きのう、みた、ゆめ
ああ。 「シンタローはん、今日はなににします?わて、シンタローはんとおんなしもんをいただきますえ」 ああ。 「昨日はカレーでしたやろ。その前は、あの、ちょっとおかしいシンタローはんのお父はん手製のお弁当やったし。うどんなんてどうやろ。こっちのうどんは、わての口にはよう合わしまへんけど、シンタローはんがどうしてもて言うんやったら我慢しますえ」 「…我慢、しなくて、いい」 「なんどす?なんや言わはりました?」 「なんも言ってない」 「そうどすか?シンタローはん、浮かない顔してはりますなぁ。おつむでも痛みますのん?」 ああ。 ああ、ああ、ああ! 浮かない顔にもなるだろう。 入学式で、新入生代表挨拶の呼び出しを受け立ち上がったシンタローのことを、穴の開くほど見詰めた隣席の生徒は名をアラシヤマといった。 式典後に教室に戻ったときも隣に座ったので一応愛想よく“一年間、よろしく”と挨拶をしたのだが、そのときも気味の悪いほど真剣な目で凝視されちょっと、いや大分怖い思いをした。 なにせ“おとなしくしていろ”と言い聞かせたマジックが、案の定これ以上はないというほどの悪目立ちをした直後だったので、憂鬱になるのも仕方のないこと。抵抗力の弱まっていたシンタローはその奇妙なクラスメイトにも出来る限り丁寧な態度を取ってしまったのが不運の始まりだった。 「お父はん、今日も迎えに来はりますの?」 「…来るんじゃねぇの」 「わても迎えはありますけど、シンタローはんのところはお父はんですやろ。朝も昼も息子の送り迎えて、随分時間に余裕のあるおひとやなぁ思てましてん。仕事、なにしてはるんどすか?」 「…さあ」 「さあて。父親の職業、知らんのん?どこかの社長はんとかやあらしまへんの?」 「知らないっつの」 いえるか。こんなお金持ち学校に息子を通わせたがるバカが“えーぶい男優”だなんて事実、口が裂けても公表できない。 呼び出されたシンタローが席を立ったとき、列席者全員が今年の主席入学者である自分を興味と羨望の眼差しで見詰めたその瞬間。 『シーンちゃぁぁぁぁぁぁんっ!こっち向いてっ!!』 という絶叫が講堂中に響き渡った。 …多くは語るまい。 思い出すたび全身に震えの来るシンタローは、いま、共に暮らしているにもかかわらずマジックと口を利かないこと十日目を迎え、なおも記録更新中である。 びくびくオドオドしながら自分の周りをうろつくマジックに苛々し通しのシンタローは、せめて学校では息を抜きたいと思っていた。 彼の突飛で奇抜で呆れ果てその上救いがたい所業を受け、入学式当日から“只者じゃない”というお墨付きを貼り付けられた新入生に気の休まる暇もあまりないが、それでも“上流”と言われる家庭に育った生徒の多くはシンタローの一睨みで黙ってしまい、あの一件をからかう勇気のあるつわものは存在しないからまだ助かっているのだけれど。 どこにでもいるのだ。 変わり者というやつは。 「どう考えても家業を知らんことはないやろ。跡を継ぐとか、そういう話もしてはらへんの?」 「あんな仕事のなにを継げっつーんだ」 「なに?いまなにを言いましたん?シンタローはん、声が小そうてよう聞こえまへんわ」 聞こえないように言ったのだ。 行過ぎる生徒はみな、シンタローの顔を見るとあからさまに目を伏せ歩み去る。からかわれるよりずっといいが、“平穏無事”を学生生活のテーマに据えようとしていたシンタローにとって初っ端から挫かれた痛手は大きい。 基本的におとなしい生徒ばかりの校内だが虐めがないとは言いがたいし、陰口を叩かれることは予測しておかなければならないだろう。 『だったら、そっちがその気なら、俺にも考えがある』 そっち、が誰を指すものなのかシンタローにだって分かりはしないが、それでもなめられるより虚勢を張って、いっそ“あいつは怒らせちゃいかん”と思われた方がいいだろうという気持ちになりつつあった。 新生活が始まったばかりなのに。 なにもかもうまくやっていくつもりだったのに。 それもこれも全部マジックが悪い。マジックが台無しにした。言い聞かせたのに、約束したのに、絶対しないって誓ったのにアイツ! アイツアイツアイツ!! 「シンタローはん」 「なんだよ!」 「食堂、通り過ぎてますえ」 「え、…あ」 広々とした明るいテラスは学生たちで溢れている。 