きのう、みた、ゆめ

 

 

 

 

連れてこられた建物は、シンタローの知っているレベルとはかけ離れた、優雅で、上品で豪奢な造りのマンションだった。

世の中間違ってる。

こんなに大きな扉が自動で開くのも間違いなら、マンションなのに受付があって制服を着た男が“お帰りなさいませ”と言うのも間違っている。ここからもう部屋ですかと言いたくなる様な応接間があるのもおかしいし、人工的な川が流れているのも理解の範疇を超えている。

静かな音楽が流れる中、いくつかの自動ドアが開くたびマジックはシンタローを促し奥へ奥へと入っていく。

ドアはオートロックが掛かっているようだが、なぜだか彼は鍵らしきものなど一つも使っていない。不思議に思い、次のドア手前に取り付けられた操作盤らしきものを眺めると、彼の疑問を解くべくマジックが微笑んだ。

 「指紋と声門と顔認識。住人はこの前に立てば鍵がなくても開くように出来てるんだよ」

 「あんた立ち止まってないし。声も出してなかったし」

 「それはほら、コンセルジュがいたでしょ。住人だと分かっているから彼が操作してるんだよ」

 「こん、」

 「コンセルジュ」

なんだその、こんせるじゅって。

そう思ったが曖昧に頷いておいた。金持ちは受付のことをそう呼ぶものなのだろう。

分厚いガラスで出来た自動ドアを抜け右手に折れると、漸くエレベーターホールに到着した。どう見ても高級ホテルのような造りは健在で、毛足の長いふかふかの絨毯に足を取られそうになりながら一番奥のエレベーターまで歩いていった。

マジックは、今度は右手の人差し指を操作盤らしきところに乗せる。すると音もなく扉が開き、シンタローに先に乗るよう促した。

 「これ、最上階直通なんだよ」

後から乗ってきたマジックはそう言うと、なにがおかしいのか小さく噴出しシンタローの肩を叩いた。

 「シンちゃん、目が点になってる」

 「なっ、」

格好をつけたところでなにもならないけれど、それでも貧乏人が別世界に紛れ込んだ違和感を実感していたため恥ずかしさに顔が熱くなる。

 「ここ、一番上は三世帯入るらしいんだけど、いまは私が借り切ってるから誰もいないよ」

 「…今更だけど、あんた一人暮らし…な訳ないよな」

 「ひとりだよ」

 「こんなとこにひとりって…え、えーぶい男優ってそんなにギャラいいのか」

 「さあ?」

ウィンクをされた。

大した年数を生きた訳ではないけれど、日本に生まれ育ったシンタローにとってそんなものを自分に向けられるのは初めてだし、間近に見ることすら初めてだ。

リアクションが取れず、ばかじゃねぇの、と口の中で呟いたところで軽い重力に体が縮む感覚に身を竦める。

上昇を感じられないほど静かだったエレベーターが止まると、これまた静かに扉が開いた。濃紺の絨毯が敷き詰められたフロアは広く、その先にある両開きの扉はばかげて大きかった。どうやらそれが玄関らしく、先に立ったマジックが真っ直ぐ歩いていった。

 「はーい、かわいいお客様一名、ごあんなーい」

ふざけた口調で言いながらドアを開ける。今度は指を使った様子がなく不思議に思い見上げていると、操作盤の上部に小さなセンサーらしきものを視線で示された。

 「目でね、感知するんだよ」

 「ふーん」

操作盤自体ありえない高さに付いている。二メートルはあるだろう彼の身長からすればその位置は当然だろうが、これでは大抵の日本人はこの家に泥棒に入ることは出来ないだろう。

 「お客様なんて初めてだなぁ」

 「嘘つけ」

 「なんで嘘だと思うの?」

 「初めて逢った俺だって、こんなに簡単に連れてきたじゃねぇか」

 「だってシンちゃんは特別だから」

 「は?特別?」

 「うん」

なにが嬉しいのか、本当に楽しそうに笑ってそれから。

 「シンちゃんのことが大好きだから」

 「好き、って、…」

好きって。

 「はい、どうぞ」

開かれたドア。恭しく招かれる。

好きって。

 「あ、と、お邪魔…します」

くすぐったいな。

そこだけでシンタローに与えられた部屋ほどの広さがある玄関へと入りながら、なにか、胸の中がほんわりと温かなものに満たされるのを感じる。

もし、彼が本当は良くない人間で、このあと手ひどく裏切られることになったとしてもいまこの瞬間があるなら構わないとすら思えた。非現実の世界に引き摺られているだけかもしれないけれど、それでも彼が傍にいることを嬉しく思った。

