父親が呼び出されたのだから、授業が終わればなんらかの知らせが入るだろうと思っていたシンタローだが無常にも六時間目の始まりを知らせるチャイムが高らかに響き渡り、結局訳のわからない焦燥感を抱いたまま生物の授業が始まってしまった。 国語や数学はいいとして、この生物だけはいただけない。 生き物が嫌いなわけではなく、犬猫を見れば必ず寄っていってしまう性質のシンタローだが“ミトコンドリアが〜”とか、“デオキシリボ核酸は〜”などといった話はサッパリ理解できないし、どこが面白いのかもよく分からない。 大体、ナマモノは嫌いなのだ。 自慢じゃないが虫も苦手で、夏にはセミの飛び交う姿を見ただけで逃げ出したことも一度や二度ではなかったし、生態系に影響がないならいまこの瞬間に消えてなくなってもいいと本気で思うほど嫌だった。 そして今日は、胸の中に広がる得体の知れない不安がその思いを増長する。 途中指名されたものの、質問そのものを聞いていなかったので不快な気持ちのまま“分かりません”と即答してやると、普段は出来すぎるほどに出来るシンタローのその意外すぎる対応に教室中がざわめきに包まれ、担当教師に至っては『保健室に行きましょう!』と額に手を当てながら叫ぶという有様だった。 結局保健室には行かなかったものの、終礼までの間は奇妙な緊張感をクラス全員に植え付けるという迷惑を掛け通したシンタローは、最後の挨拶が終わると早々に鞄を掴み教室を飛び出す。 職員室か、生徒指導室。進路指導はいくらなんでも早すぎるから、考えられるのはその二箇所だ。どちらにしても、最大限の注意を払っている自分には縁がないと思っていたのによもや父親が呼び出されるなどありえない事態だ。入学式の、あの恐ろしい光景が脳裏をよぎりちょっと泣きそうになってくる。 呼び出しは、もしかしたら自分ではなくマジックを対象としたものなのだろうか。あのバカがバカだから、厳重注意でも受けているのだろうか。 バカなのは百も承知だし、それが原因で口を聞かずに過ごすこと十日を数えているのだ。恥をかかされた報復は現在進行形で継続中だが、学校からの注意があるとすればもっと早い時期に呼び出されていたはずだろう。 それではなにか。 自分の知らないところでマジックがなにかしたのかもしれない。 学校に、教師に、生徒に。シンタローの知らないうち、妙なことでも言ったのだろうか。迷惑を掛け、それを隠していたりしたのだろうか。 それとも。 彼の仕事が、ばれたのだろうか。 人に話せることではないと、シンタローでさえ思っている。その仕事のお陰で、いままでからは想像も付かない生活を送れているのは確かだが、それがいいこと、正しいことだとは思えない。恩義を感じている自分ですら、それを日陰のことと捉えている。 この学校の生徒はみな裕福な家庭に生まれ、なに不自由なく育つ子供たちでその純粋培養振りは否応なく達観したシンタローにとって受け入れ難い面もあった。マジックのしていることに対し恐らく嫌悪しか抱かないような彼らとは、根本的に違うのだ。 世話になっているからだけではない。 自分もまた、その世界に足を踏み入れようとした経緯があるからこそ怖いのだし、それだけでマジックが卑下されるのは嫌だった。 途中、擦れ違った教師から『走らないで』と注意を受けたが、構わず走り通し職員室の前に着く。上がった息を整えながら、その扉を開こうとしたところでそっと、後ろから手を取られた。 「なんやの、シンタローはん。いきなり走って、わてまで叱られましたえ」 「ななな、なんだよ着いてくんな!」 「そう言われても、シンタローはん、先生が呼び止めはったのに、ちょっとも聞かず行ってまうから」 「え、マジでかっ」 シンタロー同様、息を乱したアラシヤマがさも困ったという顔で言い募る。自分の考えに囚われ、追ってきた彼の気配にも気付かなかったことに驚き、ばつの悪い顔で腕を振る。放っておけば彼がいつまでも自分に触れていることは既に学習したことだった。 「先生、なんだって?」 「わてとシンタローはん二人で、理事長室に行くようにて言うてました」 「りじちょうしつぅぅ〜?」 「へえ」 職員室も生徒指導室もすっ飛ばして理事長室! 目の前が暗くなるのを感じつつ、それでも自分がめげてはいられないと思い直したシンタローは拳に力を籠め、のほほんと立っているアラシヤマを睨み付けた。 「なんで俺たちが呼び出されるんだ」 「さあ。心当たりはあらしまへんけど、理事長室で待ってはるのは理事長以外ありまへんやろ。はよ行かな」 「…アイツとは別の呼び出しか?」 「あいつ?」 「なんでもねえよ」 呟きを拾われ、シンタローは慌てて打ち消した。もし、自分の素行とは別の要件で呼び出されたならアラシヤマに知られるわけにはいかない。 学校内の噂がどれほど早く広まるか身を持って知っているけれど、それでも隠せるものなら隠し通したいのは当然だろう。 