きのう、みた、ゆめ

 

 

 

 

魔の会談は、魔の会食にまで発展し、シンタローが開放されたのは午後九時を回ってからのことだった。

明日も通常通り授業があるので、予習復習を怠りなくしておきたいというのに、予定は完全に狂わされた。いや、それだけであれば本来怒るほどのことはない。

シンタローにとって教科書は二手ほど先んじるものだし、一週間休むことになったとしてもそれで後れを取ることはない。生来の負けず嫌いと、マジックに報いたいという気持ちを常に優先させる彼にとって、だからその程度のことであれば機嫌を悪くすることはないのだ。

本来であれば。

親バカの会とシンタローが勝手に名付けたおかしな集団と別れ車に乗ると、シンタローはそれ以前よりも口を閉ざし頑なに彼の方を見なかった。

マジックにとって、拷問ともいえるべき密室空間は恐ろしい沈黙に包まれ、いたたまれなさを倍増させた。機嫌よく『昨今の父親事情』を語っていられたうちはよかったが、二人きりになると冷戦状態にあった現状を嫌でも思い返させる。さすがの彼もその絶対的な無言の応酬には敵わぬらしく、ちらちらとシンタローの気配を窺いながらなにかきっかけは掴めないかと間合いを計っているようだった。

信号を越えて。

角を曲がって。

コンビニの前を通り過ぎるとき、なにか欲しいものがあるかと尋ねたがあっさり首を振られ撃沈する。

散歩中の犬を見付け、可愛いねと言ってみたが完璧なまでに無視された。

再度信号を越えて。

角を曲がって。

そうして自宅マンションの地下駐車場に到着すると、無言のまま車を降りたシンタローはさっさとエレベーターホールへと歩いていってしまった。

さすがにひとりで乗り込むことはしなかったが、俯いたまま“話しかけるな”というオーラを身に纏うことは忘れない。重力のかかるその小箱の中で、マジックは情けなく眉尻を下げたまま頑なな息子を見下ろしていた。

 

玄関を抜けると、さっと小走りに自室に向かう。

呼び止める暇もなかった。

出逢った頃より幾分伸びた髪は肩の辺りで柔らかく跳ね、その軌跡を見せ付けるかのように翻した後姿はあっさり扉の中に消える。見送るマジックは手を伸ばし、その細い背中を捕まえてしまいたかったが諦めた。無理強いをすればもっと頑なにさせてしまうだろう。それはよろしくない。

シンタローは難しいところのある子供だと分かっている。

マジックに対しては恐らく他の誰より心を許してはいるが、それだってつい最近までは他人だった自分にどう接していいのか計りかねる部分はまだまだあるだろう。寂しい時間を生きてきただけに、人の心を思いやることには長けている。だからこそ自分を見せることに躊躇いを感じるのだろうし、恐怖を抱くこともあるのだ。

それは、分かる。

マジックには。

痛いほどに分かってしまう彼には、だからこそ無理やり振り向かせることなど出来なかったのだ。触れられたくないところは誰しも持っていて、自分にも、正直伝えていない部分がいくつかあるのだから。

湿った、重たい溜め息をつきながら自室に向かう彼の背中は寂しげで、それはシンタローの姿によく似ていた。

同じ思いを抱えているのが分かるほどに、それはよく似た気配だった。

 

 

部屋に戻ったシンタローは、捻じ曲がった自分の臍を宥めるのに必死だった。

怒っているのは入学式当日のことであり、今日のことは腹を立てることではないという自覚は十分あるので、感情の軌道修正を図らなければならないのだ。

新入生と、式に出席した生徒会役員、教職員が居並ぶ晴れやかな舞台でかかされた恥は如何に世話になっている身とはいえ堪えがたいものであり、その点についてはまだまだ反省させたいところなのだ。だから口を利かないのはあの日のことが原因であり、それ以外には特に理由らしきものはない。

けれど疼く胸の中にある奇妙な感覚は明らかに今日の出来事に対して沸き起こったもので、その正体が自分でもよく分からないことがもどかしいのだ。

制服を脱ぎ、教えられた通りきちんとブラシを掛けてからベッドに座る。

アラシヤマの父親は、呉服界…というものがあるのかどうか知らないが、とにかく京都ではその名を知らぬもののない重鎮であり政治家にすら顔の利く大人物であるらしい。その実とんでもない親バカで、マジックと同等に渡り合える息子バカであることも分かったが、自分たちとははっきり違う点があることに気付かされた。

彼らは実の親子なのだ。

血の繋がりのある本物の父と息子であり、自分たちのような“作り上げようとしている”関係ではない。

だからなのか、アラシヤマは父親の言うこと、することをすべて無条件に、無意識に受け入れなんのてらいも抵抗もなかった。すべてにおいて自然だった。いっそ憎まれ口に近いような言葉であっても、彼が父に与えるそれは一欠けらの他意もなく、また父親もそれを正しく真っ直ぐに受け止めていた。