信じられた。

 

 

広いというのは分かっていた。

けれど通されたリビングは象が団体で寛げるほどの空間だし、トイレなど却ってゆとりがありすぎて落ち着ける場所という定説には程遠いものになっていた。

外で食べるのは嫌だしデリバリーも趣味じゃないと言った彼は、シンタローを残しキッチンに向かってしまったので仕方なくテレビのリモコンをいじっていたが、これもまた映画館並みの巨大スクリーンで見ているような映像に慣れず早々に消す羽目に陥った。

室内は華美ではないものの明らかに質がいいと知れる装飾で統一され、花瓶一つ、置物一つに至るまでシンタローでは想像も付かない値段が付いていると思われた。

結局なにもしていないのに一万円もくれる世界だから、きっと相当羽振りがいいのだろう。得心したように頷いていると、彼の体に合わせた大きな扉が勢いよく開いた。

 「はーい、ご飯ですよー」

 「……なんだそのナリは」

 「ん?これ?エプロンだけど…知らない?」

 「俺が知ってるエプロンはそんな色も、ビラビラもしてねぇ」

愛らしいピンク色のそれは、可憐なフリルのあしらわれたどう見ても女物のデザインだった。誰かにもらったのならともかく自分で買ったのだとしたらとんでもないことだし、それ以前にこの長身に合うサイズであることがなによりの問題と言えるだろう。

 「かわいいでしょ。私が自分で作ったんだよ」

 「あんた、そういう趣味なのか」

 「うん」

カミサマッ!

面白外人でえーぶい男優でオカマ!三重苦!

 「洋裁は子供の頃から好きだったけど、日本に来てから覚えた和裁の方がずっと楽しいね。基本が直線というのが少し飽きるけど。そうだ、今度シンちゃんに浴衣を縫ってあげる」

 「ああ、そっちの趣味か」

 「?ほら、冷めちゃうから早く」

おいでおいでーと手招く彼の傍に行くと、当たり前のように背中に手を当てられる。

こういうのをエスコートって言うんだ。

負担にならない力で押されながら歩くのは、不慣れだが悪い気分ではない。触れられたところが温かくて、なんだかとても、気持ちいい。

案内されたのはダイニングで、ここもばかげた広さがある。テーブルセットは八脚だったが、そこは綺麗に片付いたまま使われた形跡すらない。

シンタローの視界に気付いたのか、マジックの視線もそれを捉えたけれどなにも言わず、キッチン前のカウンターへと連れて行った。大理石で作られているらしいそれの上を見て、思わず息を呑む。

 「これ…あんたが作ったの?」

 「そうだよ。ねえ、あんたじゃなくて、名前で呼んでよ」

拗ねた口調で言いながら手では着席を促す。足の長いスツールはこれも彼に合わせたものなのだろう、シンタローには高すぎて仕方なくカウンターに手をつき勢いよく飛び上がった。

 「わー、かーわいいー」

 「…変態め」

いちいち言い返すのも面倒になってきたが、彼が本気で自分のことを“かわいい”と思っているのは確かなようだった。

一体自分のどこがかわいいのか。

環境がそうさせたのだ、自身の責任ではないがひねているし、物事を悲観的に考える癖も付いている。素直になれずまた口に出さないだけで自己主張は人一倍強くしたい方だし、利にならないものは徹底的に排除する。

そうしなければ生きられなかった、だから子供らしさなどというものは無縁に過ごしてきたし今更取り繕ったところで手遅れだろう。見た目だって、そろそろ幼さが抜け生意気な部分だけが際立つ年頃に入っている。