「シンタローはんのお父はんも来てはるし、なんの話やろ」 「ささささ、さあなっ」 そうだ、もし彼の仕事についてのことならアラシヤマまで呼び出すのはおかしいだろう。それなら違うことかもしれない。 不用意に取り乱し、自ら尻尾を出すことは出来ないと思い返し、ひとつ深呼吸をすると理事長室に向けて歩き出した。 出来れば他愛ない、なんでもない話でありますようにと祈りながら。 「失礼しますぅ」 ノックをして、間延びした声でアラシヤマが言う。 とことんマイペースの彼は“新入生が理事長室に呼び出される”ということの緊張感などまったく感じた気配もなく、その重厚な扉に手を掛けた。 学内の殆どは横にスライドさせる引き戸だが、ここは大企業の重役室かというような豪奢な扉がついており、恐らく、内部もそのような造りであると思われた。 覗き込んだ先に想像通りの装飾を見て、シンタローはそっと、二度目の溜め息をつく。こんなところに呼び出されるのは、自分の立てた学校生活の中で想定した“なにかで表彰される”ということ以外あってはならないのに。 「あれお父はん」 「おお、あーちゃん!待っとったで」 「なんやの、来るなんて聞いてまへんえ」 やっぱり気の抜けた、けれど幾分嬉しそうな声音でアラシヤマが言う。 扉を開けたその先の光景に、シンタローは呆然としながらその会話を聞いていた。 「入学早々お友達が出来たて聞いて、お父はんようやっと安心できたわ」 ささ、こっちおいで。 ウキウキと手招きをする、やたらと気品に溢れた和服の老人を見て思う。 『…こいつ、誰かに似てる』 「シンちゃぁ〜ん、パパもっパパも逢いたかったよ!逢いたかったんだよぉ〜!」 意識して視界に入れないようにしていた、これまた見た目だけは恐ろしく紳士的な大男が目に涙を滲ませながら両手を開き呼び立ててくる。 帰ろう。 なんだか分からないことには関わらない方がいい。 身についた処世術を発揮し、“間違えました”と言いながら扉を閉じようとすると、いつの間にか近付いていたらしい入学式のときに見たきりの理事長が慈愛に満ちた笑顔でポンと肩に手を置いた。 「さあ、シンタローくんもお父さんの隣に座って」 「え、や、あの、」 「シンちゃん!パパのところに来て!来てったら来て!来ないとパパ、死んじゃうかもっ」 死ね、とはさすがに言えなかった。 いい子でいたい訳ではないが、心象のよろしくないであろう自分が更に目を付けられては堪らない。渋々扉から手を放すと、露骨に嫌な顔をしながらマジックの隣へと腰掛けた。 校長は小柄で、程よく髪の薄いメガネ着用の壮年という生粋の日本人であるのに対し、理事長はどこからどう見ても外国籍、恐らくアメリカ人であると思われる。どういう経緯でこの学校の理事を務めているのかは分からないが、達者すぎる日本語を操るところから見て永住しているのかもしれなかった。 「なんだかとても素晴らしい光景だね」 マジックとは同世代であろう、けれど若々しい理事長がそう言うと、二人の父親は揃ってうんうんと頷いた。それぞれ自分の息子を熱い視線で見詰めながら。 こんなことなら真っ直ぐ帰ればよかった。 シンタローの思いは、この場の誰にも届きはしなかったけれど。 「だから、私としてもシンタローくんとアラシヤマくんが友人付き合いをしているというのはとても嬉しいことなんだよ」 理事長の熱弁は長かった。 アラシヤマがこの学校に入学する経緯は既に承知していたが、それ以降のことまでシンタローが関知するところではない。 まして彼と“友人”と言われればこちらとしては異議を申し立てたいほどで、いまだってやたらと笑顔の理事長、マジック、そしてアラシヤマの父に対して真実をぶちまけたい気持ちで一杯だった。 「どうやろ、うちのあーちゃんはええ子にしてますか」 「…はあ」 「うちのあーちゃんは見たまんまおとなしゅうて、引っ込み思案なとこがありますさかい友達が出来るか心配やったし、出来たとしてもほんまにこの子のこと任せられるかどうか気になって気になって眠れんほどやったんですわ」 「……はあ」 「せやけど、うちのあーちゃんももう高校生や。自分のことは自分で出来る子にならなあかん。ここは心を鬼にして、我が子を千尋の谷に落とす獅子の気持ちになって、ほんまはまだ無理やて思うけど、うちのあーちゃんは親から見てもよう出来た子ぉやから、余計な心配するより自主性を大事に、信頼して、ほんまは心配やけどいつまでもお父はんお父はんて言うてる訳にいかんいうことを自分で気ぃついてほしいし、それに、」 「お父はん、まだ長なるの?」 ナイス突っ込み。 出会って初めてアラシヤマの存在に感謝した。 だが考えるまでもなく、このマジックレベルの親バカはアラシヤマの父親なので、とどのつまりはこいつと関わりを持ったことで巻き込まれたいわば二次災害のようなものだ。騙されてたまるか、と思いつつシンタローは油断のない目つきで周囲を見回した。 こうなると全員敵に見えてくる。 