自分だけが不幸だなんて思わない。 世の中は、そりゃあ不公平に出来ているけど公平なことだっていくらもある。 どん底にいてもふとした拍子に笑えるし、いつかはみんな、死んでしまうし。 そうやって考えれば自分のような境遇にいる子供はほかにも沢山いる、こんなことなんでもないと思いこめた。思い込んで、堪えられた。 別に、こんなこと、なんでもない。 特別変わったことじゃない。 生きていくために手を染めることは、善悪様々あるうちのひとつだ。 なんでもない。 なんでもない。 なんでも、ない。 なんでもないよ、こんなこと。 そう思っても、泣けてくるのは自分が弱いからだ。短絡思考のバカだからだ。 バカならバカらしく考えなければいい。考えなければ苦しくない。 誰だってやってる。珍しいことじゃない。 生きているんだから。 生きて、いくんだから。 きのう、みた、ゆめ シンタローはざわつく周囲に視線を巡らせながら、ぼんやりとこれからのことを考えた。 ギャラは一本単位でもらえるから、今日だけで一年の学資は十分得られる。行きたい学校はあったけれど、私立を受験したいと言い出せる立場に自分はなかったし、なによりそれを求めればこんなもののギャラ程度で済むはずもない。 尤も公立に入学したところで、教材費や通学費用、その他必要な経費を考えるとこれを最後に出来るはずもないことは分かり切っている。 余分な小遣いなどというものは未だ嘗てもらった試しがないので、収入を得てもそれで遊ぶつもりはなかったがそれでも高校生にもなれば付き合いも増えるかも知れない。 余計な心配か。 自嘲して、口元が歪む。 どうせ授業が終われば急いで帰宅しなければならない。口うるさいあの叔母が、自分に余裕のある暮らしをさせるはずがないのだ。広い家ではないがすることは山ほどある。家事は嫌いではないが、パートに出ている叔母が帰宅するまでに片付けておかなければならない仕事は日々あったし、大学受験を控えた従姉妹の為に静かに、速やかに立ち働かなければならない。 彼女はお世辞にも出来がいいとは言えず、自覚している所為か神経質になってもいる。人前で努力する姿を見せないシンタローは成績も優秀と呼ばれる部類にあったため、それが余計なストレスを与えているのも事実であり、だからこそ本人からも、叔母からも当たりがきつくなる要因を増長させていた。 シンタローの両親は、彼の七つの誕生日に事故死している。 父のハンドル操作の誤りで歩道に乗り上げ、通行人を巻き込むという最悪の事態を招いてしまった。あの日は大雨が降っていて、朝、父を最寄り駅まで送る母は早くも梅雨入りだろうかと笑っていた。 往路は父が自ら運転し、復路は母が運転をする。二年前に購入した新居は駅から少し離れていたためそれが日課となっていた。 少し早めだけど、一緒に行く? 母に言われたとき、なぜ頷かなかったのだろう。同乗していれば今頃は自分も、安らかな眠りについていたはずだ。なんの苦労も知らず、幼い子供のまま、幸せに。 唇を噛み、それから小さく首を振る。考えたって仕方ない。そんなことはこれまで幾度も思い返し、その度自分の弱さに、無力さに嫌気が差していただけのことだ。解決はしない。 この春進級し、シンタローは中学三年生になった。 あと一月で十五になる。来年は高校受験を控えていた。 亡くなった両親の保険金は被害遺族に支払われほぼ尽きてしまい、満額に近いローンの残った自宅も早々に手放すこととなった。幼すぎるシンタローにはすべてを眺めていることしか出来ず、気付いたときには叔父の家に引き取られていた。 叔父は優柔不断なところがあり、役所からの勧めで引き受けてしまったらしいが余裕のある生活をしていた訳ではない。当然のように叔母は反発し、だから優しくされた記憶は嘗て一度もなく常に冷たい視線を浴びせられる毎日だった。 高校へは行きたいかと尋ねてきた叔父を、だから責める気にもなれなれず曖昧に答えておいた。 一人娘を大学にやるため叔母はパートを始めていたし、リストラで職を変えたばかりの叔父も焦っているのは目に見えて分かる。公立ですら通えないとなればいまの世の中で上を目指すことは諦めなければならないだろう。シンタローは努力は得意だが奇抜なセンスを持っている訳ではない。夢にかけるなどという危ない端を渡る余裕は自分にはないのだ。 どうしよう。 考えたところでたかが知れている。僅か十五歳で出来ることなど限られているし、それでは無理だというのは初めから分かり切ったことだ。 ではどうしたらいい?あの家を出るには金銭以上に難しい法的な問題もあった。どうして俺は子供なんだろう。思わず本気でそう思ったが、思考の虚しさにすぐやめた。とにかくまずは金だと、それさえあればあとのことはそこから考えればいいと決め、手っ取り早く収入を得る方法を探ることにし繁華街をうろついた。 自分が女であれば、高額収入に直結する仕事が選べるのに。 電話ボックスや電柱に貼り付けられた、派手な彩色の小さな広告を眺め溜息を吐く。年齢的に無理ではあっても、幸いシンタローは年の割に背が高く、少なくとも高校生には十分見えていただろう。いまだってそれを頼りにバイト探しをしているのだ。 履歴書には適当なことを書いてもばれない職を選ばなければならないという点からしても、どうせ真っ当な商売には就けないに違いない。だから、どうせならどんな仕事だって構わない。まとまった金額が一度で支払われるようなそんな率のいいもの。…考えれば考えるほど、まともな仕事からはかけ離れていった。 手伝いをしなければならないので、仕事探しに割ける時間も限られている。