Eraser 夜通し待っても父は戻らなかった。 議事堂にいるならこちらから訪ねてみようと思ったが、昨日と同様部屋の前には数人が控え外出を厳しく禁じてきた。 近年、問題になっていることはあっただろうか。 議事堂の周辺には霧が流れ込んでいる。ひっそりと静まりかえった様子は無人に思えたが、張り巡る緊張感は嫌でも皮膚を刺し事態の重さを窺わせた。 地下倉庫と、内部への物資搬入口は早朝のうちはいつも無人だ。けれど直接中に入れる搬入口には警備員が二人立っていて、仕方なく地下室へと降りていく。ここからも中に入ることは可能だ。 音を立てぬよう鍵を外し、そっと扉を引き開ける。 父がいるとすれば宰相執務室か会議室。数日も戻らない事態であれば会議室だろうかと当たりを付け、そちらへと足を進めたところでさすがに警備員の目に触れ囲まれる。 ノックをして、入室したそこには国の重鎮が勢揃いしている。皆一様に疲れ切った顔をして、入ってきた少年を見ても反応は薄かった。 「なにをしている。なぜ家を出た」 「お父様が帰らないから。なにがあったのですか。屋敷の者もみな怯えています」 「お前に話すことではない。すぐに戻りなさい」 「なぜです。なにがあったのか教えてください」 「子供に話すことではない」 「確かにぼくは子供です。けれどほかの誰でもない、ぼくはお父様の息子です」 聞く権利はあるはずだと、言外に籠めて言い放つ。これを突き放されれば自分自身が崩壊する。彼としても必死だった。見捨てられるためにここに来た訳ではない。 「お前が心配することではない。さあ、家に戻って、私の息子として必要なことをしなさい」 「それはなんですか」 「勉強だろう。さあ、送らせるから」 「先日もその話の途中でした。ぼくは確かに子供で勉強が必要です。けれどなにを学ぶべきかといえば、算術や文法ではないはずです。ぼくには、ぼくだけではなく周囲を守るために必要な知識があり、それらはいまだ決定的に欠けています。お父様はぼくを愛してくださるでしょう、ならば隠したり、遠ざけたりするのはやめてください。すべてを見せて、そして伝えてください。本当に成すべきことはなんなのか、ぼくに出来ることはなんなのか。それをきちんと伝えてください、言葉で。行動で。ぼくはお父様のようになりたい。この国を守りたい。それだけなんです」 生意気だと言われるのは分かっていた。だから今日まで口にはしなかった。年齢で言えば、確かにまだまだものの役に立つという訳にはいくまい。けれど彼には彼なりの信念があり、存在意義があった。自分の立場というものを早くに自立させたかったし、認めても欲しかった。 「…分かった」 口元で微笑んで、彼は息子の肩を叩いた。 「おいで。話して聞かせよう」 「はい」 勝ち得た信頼に胸が疼いた。 束の間の、ほんの一瞬の思いではあったけれど。 この国は周辺諸国との同盟を結んでいるが、そのうちの幾つかは更に大国とも手を携えていた。生き残るには当然の政策であり、いずれはこの国も盟友となる手はずではあった。 彼が思っていたように、奪ったところで実になるものの少ない弱小国であったが故に、先方から催促されることもなくこれまでは表面的には信頼関係で結ばれていた。ところがここに来て同盟国からも国際社会に参加せよとの名目で条約を交わすよう突かれるようになった。戦争が近いのだと、嫌でも分かる事態が訪れていた。 生き残るためには大国と手を結ばなければならない。理屈としてはそうだろう。 多くの人命がかかった、いまは重大な局面を迎えている。 「それで、議会の決定はどうなったのですか」 「未だに結論は出ていない。が…各国との調和を優先させるべきとの意見が圧倒的ではあるからな。ここは中立を貫くことが得策とは言えまい」 「そうでしょうね。…けれどそれを話し合うだけでここまで時間をかけるというのは納得出来ないのですが」 「…その通りだ。