「いやぁ、私の方もね、大事な一人息子に悪い虫がつかないかと日夜心配でこのところ寝つきも悪くなる有様だったのですが、アラシヤマくんのように出自のしっかりした良家のご子息と親しくしているということなら一安心です」 マジックが眠れないのは、シンタローに無視され続けおやすみのキスがもらえないからというバカらしい理由からだというのは伏せておく。 「我が校は生徒の自主性を第一に、自立と良識を育む教育を志していますが、やはり集う子供たち一人ひとりが社会の一員であるということを自覚していなければ前進はありえません」 理事長にも息子がいると聞いたし、確か同じ学年だとも聞いた覚えがある。ただ、なぜだかこの学校に入学することがなかったそうでどんな子供なのかは分からない。 けれど、少なくとも“この父親たち”とは違う理念、教育を受けたのだろうから、至ってまともな子供だという推察だけはついた。少なくとも理事長におかしな部分は見付けられなかったから。 「アラシヤマくんのお父上と私は古くからの付き合いがあってね。その縁で入学した訳だが、…ああ、間違っても縁故入学ということではないよ。きちんと試験を受け、見事な成績で合格した。残念ながらシンタローくんを上回ることは出来なかったが、アラシヤマくんとその次点の生徒ではかなりの開きがあった。つまり二人の優秀さが際立ったということなんだがね」 「いややわぁ。理事長先生、そないに褒めはっても、わての親友の席にはもうしっかりシンタローはんが座ってはるんどすえ」 座ってない。 いまどき、大手企業に就職して、三年だけ働いてその間にブランド品を買いあさり海外旅行に最低四回は出向き、少なくとも部長までは昇進しそうな二、三歳年上の男を捕まえ寿退社しようと考えているおねえさんより腰掛けてない。 胃と頭が痛くなるのを堪えつつ、シンタローは全神経を集中させ“俺はここにいるけどいない”という怪しげな忍法の完成を試みた。残念なことにこれまで忍者修行などしたことのない彼にとって、それは気休めにもならなかったけれど少なくとも自分は被害者という意識だけはしっかり持てた。 「いや、こう言うとシンタローくんを信用していないようでいい気はしないだろうが、大切な友人の息子を預かる身としてはやはり友達付き合いというものに神経を使わないわけにはいかなかったのだよ。お父上もそのところをなにより気にされていた。それで、入学以来アラシヤマくんが口にした生徒の名前を調べたところきみに行き当たってね。本年度の主席にして、入学式でちょっとしたセンセーショナルを巻き起こした生徒といえば私自身個人的な興味もある」 失礼な言い方ではないが、つまり自分は“調査”されたのだ。 「きみの父上ともぜひ話をしてみたいと思っていたところに、こちらも上京されると聞いてね。それなら全員で対面してはどうだろうと急遽来校を願ったというわけさ」 「はあ、そうですか」 珍妙な父親を持つ、成績だけはいい生徒。 癖のありすぎるアラシヤマの友人というレッテルを貼られるシンタローの言い分は一切聞き入れられないのだろう。バカらしいやら悔しいやらだが、一番心配していた事態に陥ることはなさそうなので、そのことだけを感謝し、また安堵した。 「正直なとこ、入学式での一件は私も驚かされましたわ。けどなぁ、シンタローくんのお父上がこの方やったと知ったら、もうなんも心配することあらへん。安心してうちのあーちゃん、預けられますわ」 「あのー、預かりたくない場合はどうすれば、」 「いややお父はん、気が早いわー。わてまだ高校生どすえ?将来の約束とか、そんなんもっとじっくり付き合うてからでええですやろぉ」 「なんや、あーちゃん恥ずかしやからお父はんが代わりに言うたったんやで」 「そんなん自分で言えます。もお、お父はんわてのこといつまで子供扱いしはるのん」 「はっはっは。アラシヤマくん、父親というのはね、いくつになろうとも息子というものが心配で心配で堪らないし、一から百まで全部知ってもまだ不安になるものなんだよ」 「へー、そうなん?」 「そうや。それにあーちゃんはお父はんお父はんて、いつまでも親離れで出来へん子ぉやし、なにより初心いからなぁ」 「わて、もう十六になりますんえ?いつまでも子供や思われたら迷惑や」 「ああ、そんな意味で言うたんとちゃう。あーちゃんはお父はんに似ず、しっかりした子供やいうことは、お父はんちゃーんと承知してるで」 「うちのシンタローもね、年に似合わぬしっかりもので父親としては少々寂しいくらいですよ」 「気ぃ付いたら、いつの間に成長してるもんですなぁ」 「まったく」 「われわれ教育者も、この年頃の子供には驚かされることばかりです」 わあっはっはっはっは 全員、消えろ。 忍法より黒魔術を身に付けたい。 シンタローの願いは十中八九、人道的だと思われる。 |
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