きのう、みた、ゆめ
入学式当日の朝、ウキウキと背広にブラシをかけている彼を横目に見ながらパンを齧る。 もう三度目のことだから、どんなに小さな埃だって付いていないだろうにしつこくかけ続けているのには訳がある。 アピールだ。 絶対に行くからね、という、アピール。 高校の入学式だから親が出席するのは珍しいことではないけれど、彼を父親と言って紹介するのはかなりの勇気を要することで、まだまだ不慣れなシンタローにとっては出来れば容赦して欲しいところだった。 けれど、来るな、とも言えない。 言えるはずがない。 だからここ数日無言で“来るのか”と視線を送っていたのだが、気づいた途端にあらゆるパフォーマンスが始まったのである。 靴を磨く。 スーツを選ぶ。 ネクタイかスカーフかで一日中悩む。 デジタルカメラとビデオカメラを購入する。 数台ある車のうち、どれを使うか相談してくる。 役員に立候補すべきかと、あれこれ調べ始める。 式のあとに寄り込むレストランをどこにするかで頭痛を起こす。 すべてに対し冷たい目で見てくるシンタローに涙目で返す。 よくもまあ、次から次へ思いつくものだと感心しつつ、あんまり浮かれているから釘を刺すことも躊躇われそのままにしてきたけれど、出発を目前にやはり一言だけでも言い聞かせておかなければならないと溜め息を吐いたシンタローは、あからさまに肩の跳ねたマジックの背後に立ちはだかると厳かに口を開いた。 「言っておくけどな」 「………」 「こら、返事をしろ」 「…パパ、一緒に行くからね」 「それは分かった。もういい。来るなとは言わない」 「ホントッ?」 何事か言われると身構えていたマジックが勢いよく振り向く。 パアッ、と輝く顔。 ああ、この人は自分よりずっと子供なんだ。だからこちらが大人になって、社会や人の道を説いてやらなければならない。それが自分の務めなのだ。 そう思わなければ彼と生活していくことは出来ないと、早々に気づいたシンタローは最近、声を上げて叱ることは極力控えるようにした。 本当に、どちらが大人なのか分からない。 「一緒に来るのは構わないし、一緒に帰るのも構わない。でもな、式の間は離れて座るんだし、呼んだって返事なんか出来ないんだからな」 「分かってるよ。おとなしくしてる。それに私だってシンちゃんの晴れ姿を撮影するのに忙しいからね、ほかのことを考えている余裕はないよ」 「…その行動自体が注意されてるんだってことになぜ気付かない」 デジカメとビデオを手に入れてから、練習だの試し撮りだのと言いつつシンタローのあとをついて周り、既にアルバムだけでも五冊目に突入しているのだ。しかも、黙って撮影するならともかく『笑って』だの『手を振って』だのいちいち注文を付け、エスカレートしてくるとポーズ指導まで始めるのだから始末に終えない。 この勢いならば式の間にも駆けつけてくることは十分考えられる。 三年間がその一瞬で決まる大切な入学式に、ただでさえ目立つであろう自分が失態を犯すことなど許されないのだ。 「あんたはいるだけで目立つんだからな。一度座ったら、次に席を立っていいのは式が終わったときだけだ」 「ええっ!ダメだよ、シンちゃんの“新入生代表挨拶”は、なにがなんでも近くで撮影するんだから!」 「バカみたいにズームが効くカメラなんだから、座ったままで十分撮れる。つーか、そんなビデオいらないっての」 「シンちゃんが要らなくてもパパはいる」 「ビデオなんて録画したら満足して、あとで見ないもんだろ」 「見るよ。パパは穴の開くほど見るねっ」 鼻息荒く宣言されても困る。 この、手のかかる大人を納得させるだけの言葉を持ち合わせない自分がもどかしいが、こうなったら泣き落とすしかなさそうだ。 部活動に参加するつもりはないけれど、もしどこかに入るなら演劇部だな。真剣にそう思いながら全身の力を抜く。頼りなさげに見える表情を作り、マジックを見上げる。 「学校って、大人が思うほど楽しいものじゃないよ」 「え、」 「俺、家庭の事情とかさ、色々あったから…いままで友達も殆どいなかったし、学校自体、好きじゃなかった」 寂しそうに言うと、ブラシを放り出したマジックはあっという間にシンタローを抱き締める。髪を撫でる。 「人と違うことをしたり、目立つことをしたり、わざとやるやつもいるけど俺の場合はそうじゃない。珍しいって、面白がられるうちはまだいいけどそのうち浮いて、馬鹿にされて…好きでそうなった訳じゃないのに。