それに引き換え、自分たちはどうだろう。

冷戦中なのは確かだとして、話す言葉はギクシャクとぎこちなく、どこか噛み合わないことが幾度もあった。普段気にも留めなかったけれど、“完璧な親子”を前にすればその不自然さは嫌でも感じられそれを自覚することがどうにも我慢ならなかった。

マジックは優しい。

シンタローの拙い話でもきちんと耳を傾け、からかいながらも尊重してくれる。対等に扱ってくれる。

それは互いを認め合う行為であり、複雑な環境に育ったシンタローからすればとても有り難いことだったが、ふと、その根本にあるのは遠慮なのではないかと思い至ってしまった。

突如沸き起こったその考えは、あっという間に広まりいまやシンタローの思考を埋め尽くしている。

シンタローにとってマジックは唯一絶対の理解者だ。喧嘩はしていてもそれは変わらない。

けれど彼にとっての自分はどうだろう?

子供で、頼りなく、なにをおいても守るべき存在。その責任の所在を自ら求め、保護者という立場で自分を支配している。支配、といえば聞こえは悪いが、大人が子供に与える義務と責任を言い換えればそれこそ当然の関係だと思う。

シンタローが独り立ちするには時間が掛かる。

だからマジックには自分を庇護下に置く当然の権利がある。

対等に見てくれるのは、だからマジックの誠実さの現れであるだろうし、彼が日本人ではないということも関係しているのかもしれない。

負けず嫌いで一方的に世話になることをよしとしないシンタローを慮った上での態度なのだろうということも薄々ながら分かっている。

けれど。

それでも。

やはり本物ではないと、本物にはなれないと、まるで彼から突きつけられたようで。被害妄想でしかないその思いを、けれどゼロには出来なくて、辛い。苦しい。

悲しい。

シンタローが理事長室に到着したときには既に打ち解け合っていた息子バカ二人は、始終機嫌よく語らっていた。その中に時折、マジックのことを褒め称える言葉もあったがなにを差してそう言ったのかは理解できない。

アラシヤマの父は立派で、地位も名誉もある。マジックのように得体の知れない、日陰の仕事をしている人間とは違うのだ。それを知った上であのようなことを言うなら嫌味の限度を越えているし、知らずにいるなら気恥ずかしく、情けない気持ちになってくる。

複雑な感情に苛々している自分に気付きもせず、ヘラヘラと笑っているマジックが信じられなかった。結局第三者の前ではいい顔しかしていないのか、実などないのかとはらわたが煮える思いがこみ上げる。

誰に対して湧き上がる怒りか分からないけれど、とにかく腹が立って悲しくてやりきれないのだ。

どうしようもなく寂しくなる。

 

これではいけない、冷静になろうと深呼吸をしてみる。

自分の思考にはまりなにを考えているのかすら分からなくなりそうで、もう一度、きちんと順序だてて解釈すべきだと自分自身に言い聞かせた。

そして、指折り数える。

 「入学式のことでむかついてるのが、大前提。俺はこれで腹を立ててる。うん、間違いない」

次は、自分の知らないうちに呼び出しを受けていたこと。

登校時の車中ではなにも言わなかったのに、実は前日の午前中には理事長から連絡を受けていたという。アラシヤマの父親が急遽上京することとなり、その際、愛息の友人とその両親にぜひ会っておきたいという申し出があったからだと聞かされた。

お前は何様だ、と言ってやりたかったがそれは抑えた。確かに、名門に生まれたお坊ちゃまのご学友ともなれば氏素性は把握しておくに越したことはないだろう。事実、シンタローの生まれはごくありふれた家庭であったし、育った環境はかなり粗悪なものだった。

なんだか馬鹿にされたような話であり、シンタローとしては尊大な態度に腹が立つ。マジックにしても、自分の息子の調査をされるような扱いに憤るべきではないかと思うのだが、その辺は彼も自分の素性を卑しいと思っているのか気にした風は一切なく、それにはムカムカと胸の奥が疼くことを止められない。

シンタローはいつ、誰に過去を知られたところで構わなかった。いまの暮らしを妬まれたり、嘲笑われても構わなかった。隠し通そうとするより潔く曝したかった。曇りはないから。

その思いをマジックに裏切られた。そう感じて腹が立った。悲しかった。

自分のことを本当は持て余しているのかと、そんな風に思えて辛かった。

 「そうか、じゃあ結局、今日のことでも腹が立つんだ」

それから感情の両極端さに思い至る。

苛々して、むかついて、けれど寂しくて悲しい。

一目見て血縁であるとは思えない自分を息子を紹介するのはありがたい。けれどそれも度を越せば嫌味になる。常々話しても構わないと言ってきたシンタローにとって頑なに“我が子”と通されるのはまるで養子であることを恥じているかのような気にさせられ情けない気持ちになるのだ。

