君のために 出来ること 〜明日の話をしましょうか F
 



   
第二章  TOKIO-CITY中央警察署の日常



 のっけから何だが「刑事事件」とは、警報の適用により処断されるべき事件のことである。私法(民放や商法など、私益若しくは対等な市民の生活関係についてを規定した法)上の法律関係に於いて派生する現象やこれに関する事項…不当な損害云々という利害関係上の問題を問う“民事”に対する“刑事”。犯罪を理由として処罰を科するのが刑事処分。早い話が「刑法」の適用される事件という意味だが、どうしても「地味な背広姿で二人一組になって訊き込みに回る“刑事”さんがうろちょろする事件」という印象が強いのは、一頃ひところ週に何本もTV放映されていた「刑事ドラマ」の影響でもあろう。ちなみに、捜査課の警官を表現するのに使われているこの“刑事”という言い回しは、刑事巡査の略称である。
 先に述べたように、ドラマや小説なぞの題材として扱われて来たり、もしくは…ワイドショーなぞで実際に話題になっている事件経緯を解説し、それに沿って犯人の拘留や起訴手続きなどの解説を扱うことが増えた昨今、所謂“刑事事件”をどうやって「解決」という事態収拾にもっていくかなぞという段取りの解説は今更な話かも知れないが、あえて簡単に説明するならば、

  @刑法に抵触すると見られる事件が発生したことを確認し、
  A警察署の捜査課に所属する刑事たちが調査と捜査を重ね、
  B犯人と目される容疑者を絞り出し、
   場合によっては署まで召喚して事実を問いただす。
   必要に応じて“拘留”という処置が下される場合もある。
      *この「捜査」と「拘留」には、検察官の請求による裁判所からの「令状」が必要で、
     任意で…というのは令状のない召喚。
     現行犯逮捕である場合や、第三者に危害が及びそうだと想定される場合、
     もしくは警察官による職務執行法に基づいた判断をしいた場合を除いて、
     この手順は必ず履行されねばならないものとされている。
        (警察手帳さえ見せれば何をやっても良いと勘違いしないように。)
     *よって、この“任意の召喚”や事情聴取は断ることも可。
    ただし、そうなると正式な令状を請求されてしまい、
    たとえ問題がない単なる事情聴取に終わっても
    “そういう処置が取られた人間である”との記載が公式な文書に残ってしまうので、
    考えものではある。
おいおい
  C拘留中に容疑者が犯行を自供すると、それは口述調書として記録され、
  D集められた証拠物件や証言、調書などから事実関係を考察し、
  E検察官がそれらをもとに起訴(公訴)に踏み切って公判に至る。

 この公判の判決で罪状と科料が決まる訳で、公判過程で情状酌量されるような新事実が飛び出したり、証拠や証言がが引っ繰り返るようなこともある。よって、たとえ自首して出ようが現行犯だろうが、判決が降りるまでの容疑者はあくまでも“被疑者”止まり。ケースによっては妙な言い方になるかも知れないが、この時点ではまだ“犯罪者”ではないという解釈になる。だのに、例えば事情聴取を求められて警察へ呼ばれただけの段階で後ろ指を差される例も少なくはない。よほど怪しくなければそこまでの処遇は受けないという解釈もあろうが、その昔、警察が“官憲”と呼ばれていた頃の「お上かみ」体制や、密室性の高い“特別性のお役所”という先入観が拭えぬせいもあろうし、こういう面での正確な知識が行き届かず、加えて“間違えちゃったの、ごめんなさいね@”というアフターケアが疎おろそかな点が中途半端な誤解を生じさせるのではなかろうか。しっかりしろ、日本警察。(不祥事やらかしては隠すのに奔走してる場合じゃないぞ)
まったくもうっ
また、逆に…というか、それとは別に「疑わしきは罰せず」を巧妙に利用した犯罪者テクニシャンたちが後を絶たないのも由々しき現状。(灰色はあくまで灰色であり、「黒」でない以上処断することは出来ない…というアレである。)この二つの問題は、人が人を断罪するという行為の根本的なところにその発祥を根差している代物でもあり、一朝一夕というような早急さで解決されるものではなかろうと思われる。