俺だって普通の子供でいたいのに…」 「シンちゃんは普通の子だよ。そして、とても幸せな子になるんだ」 たくさんのキスが降ってくる。 「どんなことでも目を付けられるのはいやだ。入学式で挨拶するのだって、本当は嫌なのに」 「どうして?主席入学だよ?名誉なことでしょ」 首を振る。 「一番は嬉しかった。でも、それを知ってるのは…パパだけで、いい」 シンタローは伝家の宝刀を抜いた。 「し、し、し、シンちゃ、」 マジックの体が小刻みに震える。ああ、まだ着替えないでいてよかったと心底安堵する。 「シンちゃあぁぁぁぁぁぁぁんっ」 ぐわばーっ、と、音がするほどの勢いで抱き締められ目の前がチカチカする。一瞬で酸欠状態になったようなものだ。 「パパはっパパはシンちゃんが大好きだよ!いつだってシンタローの一番でいるよ!なにもかも私だけが分かってる。シンちゃんのことは私だけが分かってあげられるんだよぉ〜!」 「パ、パ…くるし、」 「ああっごめんねっ」 背中に回した拳でドンドンと叩くと、まだまだ華奢な体が悲鳴を上げていることに漸く気付いたらしい。慌てて力を緩め、いつものように抱き上げた。 身長差を思えば仕方ないが、この姿勢に慣れるのは非常に難しい。恥ずかしいし、子供扱いされるのはやっぱりかなり、腹が立つ。 それでも黙っているのは抵抗が虚しいことだと知っているからで、余計な体力を使い神経を磨り減らせるより、誰も見ていないのだからと自分を慰めた方が早いしマシだ。 これさえなければいいのに。 いや、これと、あれと、それと…自分に対する執着が、もう少し軽ければ完璧なのに。 こっそりと溜め息を吐くシンタローは気付いていない。 “完璧”と言い切ってしまえる信頼に。彼からマジックに与える執着の強さに。 新米パパと新米息子では仕方のないことだろうが、第三者がこの状況を見れば確実に呟くであろう言葉がある。 『ごちそうさま』 すっかり上機嫌になったマジックはシンタローを抱き上げたままソファに移動し、向かい合うように膝の上に座らせた。 「じゃあこうしよう。パパは父母席の一番前に座ってビデオを撮る。だからシンちゃん、壇上に上がって挨拶をするとき、ちゃんとカメラに視線を合わせてね」 「…えー」 「一度でいいから。ね?」 「どこに座ってるか、…や、いい。分かった」 新入生とその家族と。全員が着席した中でただ一人を見つけることは困難なはずだが、相手がこのマジックであればそのような心配は無用だ。座っていても頭一つ抜き出るだろうし、なにより漂うオーラが只者ではない。 「じゃあちゃんと見るから。だから大人しくしててくれ」 「約束する?」 「いい」 遠慮する。 以前、半年も先に公開予定だと告知している映画のポスターを見たとき、ぜひ一緒に行こうと言ったシンタローに“じゃあ約束”と返してきたからてっきり指きりだと思ったのに、正面から唇にチュッと可愛らしい音を立ててキスをされひっくり返るほど動転したのだ。 ファーストキスだったのに。 シンタローにとって記念すべき、人生初の、キスなのに。 三日ほどは本気で落ち込んだ彼の気持ちを理解することもなく、『シンちゃんと映画』と半年も先の約束をウキウキと語るマジックを呪ったとしても罪はあるまい。 以来、何事かの約束を交わすときには口頭のみ、または先に指を差し出すことにしているシンタローであった。 「ああ、でも今日から高校生なんだね」 「分かってるなら、こういう風にひょいひょい抱えるなよ」 「それは無理。だって可愛いから」 「世間一般では、高校生にもなった息子とは会話すらないのが当たり前なんだぞ」 「シンちゃんと口を利かずに過ごすなんて考えられないね。こんなに大事なのに。こんなに好きなのに。いやだよ、私はずっと、ずーっとシンタローのこと抱っこするしキスも贈るよ。なんだってしてあげたいし、実際するから。私にして欲しいことがあるなら、それがどんなことでも言って。願う前に伝えて」 「また…そういうこと…」 言い返したい。 よくもまあそんなことを真顔で言い募れるものだと呆れてやりたい。けれどマジックの蒼い目が、その言葉に嘘のないことを証明しているようでなにも言えなくなる。 胸が熱くて、苦しくなって、泣きたくなって。 「本当の…息子でもないのに」 「実とか義理とか、そんなこと私にとってはなんら意味のない分け方さ」 宥めるように、胸の中に抱き込まれる。こうされると小さな子供に返った気がして、沁みる安堵に恥ずかしさすら薄れていく。彼への信頼が、愛情が募る。 