反魂歌 1 よしみさま 1000hit Request 茜色に染まる空を見ていた。 源博雅は、その日、務めを終えると友の誘いを断わり早々に自邸へと帰りついた。取り立てて用のある訳ではなく、ただ一人、ぼんやりと過ごしたいと思ったのでそうしただけのことだった。 笛を吹こう。 縁に座し、暫し放心していた彼はふとそう思い立ち、懐より取り出した龍笛を唇に当てた。だが息を吹き込むことは出来なかった。そのまま、笛を膝に下ろす。 夕暮れにはまだ早い、夏の澄んだ空が広がっていた。時折、黒いものが舞いそのあとを雀が追う。短い命を必死に生きる蝉であっても、雀にとっては獲物でしかない。蝉は許してやればよいのに。そう思い、博雅は己の思考に躓いた。 蝉は七日ばかりの命を声の限りに歌い上げ、そしてその声の尽きるとき枯葉のように静かに、誰に見取られることなく散っていく。死んでいく。 けれどほかの蟲たちも、それは同じことではないのか。自らの生命を、生まれてきた使命を果たすため精一杯に生きている。そのことに貴賎はない。蟲も、人も、獣も。そして鬼であっても変わらぬこと。大切な"命"であること。 蝉の命が短いからと、雀にほかの蟲を捕らえるように諭すのか。 それはとても傲慢なことではないか。命の優劣を決めることになるではないか。 見上げる空を、蝉が横切る。今度は雀に追われてはいなかった。けれど時に追われ生き急ぐように見えるのは、人の根源にある"己"というものに奢っている証ではないのか。 命に、なんの違いがあろうか。 生きてここにあることを、漠然としたその真理を、博雅はぼんやりと考え始めてしまった。笛のことは、忘れていた。 赤く染まり始めた空は、見る間に暗く、闇へと変わる。 夕餉の膳を運び込もうとした家人の声に気付いてはいたが言葉を返すことはしなかった。いや、出来なかった。 移り変わる赤から黒へのその色合いに、心を奪われてしまったからだ。まるで生と死を映すようなその空に、なにかを見つけたいと願ったからだ。 下弦の月夜。 白く、薄く、夜に張り付いた月を眺め博雅は大きく息を吐き出すと座していた縁からすらりと立ち上がり庭へと降りた。そのまま屋敷を後にする。 口うるさい家令に見つかれば引き戻されてしまう。どうしてもと言えば車だ舎人だと騒ぎ立てられるので、彼は沓の音を立てぬようそっと忍び足で門を抜けた。幸い、今宵の彼の様子から外へ忍び出るとは思わなかったのだろう。脱出は容易だった。 博雅は今年で二十一になる。 家のことを思えば妻を娶れと迫られることも、貴族として自らの出世を望むことも当然のことであったが、博雅にはそのどちらにも興味はなかった。ただ笛を吹き、心の赴くままに過ごしたい。それは出生を省みれば許されぬことと分かっていても、彼にはなにかが納得できぬままにいた。今日も、明日も、それは変わらぬ思いであった。 堀川を遡るように、細い月を見上げながらそぞろ歩く。 供も連れずただ一人、徒歩で歩む彼の姿を見咎める者はない。博雅が屋敷を抜け出てすぐ、空には厚い雲がかかりいまにも雨が降り出しそうな気配を見せていたからだ。このような夜に出歩くものなど、余程の酔狂か鬼以外にありえない。 風も出てきた。 頼りない灯明しか持たぬ自らに、さてどうしたものかと思案する。そんな余裕があるのなら急ぎ屋敷へ戻ればよいという思考は、けれど彼の心には微塵も浮いては来なかった。 はたはたと足元で靡く狩衣の尻に目を寄越すと、ふいに何かが視界を掠め消えていった。瞬きの間のことで"なにか"がなんであるのかの判別はつかぬが、それでも確かに彼の足元、いまは暗く静まり返ったそこに命のある動きを見せるものが見えたのは事実だ。 ぼんやりと立ち尽くしている博雅の肩に大粒の雨が降りかかってきた。ああ、やはりな、と濡れるのも構わず納得していたが着ている衣がたちまち重くなり足元もぬかるんできたところで漸く我に返ると、雨をしのげそうな場所を求め歩き始める。 ここにこのようなものはあっただろうか? 河原脇に社のような建物が見えた。