定食や丼もの、麺類、軽食と喫茶コーナーが揃っていて、味も悪くはない。値段も市場価格の半額以下だし、申し分のない設備といえるだろう。 「ほな、うどんでよろしおすか?」 「勝手に決めるな!」 「ひっ」 怒鳴られて、アラシヤマが立ち竦んだ。了承を求めてきたのだから“決めて”などいないのに、とんだとばっちりで叱られた彼はそれでもシンタローのことをおろおろと見上げるだけで逃げていくことはない。 輝かしき学生生活の幕開けに際して、シンタローの出鼻を挫く相手はもう一人、存在した。 入学式で隣に座った彼が、後に次席入学を果たした生徒だということを知り少なからず驚いた。 真っ黒な髪はさらりと肩の辺りで切り揃えられている。右目を隠すように長く伸びた前髪は彼でなければ鬱陶しいと感じるだろうが、なぜだかよく似合っていると思わせる雰囲気があった。 見かけは実におとなしそうで、というよりなんだか暗いイメージでシンタローとは正反対の人種に思えた。穴の開くほど自分を凝視していた彼は、漸く口を開いたかと思えばあろうことか“お友達になってもええどす”と言い放ったのだ。 友達は欲しい。 高校生活を快適に、有意義に過ごすための友人は確かに欲しい。これまでそういう存在に恵まれずに来たシンタローは、授業中にメモを回したり昼休みをともに過ごしたり、放課後は学校に内緒で映画を見に行ったりとそんな些細で楽しげな時間を夢見ていたのだ。 だから、変なやつ、という印象はあったものの初対面のクラスメイトに対してぞんざいな態度を取ることは得策ではないと思い、出来る限りにこやかに、優しげに微笑んでおいた。 一月もすれば友人関係は特定のグループに固まり始め、そのとき同じ輪の中に彼がいればよし、いなければそれもまたよし。 その時はそんな気持ちだったのだ。決めるのは感情というより流れだと思っていた。 それなのに彼は、アラシヤマは、微笑んだシンタローのことをまるで神でも見るような眩しげな目で見詰め、それからぶつぶつと何事かを呟き始めた。 そのときなにを言っていたのか未だに分からないが、彼の中では“シンタロー=友人”という図式が完全に形成され、そして二度と抜けない楔として心の一番奥深くに打ち込まれていたらしい。 シンタローのなにをもって、そこまでの執着に結びついたのかはよく分からないが、彼が自分より成績がよかったということと、気安く微笑みかけてきたということが起因しているのは確かなようだ。 この学校には、マジックが言った通り裕福な家庭に育った子供ばかりが在籍している。 人間、金じゃないと口にするのは大抵金銭に縁のない者で、苦労を知らない人々はもとよりそんなものに左右されることなく自分自身の時間を生きている。シンタローのように、“落し物の財布は額面に関わらず届けるが、現金であれば一万円までは天からの授かりもの”と思っているレベルではこの独特の空気に馴染むまでは時間が掛かるだろうと思われた。 まして入学式に起きた恐怖体験のせいで、周囲からは完全に浮き上がってしまっている。また繰り返すのかと泣きたい気持ちになった彼がマジックに辛く当たるのも、だから仕方のないことだった。 遠巻きに自分を見るクラスメートたちの気配に心を痛めるシンタローは、けれどその視線の中にある、これまでとは質の異なる視線に気付いてはいない。 確かに彼のことを毛色の違う生徒と思い目を合わせることすらしない生徒もいるが、それは他のクラスや上級生に限られ、級友たちはみな何事か起こるのではないかという期待感に満ちた眼差しで彼を見ていた。 なにせシンタローは理系、文系を問わず成績がよかったし加えて運動神経もいい。初めての体育の授業は百メートルダッシュとハードル、ハンドボール投げ、懸垂といった基礎体力を測るためのものだったが、そのすべてにおいてそつなくこなしてしまった上、転んだり泣き言を言ったりする生徒を言葉少なに励ましたりという如才ない一面も見せていたのだ。 異分子であることは間違いない。けれどそれは悪いものではなさそうだ。 思い切って声を掛けてみたいがそれもまだ怖いというような空気が教室中に流れていて、長年この学校に勤める担任教師も実はひそかに観察していた。 チャンスがあれば話しかけたいと思われていることなど知らぬシンタローは、今日もアラシヤマと連れ立ち食堂へとやってきた。 