聞かれもしないのに話すことはないと思う。けれどそれではもやもやとした不快感が残るのだ。シンタローの我が侭でしかないのだろうが、その思いに冷たく胸を刺された。

合流する前に話していた可能性を考える。

なさぬ仲ではあることを、彼らが承知していたなら敢えて話題に出さないのも当然だろう。シンタローを前に『きみは実子じゃないのか』と話題を振るなどありえない。

だから、やはりこの苛々や寂しさは被害妄想の部類に入る。取り越し苦労だし、早合点だ。

曲がっていた臍が定位置に戻りつつある状態で、もう一度考える。

マジックは悪くない。

彼は自分を愛してくれる。悪いことなどひとつも言わず、自慢の息子だと胸を張って答えていた。相手からどう思われようが一切お構いなしに、いままで通りシンタローの方が恐縮しいたたまれなくなる賞賛と大きすぎる愛情を声高に言い切った。

だから、彼らが承知していようがいまいが、マジックにとってはなんら意味のないことなのだ。自分は愛されている。守られている。疑う余地はまるでない。シンタローが悲しむことなど、なにもない。

なにもない。

なにもない。

胸の中で反芻する。

マジックは絶対の愛情で接してくれる。それは嘘ではない。嘘などではない。

体裁ではない。

悲しむ必要はない。

あの、笑顔。

抱き締めてくれる力と温もり。

疑うことは裏切りだ。いくら腹を立てていたとはいえ、根本にあるものを疑うのは行きすきだろう。だってマジックは言ったではないか。大切だと。愛していると。

二人でいようと。

幸せになろうと。

そこまで考えて、今度はじわじわと押し寄せる自己嫌悪に囚われた。

 「結局…信じてないのは、俺か…」

実だとか義理だとか、生まれがどうだ環境がどうしたと気にしていたのはシンタローだけのことで、アラシヤマも、彼の父も、そんなことは微塵も考えてはいなかった。いや、思い至ることもないのだろう。

我が身を恥じたのはシンタロー自信であり、マジックにしても、たとえどんな仕事であろうがそれで生活を成り立たせているのなら卑下することはあるまい。得意げに話して聞かせることではないが、その恩恵を受け暮らしているシンタローが恥ずかしさを覚えるのは思い上がりもいいところだ。

公立の数倍もする学費を掛けてもらい、使いはしないが法外な小遣いを与えられ、有り余る物資の揃った環境に甘えるうち驕り高ぶった気持ちに浸りきっていたのだろうか。自覚はないが、そんな愚か者に成り下がってしまったのか。

がっくりと肩を落とし、更に自己分析を進めてみる。

 

考えるまでもなく高校に通えるのはマジックのお陰だ。

赤の他人の自分を育ててくれる、彼の大きな愛情があるから生きている。

自分のどこにそれほどの魅力があるのかサッパリ分かりはしないものの、マジックがいいと言うのだから彼にとって必要な存在となり得ているのだろう。それは最早疑う余地もない。

そのマジックが。

シンタローの入学を喜んで、あんなにバカみたいに感激して、その瞬間を残したいと願ってくれた。熱望してくれた。

行き過ぎだ、とはいまも思う。けれどそれを怒る権利が、果たして自分にあるのだろうか。

恥ずかしいのはシンタローの勝手だし、随分奢った考え方なのかもしれない。

いまの暮らしのすべてはマジックがいて初めて成り立つものだ。自分という存在は、頭の先から爪先まで、すべてが彼のものであるといっても過言ではない。意志はあっても逆らうことは出来ない。すべきでない、と言った方がいいだろうか。マジックとて操り人形を欲した訳ではないだろうから、その言い方は彼を傷付けるだろう。

この数時間で起きたことと、思ったことを理路整然と並べてみて、シンタローは漸く結論に辿り着いた。

つまり。

 「俺の…………我が侭、ってこと、…だよな」

その一言で片付けるのはなかなか承知し難いが、それでもマジックに非はないように思われる。思う、ではなくそうなのだろう。彼はなにもしなかった。言わなかった。

言わないことに対する疑念は残るものの、それでもこれまで過ごした時間を疑うことが出来ない以上、あとは彼に確かめて、真実を知るまで自分勝手に判断することは誤りであると思われる。

理屈より、動くことを優先させる自分が随分長いこと思案に暮れたがその結果には満足できた。自己弁護をしようと思ったわけではなく、ちゃんと、自分自身を分析できたことが嬉しかった。

そうか、と思い至ってしまえば納得できた。

要するに会話が必要なのだ。問いかけて、答えをもらう。気になることは聞けばいいし、聞いてもらえば答えられる。胸の中に抱えていても解決は出来ないし、不必要な疑念ばかり飼いならしたところでなんの特にもならないのだ。

帰宅したときとはまったく違う感情に自分でも呆れるがとにかくすっきりした。

人間は考える葦である、という言葉があるがまさにこれだと思った。意味はよく分からないけれど、恐らくこんなことなのだろうと決めてみる。

 「や、ちゃんと調べなきゃダメか」

辞書、辞書、と呟きながら立ち上がろうとしたところで、微かな物音に気が付く。

 

ドアを、叩く音だとすぐに分かった。

そして、それが誰の手によるものなのかということも。

 

 

 

 

 

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