自然と足が向いてしまったのだが果たして気味のいいものではない。古く朽ち果てた感のあるその社は、雨に濡れ闇の中不気味なほどに静まり返っている。黒く、ぬらぬらと光って見えるのは雨と彼の持つ明かりが生み出すものと分かってはいるが、やはりそこに足を踏み入れることはさすがの博雅でも躊躇われ途方に暮れたように眺めている。 声が。 ふいに、声のようなものが聞こえた。低い嗚咽、高い悲鳴。人のものか、鬼のものか。現のことかそうでないのか。一切判じかねるその音はけれど博雅の耳に確かに届き、それがあの社から聞こえたものだと言うことも分かっている。 そっと歩みを進めた。興味ではない。確かに恐ろしさを感じているのだから出来れば近付きたくはないはずだ。けれど彼の意志に従わぬ足は社の扉の前まで進んでしまう。どうしようか、どうすればと、いっそ人事のように思考がぼやける。なにかに操られているのだ、逆らえないなにかに。 手で覆っていた灯明がかき消える。白い煙を僅かに上げて、それで視界は闇に包まれた。博雅の指先はいま、主の命に背くよう朽ちかけた扉に添えられていた。 がらり 思わぬ軽さで扉が開く。思わず顔を背けたが、なにものかが飛び出してくる気配などは感じられず彼は怯えながらも社の中を覗き込んだ。 明かりが灯っていた。 そして随分と広い。 いや、広いというよりそこはもう博雅が見ていた社の中ではなかった。掃き清められた土間に磨かれた板間。几帳の向こうには次の間に続く扉が見える。 呆然と見回した彼の背筋に悪寒が走った。気付いてはならぬことに気付いてしまったためだ。雨の音が止んでいる。そして、扉が閉じている。 閉じている。 振り向き、伸ばした指先でそれを引いたがびくともしない。押しても、叩いても、その扉は揺らぐことすらなく博雅をこの屋に閉じ込めるべく鋼のような強固さで彼の焦りすらも拒絶した。 扉に爪を立てながら、軽率な己の行動を悔やんでみるが後の祭りだ。ここにいることを屋敷の者は知らないし、誰一人博雅の行方など承知してはいないのだ。もしやこのまま、人知れず死ぬようなことになるのだろうか。握った拳で虚しく叩く扉は岩戸の如く立ち塞がっていた。 開かない扉に半ば諦めの気持ちになった博雅は、そのまま板間に腰掛け改めて周囲を眺めて見た。 人の住まう気配はないが、荒れた感も一切ない。それが一層恐ろしくもあったが、何かが突如現れたりするよりはずっといい。だが、奥に続くあの扉が開いた時一体なにが出てくるのか。それを思うと掛けた腰も定まらず、落ち着きなく辺りの気配を探り続けた。 気にすればするほど、なにやらの息遣いが聞こえるような気がする。生臭いにおいも立ち込めているような、そんな強迫観念にとらわれる博雅の耳に、その音は確かに聞こえてしまった。気のせいなどでは決してなかった。 背後の扉の向こうに突如人の気配を感じ、彼は慌てて戸口へ走るとまた開かずの扉をがたがたと揺する。このような化け物屋敷に踏み込んでしまった迂闊さを呪いながら、ただただ逃れようと必死に叩き、揺すり"なにか"から逃れようとあがいた。 「なにをしておる」 人の声だ。 「なにをしておるのだ、このようなところで。まさか迷い込んだと言う訳でもなかろう」 声は低く、冷たく、けれど深みのある艶を備えた耳障りのよいものだった。 恐怖に引きつる喉では答えようもなく、また振り返る度胸もない博雅はただ首を竦めその何かに見つからぬよう身を縮ませてみる。すでに背後に立たれているという事実は無理に振り払ったのだが、現実として彼が"なにか"に背を取られているのだから無意味なこと甚だしい。 「見ればどこぞの公達のようだが…お名を名乗られませ」 首を振る。断るつもりの仕草だが、二度三度繰り返してから漸く気付く。反応してしまった。これではそこに何者かがいて、自分と対話していることになってしまうではないか。 泣きたい気持ちで目を閉じたが、いつまでこうしていてもなにも変わるものではないだろう。相手は鬼だ、ならば己の助かる道などもうどこにもないのだ。 鬼。自らの思考にまた泣きたくなる。 