きのう、みた、ゆめ

 

 

 

 

 「おいで」

 

ドアが開いて、蒼い目の男が顔を覗かせた。

ベッドに横になったままだったシンタローは、僅かに肩を跳ねさせたが顔は冷静さを装いゆっくりと身を起こした。

笑って、手招いている。

賢しい小動物のような、油断のない目で彼を見詰めながら立ち上がる。帰れと言われないか、そればかりが気になったけれどドアまで、彼の向かいに辿り着くまで言葉を発することはなかった。

安堵と、それ以上の落胆と。

本当は逃げ出したい、まだその気持ちが強く働いている。悔しいけれど簡単に割り切れるはずもなく、唇を噛んだまま彼を見上げた。

 「きみは頭がいいね」

 「…そんなことないです」

 「謙遜は必要ない。愚か者には出来ない目だよ」

 「頭がよければ、いま、ここにいることはないと思います」

遙かに見上げる蒼い双眸が優しく微笑んだ。先ほどの冷たさが潜むと、煌めく蒼は吸い込まれそうなほど澄み切った煌めきで自分を見下ろしている。彼がどう言った人物なのか知らないが、きっと無慈悲ではないだろう。

楽観なのは分かっている。見る者を凍えさせる視線だった。けれどいま、微笑んでシンタローを見下ろす彼は何故かひどく静かで、怯えて竦む体すら溶かすかのようだった。まるで正反対の思いだけれど、確かにそう感じたのだ。

この人は、きっと。

きっと、自分のことを。

その先の言葉は続かなかった。自分でもなにを言おうと思ったのか分からない。それでも信頼出来るような気がしたから、視線は逸らさず見詰め返す。いまの自分に出来ることはそれくらいしかなかった。

ドアの前から体をずらし、シンタローに道を譲る。深呼吸をしてから踏み出した足は、そのまま、寝室をあとにした。

 

 「ああ、ごめんねお待たせ」

 「いえ」

 「えーっとね、待たせついでに悪いんだけど、今日の撮影中止になっちゃった」

 「…え、」

 「ゴメンね、相手役が来られなくなっちゃって。また近いうちに予定組むから、今日のところは帰ってもらえる?」

 「でも、」

 「交通費と、待ってもらった分でこれ。少ないけど取っておいて」

 「でも俺、」

 「こっちから連絡出来ないんだよね?じゃあ…明後日、電話くれる?昼過ぎならいつでもいいよ」

始終にこやかに話ながら、けれど強引に白い封筒を押しつけると、ここまでシンタローを連れてきた男は慌ただしく片付けをしているスタッフの方へと戻ってしまった。

 「取り敢えず臨時収入だね」

ぽん、と肩に手を置かれる。

 「あなたが…なにか、言ったんですか」

 「言ってないよ」

 「だって、相手役ってあなたでしょ」

 「えー、私、アダルト男優に見える?」

それは喜んでいいのか怒ればいいのか。

くすくすと笑っているから、勢いを付けて振り向き、睨む。

 「俺は…どうしても、自分で稼がなきゃならないんだ!」

 「だから私はなにもしてないったら」

 「自分でっ、俺に出来ることならなんだって、っ、」

悔しくて。情けなくて。

 「せっかく、決めたのに…情けなくたって惨めだって、我慢するって、諦めたって、」

決めたのに。

 「まだまだ自分を諦めていいような年じゃないと思うけどなぁ」

苦笑する様が憎らしい。年上だと思って、自分の方が有利だと思って、その余裕。

腹が立ったシンタローは、とっくに自分に対する興味を失っている男たちに一瞥をくれ、未だに笑っている蒼い瞳の男にももう一睨み与えると足音荒くその部屋を出た。

恥ずかしさがこみ上げる。

最低のことをしようとした。それを仕事にしている人々からすればその評価は納得出来ないかも知れないが、シンタローにとっては日の光りの下にあるべきではない行為を人前で、しかも金銭で売り渡してまでも成し遂げると決めたことだ。なにもかも捨て去ることに等しいほどの重みを持ったことだった。