「シンタローは私の元に来るために生まれたんだよ。悲しい別れも辛い時間も、耐えて頑張ってこられたのは、すべて私に逢うためだった。出逢うまでは辛くても、これからは幸せになる。いままでに感じた痛みの何倍も、何百倍も幸せになる。シンちゃんはそれを信じられない?」 「信じ…たい、けど…」 「信じて。私はお前を裏切らない。なにがあってもシンタローの幸せだけを優先させる。愛してる」 ふざけたことを言って、子供のようなことをして、けれど彼の言葉はいつだって真摯で真っ直ぐだ。疑うことは無意味だと、そんなことは疾うに知れている。分かっている。 幾度も繰り返し確かめるのは、それは自分に自信がない所為だ。 彼に愛してもらえるような、そんな自分であると胸を張って言えないからだ。 ちゃんと勉強して、きちんと仕事を持って、それで彼に恩返しが出来るようになりたい。生きていることを、生きていけることを。あなたのお陰でそう出来ているということを、身をもって示したい。見て欲しい。 寄りかかって、ぎこちなく彼の胸元に頭を預けると嬉しそうに抱き締めてくれる。なかなか素直になれない自分でも、こうして黙っているときくらい甘えた仕草で彼に依存する気持ちを表したいと思う。 もう、マジックのいない毎日など考えられない。 とても大切でとても大好きなひと。 シンタローに唯一許された宝物。胸元で煌く宝石よりももっと、ずっと。 「…学校に行ってる間は、外しとかなきゃな」 「なにを?…ああ、指輪?」 「盗まれたら困るし」 「そんな子がいるところじゃないと信じたいけど」 「まあね」 「出来ればパパは、つけたままでいて欲しいなぁと思うけど」 「なくしたら…いやだし」 「大丈夫、それ、私の分身だから。だからシンちゃんがその指輪をなくすことは絶対にないよ。保証する」 「保証って」 得意げに言うからおかしくなる。彼が自信ありげに言うことは確かに真実味があるけれど、まるで子供の自慢のような声音に、きっとその表情もキラキラ輝いているのだろうと予想できる。 マジックのすべてを知っているわけではないけれど、出逢ってからいままでの時間で見てきた彼は全部がシンタローのものだ。彼の時間は自分を中心に回っていると言い切る自信は既にある。 だから、シンタローも嘘や誤魔化しだけはしないと心に誓っていた。 彼の傍にい続けるため、どんなときも真っ直ぐにいよう。なにもかも見せて、欲しいというものなら差し出そう。決して卑しい考えの下ではなく、そうすることが当たり前だから。二人で生きていくと決めたのだから、常に信頼を傾け合おう。 まだ恥ずかしくて、口にするには自信がなくて。 言葉には出来ないけれど伝わるように。 ちゃんと、真っ直ぐ、伝わるように。 ぎゅうっと抱き締められて、なんだか眠くなってくる。 彼の腕の中にいるとき、シンタローは驚くほど子供に返ってしまい実際自分の年齢を忘れそうになってしまう。それもこれもマジックの過度な子供扱いによるものだが、甘えたい盛りに頼る相手のいなかったことを突きつけられているようで、その覚束なさが助長させるのだろう。 まあいいか。 誰も見てないし。 眠いし。 幸せだし。 「…シンちゃん」 「………んー」 「いいの?」 「…なにが」 「遅刻しちゃうよ?」 「遅刻?」 はて? 半分寝ていた意識の中で考える。 いまは春休みでずっと家にいるけど、マジックも“シンちゃんを残して働きになんか行かないよ〜”と言って本当に仕事に出ないで、朝から晩まで二人きりで過ごしている。 で。 今日はいつもよりちょっと早起きをして。 朝食をとって。 出掛ける準備をして。 出掛ける。 準備を。 「――――――っあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 入学式!! 「ばばば、バカヤロウ!なんでもっと早く言わないんだっ」 「えー、パパの所為なの?」 慌てて飛び起き自室に向かって走る。こういうとき、家が広いのは考え物だ。 「あんたも早く着替えろ!」 「アンタじゃないよぉ、パパだよ〜」 情けなさそうな声を背中に聞きつつ、シンタローは自分の部屋に飛び込んだ。 「俺の幸せと苦難は、いつでも表裏一体だ」 まだまだ硬いワイシャツのボタンホールと戦いつつシンタローがこぼした言葉こそ、これからの彼の人生を如実に表す真理だった。 |
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