 さてとて。亨の困った時の命綱である『広辞苑』で「警察」という項をひくと、
〈社会公共の安全・秩序に対する障害を除去するため、
 国家権力をもって国民に命令し、強制する作用、又はその行政機関〉
とある。これは客観的に言葉の意味を説いたものであり、少々乱暴な言い回しも見られて…一体誰がこんな説明文にしたんやとギョッともしたが、これが「警察法」になると、
〈個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、
 民主的理念を基調とする〉
となっている。ここで言う“個人の権利と自由”とは「個人の生命、身体及び財産」のことであり、財産とは“物資”のみならず、人権やプライベートという“尊厳”をも含むと考えていい。何たって『日本国憲法』の基本ですからね。それらを保護しつつ“公共の安全と秩序を維持する”ために「犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取り締まり、その他」をその責務としているのが「警察」だそうである。

 四角い言葉が一杯で眸がチカチカして来た方も少なくないにちまいない。ここまでの講釈は単なるオプションですので、ザッと“流し読み”するだけで済ませていただいて構いません。(と、最後に書いては意味がないかも…。)





          ◇



「良いか? 俺たちは一介の地方公務員にすぎないんだぞ?」
 おやおや?
「俺たちが優先せにゃならんのは、一にも二にも市民の安全かつ快適な生活だ。」
 いきなりお説教ですか?
「犯罪や犯罪者を断罪し、処罰するのは検察庁と裁判所で、検事や判事の仕事だ。俺たちは正確な資料をかき集めて来るまでで、そこから先は資格もなけりゃあ領分でもないんだよ。」
 検事というのは正確には“検察官”の一種、判事というのは“裁判官”の一種であり、どちらも旧制度に於いては一括してそう呼んでいたという。つまり、
「課長、そのくらいで…。」
 そうか、課長さんから叱られとったという訳やね。
「そろそろ会議が始まりますし…。」
 捜査課全体の課長会議があるらしく、それへの遅刻というのも不味かろうともっていこうと、横合いからコソコソッとお伺いを立てているのは、反町刑事で…あれ? ってコトは此処って捜査二課なワケ?
「…そうか。」
 まだ何か言い足りないという未消化な声を喉の奥に燻らせつつも、デスクの上にサササッと…これもまた反町の手で揃えられた資料を手に席を立ち、ドアへと向かった。それを無言の直立姿勢のままで見送っていた課員たちであったが、
「お前ら二人っ。」
 ドアの手前でいきなり振り向くところなんか、ドラマや小説の定石通りですのな@
「始末書、明日までに提出だ。判ったなっ。」
 ビシッと決まったところで、警部補歴十二年の課長殿が退場し、
「あったく懲りないんだからなぁ。」
 青息吐息という風情で反町が呆れた。これは勿論、お説教を受けていた同僚たちへのお言葉だ。不手際から叱られるのは当人たちの“不徳の致すところ”であり、それが周囲にもマイナス効果を波及させるような失態であるなら尚のこと、反省を促す意味からいえば放っておくに限る。何よりも“他人事”なのだ。余計なちょっかいを出すことでこっちにお鉢が回って来ないとも限らず、触らぬ神に祟りなしを遂行したって誰からも非難は受けまい。だというのに…先程のようについついフォローしちゃう反町のお節介は、もはや性分を越えた義務感すら招くほどだとか。理由はひとつ。彼らが好きだから。…ちょっとそこの人。おおおっとか言って“邪
よこしまモード”の想像をせんようにな。えらそう 彼らの気持ちも、だからこその“やり過ぎ”も判らんではないからだ。いつも懸命でいつも本気で、ただちょっと…立ち止まって考える間もなく、しかもその上、並外れたパワーで当たるため、ついつい勢い余ってしまうのがどこか痛快で憎めない。自分には出来ないことをやってのけてしまえる彼らが羨うらやましいやら微笑ましいやら。それでついつい庇い立てとか、自分に出来ることであるなら…と手助けしてみたくなってしまう。そんな同僚の友情あふれる心境を知ってか知らずか、
「けどよ、説教する相手を間違えてるってもんだぜ。」
 不満の塊り“ぷんぷくぷー
(怒)”と怒って見せるのは、叱られていた片割れの松山光。まあ…確かに、公序良俗に基づく理屈がどんだけ正しいかを説教するのは、犯人に対してやることってのが道理だからねぇ、本来なら。その横で、
