きのう、みた、ゆめ
そう思ったのは一瞬だった。躊躇う間はなかった。 失うことが、ただ怖かった。 伸び上がり、マジックの首に回した腕でしっかりとしがみつく。 容易に引き離されないよう力を籠めたから、さすがに苦しいのか小さな声で抵抗してきたけれど構うことなく抱き締めた。強く、心に届くよう。 「苦しいよ」 「いつも俺が言っても聞かないくせに」 「だって、好きだから」 「………」 「シンタローのことが、大好きだから。だから、離したくないと思うんだよ。そう思っているんだよ」 「そんなの…そんなの俺だって同じだ!」 傷付けたくない。 傷付けられたくない。 不器用な自分では、気付かぬうちに与えてしまっている痛みがあるのは確かだと思うがそれをそのままにしておこうとは思わないし、また出来るはずもない。 聞いたことはないけれど、彼はなにかに傷付いている。まだ話してくれないけれど、シンタローに接することで救われたがっているのが分かる。愛することで許されたいと、人でありたいと願っているのは分かっている。伝わっている。 「大事だから…借りは作りたくないんだ」 ゆっくり、ひとつずつ言葉を綴る。言いたいことが真っ直ぐ伝わるよう、自分の中でも響くように。 「いろんなもの買ってもらって、食わせてもらって、感謝しなきゃならないのにそのうちそれが当たり前みたいになったら困るんだ。迷惑だって、図々しいって思われたくない。そんなこと思われるようになったら俺、傍にいられない。一緒にいてもらえない」 「私が好きでしているんだよ。もう何度もそう言ったよ」 「そうだけど…それは、そうなんだけど…」 「貸しているだけならそう言うよ?返して欲しいものなら初めからそう言っておく。だけど親子には貸し借りなんてないでしょう?シンタローとはそういうことをすべてなくしたいから、なくせると思ったから言ったんだよ。親子になろうって、言ったんだよ」 気持ちは分かる。シンタローとしても、ほかのことに関しては既に遠慮の気持ちなど薄れていたから、彼の言う通り“親子”になれると思っていた。それでもいままでの暮らしの中で、常に、絶対的に自分を縛り付けていた“生きるために最も必要な糧”と言える金銭に関わることを有耶無耶にすることは出来なかった。それが原因で諍うことになるのが人間だから、だからこそマジックとの間にそれを生じさせたくはなかったのだ。 未熟で拙い言葉だけでは伝わらない。それがもどかしく唇を噛み、高ぶる感情のままそれでも懸命に言い募る。 大切だから。 信頼しているから。 ずっと傍にいたいから。 好きだから。 愛されたいから。 「嫌われるかもしれないことは、ひとつも残らないようにしたいんだ」 「嫌いに思うことなんて、いままでもこれからも、なに一つないよ」 抱き締められるといつだって、小さな子供に返ってしまう。 苦しくて、切なくて、漠然とした不安に囚われ震える心を持て余す、寂しい自分に戻ってしまう。慰めてほしくて、愛してほしくて、ただ、彼しか見えなくて。 「シンタローは、自分で思うよりずっと子供だよ」 優しく背を擦りながら囁かれる。その声がとても、心地よくて。 「無理に冷めた考えをするよう、自分を作ってしまったから。だからいま、とても不安定なんだと分かってる。でもね、甘えていいんだよ。私はお前を甘やかしたくて仕方ないんだ。なにもかも与えて、なにもかもしてあげて、どんなにわがままなことでも聞き入れてあげる。一から百まで許してあげる。だからシンタローは、そうしたい私のわがままを許して。お前を丸ごと、愛させて」 「なんで…そんなに、俺のこと…す、好きなんだよ」 「私は利己的でね。だからかな」 「どういう意味?」 「シンちゃんが可愛いってこと」 瞼に、口付け。 「ごまかすな」 「ごまかしてないよ。大好きだよ」 確かに、彼に比べれば随分小さな体だけれど、軽々と膝に抱えられると恥ずかしくて仕方ない。しかも仕方ないとはいえかなり赤面ものの台詞を語らされたシンタローとしては、出来ればこの場から逃げ去りたいのだけれどいつも通りしっかりと抱き締められては逃げようがない。 仕方なく、本当に仕方なくこうしているのだ。 自分に対する言い訳を、自分の中で繰り返しそのくせ指先はしっかりマジックの胸元を掴んでいる。所詮はそういうことなのだ。 暫くの間、無言でシンタローを抱き締めていたマジックが低い声で言った。 「お願いだから、私を拒絶するようなことは言わないで」 「別に、拒絶とかそういう意味で言ったんじゃない」 「それでも、言わないで。逃げないで。疑わないで。私をひとりに、しないで」 胸を締め付けられる切ない声。 なにかを隠している。彼は、自分のなにもかもを欲しがるのに、自身のことについては語らない。