それだけではない」 「なんです。なにが、あるのです」 父の顔が歪んだ。 「戦争が近い。そう言ったろう」 「ええ。しかしそれならば余計に同盟国として手を携えてしまえばよろしいのではないですか」 「初めはそれだけでよかったろう。だが昨日、それだけでは済まぬ事態が起きた」 「どういうことですか」 朝の光が窓から差し、足下を白く染めていく。 「ガンマ団という名を知っているか」 「はい。圧倒的な軍事力で世界征服を企む組織と聞いています」 「そのガンマ団が、我が国に無条件降伏し傘下に下れと言ってきた」 「そんなバカな。祖国を卑下するつもりはありませんが、この国のように小さく、領地としても利用価値の低い土地を制圧してなんの得があるのですか」 「恐らく、同盟国間の足並みを乱したいだけのことだろうとは思う。だが断れば即刻開戦となるだろうし、また手を結べば近隣国との戦争へと繋がる。どちらにしても戦いは免れぬこととなってしまうだろう」 「世界征服などとふざけたことを掲げる組織です、大方ここを前線にするために手に入れたいだけのことでしょう。それなら悩むことなどないはずです。直ちに周辺国に事態を報せ援護を受けることが得策ではないのですか」 「勿論、そうするつもりだった。だが…ガンマ団の使節団は既に国境付近に配置されているのだよ。使節団という名の前線基地が、いつでも攻撃可能な状態で控えている」 断れば、まずこの国を攻め落とし中央に割り込むことで他国の分断を図れる。また隣接するのは似たような小国で、同じ轍を踏みたくなければガンマ団へ下れという脅しにもなる。 「そんな…」 「無条件降伏し、他国の情報を提供すれば敵の侵入は許さず被害は極小に抑えると言ってきた。牧場には特に傷を付けたくないそうだ」 「暗殺をやめ、農業にでも従事するつもりですか」 それしか取り柄のない国だ、守ってやるという具体例としてあげるにはその一点しかあるまい。 「それでは…それではどちらを選んでも…」 「密使を立て、現状を知らせつつ同盟国としての調印さえ結べれば巻き返しは量れる。前線基地と言ってもさほど大きなものではないし、我々が手を組めば敵陣の直中にあるのはガンマ団の方だ。だが外部との連絡手段の一切を断たれ、我が国の出方を知らしめられない。敵か味方か判別も出来ぬ状態では、援護を望むべくもないだろう」 国境は、森を抜けたその奥にある。 円に近い形のこの国はぐるりと深い森に覆われているため、“使節団”もその中に隠れ潜んでいるらしい。だから正確な規模は分からず、迂闊に手を出すことも出来ない。まして軍事力となれば圧倒的な差があるだろう。自国には戦力となるものの存在が殆どなかった。 「生き残るためにはガンマ団に命運を預けるか、敵陣を抜け周辺国家との協力を取り付けるか…タイムリミットは二日後の夜明けに迫っている」 「ぼくが、」 深く、物事を考える余裕がなかった。 「ぼくが行きます」 「行く、とは」 「密使となって救援を呼びます。万一見つかっても子供なら油断をするでしょうし、うまく隣国に駆け込めれば宰相の息子として正式な条約を取り交わすことも出来ます」 「それは…私も考えた。だがその役目は重すぎる」 ガンマ団に捕らえられ、そこで要人の子息と知れれば事態はまた傾くだろう。より最悪なシナリオへと。 「もし…もし捕らえられるようなことになれば、その時は携行品の処分をし、ぼく自身も…」 捕虜は、たとえ一般兵であっても取引の対象となる。だから官位や身分が高いほど不利なのだ。その点でいえば彼ほど不向きな人選はないだろう。それは自覚していた。 「ぼくがお父様の息子として生まれてきたのは、今日のためなのかも知れません」 なに不自由なく育った。 「行かせてください」 出来ることが、あるのなら。 |
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