きのう、みた、ゆめ

 

 

 

 

 「学校に…行きたいから」

漸く絞り出した声で呟くと、怪訝そうに眉を潜め首を傾げる。

 「中学生って義務教育だよね?ご両親は?」

 「死んだ」

 「そう…ごめんね」

 「別に、謝られることじゃない」

大きな掌で包まれた肩を優しく叩かれている。そのリズムがとても優しくて、懐かしくて、つい聞かれるままに答えてしまったことを後悔しながら、それでも振り払うことも出来ず俯いたまま。

外は夕暮れから、そろそろ夜へと移っていく。

 「いまはどこにいるの?施設?」

 「親戚の家だけど…娘がいて、大学受験で金が掛かるから俺を高校に行かせるのは無理だって言われた。だから自分で稼いで、せめて高校には行こうと思ったんだよ」

 「遊ぶためじゃなかったんだ。まあ、そんな子には見えなかったから声をかけたんだけどね」

 「…分かんないぜ。こんなの、嘘かも知れない」

 「嘘を言っている目じゃないよ。きみの目は思ってることが全部見えてしまいそうなほど澄んでいるから」

 「外人って、ホント、臭い」

 「あれ、入浴は欠かさないんだけどなぁ」

冗談なのか本気なのか、よく分からない真面目くさった顔で自分の腕辺りの匂いを嗅いでいる。変なやつ。自分のことを良く解釈してくれようとしているのは分かるけれど、初対面だし、あんなところで出逢ったのだから信用するには早すぎるだろう。

シンタローとしては、まだまだこの“変な外人”に心を許すことなど出来なかった。

 「あんたさ、」

 「ダメ。あんたも外人も禁止。ちゃんと名前で呼んで」

 「知らないもんは呼べねぇ」

 「さっき名乗ったよ」

 「その面で“麻鬼水去”なんて名前だったら、俺なんかトム・クルーズで通すぞ」

 「うーん、ちょっと違和感があるね」

ちょっとで済むか。

口に出すと必ず何事か返されるので、突っ込みは口の中へ閉じ込めた。

落ち着いてくると、隣に座られて、肩まで抱かれている状況が気恥ずかしくなってきて、シンタローはモジモジと体を揺らしさりげなく離れようとした。とにかく体格差が激しくて、無理に動けば捕まえられそうで怖かった。

 「じゃあこうしよう。私のことはマジックと呼んでくれればいい」

 「…マジック?」

 「そう。きみはシンちゃんね」

 「勝手に略すな。っていうか馴れ馴れしくすんな」

 「なんでさ。ここで逢ったのもなにかの縁だよ、よければきみの話をもっと聞きたいんだけど」

 「赤の他人のあんたに、なんでそんなことしなきゃならないんだ」

 「あんたじゃなくて、マジック」

笑うと、なんだか可愛い。いままでこんなに近くで異国人を見たことがないし、大人に笑いかけられるなどという経験もなかったシンタローは、少し、少しだけれど警戒心が弛んでいた。優しくされることに不慣れだから、疑いつつも傾いてしまう。

 「シンちゃんは、なんとなく私に似ている気がする。それが理由じゃダメかな」

 「そんな…ヘラヘラして、俺から色々聞き出して、なんかしようとか考えてるんだろ」

 「考えてないけど…うーん、考えて欲しいなら考えないこともない。かな」

 「フザケンナ。とにかく、なんかとんでもないことになりそうだったのを助けてくれたのには礼を言う。でもあんたの所為でバイトもダメになったし、それでチャラな。あ、あとコーヒー。これはそっちが誘ってきたからあんたの奢りだ」

 「コーヒーは奢るし礼は受けるけど、あんな仕事、もうしちゃダメだよ」

 「関係ないって言ったろ」

 「ある。これからもあの事務所の仕事を受けるつもりなら、私が全部止めてしまうからそのつもりで」

 「だから勝手なことすんなよ!」

 「未成年の、しかもほんの子供のきみにさせられることじゃないよ」

 「なーっにが、エラそうに。あんただって同じ穴の狢じゃねぇか」

 「百パーセントの否定は出来ないけど、同じじゃない」

 「同じだろ。俺のこと、演技だろうがなんだろうがあんたがやるはずだったんだろ!」

 「…は?」

は?

 「は、じゃねえよ。そうなんだろ」

 「え、私?」

私、と自分を指さす。骨の太さがよく分かる、大人の造作をしたそれ。

けれど顔は不似合いにきょとん、としていて、思わずシンタローも見詰めてしまった。

 「あんたが、その…相手だった、んだろ」

 「…ああ、そういうこと」

なんだそうか、そういうことね。

うんうんと頷きつつ、一人で何事かを納得している。仕草が一々子供染みて、そういうところには苛つかされた。大人には、とことん大人であって欲しい。特に父親というものに飢えているシンタローとしては、落ち着きのない男など色々と対象外なのだ。