そう思う瞬間が幾度かあって、その度に寂しい思いをするのに聞き出すこともまた出来ない。 自分に優しくして、甘やかして、そうすることでごまかそうとしているのは彼の方だ。 不実さを責めたいけれど、口に出すことは怖くて出来ずにいる。いつか話してくれると信じ、今日もまた思いを閉じ込め目を伏せる。 波立つ心を、静める。 それから長いこと彼の腕の中にいて、いつの間にかうとうとしていたシンタローが気付くと、マジックは彼の手を取り何事かをしているようだった。 薄目を開け様子を伺うと、どうやら指に、なにかをしているらしい。 「…なにやってる」 「あら、起きちゃった」 へらへらと笑いつつも手は止めず、それどころか素早く完了した自分の企みにうんうんと頷きながら納得している。ちょっと気を抜くと妙なことをしている彼だから、眠い目を懸命に見開き我が身に起きたことを探ってみた。 「…なんだこれは」 「買うのがダメなら、こうするしかないでしょ」 「そういう問題じゃない」 「なんで?これ、私の持ち物だから。それを預けるだけだから問題ないよ」 「だから、そういうことじゃなくて」 「もーっ!シンちゃんってばうるさい!」 「逆切れするなっ!」 彼は都合が悪くなると、わーわー言いつつ自室へ逃げ込むか、理不尽なことを喚きながら逆切れをするという性質の悪さを発揮する。そういうところは絶対に自分よりガキだと思うのだけれど、そう突っ込むと今度は拗ねて泣くのだから始末に終えない。 「外せよ!」 「いやだね!」 「威張るな」 「威張ってないよ。シンちゃんのわからずや!」 「わからずやはどっちだ!」 「シンちゃん」 「えーい、ああいえばこういうっ!ガキか!」 「赤ちゃんみたいなシンちゃんに言われたくないですぅ」 「ぐっ、」 おーよちよち。 言いながら、抱えたままのシンタローを赤ん坊をあやすように揺すってくる。目が覚めたときに逃げておくべきだったと後悔しても後の祭りで、歯を食いしばりつつ腕を突っ張り抱え込まれないようにするのが精一杯の抵抗だった。 「よく似合ってる」 「似合うわけないだろっ」 「ブルーサファイアだよ。私の目みたいでしょ」 「自分で付けてりゃいいじゃねぇか!」 「シンちゃんに付けていてほしいんだってば」 「でかすぎ!緩い!ってゆーか、こんなもの学校に付けて行けるわけないだろ」 「えー、いまどき珍しくもないでしょ」 「珍しいかどうかを言ってるんじゃない!俺のキャラクターにはこんなのないのっ!」 「でも似合ってるってば」 「指輪なんか似合っても嬉しくない!つかいつの間に!!隠し持ってたのかっ」 しかも左手の薬指に付けるなんて。 有り得ない。 シンタローの常識の中では金輪際絶対的に有り得ない。 「信用してもらえないのは辛いから、不安になったらこれを見て“ああ、パパはシンちゃんのこと大好きなんだなぁ”って浸ってくれればいいなと思って」 「誰が浸るか!」 「だって次にあんなひどいこと言われたら、私はもう本気で立ち直れないよ?」 いいの? パパ、泣いちゃうだけじゃすまないよ? 真顔で言うから性質が悪い。 「それは…本当に、そういう意味で言ったんじゃないけど…まあ、悪かったかなって…」 「反省したら、これからは私のすることに文句ばかり言わないでね」 「うっ、それとこれとは、」 「恩を感じろなんて言ってない。私がそうしたいんだから、好きにさせて」 「だからそれは、」 「ね、お願い、シンタロー」 じっ、と。 蒼くて、深くて、真っ直ぐで。 指に光る宝石よりも煌いて。真摯で。 卑怯だ。 マジックは卑怯だ。 逆らえないその真っ直ぐすぎる思いに圧し掛かられ身動きが出来ない。縛られる。 どうしてこんな目で見るのだろう。 なにを、隠しているのだろう。 もどかしい気持ちを伝えられれば楽なのかもしれないけれど、いまはまだシンタローの心も揺れるばかりで問い質すことは出来なかった。信じて欲しいと、拒まないでほしいと言いつつ本質を見せていないのは彼の方で、その思いを告げれば拒絶されるのではないかという気配が恐ろしくて、言えない。 聞けない。 見詰めたまま呟く。 「なんで俺…こんな厄介なやつに捕まったんだろう」 「いや?私が嫌い?」 「だから、………いい。も、分かった」 いまは、いい。 聞けないのならいまはいい。触れないでおく。 意気地のなさに情けなさを感じはするが、それでも手に入れたばかりの温もりを自ら失うようなことは出来ないから、だからシンタローはなにも言わず首を振った。諦めた風を装って、抱き締める彼の腕に爪を立てた。ほんの、意趣返し。 「痛い」 「痛いようにやったんだから、痛くなきゃ困る」 「シンちゃんのいじめっ子」 「あんたには負ける」 「パ、パ」 ひくり、と全身を強張らせると、マジックが意地悪く耳元で笑った。 彼の、甘く低い声を直接耳に注がれれば反応しないはずがない。