出鼻をくじかれたことで逆上している自覚はある。けれどなけなしの勇気を奮って望んだことなのにあっさり保護にされれば腹も立つ。繰り返すがシンタローは負けず嫌いなのだ。どんなことでも自分の意志を曲げるのはいやだった。負けるのは、もっといやだった。

それなのに。

外に出て、建物を振り返る。

夕暮れが近く、僅かにオレンジがかった日差しが外観を染めていて、それが少し悲しかった。情けない気持ちが寂しさに変わる。

結局、自分には現状を打開する力もないのか。与えられた環境に、どれほど辛くともしがみついていなければならないのか。やりたいことも出来ず進みたい道も選べず、目を閉じ耳を塞がれた状態に甘んじて、これまで通り竦めた首で憧れる世界を眺めていなければならないのか。羨んで。ただ羨んで。

見えるのは、自らの爪先。俯いているから。

そんな毎日を繰り返す、またあの場所に、戻るのか。

 「…くそっ」

建物から視線を外し歩き出す。行く宛はなかったけれど、ここに立ち止まっている訳にも行かない。

友人の家に泊まると言ってしまった手前、帰宅することも出来なかった。それにこんな気分ではどこにも行きたくはない。誰とも会いたくない。惨めすぎて、消えてしまえたら一番いい。消えてしまえたら。

滲む涙を慌てて拭う。なにもしないで泣くなどプライドが許さない。踏みにじられたばかりのそれでも、生きている以上持ち続けなければならないから、だから顔を上げせめて真っ直ぐ歩いていく。どこに向かっているのかは、自分でも分からなかったけれどそれでも真っ直ぐ、真っ直ぐに。

 

 「足、早いね」

背後からかけられた声に一瞬止まりそうになったが、彼のものだと気付いたから意地でも歩みは止めなかった。アスファルトの道をひたすら進む。

 「どこに行くの?家に帰る?」

 「あんたに関係ないだろ」

 「だって、私のこと怒ってるでしょ」

 「当たり前だ」

 「じゃあちょっと話をしない?」

 「話すことなんてない」

 「私にはあるよ。誤解は解いておきたいから」

 「誤解?」

 「怒ってるんでしょ?」

 「別に」

 「いま怒ってるって言ったじゃない」

 「どうでもいいだろう」

 「そうはいかないよ、濡れ衣は晴らさせてもらわないと私も嫌だしね」

なにをゴチャゴチャと。言い返してやりたかったが、どうにもこの男は口数が多い。しかも自分のペースに相手を巻き込む様な空気がある。

歩調は緩めず歩き続けるが、なにぶん彼とはコンパスが違いすぎる。そのうちシンタローの息が上がってきて、しかもいま自分がどこにいるのかも分からなくなり仕方なく足を止め振り返った。

 「何処まで着いてくるつもりだよ」

 「どこまでだろう。あ、そこの喫茶店に入らないかい?」

言ったときには既にそちらに向かって歩き出している。腕は、しっかりと掴まれていた。

 

 

 「あんたみたいに図々しくて強引なやつは初めてだ」

 「私も、きみみたいに強情で可愛い子には初めて逢ったよ」

かわいい?

向かいに座り、嬉しそうに微笑む男はメニューを開きシンタローに勧めながら、自分は既にコーヒーを注文している。長居するつもりはないのでウェイトレスに“ふたつ”と告げるとメニューをテーブル脇のスタンドに戻し窓の外に視線をやった。

仕事を終え、帰宅するサラリーマンの姿が目に付く。我が家へと向かう者がいれば、同僚と飲みに行く者もいるだろう。ごく平凡でありふれた景色。いつかは自分も溶け込む日常。そこに至る道のりは、きっと彼等よりずっと困難なのだろうけれど、本当はそれすら難しい望みだから。

