Eraser

 

 

 

 

夜通し待っても父は戻らなかった。 議事堂にいるならこちらから訪ねてみようと思ったが、昨日と同様部屋の前には数人が控え外出を厳しく禁じてきた。
通いの教師も暫くは来られないと聞かされ、そこで漸く、何事かが起きたのだと気付いた。
自分のことばかり気になり念頭から外れていたが、父が議会に拘束される事態は安定したこの国では滅多にあることではない。
なにが起きたのか、窓の施錠を確認している従者に聞いても答えはない。気心の知れた相手ではあるのに、曖昧に微笑まれ早々に退出される。なにかがあったのだということは分かっても、それを計るには情報が足りなさすぎた。

近年、問題になっていることはあっただろうか。
酪農が中心で、貿易は食品や少量の機織りもの程度が関の山の小国。気候は温暖で暮らしやすいが、財政面で言えば裕福な訳では決してない。けれど、だからこそ国民はみな自分の暮らしに納得していたし、争いごとを嫌う性質であるが故に発展とはほど遠いという弱点もあった。
奪ったところでうまみはない。
自国ではあるが彼は冷静にそう判断していた。だからこそ見聞を広め、この国の利点を活かす方法を探りたかったのだ。不満がない、ではなく満足のいく暮らしを望めるよう。自分に与えられた勤めはそこにこそあると思っていた。
一体、なにが。
漠然とした黒い影が不安だと言うことは分かっている。けれどその不安は昨日から感じている父との諍いから生まれたものとは違い、もっと、暗く濃く自分を覆い尽くしていくようだった。こんなことは初めてだった。
 

 
その後二日経っても父は戻らず、翌朝、明け方の薄靄の中、彼は人目を避け建物の影を伝い議事堂を目指しひた走った。
監視の目もさすがに弛む明け方を狙い、窓から脱出を計った所為で足を捻ったため、本当は歩くだけでも辛かったがそんなことを気にしている隙はない。
何事かが起きたのは確かだ。しかも、彼の家族や一族だけの問題ではないなにかが。
役に立ちたい、それは彼の中に根付いた消しようのない使命感。その為に生かされていることを痛いほどに承知していたから、いまもこうして走るのだ。たとえ大した力にはなれなくとも、自分にも出来ることはきっとある。
なにかが起きているのなら、出来ることがあるのなら。
痛みに構うことなく、彼は夜明けの中を駆け抜けた。

 

 

議事堂の周辺には霧が流れ込んでいる。ひっそりと静まりかえった様子は無人に思えたが、張り巡る緊張感は嫌でも皮膚を刺し事態の重さを窺わせた。
裏手に周り、警備の様子を探る。
正面のそれはいつもより厳しいものだったので、予想した通り裏に回ってもそれは大差ない状態だった。如何に宰相の息子とはいえ堂々と入ることは困難だろう。
足の怪我さえなければもう少し簡単だが、見つかる訳にもいかない。裏門から更に奥へ回り込むと、塀の内側から太い枝を突き出している樹齢数百年の木を目指した。
子供の頃から知っている場所で、実際この木を使って侵入や脱走をしたことは幾度もあった。安定した国だから、そういった行為も見咎められることがなかったし油断もあったのだろう。緊迫した気配は漂うものの、やはりここに監視の目はなかった。

 

地下倉庫と、内部への物資搬入口は早朝のうちはいつも無人だ。けれど直接中に入れる搬入口には警備員が二人立っていて、仕方なく地下室へと降りていく。ここからも中に入ることは可能だ。
暗くて、小さな頃は気味悪かった倉庫を手探りで進む。長じてからも手足が汚れるのでここから侵入することは殆どなかったが、いまは贅沢を言える状況ではない。
一旦最下層まで降り、木箱に隠れるようにして取り付けられたドアを開ける。緊迫した状況らしいのにこう易々と議事堂に入り込むことが出来るのは問題だろう。侵入者の分際で言うことではないが、こういったルートはもっと秘密裏に管理されていなければならない。
父に咎められたらそのことで反論しよう。言い訳も用意しながら、長く細い階段を上がっていく。
片腕すら上げられぬ狭い階段は、二十段ほど上ると小さな踊り場になり、折り返すとまた階段が続いている。それを数回繰り返すと漸く少し広めの踊り場に出て、鉄製の扉が現れる。 足を痛めている分、いつもより時間がかかってしまった。
鍵はかかっている。けれど錠前型のこの鍵は、うまく捻ればかんぬき部分に緩みが出来て強く引けば抜けるのだ。

