わたしのクリスマス
老宣教師のおもかげを見つめて
西澤 滋
巷にクリスマスのメロディーが流れ、ツリーがまたたきを始める頃になると、異国の地で76年の生涯を一人静かにその幕をおろされたウィーン生まれの老宣教師の姿が浮かんで参ります。断片的ではありますが、この方の晩年のことをお書きすることをお許し下さい。
晩年の司祭の心に浮かぶこと
教授として学生に教え、高校の校長として多数の職員や生徒の面倒をみ、神学院の院長として重責を果されたことなどは、「つわものものどもが夢の跡」と消え去り、心臓病でベッドの人となられた神父様の心を占めていた一つのことは故郷への思いでした。
ご両親を亡くされておりましたので、姪御さんが神父様をその故郷とつないでおられました。姪御さんからのお便りが神父様をお喜ばせしていました。神父様はお便りを書くのを楽しみにしておられましたが、ペンをとるのが億劫になられた時、フォーレイのレクィエムをテープにとって送られましたが、フォーレイの「レイ」にアクセントをおいて発音されたことを悔やんでおられました。ぼけてしまったことを気づかれたのでした。戦争中、軽井沢教会の主任を務めておられた神父様はその森がウィーンの森に似ていると言って親しみを持っておられました。病床の身でありながら軽井沢で夏を過ごしたいと言って長崎から軽井沢まで旅行をなさったことは、その故郷への思いが伝わってくる出来事です。
また、神父様の心にあったもう一つのことはご自分が洗礼をさずけられた方々のことでした。その方々の中に桑島すみれさんとおっしゃるハープ奏者の方がおられ、その方が送られた演奏テープを大事にしておられたのが心に残っております。
静かなる奉献
体力がおとろえ、病院に移られた神父様は横になっておられる時間が多くなりました。穏やかで平安そのもののご様子でした。
ある日、お見舞いを済ませて病室から出てきた私にお医者様がこうおっしゃいました。「神父様のご病気はたいへんな痛みを伴う病気なのに、外にあらわさず、じっとこらえて、いつもにこやかに応対して下さる。」と。神父様はベッドの上でカルワリオの主の奉げにご自分をあわせて奉献されておられたのでした。宣教師が奉げ得る最後の奉げ、それはベッドの上でしずかにご自分をいけにえとして奉げるということでした。
クリスマスの飾り
待降節が訪れました。神父様は私になぜかこんな疑問をあかされました。「御聖体のイエス様は私においでになる時、同時にどうして他の人のところにも同じように全体としておいでになれるか、わからない。」
神父様の病室にもクリスマスツリーが飾られたイヴの晩、私に神父様はうれしそうに「疑問が解けた。」と言って話して下さいました。「ツリーに飾られたガラス玉の一つ一つが同じように部屋の天井の一つの電灯を映している。一つの電灯が全ての玉に完全な姿のまま映っている。超自然の世界でも同じようにイエス様は一人一人に完全なままおいで下さる。」と。神父様はこの時イエスさまの臨在の実感というお恵みに満たされておられたのだということに気づいたのは三十年も経ってからのことでした。
小さな奇跡
一月の寒い朝、ベッドから起き上がろうとされた姿のまま神父様は天国の人となられました。御聖体を拝領されて30分後のことでした。朝食を運んだ看護婦さんがそのお姿を見つけたとのことでした。
神父様は大きな方でしたので棺は特注されました。夜の8時までかかって立派な棺が作られました。時間が長引いたので「神父様を無事に納棺できるか」と一番心配していたのが主治医の秋月院長でした。夜の9時、納棺を済まされた院長先生が顔を紅潮させながら私にそっとおっしゃいました。「神父様には死後の硬直がない。生きているのと同じようにアルバの袖に手をお通しすることができた。」と。
人の死を幾度となく見てきた私にとって、神父様のそれは主からの大きなお恵みであり、小さな奇跡に思われました。
私のクリスマス
神父様が語られたこと、諭された説教、それらは全部私の頭の中から消え去りました。しかし、消えないものが一つあります。それはやさしい眼差しと笑顔という面影です。その眼差しの奥にイエス様が住んでいらっしゃると言ったら間違いでしょうか。老宣教師の面影の奥にイエス様を側近くに感ずること、それが私にとってのクリスマスです。

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