反魂歌 2 よしみさま 1000hit Request 「そのように怯えられると、私がまことの鬼のようでありますなぁ」 「…はえ?」 覆い被さるようにしていた影が消え、いまや頭を抱え蹲っていた博雅は情けない声を上げた。恐ろしい鬼と思っていた相手から、存外柔らかな声が発せられたからだ。 「私の仕事場に踏み込まれたはあなたの落ち度。ですが少しばかり悪戯が過ぎたようなのも事実ですね。さあ、お立ちください」 「仕事…」 「はい。仕事にございます」 恐る恐る顔を上げた博雅の前には、先ほどの嘲笑ではなく柔らかい笑みを浮かべた男が左手を差し出していた。右腕は袂の中に隠されたままで、それが恐ろしく首を振ると彼は困ったというように首を傾げ、それから隠していた腕を彼の前に晒した。 「うわっ」 「鬼の血にございます」 「おっ鬼!やはり鬼なのかっ」 「私が鬼なのではなく、この血が鬼のものなのです。今し方片付けたものより浴びた返り血にございます」 右腕にも付着したそれは、顔の前に出された所為でより強い臭いを発している。思わず顔を逸らすと男の口から忍び笑いが漏れた。その笑いがひどく腹立たしいものなので思わず睨み付けるのに、相変わらず薄く微笑んだ唇は博雅の威嚇など意にも介さぬ落ち着きぶりで腹立たしいことこの上ない。 振り払ってやりたいが血にぬれたそれに触れるのが恐ろしく、もつれそうになる足を必死に踏みしめながら漸く立ち上がった博雅は同じ視線で改めて陰陽師の顔を睨み付けた。 整った顔立ちをしている。通った鼻筋は都にはない造作だ。どこか異国のものを感じさせるが唐国とも違う。博雅の知らぬ、海を越えた名も知らぬどこかの美姫…ふるりと頭を振る。なにを考えているのだ、俺は怒っているのだ。たかが陰陽師風情に笑われたとあっては朝廷の、主上の名に傷が付く。彼の襟持ちを総動員し、形勢を立て直すため背筋を伸ばすと正面から男を見つめる。もう目を逸らすことはなかった。 「安部殿と申したな」 「はい」 「私は源博雅だ」 「おお、笛の上手の博雅様でございましたか。しかし四位の博雅様が、供もなくこのような刻限にかような場におられますのは…些か軽率に過ぎるのではございませぬか」 「俺を知っているのか」 「はい」 思わず身を乗り出してしまった彼を、男はさらりと受け流し踵を返す。そのまま奥へと消えようとするので、僅かに迷ったものの後に続いた博雅はすぐに後悔することになる。 それに名付ける名などないように思われた。血まみれの、黒く大きなその物体は熊のようでありそうではない。人では決してあり得ぬものの、手足の指先は見慣れた"人"のものでもあると言える。とにかく不気味なものの死骸が、彼らの目の前に転がっていたのだ。 「これはなんだ」 「鬼…で、ございましょうか」 「鬼なのか、鬼ではないのか」 「鬼と言えば鬼。そうでないと言えばそうではない。人でないことだけは確かにございますな」 どうにも見下した物言いをする。博雅には階位をひけらかす趣味はないが、それでもこの男の態度は些か過ぎるように思えた。一言浴びせてやろうか、そう思い涼しげな横顔を恨みがましく睨んでみるが彼は全く気にした風もなく鬼の傍らに屈みなにやらの呪を唱え始めた。 「なにをしておる」 返事はない。唇に当てた左手の二本の指が、呪を呟くそれに触れ微かに動いている。 「なにをしておるのだ」 もう一度問いかけても男からの答えはない。むかむかと腹立たしさが沸き上がる博雅は彼の元に歩み寄ると己の腕で強引に彼を捕らえ、口元の指を外させてしまった。 「答えよっ」 「この虚け!」 二人の叫びは同時であった。 博雅は言われたことの意味を反芻し、"虚け"と言われたことを理解するとたちまち顔を赤くした。怒りに肩が震える。皇孫とし、なに不自由なく育った彼は表面上は敬われるばかりの身分である。遙か下位のものに虚け呼ばわりされる謂われは毛頭ないのだ、怒ったところで当然といえよう。 しかしその怒りは陰陽師にぶつけられることはなかった。 虚けと叫んだ男は素早く指先を元に戻すと厳しい調子で呪を唱えた。先ほどとは打って変わった激しさだった。 血塗れた腕で背中に庇われた博雅は、ただ呆然とその光景を眺めていた。先ほどまで死んだと思っていた鬼がむくりと半身を起こし、男に向かって牙を見せている。腐臭が辺りに満ち、とても静止出来るものではない。 咆吼が響き、陰陽師が後ずさる。それにあわせ押される博雅も同じように下がった。いまや鬼は立ち上がり、どろどろと崩れる体のまま二人の方へと進んできていた。