音を立てぬよう鍵を外し、そっと扉を引き開ける。
議事堂の一階、一番奥の書庫の脇に出た彼は、油断なく視線を巡らせながら進んでいった。
建物内部は静かで、とても人がいるようには思えない。時折見かける警備の者も、会話どころか動くことすらなかったのが異様さに拍車をかけている。
なにかに怯えている。
そうとしか思えなかった。

 

父がいるとすれば宰相執務室か会議室。数日も戻らない事態であれば会議室だろうかと当たりを付け、そちらへと足を進めたところでさすがに警備員の目に触れ囲まれる。
 「父に呼ばれました」
用意しておいた言葉を告げると、彼等はあっさり身を引き一番大きなドアを指さした。

 

ノックをして、入室したそこには国の重鎮が勢揃いしている。皆一様に疲れ切った顔をして、入ってきた少年を見ても反応は薄かった。
けれどさすがに父だけはそういう訳にもいかず、慌てて走り寄ると彼を物陰へと連れてきた。

 「なにをしている。なぜ家を出た」

 「お父様が帰らないから。なにがあったのですか。屋敷の者もみな怯えています」

 「お前に話すことではない。すぐに戻りなさい」

 「なぜです。なにがあったのか教えてください」

 「子供に話すことではない」

 「確かにぼくは子供です。けれどほかの誰でもない、ぼくはお父様の息子です」

聞く権利はあるはずだと、言外に籠めて言い放つ。これを突き放されれば自分自身が崩壊する。彼としても必死だった。見捨てられるためにここに来た訳ではない。

 「お前が心配することではない。さあ、家に戻って、私の息子として必要なことをしなさい」

 「それはなんですか」

 「勉強だろう。さあ、送らせるから」

 「先日もその話の途中でした。ぼくは確かに子供で勉強が必要です。けれどなにを学ぶべきかといえば、算術や文法ではないはずです。ぼくには、ぼくだけではなく周囲を守るために必要な知識があり、それらはいまだ決定的に欠けています。お父様はぼくを愛してくださるでしょう、ならば隠したり、遠ざけたりするのはやめてください。すべてを見せて、そして伝えてください。本当に成すべきことはなんなのか、ぼくに出来ることはなんなのか。それをきちんと伝えてください、言葉で。行動で。ぼくはお父様のようになりたい。この国を守りたい。それだけなんです」

生意気だと言われるのは分かっていた。だから今日まで口にはしなかった。年齢で言えば、確かにまだまだものの役に立つという訳にはいくまい。けれど彼には彼なりの信念があり、存在意義があった。自分の立場というものを早くに自立させたかったし、認めても欲しかった。
小国の行く末を、憂う程度には愛していた。
力というものの存在を、だから彼は父以上に理解していたし、畏怖してもいた。
恐らくいまがその時。
想像も付かぬなにかが迫る。そんな気配。
息子の目を見詰め、彼は暫し沈黙を続けた。
表情だけは大人びた、けれど少しばかり潤んだ瞳はまだまだ純粋に澄んでいて、だからこそ傷を付けることは躊躇われた。曇らせることなど出来なかった。願わくは真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに前を向いて歩んで欲しい。傷みも、穢れも知らぬその眼差しで。
未来を見詰めて欲しかった。

 「…分かった」

口元で微笑んで、彼は息子の肩を叩いた。

 「おいで。話して聞かせよう」

 「はい」

勝ち得た信頼に胸が疼いた。
父の役に立てる。それが嬉しかった。成すべきことを初めて与えられた、そんな気分だった。
なんでも出来る。なんだって出来る。
その時は本当にそんな気がした。そう信じられた。

束の間の、ほんの一瞬の思いではあったけれど。

 

 

この国は周辺諸国との同盟を結んでいるが、そのうちの幾つかは更に大国とも手を携えていた。生き残るには当然の政策であり、いずれはこの国も盟友となる手はずではあった。
けれどその国は軍事で栄え、好戦的なことでも知られていたため宰相は決断を先延ばしにしていたのだ。

彼が思っていたように、奪ったところで実になるものの少ない弱小国であったが故に、先方から催促されることもなくこれまでは表面的には信頼関係で結ばれていた。ところがここに来て同盟国からも国際社会に参加せよとの名目で条約を交わすよう突かれるようになった。戦争が近いのだと、嫌でも分かる事態が訪れていた。

生き残るためには大国と手を結ばなければならない。理屈としてはそうだろう。
けれど手を結ぶことで連帯責任と見なされる部分もある。前線に据えられればこんな小国はあっと言う間に滅び去るだろう。
同盟を交わすか、見送るか。
どちらにしてもこの国が立ち行かなくなる事態は免れまい。ならばどちらがより被害を抑えられるか。優位に事が運べるか。見誤る訳にはいかぬのだ。

多くの人命がかかった、いまは重大な局面を迎えている。

 

 