勿論、連れ立つつもりはないのだが、離れないのだから仕方ない。 嬉しそうに『うどんはあっちどす』と百も承知のことを言ってよこす彼に大袈裟な溜め息を吐いてやるが、そんなものは聞いてもいない。さっさと歩き出すとシンタローの分のトレーも抱え、うどん専用カウンターの最後尾へと走っていった。 聞いてもいないのに知ってしまった情報によると、アラシヤマは京都の老舗呉服店の三男らしい。長兄は既に専務だが常務だかを勤めていて、次男も着物デザイナーとしてその世界では知られた存在であるという。父親自体も国から“なんたら勲章”をいくつも受けているし、それどころか重要無形文化財――人間国宝だというのだから驚きだ。 兄たちの母は早くに亡くなり、父はその後暫くたってから秘書を勤めていたアラシヤマの母と再婚をした。二周りも年の差のある夫婦なので世間では祖父だと思われることが殆どだが、その可愛がり方も相当なものらしい。 母親に似たアラシヤマはほっそりとした美少女全とした佇まいを持っていることもあり、幼い頃彼は自分が本当に女の子なのだと思い込んでいたという。着せられるもの、持たされるもの、与えられた部屋すらも、すべてが女の子の好みそうな色やデザインで揃えられていたし、七五三のときに設えられたのは紋付袴ではなく色艶やかな振袖だったそうだ。 二人の兄も年の離れた弟を猫かわいがりして、文字通り彼は“箸より重いものを持ったことのない”人生を歩んできてしまったのだという。 どんな我が儘も通る状況であり、またそれを苦に思うものもない環境にあったにもかかわらず、アラシヤマは“金持ち喧嘩せず”の法則(?)を地で行く性格をしていたため、日々のんびりと、ぼんやりと過ごしていた。 けれど、中学に入学した辺りからその性格に拍車がかかり、マイペース過ぎる彼は団体行動に付いていけないようになった。本人に言わせれば『あほなお人とは付き合いきれまへん』ということだが、所詮気心の通わない他人に自分を理解できるはずもないのに、わざわざこちらから歩み寄る必要はないと言い切ったところ、母は、彼の記憶にある限り初めて声を上げて泣いたと言う。 何事にも優しく、慎み深い母があんまり泣くので慰めていると、『そのずれきったところが心配なのよ』と余計に泣かれ、意味が分からない彼は仕方なく自分も泣くことにした。 二人で泣き続けているところに帰宅した父と兄は、泣きじゃくる母からなんとか真相を聞き出したが、その原因の殆どを担っていた彼らは罰の悪い顔をしてともに泣いているアラシヤマを見守った。 母は、このままではアラシヤマにいいはずがないと主張した。 父としては、可愛い息子を手放すつもりは毛頭ないし、頃合を見て自分の決めた娘と結婚させ敷地内に居を構えさせると決めてすらいた。どんなに可愛くても娘じゃないんですよ!と叱られるので滅多なことでは口にはしないけれど、それだけは譲れないとも思っていた。 なにせ自分は老い先短い。可愛い息子を取り上げられてたまるか。 恐らく、彼はマジックと大変気が合うと思われる。 母の心配も分かるが、かといってどうすればいいのか。この家で母以外に唯一建設的な話の出来る長男が問いかけたところ、母は“東京で一人暮らしをさせたい”と爆弾発言を炸裂させた。 ビジネスの拠点として、いまの日本はやはり東京に進出するのが上策といえる。随分前から京都には本店、東京には本社という形で展開していたため自社ビルや借り上げ社宅などの環境も整っていたので独り暮らしをすることも無理ではないような気はした。気はしたがやはり父と兄は猛反対し、泣くことに飽きたアラシヤマは自室に本を読みに戻ってしまった。 だからその間、どのような会話がなされたのかは分からない。 けれど翌日、父の部屋に呼ばれたアラシヤマは、高校は東京にある父の知人が理事長を勤める私立校に通うよう言い渡された。さらに住居は長期滞在時に兄が使うマンションと定められ、通常は独りで暮らすようとも言われた。 月に一度、数日は必ず長兄が宿泊するし、母もまめに上京する。日常の雑務は専門の人材派遣サービスを利用するし、父も、出来る限り様子を見に来るという。 大変そうだな、とは思ったが、反論はしなかった。父に対し言い返すなどということは思いも付かない彼であったし、どこに行こうと自分が変わる訳ではないのだからどうでもよかった。 