今日ももうタイムリミットが近い。電話ボックスに貼られた出張ホストの広告を恨めしく眺め、今日幾度目かの溜息を吐き出したところで、背後に立っている男に気が付いた。 「お金、欲しいの?」 きちんとスーツを着込んだサラリーマン風の男に眉を寄せる。 「最近この辺うろついていたよね?仕事探し?」 「…はあ」 「いいのあった?」 「いえ」 「まだ若いよね?幾つ?」 「……十、八」 「あー、それくらいかなーと思ってたんだ」 そう、十八。 呟いて、男はシンタローの頭の先から爪先までを眺め頷いた。 「きみさえよければ、結構おいしい話があるけど、どう?」 「危ないこと?」 「そうでもないよ。まあ、想像通りの仕事ってとこかなぁ」 笑った顔は、いやらしくは見えなかった。 尤もそう見えたところでどうでもよかったけれど。 「いくらくれるの?」 「あはは、そんなスレたタイプに見えないけどね、きみ」 手招かれ、すぐ近くにあった喫茶店に行こうと言われ首を振った。今日はもう時間がないと説明すると、彼は取り出した名刺の携帯番号を示しながら言った。 「危なくはないけど、まあ人に言えることでもないからね。その気があるなら電話しておいで」 頷いて受け取る。気持ちの中ではもう決めていた。 初めからそれしかないかと思っていたから、躊躇うこともしなかった。 手を振る男は、本当にごく普通のサラリーマンにしか見えない。それも警戒心を緩めさせる作戦なんだろうけれど、仮にありがちな人物であったとしても構わない。声をかけてきたということは、自分にそれだけの価値があるということだろう。もし彼がだめでも、今後はその方向でいけばいい。どうにでもなれ、と投げやりな気持ちで名刺をポケットに押し込んだ。 その夜のうちに電話をすると、彼は喜んで待ち合わせ場所を指定してきた。いきなり仕事になっても大丈夫かと聞かれたので、迷わず了承しておいた。躊躇えば、二度と出来ないような気がしたから。 こんなことなんでもない。 目を盗んで使った電話を、細心の注意を払い元に戻すと肩で大きく息を吐く。 なんでもない。特別なことじゃない。どうでもいい。 ありったけの言葉を並べ立て、自己弁護と投げやりさを強調する。自分自身に。惨めに。 生きているんだから、生きなきゃ。 ただそれだけを思う。 生きて、いかなきゃならないんだから。 それだけのこと。 指定されたのは前日誘われた喫茶店で、彼は先に来て待っていた。 てっきり彼と、と思い込んでいたシンタローに告げられたのは、“芸術作品”への出演要請だった。世の中にはそんなものもあったけれど、それこそシンタローには未知の世界であり、聞かされるまでは思っても見ないことだった。 最近では需要が増え、嗜好は別でも金になるならと承諾する者が多いと言い彼は愛想よく笑った。撮影時間も今回のタイプなら二時間程度だし、ギャラは一本固定の支給でこれくらい、と指を二本つきだした。 続けるなら程度によってそれ以上のものもあるし、契約すれば販売数によって歩合が上乗せされることもある。見る人が限られる分、女の子より安全だよ、と締めくくられ、目を見開いたままそれでも幾度か頷いた。 体を売る、という意味は深く考えないようにしていたけれど、これだって近いものがある。けれど行きずりの男相手にそんな商売をするのは安定しないしリスクも高い。その点こういう業界ならばそれなりに保証されてもいるだろうし、組織的なものに加わってしまえばその中にいる限り危険性は少ないのかも知れない。 甘く見れば酷い目に遭うだろう。けれど一度や二度ならなんとかなる。欲しいのは当面の学資といずれあの家を出るための資金だ。高校生になれば出来る仕事の枠は一気に増える。そうなったら地道に、ちゃんとしたバイトを探せばいい。夢を見ない自分だからこそ、現実のために重ねる努力は苦にもならない。 沢山は、出来ない。 今回だけのつもりで、一度だけなら、やってもいい。 そう言うと彼は満足げに頷き、きみは運がいいから、心配しなくていいよと笑った。この状況で心配しない方がおかしいだろうが、震える手はテーブルの下に隠し黙って俯いた。彼がどこかに電話をしている間中、その震えが全身に広がらないよう必死に堪えて身を固くしていた。 愚かだと思う。でも後悔はしない。している隙はない。 一口も飲まないまま温くなってしまったコーヒーを睨み付けていると、このあとすぐに時間が取れるかと確認され頷いた。 今朝、叔母には友人の両親が外泊するので、一人になってしまうから泊まりに来て欲しいと頼まれたと嘘を吐き了承を得ている。勿論嫌味を言われたが、周囲には哀れな甥を引き取った心優しい人物を装っている彼女には断りようのない嘘だった。 今日は、日貸しのマンションの一室で別の撮影してるんだけど、ちょうどいいからきみのもいっちゃうからね。 軽い口調で、本当になんでもないことのような顔で言われ、頷く。間が空くよりはいい。気付いてしまえば動けなくなる。流された方が楽に済む。 喫茶店の前から乗ったタクシーの中でも、ずっとほかのことを考えていた。担任の癖や机の傷、授業中に聞こえる飛行機の翼が空気を切り裂く音。吹奏楽部の、賑やかな、けれどくぐもって響く楽器の音。ごく普通の暮らし。ごく普通の毎日。ごく当たり前の、子供の、自分。 本当は、普通ではなかった。 幸せではなかった。 これからも。 でも。 「着いたよ」 幸せにはなれない。 「…はい」 それでも。 |
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