きのう、みた、ゆめ

 

 

 

 

撮影と言ってもテレビドラマとは違うから、大きなカメラがある訳じゃないしスタッフも少ないんだよ。そう言われていた通り室内は照明機材と、カメラや音響機器らしきものを操作する四人の男がいるだけで静かなものだった。

前の撮影が終わったばかりで、少しだけ装飾を変えるからこっちで待っていてくれと指示された部屋のドアを開けると、そこにはシングルより少しだけ幅のあるベッドがあった。寝室を使わないというのも不思議な気がしたが、こうしてベッドを前にすると自分がしようとしていることを無言で突き付けられた気分になり震えが蘇る。

来てしまった以上、逃げることは出来ない。

この部屋のドアを開け、入った瞬間に言われた言葉。

 “暴れないでね。怪我、したくないでしょう”

よくあることだという。同意の上で始めても、途中で怖くなり逃げ出そうとする。相手が慣れているから大抵宥め賺して撮影は続行されるが、あまり長引けば仕方なしに路線を変更することになるという。

つまりは、無理矢理だろうが撮影を続ける方が優先されるというのだ。

恐ろしくて、涙が出そうになったけれどどうにか堪えた。承知で来たのだ、そんなことにはならない。投げ出すくらいなら引き受けなければよかったのだし、頼み込まれたことじゃない。自分で決めたのだ。

ベッドに腰掛け、ぼんやりと自分の手を見る。もう震えてはいない。感情が麻痺したのかも知れなかったが、それは却って都合がよかった。

どうせなら思考停止も起きないかな。気付いたら終わってないかな。雑多なことが浮かんできたが、どれも現実逃避に至るにはほど遠く、隣室の物音は絶えずシンタローの耳に届いていた。

 「死ぬ訳じゃないし…」

 「だれが?」

 「―――っ、」

自分の体が飛び跳ねたのが分かった。

突如かかった声は予期せぬもので、あまりの驚きにシンタローはそのままベッドから落ちて尻餅を付いた。

 「あれ、ごめんね。驚かせたかな?」

手が伸ばされる。

無骨で、大きな手。白い。

 「大丈夫?」

言いながら、固まっているシンタローの手を取り引き上げた。元通りベッドに座らせるとその手は離れていったけれど、温かな感触はなぜか消えずに残っていた。

 「きみかな?ここで待ってるって聞いたんだけど」

 「え、あ、あの、」

 「名乗らなくていいよ。嘘の名前でいいからね」

意味が分からず首を傾げる。

見上げる男は、本当に見上げると言うのがしっくりくる長身を、けれどシンタローに併せて屈め優しく笑っていた。一目見て欧米人だと分かる容貌だったが日本語の発音は随分と流暢だった。

金髪が綺麗だった。そして蒼い双眸は更に美しかった。自分の黒い瞳に対し感慨など持った試しはないが、彼のような瞳を見ると“綺麗”とはこういうものなのだと実感出来た。

がっしりとした体格で、凡そ一般人とは思えない。グレーのスーツを着ていたが、胸板や腕周りの筋肉の発達した様が見えるようで、この腕に捕らわれたら逃げ出すことなど不可能だと言うことを知らしめている。

彼が、相手なのだろうか。

脚本などないし、リードされるままに動けばいいからと言われていたが、いざ対面するとさすがに恐怖心が沸き上がり忘れていた震えが蘇る。

怖い。

こわい。

自分はなにをしているのだろう。

どうしてこんなこと、選んでしまったのだろう。

逃げたい。

帰りたい。

かえりたい。

かえりたい!

 「…初めてなんだよね?」

言いながら隣に腰掛ける。沈み込むベッドに更に恐怖心を煽られ、けれど固まった手足は動きそうにもなく、恐慌状態はひどくなるばかりだった。

 「とてもこんなことに興味を持つタイプには見えないんだけどなぁ」

軽い口調で言いながら、小さな子供にするように、首を傾け覗き込んでくる。

 「怖い…よね?」

素直に頷く。

 「お金、ほしいの?」

頷く。

 「なにか欲しいものがあるの?」

首を振る。欲しいのはものじゃなく、金自体だ。

 「遊びに行きたいところがあるとか」

今度も否定。行きたいのは学校であって、その先の未来だ。

 「なんだか…私が意地悪しているみたいな気分だよ」

そう言って笑うと、彼は立ち上がり部屋を出ていった。呆れられたのか、このあとの打合せでもするのか。あんまり怯えるから中止にしようと言ってくれるかも知れない、いや、そんなことは有り得ない。

怖がりすぎて、もしかしたらそこを追求されるようなことにはならないだろうか。そういう趣味嗜好があることをシンタローも知っている。現に逃げようとすれば無理矢理続行されると聞かされたあとなのだ。自分で自分の首を絞めたかも知れない。どうしよう。

手足を縮め、目は逃げ場所を探し彷徨う。震える体が大袈裟なほど揺れて、極度の緊張に吐き気すらしてきた。

ドアが開くと、その気配に再度飛び跳ねる。情けないと思いながら止めることなど出来なかった。

 「水、持ってきたよ。飲みなさい」

手渡そうとしてくれるコップを、けれど握ることさえ出来なかった。冷え切った指がかじかんだようで、喉からは嗚咽も漏れ始める。

自分はこんなに弱かったのか。もっと強かではなかったのか。

学校では成績もよく、スポーツもそつなくこなし友人にも恵まれていた。尤もそれは弱い自分を見せたくないが為の強がりでもあり、思えば心を開いて誰かにぶつかることなど出来ない性分は既に染み付き久しかった。