 「えーっと、まあそう…かな」

 「なんだよその言い方。そうなんだろ」

 「はい、そうです」

 「ほらみろ、やっぱりそうなんじゃねぇか」

威張ることではないが、言い負かしたのが嬉しくてつい笑顔になる。

 「あっ!」

 「えっ、なっ、なに?」

大声を出して至近距離に近付いてきた彼に驚き、逃げ遅れたシンタローは両肩を掴まれ動けなくなる。やっぱりこの位置はまずかったと、後悔したところでもう遅い。

大きな手がしっかりと抱えてくる、その力に不快感はなかった。

だって彼は笑っていたから。とても、とても嬉しそうに。

自分を見て、笑ってくれる相手など久しくいないことには気付いていたから。

だから動けなくなった。その笑顔を、もっと間近で見たかった。

 「思った通りだよ。きみは、笑うととても可愛いね。笑っている方がずっとずっと素敵だよ」

 「っ、ばば、バカじゃねぇの」

慌てて憎まれ口を叩いたけれど、頬が赤く染まっている自覚がある。

嬉しいという気持ちを隠せない自分に、どうにも恥ずかしく体が熱くなる。

 「ねえ、きみはもっと笑った方がいいよ」

 「笑って腹が膨れて、笑って学校行けて、笑ってるだけで毎日済むんなら俺だってぜひともそうしたいねっ」

 「じゃあそうしよう」

 「はあ?」

 「そうすればいいよ。笑って済ませよう。全部」

 「えーぶいだんゆうってのは、そんなにおバカさんだったんでちゅかねぇー」

 「彼等がバカかどうかなんて知らないけど、シンちゃんがバカだって言うなら私はバカでもいいよ」

 「侮辱されてるの、ちゃんと理解してますか」

 「シンちゃんなら構いません」

ダメだ。頭が沸いている。

未だに掴まれた両肩を外すため、彼の手の甲に指をかけ力を入れる。爪が、少し刺さっている。

 「猫みたい」

 「バカな上に変態な“マジックさん”、そろそろ子供は家に帰る時間なんで離して下さい」

 「どこに帰るの?」

 「どこって、―――」

急に、現実の世界に投げ込まれても、困る。

非日常の時間が過ぎて、思い知らされる本当の自分。こんなところで、愉快な外人相手に無駄話をしている余裕などあるはずのない状況。

普通の子供のように。

授業が終われば友人と町へ遊びに出たり、親に急かされ塾に通ったり、形は様々でもみんな自分の時間を生きている。自分のために、生きている。

我が儘を言ってみたいとか、今更そんな甘えたことを思ったりはしないけれど、それでもこうして下らない話に興じて無為に過ごす時間というものをもっと味わいたいのは事実だ。なんの心配もなく自分を生きてみたい。

したいことを、したいと言いたい。

安心して眠れる場所に、帰りたい。

 「親戚のおうちは、きみに優しくはないんだね」

優しくはない。

なにもかも。

当たり前に愛される時間など、なくしてしまってから久しすぎて。

 「優しい、とか…そんなん、もう、忘れた」

忘れてしまった。それは本当のこと。でも。

傷付き続ける心は進行形で、その痛みに慣れることはない。壊れてしまえばいいのかと、そう思い詰めるほどに繰り返す。それだけ。それだけの毎日。

 「お友達は?」

 「…付き合い悪いやつは、ノリが悪いって嫌がられるんだよ」

 「ノリかぁ。シンちゃんみたいな子なら、お友達も沢山いそうなのにね」

 「ガキだって、付き合いは学校の中だけじゃねぇんだってことだよ」

離せ。

言って、爪を立てていた彼の手を叩く。

非現実から現実に戻って。戻った以上はまた生きなきゃならない。次のことを考えなければならない。彼にとっては丁度いい暇潰しの相手だったのだろうけれど、自分に待っているのは昨日と同じ今日なのだ。

まして今夜は、本当に帰る家を持たない身の上。どこか泊まれるところを探さなければならないから。

 「コーヒー、マジで奢られとく」

 「うん」

 「あと、…ありがとな。俺に出来ることじゃないってのは初めから分かってたんだけど、それぐらいしかなくてさ」

 「当たり前だよ、まだ子供なんだから」

 「子供でぜーんぶ済むならいいんだけどな。まあ、生きてくってのが簡単じゃないってこと知ってる分、そこらのガキよかマシかもよ」

 「簡単じゃないけど…難しくもない。きみはまだ子供だから、だから難しくてはいけないんだ」

 「バカの割にいいこと言うじゃねぇか」

顔を上げて。

笑ってみせる。

子供だと言われるのはいい気分じゃない。けれど子供の自分を子供だと認めてくれた彼に、笑った方がいいと言ってくれた彼に。

おかしなやつだけど、この時間は嫌じゃなかった。少しだけれど楽しかった。

現実を、忘れられる瞬間だった。

だから。

 「バカだけど、恩人だから。だから笑ってやる。スマイル四百二十円」

テーブルの端に置かれた伝票を指先で叩き、席を立つ。

振り返らないで歩き出した店内のざわめきが遠くなって、自動ドアを抜けるとそれすらも消えてしまう。夜道を行き交うのは大人ばかりで、しかも向かう先があるから誰もシンタローを見たりしない。

一人は嫌いじゃない。

夜も、別に、苦手じゃない。

明るくて、星の見えない空を見上げ溜息を吐く。夜なんだから真っ暗になればいいのに。そうしたら自分の、きっと情けない顔を誰にも見られなくて済む。

見られてすらいないことは知っているけど、それでも、強がりくらいは言わせて欲しい。

 「せっかく手に入れた貴重な一万円だし…大体ホテルに泊まるたって俺一人で泊めてくれるとこなんかあんのかな」

 「あるよ」

 「っ、」

高い位置からかけられる声。

低くて、深くて、静かなそれ。

 「しかも格安、シンタローくん特別パック。一泊二食付きで四百二十円」

蒼い目は、一等星よりもっと強く輝いて。

 「コーヒーは奢るって言ったのに、スマイル売りつけられちゃったからね。だから宿泊の押し売りを仕返すよ」

 

おいで。

 

 

星なんか見えない。

真昼の太陽ですら感じられない。

誰も信じない。

信じてなんか、やらない。

だけど。

 

 

差し伸べられた手の温もりを知ってしまったいま、拒むには心が揺れすぎている。

もう、いい加減、疲れすぎて。

泣きたくて。

どこかに隠れて、泣きたくて。

誰かに。

 

 

 

愛されたい。

 

 

 

 

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