ノックの音に若干たじろぎながら、返事をするかしないかを迷ったのはほんの一瞬だった。 二人暮らしの家の中でこの時間に訪ねて来るなどマジック以外考えられないし、口を利かなくなっても就寝時には必ず“おやすみ”の挨拶をしに来ていた。 寝るにはまだ早いが、今夜はシンタローの機嫌が更に悪くなったと踏んでなにかデザートでも作ったのかもしれない。これまで食べたことのない、手の込んだ甘い菓子類を喜ぶ自分に対し籠絡を迫るときの常套手段となりつつあるそれも、外食から帰宅したあとでは効果が半減するということまでは考えが至らないのか。 だとしたら気の毒なことだ。 そういうところが、マジックに対して感じるイライラの原因でもあるのかもしれない。 微妙にずれている感覚は、これから先、埋まることなどあるのだろうか。 不安になって、でもだからこそいま、歩み寄らなければならないと思い返す。立ち上がりドアの前まで進むその僅かな時間で、シンタローは腹をくくった。 一緒にいたい。 その気持ちに変わりはない。 深呼吸をして、それから扉を、ゆっくりと開け放った。 「えーと、今日は急に外出の予定が入っちゃって、シンちゃんも疲れただろうなーと…」 だから、甘いもの、作ってみたんだけど。 大きな体を縮めつつ上目遣いに言うその手には花柄のトレーがあり、その上には大きめのカップに注がれた乳白色の液体が揺れている。 ミルクセーキだろう。柔らかな湯気とともにバニラの香りが漂ってくる。 「いらない?もうおなかいっぱいだよね?はは、つい作っちゃったけどこの時間にこんな甘いの飲んだら眠れなくなっちゃうかな、あ、それコーヒーか、でもシンちゃんコーヒー好きだもんね、淹れ直そうか、それとも、」 「ありがとう」 放っておけば限りなく言い訳を続けそうなマジックの手からトレーごと受け取り歩き出す。ドアは開けたまま、部屋のほぼ中央に置かれたローテーブルにそれを載せ回り込んで奥側の床に腰を下ろす。情けなさそうな顔のままこちらを見ているマジックは、無言でカップを取り上げたシンタローを確認するとオドオドした態度のままそれでも部屋に入ってきた。 傾けたカップから少しずつ、甘いそれを飲み込む。 無数に浮いているバニラの粒に、手の掛かったものであることを知らされ体も、心も温かくなる。 ご機嫌取りだとしても、それでも。 嫌われたくないと思っている、マジックの心が伝わり喉の下をくすぐられるような感覚に自然と口元が綻んだ。本当に、このひとは。 この愛らしい人は。 「…甘い」 「えっ、甘すぎた?ごめんね」 「いちいち謝るな。っていうかビクビクすんな」 「だって、ほら、シンちゃんまだ…怒ってるし…」 「怒ってるよ」 やっぱり。 呟きは聞こえなかったけれど、下がった眉と肩が物語っている。もしマジックに耳と尻尾が付いていたなら、それは情けなく垂れ下がり『がっくりしてます』と全身で訴えかけてきたことだろう。 想像すると、かなりおかしい。 「入学式で恥かかされて怒らない方がおかしい。未だに近付いてこないやつが山ほどいるんだからな。近付くかと思えば妙なやつしかいないし」 「ごめんね。つい、ほんと、つい忘れちゃって、嬉しくて」 もじもじと指先をあわせ言い募る。子供のような仕草も微笑ましい。 自分の方が子供なのに、マジックの素直さというか、一途さにはなにを言ったところで敵わないと思う。 このひとのことが好きだと、改めて思い知る。 「うるさく付きまとわれるのは嫌だけど、これから三年間毎日ずっと変な目で見られるのは俺なんだからな。そういうのが嫌だって、前に話したのを忘れたとは言わせないぞ」 「うん、覚えてる。ちゃんと分かってるんだよ。でもあの時は、その…」 「今日だって理事長に呼び出されたんだぞ。明らかに不審者扱いじゃねぇか」 「あれはね、なんでもアラシヤマくんのお父さんが特に希望したからだって言ってたよ。でも溺愛しすぎだよね、どんな子供なのか、その家族まで見ておきたいなんてさ」 「…あんたの口から“溺愛しすぎ”とか聞くと結構本気でぞっとする」 無自覚ほど恐ろしいものはない。 あんた、という呼び方に不服を唱えたいのだろう、少し唇が尖ったものの言えばせっかくの会話が途絶えるとでも思っているのか黙っている。 大の大人が自分の態度に一喜一憂、右往左往する様はかなり笑えるが、それを実行に移すほど驕っている訳ではない。 ミルクセーキを、また一口飲み込む。 「なんか、言われた?」 「なにかって?」 「だから、…なんか、さ。馬鹿にされるようなこととか、そういうの」 「え、シンちゃんが?」 「違う。俺のことはどうでもいいんだ。俺じゃなくて、」 じっと見詰める。 「私が?理事長に?」 不思議そうな顔で見詰め返され、言葉に出来ないもどかしさを感じる。