BUG & BOM ! 憂いのCHAMPION Hop Step Paradise 17 「もうすぐ吉野の里に入りますよ。殿には一先ず荘園の屋敷にお入り頂き、明朝より私が安倍殿をお探しいたします。名高き陰陽師所有の庵であれば、里の者も聞き知っておりましょう。きっと見つけて博雅様をお連れ致しますからね」 「頼りにしておるぞ」 竹筒の水を飲んでいた博雅はコクンと頷きそう言った。一度は泣き止んだ彼も牛車に揺られるうちに様々なことを思い出したのだろう。盛大に鼻を啜る音がしていたから心配はしていたが案の定、休憩の為に簾を上げ竹筒を差し出した俊宏の前には真っ赤に泣き腫らした目の博雅が座っていた。 「そんなに涙ばかり零されておられると、殿の眼(まなこ)が溶け出してしまいます」 「目が溶けるのか?それは困る、晴明のことが見られなくなってしまうではないか」 「そうですよ。さあ、これでお顔を清められませ」 水を染み込ませた練絹で顔を拭いてやると幾分かはサッパリとしたものの、身分高き殿上人とは思えぬヨレヨレさはまだ大分残っていた。 烏帽子から零れた髪を整え、直衣の襟元を直す。いくらかマシになった主人を見て軽く頷くと俊宏は博雅の手を取りポンポンと叩き宥めてやった。まるでお母さんだ。 「殿はなにもご心配なさらずともよいのですよ。この俊宏が全て、良きように取り計らいますからね」 「だが晴明は俺に逢うてくれるだろうか。嫌だと申したりはせぬだろうか」 「ご案じなさいますな。安倍殿もあれで職務には忠実なお方、何かと忙しさに取り紛れお文の一つもお届けになれないだけのことでございます」 「そうか」 「そうですよ」 ずずっとまた一つ鼻を啜り、けれど泣くことだけは堪えるように顔に力を入れる。そうすると自然と尖る唇が博雅の幼さを三十パーセント増量しているが、いまはそれを見るのも俊宏だけなので構わないことにしよう。天皇の血を引く貴族として、また帝の寵愛を頂く重臣としてこんなところは絶対に見せられない。早めの決断をしてよかったと、自他ともに認める苦労性の家令は胸の内深くに溜息を零した。 「それでは参りましょう」 巻き上げていた簾を元に戻し、舎人に出立の合図を送る。 牛車の車軸が軋んだ音を上げた。 さて、ここにも一台の牛車が進んでいく。 辺りはとっぷりと夜も更け、大路小路の家々もみな寝静まっているであろう刻限にこの車だけは勢いよくまるで飛ぶように進んでいる。余程の事態が起きているのであろう、牛を引く舎人の声も随分焦ったものになっていた。 騎乗の侍がやはり厳しい表情で付き従っている。 紀平、と。博雅がその名を呼んだ右兵衛の若武者だ。元より厳つい顔の男だが今はそれが更に引き締められ、小鬼であれば恐れをなして逃げ出すほどの迫力を持っている。 なにか、大きな使命を得た者の持つ厳しさだった。 車は朱雀大路からは一本反れた道を下っている。行き交う車もなくそれは程なくして九条まで辿り着いた。舎人は息を荒げ、全力で車を引く牛も興奮のためか地を打つ足が土埃を巻き上げているのが夜目にも分かる。 九条殿。 右大臣藤原師輔の屋敷の前に止まった牛車は、音もなく現れた家人の手により屋敷の中へと招かれていった。 月だけが見ている。 宮中を辞した師輔の元に届いた文に認められた通り、広大な屋敷に住まう人々は既にそれぞれに割り当てられた家屋へと篭り明かりの全ても消されている。 師輔の屋敷では、使役する家人が敷地の中に屋敷を構え生活をしているためその一角は人の出入りも激しいが今宵は外出というものが一切禁じられていた。