 「それで、議会の決定はどうなったのですか」

 「未だに結論は出ていない。が…各国との調和を優先させるべきとの意見が圧倒的ではあるからな。ここは中立を貫くことが得策とは言えまい」

 「そうでしょうね。…けれどそれを話し合うだけでここまで時間をかけるというのは納得出来ないのですが」

 「…その通りだ。それだけではない」

 「なんです。なにが、あるのです」

父の顔が歪んだ。

 「戦争が近い。そう言ったろう」

 「ええ。しかしそれならば余計に同盟国として手を携えてしまえばよろしいのではないですか」

 「初めはそれだけでよかったろう。だが昨日、それだけでは済まぬ事態が起きた」

 「どういうことですか」

朝の光が窓から差し、足下を白く染めていく。

 「ガンマ団という名を知っているか」

 「はい。圧倒的な軍事力で世界征服を企む組織と聞いています」

 「そのガンマ団が、我が国に無条件降伏し傘下に下れと言ってきた」

 「そんなバカな。祖国を卑下するつもりはありませんが、この国のように小さく、領地としても利用価値の低い土地を制圧してなんの得があるのですか」

 「恐らく、同盟国間の足並みを乱したいだけのことだろうとは思う。だが断れば即刻開戦となるだろうし、また手を結べば近隣国との戦争へと繋がる。どちらにしても戦いは免れぬこととなってしまうだろう」

 「世界征服などとふざけたことを掲げる組織です、大方ここを前線にするために手に入れたいだけのことでしょう。それなら悩むことなどないはずです。直ちに周辺国に事態を報せ援護を受けることが得策ではないのですか」

 「勿論、そうするつもりだった。だが…ガンマ団の使節団は既に国境付近に配置されているのだよ。使節団という名の前線基地が、いつでも攻撃可能な状態で控えている」

断れば、まずこの国を攻め落とし中央に割り込むことで他国の分断を図れる。また隣接するのは似たような小国で、同じ轍を踏みたくなければガンマ団へ下れという脅しにもなる。
どのみちこの国は贄として選ばれたのだ。逃げ場もなく、為す術もなく、破壊されていく。

 「そんな…」

 「無条件降伏し、他国の情報を提供すれば敵の侵入は許さず被害は極小に抑えると言ってきた。牧場には特に傷を付けたくないそうだ」

 「暗殺をやめ、農業にでも従事するつもりですか」

それしか取り柄のない国だ、守ってやるという具体例としてあげるにはその一点しかあるまい。

 「それでは…それではどちらを選んでも…」

 「密使を立て、現状を知らせつつ同盟国としての調印さえ結べれば巻き返しは量れる。前線基地と言ってもさほど大きなものではないし、我々が手を組めば敵陣の直中にあるのはガンマ団の方だ。だが外部との連絡手段の一切を断たれ、我が国の出方を知らしめられない。敵か味方か判別も出来ぬ状態では、援護を望むべくもないだろう」

国境は、森を抜けたその奥にある。

円に近い形のこの国はぐるりと深い森に覆われているため、“使節団”もその中に隠れ潜んでいるらしい。だから正確な規模は分からず、迂闊に手を出すことも出来ない。まして軍事力となれば圧倒的な差があるだろう。自国には戦力となるものの存在が殆どなかった。

 「生き残るためにはガンマ団に命運を預けるか、敵陣を抜け周辺国家との協力を取り付けるか…タイムリミットは二日後の夜明けに迫っている」

 「ぼくが、」

深く、物事を考える余裕がなかった。

 「ぼくが行きます」

 「行く、とは」

 「密使となって救援を呼びます。万一見つかっても子供なら油断をするでしょうし、うまく隣国に駆け込めれば宰相の息子として正式な条約を取り交わすことも出来ます」

 「それは…私も考えた。だがその役目は重すぎる」

ガンマ団に捕らえられ、そこで要人の子息と知れれば事態はまた傾くだろう。より最悪なシナリオへと。

 「もし…もし捕らえられるようなことになれば、その時は携行品の処分をし、ぼく自身も…」

捕虜は、たとえ一般兵であっても取引の対象となる。だから官位や身分が高いほど不利なのだ。その点でいえば彼ほど不向きな人選はないだろう。それは自覚していた。

 「ぼくがお父様の息子として生まれてきたのは、今日のためなのかも知れません」

なに不自由なく育った。
穏やかで温かな日々だった。
これからも続くと思っていた、この国と、そこに生きるすべての人々の時間。命。
守れるのは、選ばれた者。
選ばれた故の勤め。
果たさずにいるなら、いままで生かされたその恩を裏切ることになる。
報いる術は、あるのに。

 「行かせてください」

 

 

出来ることが、あるのなら。

 

 

 

 

 Next