怒りも恐怖も消し飛びただただ見詰めているしかない。 太い腕が振り上げられ、それは男の肩めがけて振り下ろされた。ぐい、と押しやられた博雅は均衡を崩し左へ倒れかけたがすぐに支えられまた背に庇われる。呪を唱える声が一段と高くなった。 苦しそうなその声音に、博雅の眉が寄り、そしてはっと見開いた目がそれを映す。 男の肩に掛かる狩衣が切り裂かれ、そこから血が染み出ている。鬼にやられたのだ。己を庇い、彼が怪我をしたのだと瞬時に理解した博雅は呆然とし、そのまま動けなくなってしまう。 「下がれっ」 呪の合間に叫ぶ。庇われた背が胸に当たる。彼の血が博雅の肩にも染みてくる。 「下がれ博雅っ」 血が。 鬼ではなく、男の血が。 「博雅っ」 人の血が。己を庇い傷ついた、彼の血が染み出る。伝い落ちる。 「…、わ…」 「下がれ、死にたいのかっ」 「う、わ………わーっ!」 なにが起きたのか、彼にも一瞬分からなかった。 どん、と背を押され躓きそうになるのを堪えるのと、なにかが脇を擦り抜けるのは同時であった。 「わーっ、うわーっ」 叫び、なにかを振り回している。鬼に向かい、滅茶苦茶に振り回す棒きれで戦いを挑んでいるのは博雅だった。呆然として見ている彼の前で、必死に戦っているのだがよく見ると握られたそれは笛である。呆然が、唖然に変わる。 「消えろ!ええい消えぬか、この鬼めっ」 えい、えいと気合いを込めて振り回される笛に確かに鬼は怯んだが、力あるものではないと気付くと再度腕を振り上げ博雅に狙いを定める。 陰陽師の呪が、今度こそ間違いなく唱えられ始めた。忽ち身動きの取れなくなった鬼は振り上げた腕もそのまま低く唸り声をあげる。ずるりと肉片が崩れ凄まじい腐臭とともに博雅の足下へと崩れていく。 どろ、と、首の辺りが溶け出し、次の瞬間にはただの肉塊となり動きを止めた。そして見る間にさらさらとした粒子へと変わると、風もないのに飛散していくその様を大きく見開いた目で見詰める博雅に内心で笑いはしたが、体はそれほどの余裕がなかったらしい。足下がふらつきそこに片膝をついてしまう。 「おいっ」 気付いた博雅は慌てて駆け寄ると彼の脇に腕を差し入れ支えた。見た限りでは傷は浅そうだがその分出血がひどい。早く手当をしてやらねばならぬがどうすればよいのかも分からず、ただ"しっかりせよ"と繰り返すしかない不甲斐なさに唇を噛む。 「すまぬが衣を裂き、傷の上で締めてくれぬか」 「お、おう」 そうか、血を止めればよいのか。そう思った博雅は迷うことなく自らの狩衣の肩を落とし、単衣の袖を引き裂くと男の肩へ巻き付ける。 驚いたのは彼の方だ。"衣を裂け"とは言ったがそれは彼自身の着ているものを指しての言葉であり、見るからに上等な博雅の衣のことを言ったつもりなどなかった。血塗れた狩衣は確かにこの後着ることもないかもしれぬが、汚れのない単衣であれば… 「これでよいか」 不器用な手つきで手当を終えた博雅が不安げな顔で尋ねてくる。 なるほど、博雅殿と言えば笛の上手とその名も高いお人ではあるが、それと同様に"お気の毒な方"とも呼ばれていたな。男は唇に笑いを浮かべると無造作に腕を上げて見せた。 「高価な"薬"をいただきましたので、これで大事ないでしょう」 「薬?」 博雅は首を傾げ、よく分からぬまま頷いた。男の具合がさほど深刻そうではないことに気付いたのだろう、支えようと伸ばしていた腕を下げ覗き込むような視線に変えた。 「安部殿」 「はい」 「そなたまことに、あの安部晴明なのか」 「あの、とは…」 言いながら身を起こすと、かいがいしく脇に腕を入れ支えてくれる。心配げに揺れる瞳は僅かな怯えを含んでいるが、彼にはそれを和らげてやる謂われはない。 誰もがこの身を卑しく気味の悪いものとしてきた。蔑み、虐げ、時には暴力的なことさえ仕掛けてくる。真実もただ一人の声では届くこともなく道端に転がるそれは最早"真実"という名であったことすら消えかけた。 好きにすればいい。なにを言われたところで、今更自らの出生や所行が消える訳ではない。言いたい輩には言わせておけばいいし、傷付けたいならそうすればいい。俗世を捨てることは陰陽師という仕事を生業としている以上放棄することはできないが、こちらから関わるつもりは既にないのだ。 支える腕をやんわりと外し、博雅の目を見ながら呪を唱える。 空気が、ゆらりと揺れた。
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