見かねたのか、彼はシンタローの手を取ると自分の手を添えながらコップを持たせてくれた。口元で傾けられ、どうにか一口、飲み込む。

 「ゆっくりね」

低い声は穏やかで、急かしているようにも、脅しているようにも聞こえなかった。それが却って自らの情けなさを知らしめるようで眦に涙が浮かぶ。

コップ一杯の水を飲み干すのにかなりの時間がかかった。噎せなかったのは穏やかな声と、いつの間にか回され、優しく背中をさすってくれた掌の所為だろう。

 「…ありがとう」

 「どういたしまして」

空になったコップをサイドテーブルに置き、それからも暫くの間、なにも言わず背をさすってくれる。こんな時なのにそれはひどく優しくて、目を閉じているとまるで記憶の中の父に甘やかされた子供時代に戻っているかのような錯覚を起こさせた。

 「落ち着いた?」

 「…はい」

声を聞けば、それが父ではないことが分かる。現実が蘇る。自分がどこにいて、なにを選んで、これからどうなるのか。

閉じた目を開くのはかなりの勇気が必要だったが、それでもシンタローは一度だけ深呼吸をすると目を開けた。

逃げていては進めない。

自分は決めてしまったのだ。生きるために。

こんなの、なんでもない。

 「…なんでもない」

 「うん?」

呟きを拾われ、居心地悪く身じろぐ。それを感じ、彼は自分の手がシンタローを不快にしていると思ったのか、温かなそれは離れていってしまった。

 「すいませんでした。もう大丈夫です」

 「無理、しなくていいんだよ」

 「平気です。俺、金がいるんです」

顔を上げ、隣の男を見る。真っ直ぐに見詰められるのは目的があるからで、それが疚しいことだと責められようと自分に必要なことであれば後悔はなかった。

誰になにを言われようと、こうするしかなければそれを選ぶ。自らの責任はすべて引き受ける覚悟は出来た。

 「名前はシンタローです。どうしても金がいるから、なんでもするって決めました。だから平気です」

 「そう。でもきみ、嘘を吐いてないかな?」

 「…うそ?」

嘘など沢山吐いている。決意はしても根付いた恐怖心が未だ疼いているのは確かだし、ほかにも幾つかの嘘を重ねここにいるのだ。なにを言われるのだろう。せっかく覚悟を決めたのに、ここまで来て断念させられる訳にはいかない。

 「俺が、どんな嘘を吐いてるっていうんですか」

 「んー、まず、まだ怖いでしょ」

 「はい」

 「素直だね。まあそれは初めてなら当然だろうからいいけど」

楽しげに笑うと、蒼い瞳も一緒に煌めく。綺麗なそれはけれど真摯で、確かに嘘を見抜く力がありそうだった。

 「きみ、シンタローくん。いま、いくつ?」

やっぱり。

 「十八です」

 「こういう仕事は大人にならないと出来ないんだよ。知ってた?」

 「はい」

 「それに、十八以上でも学生はだめなんだよ」

 「…それは、」

 「もう一度聞くね。いま、いくつ?」

たったいままで優しそうだった目が細められ、煌めく蒼が強調される。それは瞬く間に冷たさを湛え、まるでシンタローを凍り付かせるような突き放した色合いへと変わっていった。

 「十、八…です」

それでも繰り返した。繰り返すしかなかった。目を逸らさずに。

 「…そう」

氷の色をした瞳が瞼に隠される。小さな溜息が彼の唇から漏れた。

 「日本人が幼く見えるのは確かだけど、…まあいい」

言って、立ち上がる。

 「そろそろ始まるんじゃないかな。呼ばれたらおいで」

 「はい」

彼が出ていくと全身から力が抜け、思わずベッドに倒れ込んだ。

なんとか切り抜けたが彼は確信しているのだろう。ほかのスタッフに言わないでくれればいいが、耳打ちされれば厄介なのではないだろうか。

 「あの分なら、言わねぇ…よな」

言われたら困る。でも、言って欲しいような。複雑な気持ちで唇を噛む。

 「あー、やめやめ。自分で決めたんだ、自分で!もうどうしようもないのっ、逃げらんねぇの!なるようになる、どうにでもなれってんだ!」

来るなら来い!

ヤケと言われればそれまでだけれど、口に出さずにいられなかった。それに元来の負けず嫌いも作用し始めてきたらしく、だめだと言われれば絶対に引けなくなる。その性格が災いすることも多々あるが、逃げ道を探す隙を自分自身に与える訳に行かないのでいまはこれでいいと思う。

死ぬ訳じゃないし。

もう一度呟き、目を閉じた。例えばこれで、弱みを握られもっと過酷な注文を付けられたとしてやっぱりそれで死ぬ訳ではない。働きに見合う報酬が得られればそれでいいのだ。その先のことはその時になって考えよう。

 「…よし」

拳を握り、とん、と自分の胸を叩く。

 

隣室の物音が、大きくなった。

 

 

 

 

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