そうだ、これは鬼だ。鬼の棲む屋であったのだ。逃げ道などというものは、この扉が閉じたと同時に潰えていたのだ。逃げられはせぬのだ。 涙の滲んだ瞳を固く閉じ、博雅は肩の震えを止めることもできず嗚咽を漏らす。こんなことならもっと笛を吹いておくのであった。浮かんだ言葉がそれだけというのも彼らしいが、それ以上に今生を去ることにつき悔やまれることは他にないのであろう。博雅とはそういう漢であった。 「いかがなされました。…私が先に名乗ります故、そう固くなられずとも」 微かな笑いが感じられる声でそう言うと、博雅の背後に立つものは低くさらさらとした声で続けた。 「私は陰陽寮に籍を置く者。陰陽師、安部晴明にございます」 「陰陽…師?」 呟き、そして博雅はそれまでの怯えを忘れたような顔でくるりと振り向いた。果たして目前には一人の男が立っていて、苦笑を隠しもしない無礼極まりない口元のまま彼を見ている。 白い狩衣を着ている。白い顔色をしている。 組んで袂の中に隠された腕も、きっと白く透き通るようなのだろう。この面差しを見るとそんな気がする。 男はかなりの長身で、博雅と並べば僅かに高いかもしれない。それともすらりと背筋の伸びた痩躯がそう感じさせるだけなのか、とにかく形(なり)の美しいこれまで見たことのないような男であった。 「安部…晴明、どの」 微笑む口元が肯定のためかさらに笑みを増す。紅を引いたような赤い唇が左右に引かれ、なにやら鼓動が激しくなった。 怪しい空気をはらんでいる。安部晴明、その名は聞き及んではいるが、よもやこの男がそうであるとは思えない。宮中の噂話に疎い博雅といえど、"晴明"の存在やその逸話は耳にしている。にわかには信じがたい、その出生のことに至るまで。 怯えは残しつつも博雅は彼の観察を続けた。まことにこれが晴明であるのか、噂を信じるならば狐の子である陰陽師なのか。しげしげと見つめる彼はやがて晴明の狩衣の裾に付着した赤いものに気付きそれを凝視する。 血だ。すぐに分かった。この赤いものは間違いなく人の血だ。赤く黒く、丹の華やかなそれではなく、人の命を表すような、暗く凝ったその色は違えようもなく血の色である。 ひっと悲鳴を上げ身を返すと、そのまま博雅は土間を駆け抜け隅に身を縮めると激しく震えた。職務上、彼は武士と呼ばれていたが人の血を見るのは初めてのことであった。 「いかがされました。鬼にでも出会うたような顔をしておいでだ」 にい、と口元が嘲笑につり上げられる。草履を履いた足が一歩、前に踏み出される。 「何故そのように怯えておいでなのです。…ああ、これですか」 足元を博雅に見せつけるよう、すい、と差し出す。流れる生臭いにおいに顔をしかめ背けると、陰陽師の笑いはさらに深く、冷たく煌めく。 「血を見るは初めてのことにございますか」 くくく、と漏れる笑いに腹が立つ。腹は立つが言い返すことはできない。それは事実であったし、いまこうしている自分は確かに"それ"に怯えているのだ。人の血を浴び平然と笑う不気味な男に恐れをなしているのだ。 怖い。 博雅の中の恐怖は膨れあがり、いまにもはち切れ自らを殺しそうなほどになる。いや、鬼の手にかかり死ぬことになるなら腰の太刀でひと思いに… しまった、太刀を帯びてはいなかったのだ。 屋敷を抜け出ることに必死になっていた彼はそこまで気が回ることがなかった。自分の虚けぶりに歯噛みをしても遅いが今日ほど悔やまれることもないだろう。 怖い。斬りかかることも差し違えることも出来ぬまま、鬼の手により引き裂かれるのだ。生きたままに肝を食らわれるのだ。 彼の中で、すでに目前の陰陽師は鬼と化している。元よりの鬼か、取り憑かれたか、そんなことを考える暇はなく、ただただ恐ろしい気持ちがそうと決めつけ恐怖を煽る。 「そのように震えて…私が恐ろしいのですか」 腕が伸びる。 博雅の肩に、伸びる。 触れる。 「う、う、うわーっ!」 絶叫が響く。 |
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