師輔の命令に背くものは誰もいない。ましてその主人が率先して自室に閉じ篭っているのだ、何事かの大事が起こることは幼い小童でも理解できることだった。 指示を受けていた家人も、西の対の車寄までの案内を終えると逃げるように姿を消した。彼の家では妻や子供が無事の帰りを願っていることだろう。 下馬した紀平が恭しく簾の内に声をかける。低い、辺りを憚るような声音だが決意にも燃えた艶のあるものだった。 「到着いたしましてございまする」 「簾を上げよ」 「御意」 紀平自ら簾を巻き上げ、貴人の下車を助ける。舎人どもはみな離れた場所で深く平伏したまま動かなかった。 「ここは何処か」 若武者に尋ねられた舎人の一人が肩を震わせ、小さく掠れた声で"はい"と答える。 「わ、わたくしには、ここっ、ここちらがどなたのお屋敷であるのかは分かりかねまする」 「それがよい」 慇懃に頷き、別の舎人から松明を受け取ると紀平は袿を被いた貴人の傍らに寄った。 「こちらにござりまする」 貴人は微かに頷き彼のあとにつき歩き始めた。パチパチと松明の爆ぜる音と砂利を踏む音だけが闇の中を進む。広く、丁寧に磨かれた階へ辿り着いた二人はそのまま屋敷の中へと入っていった。 「ひろましゃあ…お前はいま、なにをしておるのだろうなぁ…」 はぁぁぁぁ、と本当に内蔵をも吐き出しそうな長く重い溜息をついた晴明は膝に乗せた紙の人形を手に取り小さく呪を呟いた。 「晴明」 「博雅っ」 がしっとかき抱く博雅の体は確かに馴染んだものだった。 でも。 「ひろまさ…」 「晴明」 ニコニコと微笑むその笑みも彼のもの。けれど。 「お前は…ただの紙なのだ…」 「晴明」 笑顔のまま、妙なる笛の音を奏でる指が彼の狩衣の胸元を握っている。覚えのある限りの彼を写した姿とは言えそれがまことの想い人でないことは嫌というほど分かっていた。分かっているから虚しく、そして悲しく心を打つ。 「お前は…俺を好いてもいないのに、そうして可愛らしく笑いかけるのだ」 「晴明」 「恋でもないのに俺を惑わす笑みで側におるのだ。それがどれほど惨いことかも知らず懐いてくるのだ。名を呼び、ただ無邪気に…」 「晴明」 無邪気に笑う。 「晴明」 「…ひ…」 「晴明」 「博雅…」 「晴明」 「博雅の…」 「晴明」 「博雅の、バカァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」 「愚かは晴明、そなたの方ですよ」 バカァァァ、と同時に紙の博雅に圧し掛かり衣を剥ごうとしていた晴明は突然背後に掛けられた声に飛び上がって驚いた。 まずありえないことだ。 彼は陰陽師として研ぎ澄まされた感性を持っている。魔物の気配に敏感である彼が本来人如きのそれを読み取れないはずがないのだが、今までどっぷり思いに沈んでいたためか全く気付かずバックを取られたのだから情けない。 驚きのあまりちょっぴり鼻を垂らしながら振り返ると、そこにはありえないこと第二弾がほっそりとしたシルエットで仁王立ちしていた。 「…主上」 「それは博雅か。私が参るまでもなく、二人睦まじく過ごしていましたか」 「は、いえ…それは…」 しどろもどろ。 「晴明」 にゅっと伸びた腕が晴明の首に回される。慌てて身を起こした晴明は後ろ髪引かれる思いでそれを元の人形へと戻した。 「…それが式神か」 「は、いえ、…はあ…」 隙を見せない陰陽師の大失態オンパレードだ。 けれど自分に都合よく作られた"式博雅"などをこの男に見られては後々まで厄介だなにせこやつは鬱陶しいまでの博雅フリーク、ここまでのマイナスポイントだってかなり長期に渡っての弱味となってしまうだろう。