だからシンタローとしては、彼の言う“かわいい”は社交辞令か嫌がらせか変態か、その辺りのどれかだろうと結論付けることにした。ところが。

 「そう言われても仕方ないかもね。でもシンちゃんが可愛いのは事実だから、別に私の責任じゃないよ」

 「は?」

 「こんなに可愛い子、見たことないから」

 「…目が悪すぎるのか、頭が徹底的にいかれてるのか、どっちだ」

 「目が悪いって、視力のこと?」

メガネもコンタクトも必要ないよ。ご機嫌に言って、カウンターの中へと入ったマジックは手元での作業を始めた。

シンタローの前には和食器が並んでいて、彼の日本贔屓度の高さを示している。いくつかの小鉢には佃煮や煮物が入っていて、定食屋というより料亭のような演出が施されていた。尤もシンタローは、料亭などという別世界に存在する店に入ったことはないから想像に過ぎないけれど。

 「はい、温かいうちに食べてね」

言いながら出されたのは大皿に盛り付けられた煮魚だった。赤っぽい色をしていて、分厚い身がとても美味しそうな匂いを発している。

それから青菜の炒め物、豚の角煮、ほうれん草の胡麻和えと次々に並べられ、そのどれもが家庭料理と思えない見事な出来映えでただ驚かされる。因みに茶碗では艶々の白米が湯気を立て、汁碗にはシジミがかわいい口を開けていた。

 「材料があればチラシ寿司が良かったんだけど…好き嫌いを聞いていなかったし、取り敢えず一通り揃えてみたよ。食べられないものがあったら除けておいて」

 「好き嫌いなんて…ねぇよ」

 「それはよかった」

食べられるならそれだけでありがたい。贅沢など言っている余裕がなかったから、出されたものはなんでも口に入れる習慣が付いている。だからこれらの立派過ぎる食事は、見ているだけで妙な緊張と申し訳なさを生じさせ、箸を取り上げることを躊躇わせた。

 「…食べたくないの?おかしなものなんて入ってないよ」

 「ちがう…そうじゃなくて…」

座っているだけで食事が用意される。

温かで、心尽くしで、自分のために作られた席。

忘れていたその優しさを突如目の前に差し出され戸惑うのは当然だけれど、それがどんどん悲しくなって、胸が苦しくて、辛い。考えないようにしてきた境遇、…惨め、という言葉を自分に対して使いたくはなかったから、いつでも意地を張り虚勢を張り堪えてきた痛みが堰を切ったように溢れ出して止まらない。

どうせまたすぐなくすのに。

いなくなってしまうくせに。

ほんの気紛れで拾って、明日にはまた独りになる。少しの優しさを知って、その分だけ弱くなって、そんなことを繰り返していればいずれ自分は立つことも出来なくなる。張り続ける意地なんか、もう擦り切れてぼろぼろだから。

そんなに、強くないから。

 「やっぱり…いい」

 「なにがいいの?」

 「どっか探すから」

 「どこか、って、今夜泊まる場所に心当たりなんかないんでしょ」

 「なくても」

 「だめだよ」

 「いい」

 「シンちゃん」

呼ぶな。

 「いい」

 「シンちゃん」

呼ばないで。

 「シンタロー」

 

見ないで。

 

俯いて、泣いているのがばれないようにしていたけれど、そんなことは疾うに知られていたことくらい自分だって分かってる。

けれど止めようがなくて、こみ上げる感情も涙も、止められなくて。

なんでこんなに脆いんだろう。

昨日まではこうじゃなかった。こんなことくらいで泣いたりしなかった。強がっているのはいつものことでも、それでももっと我慢できた。なんでもない振りで自分自身を誤魔化せた。

それなのに。

 

 「きみは、私に似ているね」

 

小さな、笑いを含んだ声。

寂しそうな。

 

 「とても似てる。ひとりでいるのが、寂しいんだね」

 

 

座ったまま、抱き締められる体がこんなに小さいとは思わなかった。

自分が、こんなに頼りないとは思いたくなかった。

強く、強く回される腕の力に寄り添うことはもう止められなくて、そっと上げた掌を彼の背中に回してみた。

 

探していたものをやっと見つけた。

そんな気がした。

 

 

 

 

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