「実際のあれやこれやが収拾ついてからでなきゃ、いちいちこじつける暇なんて出来ないのが“現場”ってもんだろが。」
 日向小次郎刑事もまた少々不貞腐れていらっさるご様子ですが…こじつけるってのは何?
「人を傷つけちゃならねぇってのは、一番最初に守らなきゃならん基本じゃねぇかよ。」
 とある資産家に仕える女性を詐欺まがいの手口で取り込んで弱みを握り、手先に仕立てて押し込んだ強盗。単なる空き巣の何倍も腹に据えかねる手口に、この二人の闘志がいつになく燃えたのは課員全員の知るところだったが、今度はまた一体何をしでかしたのやら。だがまあ日向さんの言い分は判る。人間というのは、その判断に“モラル”という定規をわざわざ必要とする場合のある生き物だ。それは何故かというと、社会というものをより複雑なものへ進化させたが故の代償なのだから、これはなかなか奥が深い。物理にかなった本能を越えた“感情”を持つからこそヒトである筈だのに、機械的なまでに整然とした“理性”を求められる社会を構築してしまったその歪みは、時として“同族”である人間へ容赦のない牙をむく。そこいらへの憤懣をそれは素直に吐露した彼らへ、
「巧妙な手口を使う奴らが気に喰わんのは、何もお前らに限ったことじゃないさ。」
 自分のデスクへ戻りつつ、若林警部補が苦笑して見せた。治安が良い国ではありながらも犯罪発生率の高いここTOKIO-CITY中央警察署で、容疑者検挙と事態収拾にかけるスピードと効率bPを誇る選り抜きの敏腕警部補であり、上司からの受けは勿論のこと、婦警たちや女性係官たちからの人気も実は抜群という、そんな若林からのこのお言葉は、彼らの気持ちは判るという方向の心強い後押しには違いない。
「ただな。俺たちは警察官なんだから、
 何事に於いても感情に振り回されず、公正な目で判断しろと言ってるんだよ。」
「俺たちが組織の一部だからか?」
 それとも、特別な権限を行使出来る立場だからだろうか? と訊く松山へ、
「いいや。悪党どもと同じ“ド畜生”に成り下がらんためにだ。」
 言う言う…。でも、この人たちには一番判りやすい“理屈”かも知れんね。
“結局“犯罪”ってのは、ルールを踏み外した筋違いで我儘な馬鹿と、
 その馬鹿に“お前は馬鹿だ”とわざわざ言ってやる俺たちみたいなお人好しとの、
 サイテーな泥仕合にすぎんのかも知れんのだし。”
 いや、そこまで投げんでも。さすがにこれは口にしなかった若林さんだが、その代わり、
「だから…手段を選ばない行動はくれぐれもわきまえろと、課長は言いたかったんだ。いくら令状が下りた上での逮捕でも、被疑者の住居をぶっ壊してもいいって許可じゃないんだからなっ
(怒)
 おおおっ! それで若林さんのこめかみ近くにも反町くんの鼻の頭にも、他の課員の方々の手や額や…恐らくは見えない箇所にも、絆創膏だの湿布だのが痛々しくも貼られているんですね。それとは気づかせぬ穏やかそうな様子の陰で、彼もまた…要らぬ巻き添えを食った憤懣にむっかりしていらしたご様子。
「おかげで被疑者は全治二週間の怪我を負ったっていうのに、一緒に倒壊に巻き込まれたお前ら二人は、青アザひとつ擦り傷ひとつ作ってないんだからな。」
 到底お褒めの言葉には聞こえなくて、松山がついつい目を座らせた。
「怪我をしとった方が良かったように聞こえるんだがな。」
 体裁を考えるとその方が良かったのかも知れんて
(笑) とりあえず、彼らには毎度お馴染みな…進歩のない日常のひとコマをご披露した訳ですが、
「そういや…ICPOの係官が来てたよな。」
 話題転換を図ろうとしてか、反町がそんな話題を彼らに振った。他の刑事たちはお説教が終わって課長が退出して行った時点で“やれやれ”とそれぞれの担当事件へ出払っていったばかり。この場に残ったいたのがこの面子なればこそ、安心して口に出来る話題でもあってのことだ。
「わざわざ来るってのは、余程の極秘事件だって事だもんな。」
 この点へは『第五話』の初めの方にページを割いたと思うので、各自で参照していただくとありがたい。こらこら この、情報“超特急化”時代に於いての回線通信を使わない通達となると、書類そのものに価値のある証書の類か、授与に意味のある儀礼的なものか、若しくは…接する人間を極力減らし、殊更の注意を払って外に漏らさぬよう配慮した極秘文書に絞られる。現地警察という専門家に任せて済むことではない何かを抱えてきた係官というのも同じこと…と解釈したらしい反町で、いやにワクワクして見せる彼であるのは、そういう大事件と来れば“憑きもの”…じゃなくって。