十年後の自分など想像も付かないけれど、ひとつだけ分かっているのはいまより少し、自由になっているだろうということ。あの家を出て、どうにか暮らしているだろうということ。恩を返せと言われ続け、きっとその責務から抜け出せるのはもっと後になるのだろうけれど、それでもいまよりはいい。

いまよりは。

 「いくらもらったの?」

言われて思い出す。ポケットにねじ込んだ封筒は皺が寄っていたが、雑に伸ばしてから中を覗くと一万円札が一枚、入っていた。

 「お金を稼ぐというのは、楽なことじゃないよね」

 「…あんたに言われたくない」

 「うーん、あんた、という呼び名は好きじゃないな」

 「名前も知らないのに呼べるかよ」

 「あれ、名乗ってなかった?」

嘘の名前を名乗れと言った本人がなにを言うのか。

封筒を、本当は捻り潰し捨ててしまいたいそれをけれどそっとポケットに戻す。これは自分にとってはとんでもない大金だ。どんな理由があろうと無駄には出来ない。

 「麻袋のあさ、鬼ヶ島の鬼、水色の水に風と共に去りぬの、去る」

 「………は?」

 「私の名前」

 「随分長い名前でらっしゃるんですね」

 「じゅげむじゃあるまいし」

自分で言って自分で笑っている。流暢な日本語の、蒼い目を持つ男は、なにが楽しいのか本当に嬉しそうに目を細め笑っていた。

ウェイトレスがコーヒーを運んで来ると、嫌味のないさりげなさで礼を言いそれからまたひとしきり笑った。

 「あさき、すいきょ、と読むんだよ」

 「素晴らしい偽名ですね」

こちらは思い切りの嫌味を籠めて言い返す。誘ったのは彼だから、このコーヒー代は絶対に払わせてやろう。そう思いながらカップを手に取り、まだ熱い琥珀の液体をそっと一口だけ啜る。

 「偽名?どうしてそう思うの?」

 「あんたの家に鏡はないのか?」

 「あるよ。身だしなみは大切だからね」

 「それで本気で分からないならいっそすげぇよ」

 「きみ、意外と口が悪いね」

今度も嬉しそうに笑う。白いカップを取り上げる指が繊細に見えた。自分よりずっと逞しいそれが、なぜか優美に見えるのも気のせいではない。

彼の所為で大金が入るあてが消えてしまった。明後日には連絡をしてこいと言われたけれど、果たして自分にもう一度連絡をする勇気があるかと言われれば、正直それは分からない。あれほどの決意を無駄にされたのだ、悲しいけれどかなり挫けた。

 「もうなんでもいいから、誰でもいいから俺のこと買わないかな…」

 「物騒なこと言ってる」

思わず漏れた呟きを拾われ、居心地悪く肩を竦める。本気が半分、嘘が半分。金になるなら本当になんでもするつもりだけれど、世の中は自分が思っているほど甘くはない。それは分かっている。今日、分かった部分も大きい。

 「金がいるんだよ。どうしても」

 「なにに使うの?」

 「なんであんたに教えなきゃいけないんだよ」

 「なんでだろう」

バカにしているのか、本気で考え込んだ男に溜息を吐く。彼は、見かけは紳士だが中身は相当にいかれている。あんな世界にいるのだから仕方ないのかも知れないが、とにかく深入りするのはやめた方がいいだろう。急いでコーヒーを飲み干すと咳払いをし、彼を見た。

