神の場
寺西 英夫
去る9月5日に、わたしは母の最期を見送った。
98年間に及ぶ地上での母の旅を、わたしはすべて知っているわけではない。しかし幸いにも、その最後の日々、わたしは毎日数時間、母の傍に付き添い、しっかりと見つめることができた。
病者の塗油の秘跡を受けたあとで「ああ、これで安心した。あとは神さまにおまかせ。年令に不足はないから、もう余計な手当てはやめてちょうだい」と、点滴を指差して母は言った。そこで主治医と相談の上、栄養の点滴を止め、生理食塩水と安定剤だけにすることにした。一週間ぐらいという予想を超えて、今日か明日かという重苦しい日々が18日間も続いた。誰よりも母自身が、時々戻ってくる意識の中で「どうして、まだ続くの」と思ったに違いない。そのような表情を見せ、溜め息をつくことが度々あった。
こういう時、人はほんとうに無力である。本人は、ただ苦しみを苦しむしかなく、まわりはそれを見守っているしかない。
「主よ、これはいつまで続くのですか。この重い時間は何の意味ですか」祈りというよりは、自問自答のような思いが、わたしの心に澱んでいた。そんな日々、わたしは突然、ヨハネ福音書16章21節の言葉を思い出した。
「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれた喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」
これは、イエスが最後の晩さんの席上、遺言のように弟子たちに語った言葉の一節である。イエスは、死を前にした自分の苦しみと、それに巻き込まれる弟子たちの悲しみを、陣痛にたとえている。
何であれ、すべて良いことが実現するためには「産みの苦しみ」が伴うものだ。学問にせよ、芸術にせよ、仕事にせよ、スポーツにせよ、良いことが成就するために、人は苦しまざるを得ない。
イエスの受難と十字架死の苦しみは、全世界の救いという、もっとも良いことの成就のための神の陣痛なのだ。その陣痛に、今ここで、母とわたしたち家族は参加しているということではないか。
この夏の終わりの、貴重な体験であった。
人は死を前にして、全く無力になる。人が完全に無力になるとき、そこに神の業が現われる。
無力といえば、生まれたばかりの赤ん坊も無力である。放っておかれれば死んでしまう。この赤ん坊のいのちの中に、神が隠れている。だから、あの澄みきった幼な子の瞳の奥に、美しい笑顔の中に、人は神聖なるものを感じるのではないか。
クリスマスは、ベトレヘムで生まれたあのイエスにおいて、神が人間のひとりとなったという信仰を祝う日である。
ほかならぬ神の独り子 − 神と等しい方が無力な赤ん坊として、人の世に生まれ出たという、驚くべき信仰を祝う日である。
神と無力とは、逆説のように見える。しかし、神の全能の力と無限の愛は、イエスの全く無力な赤ん坊としての姿と、十字架の上という決定的に無力な姿において、極限まで現わされたのである。
人生は神の働く場なのである。人となられた神の子イエスの生涯が示しているように、わたしたちがほんとうに自分を明け渡し、無心となったとき、そこに神の豊かさが溢れ出る。
このクリスマス、幼な子イエスの前で、一人ひとり自分自身を差し出そう。
どうか、わたしたちの中で、神様がその愛を現わしてくださいますように。
混迷を極めるこの世界の中で、人々が自分の狭い了見を捨てて、共生による平和が実現されますように。

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