おいおい “付き物”なICPOの知人がいる身なればこそ。事件の出来しゅったいを喜ぶというのは警察官にはあるまじき不謹慎さかも知れないが、好奇心の旺盛さでは人後に落ちない彼である上に、その知己たちというのがなかなか魅力的な連中でもあるからだ。
「若ちゃんたちも来てるのかな?」
「…まぁな。」
 こちらは…素直には喜べないらしい若林が、ともすれば渋面とも解釈出来そうな顔付きを見せつつそう応じた。
「もっとも、奴らが直接関わってる訳じゃあない。
 日本州に来てたのは偶然で、係官が抱えて来た用件はそもそもは無関係もいいとこな代物だったんだが…。」
 おやおや。若林さんにしては何かややこしい言い回しですねぇ。まあ、本来なら単純な窃盗関係の事件にはそうそう顔を出さない人たちですし、となると…こちらの部署の面子とは無関係な立場を保ち続けていた彼らに違いない。
“そもそもはそうなってた筈だったんだっ(怒)”
 あっはっはっはっ。非常識が“当然視”されとる切っ掛けだったのかもねぇ、あの『第一話』での接触って。
「ウチへ来てた係官が持って来たのは、とある協力要請。
 某国の要人で珍しい血液型の御仁が狙撃されてな。
 お国の血液銀行の備蓄血液だけでは足りんというので、その搬送が行われるんだそうだ。」
「へえ…。」
 それはまた…ウチのお話には珍しいくらい、リアルというか現実的と言うか、本当に有りそうな話というか。
“おいおい、亨さん。”
「けど、日本州へ来てたってのは何でだ?」
 96年三月にやっと厚生省が国の責任を認めた薬害エイズ問題に際しては、様々な検証報道番組も組まれ、当時そのレポートを観た亨は…日本の血液対策かいかにスカなものかへ、怒りや憤懣を通り越し、呆れさえしたものでございました。先進国の中で日本ほど血液の“自給自足”が追いついてない国はないのだそうです。大概の国が基本として徹底させているというのに、日本は何と全世界の血液の3分の1を買い占めているのだそうで、輸血に用いる血液さえぎりぎりの量しか保有していない。そんなために血液製剤はほぼ全てを輸入品に頼らざるを得ず、しかもそのチェックを怠ったがために、あのような凄惨な大事件を引き起こしてしまった訳です。輸入化粧品の成分チェックよりも大事なことだろうに…しっかりしろ厚生省。
………で。相も変わらず血液の備蓄が少なくて有名な日本州へ、なんでまた係官がやって来たのか。話の辻褄が合わんぞという顔をした松山へ、
「特別な血液型な上に、ご自分の立場も考慮されていてな。
 こういうことが万が一にも生じた場合のためにと、TSUKUBA-CITYのICPOの研究所で備蓄プールしてあったんだと。」
 ある立場の人々にとっては極秘事項だろうに、若林は淡々と説明を続けている。どうせ食い下がられるなら、こっちから全部吐き出した方が手っ取り早いとでも思ったんでしょうかね。それはそれとして…工学研究所とはいえ、一応医療関係の施設もあるくらいだし、何より…そっちの分野での“奇跡”にも浅からぬ縁のある自分たちでもあるので、そういう仕儀になっているという説明には割とすんなり納得出来たが、
「自己血輸血か?」
「だけど…プールたって、鮮度に限度があるんじゃないのか?」
 だからって毎週毎週採血してたら貧血起こしてしまいますもんねぇ…じゃなくってだな@ そこはそれ、あの研究所にわざわざ依頼した理由ワケというのがあるらしく、
「副所長の三杉が何を研究してるか知らんのか?」
「三杉が?」
 心底ワケが判らんという顔でキョトンとする日向だとあって、
「………。」
 ここに至って…若林までが目を点にして少々意外そうな顔をしたのは、
“あんだけ出入りしてるクセしてホントに知らんかったんかい。”
という、物の順序の逆に正直に驚いたから。まあ…彼らなら関心のないことへは完全に興味を向けないというのも頷けないことでなし、若林としてもそこいら辺りの“彼らの常識”というのへ想いが至ったらしく、
「三杉博士が専門として研究しているのは“人工血液”だ。」
 そうと説明してくれた。
「まだ“培養”の域を出ない段階だそうだが、
 そのうちモデル採血も要らない配合が出来るようになるんじゃないかってんで、その筋じゃあ有名な話だぞ?」
 心臓病じゃない代わりという訳でもないんだろうけど、関係筋だったんですねぇ。