高校の三年間だけ。大学は京都に戻り、兄たちも卒業した国立へ行くようにと念を押される。『へえ、分かりました』と答えたアラシヤマに対し父の方が涙ぐむのだから始末が悪い。 そうしてアラシヤマはこの学校に通うこととなったのだ。 「けど、入学早々シンタローはんとお友達になれるやなんて、わて、心配されることなんもおまへんでしたわ」 堂々と“友達”扱いをされるシンタローにとっては我が身の行く末が不安で仕方ない。 受け取ったきつねうどんのどんぶりをトレーに乗せながら、アラシヤマは少し、眉を寄せる。大方“真っ黒”な汁に対し不満を感じているのだろうが、口に出すような品のないまねはしなかった。郷に入っては郷に従えという言葉はシンタローにとっても身に沁みたものだし、日本人として残る数少ない美徳だとも思う。 まあ生まれ育った土地から遠く離れたことがないのでそれがどれほど浸透したことなのかは知らないが、育ちだけはいいらしきアラシヤマのそのような態度は好ましいと思える。 なにを言っても付いてくるから、カレーうどんを乗せたトレーを持ったシンタローは手近なテーブルへそれを置くとさっさと座ってしまう。 いつも通り、いそいそと向かいに席を定めたアラシヤマがシンタローの分の箸や水を用意し丁寧に食卓を整えてくれた。 そういう仕草は驚くほど繊細で、指先ひとつにまで神経を行き届かせているようにさえ見えた。シンタローとしても人目につく限りは極力体裁よく、また行儀よく振舞っているつもりではあるが彼の立ち居振る舞いを見るとがっくりすることがある。 マジックに連れられ高級という部類の店に行く機会が頻繁になったいま、これは見習うべきなのだろうかと真剣に悩んだりもするのだが、勿論そんなことはアラシヤマに言えるはずもない。 いただきます、と手を合わせ、箸を取り上げる仕草ひとつが美しい。 陰気で、なにを考えているのかサッパリ分からなくて、思い込みが激しく自分とは違う意味で浮きまくっている彼の唯一尊敬すべき点をさりげなく盗み見ながらシンタローもそっと箸に手をつけた。 午後の授業は眠気との戦いだった。 春の日差しは暴力的なまでの強引さで睡眠欲を叩きつけてくる。加えて彼の席は窓際、後ろから二つ目の絶好のポジションにあり、成績がいいことから教師の監視の目も甘い。 さらにシンタローのしている予習部分よりまだ大分手前にある内容は退屈だし、満腹のところに聞かされる漢詩は最早拷問に等しい。 文系の授業は嫌いではないが退屈なのは否めない。また数字はあくまで数字であり美しいと言われてもトンと理解できないシンタローははっきり理系とも言いがたい。 進路のことはこの先まだいくらも考える時間があるからとマジックに言われ、とりあえずいまは二年生の進級時に行われる選択授業の教科を決めるのが命題となっている。 眠い目をこすりながら、『とりあえずこの先生が担当なら文系はやばいかも』と思っていると、後ろのアラシヤマがとん、と背中をつついてきた。 「なんだよ」 「あれ、シンタローはんのお父はんやないの?」 「あ?」 門のとこ、と囁かれ窓外に視線をやる。 正門から伸びた道は中央の噴水を囲むように分かれているが、その向かって右側を歩いている男が見える。 「…あ、ほんとだ」 見間違いようのない、立派過ぎる体格をしたマジックがこれまた嫌味なほどに堂々と歩いてくる。瀟洒な造りの庭園を進むその姿はさながら映画俳優のようでもあり、洋画の撮影だといわれれば信じてしまう程度には美しかった。 あれが、自分の父親なのだ。 そう思うと言い知れぬ優越感が沸き起こるが、同時に先日の醜態をも思い返しシンタローのこめかみはキリキリと痛み始めた。 「迎えにしては早すぎどすなぁ。シンタローはん、親が呼び出されるほどのことなんやしましたん?」 「それをお前が言うか?毎日いやってほど、ホンットーに嫌ってほど俺にまとわり付いてるじゃねぇか」 身を乗り出し、背中に張り付かんばかりのアラシヤマを押しやり、校舎に近付くマジックを目で追う。 「ほんとに…なにしに来たんだよ…」 いつになく真剣な表情のマジックが校舎の影に入り視界から消えても、シンタローはそこから目が離せなくなっていた。 |
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