…忘れさせてしまえばいいのだがな。心の中でせめてもと舌を出してみる姑息な晴明。 「奥へ」 西の対の廂に出ていた晴明を奥へと誘い、成明は上座へつくと漸く袿を下ろした。ぼんやりとした灯明の中でその美麗な顔が揺れている。 仕方なく後に続く晴明の背後には紀平が控え、これで逃げ場はなくなったかと溜息を一つ零す。いや、逃げ場などなくともよい。どこへも行く当てのない身の上なのだ、博雅がいない世界ならどーなったっていいんだもんねーっ! 「なぜ師輔の屋敷になど篭っておる」 単刀直入だ。この男にしては要の口を利くではないか。拗ねて斜に構えている晴明はいつにも増して手に負えなくなっている。 「なぜでござりましょうなぁ」 「晴明、私はそなたに問答を仕掛けようというのではない。答えよ」 「ほう、これはまたきついお叱りでございますな」 片方の眉をぴくりと上げて、嫌味な表情は崩さない。マイナスポイントを減らすには逆ギレするのが一番だ。 「ここ暫くの博雅は見ていることも辛いほどの憔悴ぶり。なにがあったのかと尋ねても首を振るばかりで何も申してはくれず、ただ大きな眼に涙を浮かべ…さぞや辛いことがあるのだろうに…」 言ってるうちに貰い泣き出来るんだから、成明の純情ぶりも大したものだ。尤も帝なんて職業はピュアでなきゃやってられないだろうけどね。 だけどこれにカチンと来るのだから晴明もまだまだ若い。博雅を泣かせていいのも、泣き顔を見ていいのも自分だけに与えられた特権、それを帝だかなんだか知らないが権力を振り翳して横取りしようとするなんて言語道断、大陸横断。ウルトラクイズの不正解を食らって泣く泣く泥プールにでも突っ込めばいいんだ! 苛々と唇を噛みつつ返事をしないでいる晴明に、成明は厳しい目を向け睨み付ける。 「そなたはなぜここにおる。なぜ博雅の元に帰らぬのだ」 「夫婦のことに口を挟まれますか」 夫婦。 十一月二十二日は"いいふーふの日"です。入籍はこの日にどうぞ。 「夫婦であればなおのこと。…夫婦?」 ふーふー。 成明の首がくりん、と傾ぐ。そのまま数秒考えて、元に戻った時には先ほどと同じ晴明を責める顔つきになっている。 「なおのこと、大切に慈しむものではないか」 納得しちゃったらしい。まあ博雅本人が自分を"妻"と言っていたのだから不思議はない。 しかし本当に手の付けられないバカばかりだぞ、BUG&BOM! 「聞けばそなたはここに身を隠していることを、博雅に伝えることすら禁じているとか。それはなぜなのか」 「ですから夫婦のことと申し上げました」 「晴明」 ピシリ、と声が飛ぶ。 「私に隠し立てをするか。晴明よ、私はそなたに言い置いたはず。博雅を悲しませるようなことはないかと、生涯を捧げることを誓うかと。そなたはそのどちらにも誓うと答えたのだ。私にしかと誓うたことを、よもや忘れたとは言わせませぬぞ」 そんなー時代もーあーったねとー 「博雅…」 「晴明?」 「ひろましゃぁ…」 「なんです、なぜ泣くのだ、これ晴明」 「びろまじゃのばがぁぁぁぁぁぁ」 おーいおいと突っ伏して泣き始めた陰陽師を、成明はただ呆然と見詰めていた。 目の前で晴明に泣かれたら…そりゃ実に気味の悪いものだろうと思われる。 という訳でそんな気味悪さを引き摺ったままクラッシュ17は終了。 いやぁ、いいところで切るねぇ。アハハハハ!
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