          †



 さてさて、ここらで彼らの会話への解説を兼ねた余談を一発。今回はサブタイトルに『科学と学習』と付けて良いんじゃないかというノリですが、どうかお付き合い下さいませ。
 医学に於ける技術の発達には目覚ましいものがある。病状分析や対症療法、薬学分野での飛躍的な進歩は言うに及ばず、生物工学(バイオテクノロジー)の応用からも新しい道が拓けた。80年代に“遺伝子操作”に代表される爆発的な飛躍をなした「バイオテクノロジー」は、厳密に分類するなら「生物学」の一派である“分子生物学”から派生したもの。それが医学系の畑から注目されて進められた中には…発病する恐れのある遺伝因子を胎児の段階で取り除いたり抗性を持つ遺伝子を投入したりという、最近何かと注目されている“遺伝子治療”などがある訳だが、それより早くに実現したものもあった。移植技術の発達に加えて、それへ対するハード面での充実を目指すとするもので、生体の代謝や自然治癒などの機能を解明・追及した上で、体外で促成培養した生体組織を移植するという概念で進められていた研究がそれである。それまでは器械工学や素材工学の技術を駆使して、人工関節、人工骨、人工心肺、人工角膜などのように人造物で限りなく近いものを作り代用して来たものが、このバイオ・テクノロジーの概念を導入することによりその方向性を大きく転換するに至ったのだ。実例として判りやすいものが「培養皮膚」である。皮膚は十四日で成熟し、その後十四日で剥離する。表皮は特に細胞分裂が盛んで、二週間ほどで百倍になる。そこで、火傷治療の際に患者本人の健康な部分の皮膚の表皮部分の小片をシャーレの中で培養液により促成培養し、大きくしたものを改めて移植するというもので、本人の体組織を使うのだから組織適合性抗原(HLA)も一致し、拒絶反応もまずは起きない。
ここだけの話、この『Rシリーズ』はそういう研究の延長上という設定で書き始めたのだが、時代は移って…生体肝移植だとか、はたまたクローン培養だとか、現実のものとして語られる世の中になってしまいましたものねぇ。アメリカではどんな体組織にでも培養出来るスーパー細胞“胚性幹細胞”の研究が始まったとかで、そっち方面の技術はどんどん進んで当たり前だとはいえ…日進月歩なものをテーマに据えるのって一種の博奕だよなぁ。
 …で。輸血のお話、本題に入る訳ですが。
血液というと、まずは「血液型」なんてのが浮かびますよね? 自分の血液型を知っているのは日本人がダントツだそうで、外国の方々は…事故に遭った経験でもない限り、若しくは赤ちゃんを産んだことがあるご婦人でもない限り、まずは知らないのが当たり前。事故に遭ったり手術をしたり、輸血をするぞという事態に直面した時、一体誰がその処置を取ってくれるのかというと、専門家のお医者さんです。自分でそこらのコンビニで風邪薬を買って来て飲むのとは訳が違います。よって、処置に入る時に採血し血液型を調べて取り掛かるのは当たり前で、何も本人に訊く必要はない。こんなもん、常識中の常識な訳です。第一、下手に間違って覚えていたら大変なことになりますしね。

    *これは身内の恥なんだが、妹が妊娠した時に暗い声で電話をかけてきて、
    「自分は本当にこの家の子なのか」と訊いた事件がありました。何でも産婦人科でA型だと言われたらしく、だが、ウチの両親は揃ってO型で、勿論のこと亨もO型。(献血マニアのネコさんに付き合って献血に励んでた頃だったからこれは間違いない。)
     担当医に“そんな筈はない、私もO型の筈だ”と食い下がり、しまいには診断書カルテに「本人はO型だと言い張っておりますが…」とまで書かれたそうで。そこで父と母がわざわざ調べてもらったところが…母がA型だったんですねぇ。ホンマやで 判ってからなら笑えますが、本人は…マタニティ・ブルーが吹っ飛ぶほど気が気では無かったそうです。(でも、最近の研究で、O型やB型の親からA型が生まれる可能性もあるってされてますけどもね。97年に大阪医科大学の鈴木広一教授がDNA鑑定や分子生物学などの最新の検査から導いたというのだから、ミステリー・ネタじゃないぞ?)

