」

 「…なにに」

 「吉野への道行きにはこの俊宏が随身いたします。博雅様の御身を無事安倍殿の元にお届けするのは私をおいて他にありません」

 「俊宏?なにを言うておるのだ」 

 「参りましょう。吉野へ参りましょう博雅様。待っていても便りの一つもないのなら、こちらから伺えばよろしいのですよ」

 「しかし、それは…」

 「お会いしたいのでしょう?お側に侍りたいとお思いなのでしょう」

 「だが俊宏…お前は…」

 「俊宏は、博雅様のお幸せのみを願うております。いつでも殿の晴れやかなお顔を見ていたいのです。さあ、ですからもうお泣きにならず疾く、お支度なされませ」

 「よいのか?俺から出向いてもよいのか」

 「行かないと仰られるなら俊宏一人でも参ります。安倍殿には一時でもよいから殿の前にお姿を見せてくださりますようお願い申し上げてまいりますが」

 「行く。俺も行く!」

 「ではまずお顔を清められませ。さあお早く」

 「うん!」

 

うん、と、まるで子供のままに頷いた博雅はずずっと鼻を啜りそれで泣くのを終わらせた。あーあ、いつの間にこんなに好きになってたんでしょ、この子ったら。

とにかく漸く晴博らしい恋愛話が展開してきたので、このまま波に乗って進めていただこうではないか。読者のみなさんもさぞやこの時を待ち望んでおられたことだろう。

しかしここで気になることが一つある。

気になっているのは俊宏だが、彼が何か呟きそうなので耳を傾けてみよう。

 

 「しかし…吉野吉野と申してはいるが、一体吉野のどちらにおられるのか」

 

まあいいか、行けばなんとかなるだろう。

 

 

俊宏くん…きみもかなり煮詰まっていたんだね…

ま、行けばどうにかなるさ。きっと。多分。恐らく。

 

…大丈夫?だって晴明がいるところって…

 

 

 

 

 

 

 「では晴明は師輔の屋敷に篭ったままなのですね?」

 「はい」

 「どこに知らせることもするなと言うのですね?日々博雅の名を呟きながらも、知らせてはならぬと言うておると」

 「はい」

 「そうですか」

成明の低い声に師輔は眉を寄せる。問題そのものはこれまで晴明を甘やかしてきた自分に責任があることなので主上にどうこうしてもらえるような話でないことは重々承知していた。ところが晴明の名を出した途端彼は固い口調になりあれこれ尋ねては一人納得している。その様子は、なぜか晴明が博雅の名を繰り返し呟いていると告げたときより、なお顕著なものとなり益々師輔の首を捻らせた。

 「本日、博雅の参内はありませんでしたね」

 「明後日には参りますかと」

 「分かりました。師輔、このことは私とそなたの心内にしまうということで…よろしいですね」

 「仰せのままに」

 「それでは退出なさい。今宵は疲れを癒すため、早々に休むとよいでしょう。そう…」

いつになく突き放した、その冷たい口調に師輔は見えぬ御簾の中を覗きこむ。

 「屋敷の中にて起こることの気配すら気付かず、深く休まれるように」

よいですね?

 

 

 

清涼殿の中はどうにか走らず辞したものの、渡殿を過ぎたところで師輔は後ろも見ずにダッシュを始めた。途中何人もの公卿に声を掛けられたが足を止めることは出来なかった。常ならば彼ほどの身分のものが内裏内を疾走したとあってはすわ一大事と騒ぎになるところであり、本来の彼ならそのような失態は決して犯すものではない。けれど今の師輔は、一刻も早く自宅に戻り塗り籠の中に閉じ篭って明日の朝まで何も考えず一心不乱に眠ることだけが救いの道であったのだ。

何かはわからない。分からないがハッキリしている事実がある。

今夜、自分は起きていてはいけないのだ。なにがあっても目を覚ましてはならないのだ。

あの人畜無害の飾り物でしかない青年がこの国を統べる帝であることは間違いのない事実だから、逆らえば右大臣といえど命の危うくなろうことは分かりきっている。

その帝がなにやら含んだ言い方で彼に"見ない振りをしろ"と言ったのだから、これはなにかとんでもないことが起こるに違いない。興味はあったがそれ以上に恐怖が強い。師輔はやり手ではあったが同時に"気のいい笑い上戸のおっさん"でもある。君子危うきに近寄らずは、彼が宮廷で生きるためのお約束事第一条第一項なのだ!

 

 

内裏より師輔の牛車が猛スピードで走り去ったその同じ頃、博雅を乗せた車もまた吉野へ向けて旅立っていった。

相変わらずのジェットコースターストーリーの結末やいかに。

…まだ終わらない気配濃厚でそれにもまたゲンナリ。




                 
                            続く →