くすぐったくて、ざわざわと波打って、体も心も神経も、彼の操るままになる。 それが悔しいから睨み付けつつ指輪を外しなるべく遠くに放ってやると、なにがおかしいのか大笑いをしながらきつく抱き締めてきた。 「ほんっとうにシンちゃんは可愛いなぁ」 「バカじゃねぇの」 「私?バカかな?」 「大バカだよ!」 「そう。シンちゃんが言うならそれでもいいよ」 「あーあ、俺はこんな大人にだけはならないぞ!」 「こんなって?」 「バカで、常識がなくて、裁縫が趣味で、変な仕事してて、」 「え、変な仕事?」 「してるじゃねぇか」 出逢いを思い出せばいまでも恥ずかしさに震えが来るが、あの世界に彼がいたから救われたのだし、それで養われている身としては文句の付けようもない。 「あー、そっか。そうだった」 「なにが」 「べつに」 「なんだよ、別にって」 「べつにだから、べつに」 「だからなにが別なんだよ!」 「べっつにー」 なにが嬉しいのか、ヘラヘラと笑いながら抱き締めてくる。そのまま立ち上がり投げた指輪のところまで来ると、『拾って』と言いながらしゃがみこむ。 「シンちゃんがいない間に“お仕事してる”からねぇ」 「…なんだ、その意味深な言い方は」 「べ、つ、に」 素直に指輪を拾うと、抱き上げたまま器用に腕を捕らえまた指輪をはめてくる。抵抗したから、今度は人差し指にしか付けられなかったけれどどの道マジックとはサイズが違うのでどこにつけても緩かった。 「持ってて。お願い、指には無理でも、持っていて」 蒼い目が真っ直ぐに見詰めてくる。石と同じ、それ以上に輝く瞳に見詰められると、魅入られたように動けなくなるのは自分だけなのだろうか。 「なくしたら…困る」 「チェーンにつければいいよ」 「それなら…まあ、いいけど…」 「ありがとう」 シンタローにとって彼が笑顔でいることが、なにより大切で尊いことになりつつあるいま、嬉しそうに笑ってくれればそれだけですべてが許せてしまう。 その思いの甘さには自分でも呆れるけれど、それでも構わない。逃げたりしない。 「とか言って、俺以外にもばら撒いてたりして」 「ばら撒く?」 悔し紛れにせめて憎まれ口を叩こうと、意味もなく呟いた言葉に自分で反応してしまう。 マジックのしている仕事が世間的には日陰の部分にあることなのは分かっていても、彼が、不特定多数の前でシンタローの知らない姿を晒しているという事実は、なんともむず痒く心の奥を波立たせる感覚を沸き起こした。 「だれかれ構わず指輪を渡していたら、結婚詐欺で捕まっちゃうでしょ」 「…ふーん」 「あれ、やきもち?本当にシンちゃんはかわいいなぁ」 「誰がやきもちなんか妬くか!」 頬を膨らませ、ぷいっと横を向くという態度を取っておいて“やきもちじゃない”と言ったところで説得力の欠片もない。それでも言い当てられたと認めることはプライドが許さないし、なによりそんな思考に囚われたと察知されるだけでも恥ずかしい。 悔しくて、それからいつまでも笑っているマジックに腹が立って、拳を握るとそれで頭をポカリと叩いてやる。 「シンちゃん…」 蒼い目をキョロリと丸くし、シンタローを見詰めること五秒。 「かわいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ」 「ふぎゃっ」 真正面から抱き込まれ逃げることも出来ず、どうにか動く手足をバタバタ振り回せばその仕草が可愛いとさらにぎゅうぎゅう締め付けられる。 「あー、かわいいよぉ。食べちゃいたいくらいだよぉ〜」 「わわっ、スリスリするなっ!」 本当に、どちらが子供か分からない。 こんなバカは生涯自分が面倒を見てやらなければ、きっと、長生きなんか出来ないんだ。 呆れながら、溜め息を吐きながら、けれどそれがポーズでしかないのは自分が一番知っている。彼のことをどれほど好きか、誰より本人が自覚している。 摺り寄せた頬を指先で摘まみ、その緩みきった顔が少しでも引き締まるよう、引いたり、吊り上げてやったりしてみたけれど笑うばかりで一向に“大人の顔”には戻らなかった。 でも、いい。 子供だって構わない。 彼が彼であるならほかはなにもいらないし、望まない。 またひとつ増えた彼との“つながり”が指先で光るのを見て、とてもくすぐったく感じる。それこそが自分たち二人を包む幸せだと思った。 彼とシンタローの、ともにあるという、証。 「チェーンを買いに行かなきゃね」 「それだけだからな。他にはなにも買わないからな」 「えー」 「えーじゃない!」 作っていく。 作り上げていく。 大切な彼と、過ごすときを。 第二章 了 NEXT |
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