 いきなり話が逸れてどうする。えとえっと。血液型というのは、この「ABO式分類」以外にもMN式やらRh式やら、もっともっと沢山の分類法があり、それらの不適合による血液の凝固という事態を招かぬためにも、また、汚染血液による感染症の恐れを看過せぬためにも、輸血の際の事前検査はそれはそれは慎重に行われる。これらのチェックが疎かになるのを避けるため、院内輸血は危険であるとされていて、よほどの緊急事態でない限り、ドラマなぞによくあるような…駆けつけた家族や知人から輸血を募るというパターンは最近では原則として行われてはいないそうな。緊急性のない手術などには、入院中に本人の血液を少しずつ採血しておいて備蓄プールするという方法も取られていて、これを“自己血輸血”という。
とはいっても。先に長々と嘆いたように、日本の血液備蓄の状況は情けないほどおマヌケで(みんな、献血に行こうね?)、突発事故による緊急手術が頻繁にある大都市の救急病院などでは備蓄分だけでは間に合わない事態が生じかねないのもまた現実。何しろモノは生体物。鮮度だとか寿命だとか、どうしようもないネガティブ・ファクターがしっかり付随する。赤血球の寿命は体内では百二十日だが、熱処理していない血液は三日、処理をした血液でも三週間が保存の限度。冷凍保存という手法もあるにはあるが、管理費用がベラボウに高いのだそうな。故に、一気に沢山採取出来たとしても意味がなく、赤十字の血液銀行では いざという時にいつでも採血に応じてくれるよう、人材…つまりは人間そのものの登録を進めてもいる。
その血液もまた人造物の代用品で補うことが出来るようになりつつあるというから、いやはや何とも。その名も「人工血液」というもので、これは血液中の赤血球が持つ“酸素運搬性”を備えた輸液材料のこと。いくら“急性の大量出血”という已を得ない状況下といっても安全に越したことはない。そこで、大事故や戦争などの大量な負傷者への応急処置や、長時間にわたる大規模な手術に輸血用血液が間に合わない時、または宗教上の理由から(ex;エホバの証人) 輸血を受けられない患者に一時的に用いられるものだそうで、別名「白い血液」と呼ばれる過フッ化物や、ホモグロビンやヘム蛋白質を脂質の膜に包んだものなどが開発されている。何しろ汚染の心配が要らず、血液型を問わず、長期保存が可能と来ては願ったり叶ったり。副作用の心配もない訳ではないが、それでも広く普及するまでそう待つこともないのではという明るい将来性が見込まれているそうである。

    *血液と言えば…もう一つ余談のネタがあったんだが、
     これ以上ページを割くのも剣呑なので、
     臍帯血
    さいたいけつの中に含まれる造血幹細胞ストローマについては各自で調べてみるように。
     