けれど口に出して言えるほど表立った話ではないし、やはり、承知しているシンタローですら言いにくいことだ。 職業に貴賎はないというし、それで暮らしている身となれば文句の付けようもない。それでもこういうときには嫌というほど思い知らされることをしているのだ、彼は。しようとしていたのだ、自分は。 「なにが言いたいのか…分からないんだけど」 降参、と言いつつ両手を少し、挙げてみせる。 少し迷って、けれど確認しなければならないことだと覚悟を決めシンタローは口を開いた。 「向こうは人間国宝だぞ。わざわざ親まで呼び出して素性を知ろうとするってのは気に食わないけど、そんならしょうがねえかと思っちゃうようなやつだ」 「そうだね。でもパパはシンちゃんのお友達とその父親に会えてよかったと思ってるよ。私としても親しく付き合うお友達がいるなら紹介してほしかったからね」 「寂しそうに言うな、親友だと思ってるのあっちだけなんだから」 「え、あんなに仲良さそうだったのに?」 「…どこを見たらそう思えるんだ」 内心、というか全面的にすごくイヤ。 顔を顰めると面白そうに笑う。この部屋に来て、いや、入学式以来十日ぶりに見るマジックの笑顔になんだか少し、ほっとする。 「嫌なこと…言われなかったか?その、仕事の、こととか」 「仕事?…………………あー…」 首を傾け、心当たりを探っていたらしいマジックの目が漸く答えに行き当たったのか軽く細められた。小さく、二度ほど頷いている。 「ああ、それね。はいはい」 「言われたのか」 「言われないよ。いや、言われたか」 「言われたんじゃねぇかっ」 「言われてないって。言われたけど」 「言われたんだろ!」 「言われてない。けど言われた」 「だから言われたんだろーが!」 「だから言われてないって。言われたけど」 「遊んでるんじゃねえんだぞ!言われたんだろ!」 「遊んでなんかないし言われてない。言われはしたけど」 「あ――――っ!!」 どんっとカップをテーブルに戻し立ち上がる。マジックを見下ろす数少ない機会は、大抵このように言い合いをしているときに訪れるありがたくないポジションだ。 「だあーからっ!言われたんだなっ!」 「これこれ、ちょっと落ち着きなさい、説明するから」 上半身を乗り出し腕を伸ばされると、小さなローテーブルくらい簡単に越え腕を掴むことが出来る。体格の違いは僅かにコンプレックスを感じるが、大人と子供のことだから仕方がないと諦める。 無抵抗で捕まえられる。 「もしかして、今日のご機嫌斜めはそのせいだったのかな」 言いながら腕の中に抱き込んで、いつものように膝の上に座らせる。いい加減慣れたものだが、それでも素直に従うのは悔しくて睨み付ける目だけは緩めない。 「シンちゃんは優しいね」 「なにがっ」 「私のしてる仕事について、陰口を叩かれたり、蔑まれたりするのが嫌なんでしょう?」 「そんなの、あ、当たり前だろ」 恩義ある人を中傷されれば誰でも腹が立つ。それにこれまではマジック自身の生き方だったそれも、今では“シンタローのため”という言葉が付き纏うのだ。生きるためには仕事というものを失う訳にはいかない。 「俺、贅沢がしたいんじゃない。こんな広いところに住まなくてもいい。旨いものを食いたいなら自分で作った方が口に合うし、学校だってどこでもいい。だからあんたが嫌なら、本当は嫌だと思ってるならあんなことしないでいいし、俺は、」 「俺、は?」 言葉を途切れさせたシンタローを視線で促す。 「俺は、出来れば…俺の勝手だけど、出来ればあんな、ああいう仕事は、あんなのは、」 じっと見詰める蒼い瞳。 少し笑って、シンタローを見ている。 「本当は…………辞めて、欲しい」 ずっと言いたかった。 辞めて欲しい。同じ道に進もうとした自分を止めてくれたその事実がなによりの証で、彼自身あの仕事を“よいこと”だとは思っていないはずなのだ。それを続けているのはそれなりの理由があってのことだろうが、もし、その中にたとえ僅かでもシンタローの身の保障が含まれているのなら堪えられない。申し訳が立たない。 それに。 「他人になにを言われようと構わない。そんなことならなんとも思わない。だけどからかわれたり、嫌味を言われたり、そういうのは嫌だ。我慢できない」 「誹謗でなければいいの?」 「それ、だけじゃ…」 「なに?聞かせて。どうして嫌なの?」 「だって、…だって、さ」 初めの勢いは弱まり、見詰めていた視線も逸らしてしまう。この瞳はなにもかも見透かしてしまうのだ。隠したいことをすべて見通してしまう。不思議な蒼。 マジックの蒼。 綺麗で、少し悲しくて、怖い。 「だって…」 「言って」 蒼すぎて。 「言って」 灼かれる。 |
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