 「あんた、さっき俺の年のことしつこく聞いてきたけど」

 「うん」

 「その話、さっきの連中にしたのか」

 「してないよ。どうして?」

 「…別に」

 「私が話していなければ、また連絡して仕事を回してもらおうって?」

 「…関係ないだろ」

 「確かに関係ないけど…十八なんて、嘘だよね」

 「嘘じゃない」

 「嘘だよ。東洋人は私たちから見れば更に童顔に見えるけど、それを除いてもきみの顔はもっと幼いからね。十四か…もっと下か。十三?まさか十二なんてこと、」

 「そんなガキじゃねえよ!」

 「あ、近いね。十一?」

 「下がっていってるじゃねえか!十五だ!―――、あ」

 「やっぱり。その辺りだと思ったよ。中学生だね」

にっこり微笑まれ、浮かしかけた腰が情けなく落ちる。自分が単純なのは知っていたけれど、これほど大きな墓穴を掘ったのは初めてだった。

 「…言いつけるのか」

 「なにを?」

 「俺が本当は十五だって。そしたら仕事、出来なくなる」

 「言わないでくれというなら言わないよ。でも、言ったところで彼等なら聞かなかったことにしてきみを使うだろうけど」

 「え、だって…十八以上じゃないとだめなんだろ?」

 「ああいう業界は違法行為を恐れていては成り立たない部分があるからね。薄々気付いていたって、ばれるまでは“知りませんでした”で通すよ」

 「そんな、」

 「そういうところだよ。きみが考えているような甘いものじゃない」

 「甘くないのくらい分かってる」

 「分かってる?本当?じゃあ今日、きみがさせられるはずだったことがどんなことか本当に分かってるの?」

 「それは、その、…アダルト、ビデオの…」

 「一般的には脚本なんて殆どないけど、今日の撮影には結構しっかりしたシナリオが作られていたんだよ。初めてで、なにも知らなくて、本当は女の子が好きなごく普通の男の子を、薬や道具を使って犯して言いなりにさせて…外にも連れ出す予定があったし、相手は一人じゃなかった」

目が点になる。

 「………うそ…」

 「嘘じゃないよ」

相手役が言っているのだから確かなのだろう。働かない想像力を、それでも少し巡らせ考えてみる。自分がされるはずだったこと。あれも、これも。

 「そ、んな…」

服を脱いで、体を触られて、セックスに近い行為をされる。そう聞いていた。だからきっと最後まで奪われるのだろうという覚悟はしていたけれど、そんなことはまったく聞いていなかった。聞かされなかった。

 「慣れてる子を使うと聞いていたのに初めて見る顔だったし、どう贔屓目に見ても子供だった。確かにシナリオ通りなら初体験じゃないと臨場感は出ないけど、あれだけハードな内容ならベテランじゃないと無理だね。女の子なら本気で再起不能になる」

ペラペラとよく回る口が、かなり残酷なことをなんでもないように語っている。自分の身に起きるはずだったそれを思い、今更ながら震えが蘇ってきた。

 「私が言ったのは年齢のことではなく、まったくの素人のきみを使うことに対する反対さ。作りたいのは娯楽であって、見る側も演技だという余裕と、それをきちんと楽しめる作品だ。この手のビデオではありがちだけど、作り物を如何に本物らしく見せるか、それが出来なければただのアダルトビデオだし、それなら私は手を貸さない」

蒼い瞳が煌めく。冷たくはないけれど鋭いそれに、射竦められたように動けなくなる。

 「子供は子供らしく、自分に出来ることをしなさい。大金を手に入れたい理由はなに?どうしてそんなにお金が欲しいの?」

 「が、…う、」

 「うん?」

 「がっ、こ、う…」

 「学校?」

震えが止まらなくて、唇も、指先も言うことを聞かない。

向かいにいた彼が立ち上がり、隣に腰掛けてきた。そっと回された腕が静かに肩を抱き寄せる。優しく、宥めるようにさする指はやっぱり繊細で見かけとは全然違う。

 「大丈夫。もう大丈夫だから。落ち着いて」

深みのある柔らかな声。

 「落ち着いて。シンタロー」

落ち着いて。

 

 

記憶に残る父の声は、もう随分薄れている。

その笑顔がどんなものだったかも、思い出すまでに時間がかかった。

こんなだったかも知れない。

こんな風に暖かく、自分を包んでくれる人だったかも知れない。

優しく。

しずかに。

 

 

 「大丈夫だから…ね」

 

 

目の前が滲むのは、どうして?

 

 

 

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