    偉そうだぞ、おい。




          †



〈人造血液?〉
 事前に事情を聞きに行ったのは、こういう貧乏くじなら“お任せ♪”という立場になりつつある若林警部補で
おいおい、相変わらずにお気の毒な…。こらこら
〈ああ。と言っても、ウチのは代替品を“合成する”のではなく、自己血輸血の延長のような形で培養しようって方向のものなんですけどね。〉
 ごく親しい身内のみが使うという奥まった棟のリビングルームで若林を迎えてくれた三杉博士は、たいそうお気楽そうに…まるでトマトの栽培のような口調でそう宣のたまった。
〈今のところの問題点は、促成培養の制御法だけなんですよ。〉
 成程、輸血した後まで患者の体内で増殖を続けていったら…。
〈いきなり高血圧になってしまいますからねぇ。〉
 だから…笑い事ではないんだってば、ジノさんも。なんでこいつまで居合わせとるんだと、若林としてはそれもまた不満のタネだったのだが、彼もまた此処の親方・ICPOの関係者。自分チに居て何が悪いと言われるのがオチだろうからと、そこへの言及はあえて止よした。
〈それにしても…いやに畑違いなものを研究しとるんだな。〉
 そうだよねぇ。此処って工学研究所だろうにね。くどいようだが、工学というのは工業化へ広く応用が利くことを研究するのであって、そんな場であまりに特殊なものを細く深く研究しているというのは…若林のような一般人からすれば少々違和感があるところ。医療研究や治療法の開発が工学にまるきり結びつかないとまでは言わないが、
〈生体工学ってヤツなのか?〉
〈…と言いますか。〉
 どう言ったら良いものかと言葉を区切った三杉の後を継ぎ、
〈もともと三杉は理学系が本道なんですよ。〉
 同じ大学で同期生だったというジノがそう付け足す。
〈だよね。ドップラー効果の検証にって、よくサッカーだのラグビーだの観に行ったもんだ。〉
 そんな基礎の基礎を検証してどうする。
〈? じゃあ、何でまた。〉
 選りに選ってICPOという少々偏った組織の研究所で、医学部系統の研究を手掛けている彼であるのか。まあ、今や理学部工学科や工学部理学科なんてものもあるくらいでしょうし、それほどズレちゃいないんでしょうが、なんだか…海軍陸戦隊と空軍空挺部隊と陸軍航空隊が呉越同舟しちゃったっていう いしいひさいちさんのマンガを思い出しちゃいましたわ。
〈私が此処に居るのは、研究よりも重要な理由があるんですよ。〉
〈?〉
〈所長の通訳です。〉
〈…成程。〉
 そういった冗談混じりの会話となりながらも、某国要人狙撃事件に対する“輸血用血液搬送大作戦”の概要説明を受けたのがつい昨日の午後。
「昨夜の内にも件くだんの輸血用血液が準備されて、
 今朝一番に成田の国際空港に到着した某要人の、
 TOKIO-CITY中央大学病院での緊急手術に間に合わせるって予定だったんだがな。」
 …ははぁ。何か…読めて来たというか、見えて来たものがあるんですが。ねぇ、皆さん?
「研究所の方で今朝早くに何だか騒動があったらしくてな。出発が相当遅れちまったらしいんだよ。」
 あの“ヒューマノイドご一行様乱入騒動”のことだろう。
「とはいっても、あの若島津が丁度居合わせてるらしいから、間に合いはするんだろうがな。」
 ウチの若島津健の“健”は“健脚”の“健”と把握されてもおりますからねぇ。何せ、新幹線…はオーバーだが、快速電車とならタメが張れるんじゃないかというほどだから、半端なもんじゃない。
「そういえば、若島津によく似た面子のいる窃盗団がどうのこうのって言ってやしなかったか?」
「………☆」
 小声で…とはいえ、日向からのこの指摘には、思わず“ぎっくーん”と肩を震わせた若林だ。
“妙なところで油断のならん奴だよな。”
 今現在の段階では、容疑者の一人の心当たりが浮かんだという経緯もまたあくまでも極秘事項。だから…と狼狽しかかったまでのことですので、念のため。早い話、担当してる事件でもないのになんで知っているッ…てトコですね。
“さすがに、あいつに関してだけは鋭いってことなのかね。”
 若林もまた…この超非常識なまでに行動派のイノシシ男が、あの黙っていればたいそう端正な顔をした行儀のいい青年とは不可思議な縁を持つ身だと知っている。そこから来る関心の寄せ方かなと思ったらしいが、なんのなんの、たまたま仕事の管轄内への関心というエリアの中に個人的な関心がダブってたってだけだぞ思うぞ? そういった感慨はおくびにも出さず、
「そっちの方も、今回の血液搬送に絡んだ代物だったらしいぞ。」
 そんな風に続けるところを見ると、若林には研究所からの連絡も既に入っていたらしい。
「血液の準備を妨害しようと目論む一派が…恐らくはその要人の狙撃の実行犯の一味でもあるんだろうが、
 研究所を混乱させようと仕組んだのが今朝起きた大騒ぎで、
 窃盗事件の方は…それに使おうとした小者を釣り出すための伏線だったらしくてな。」
 要点だけという説明に、
「???」
「話が見えんが。」
「えっと…?」
 日向と松山、反町が小首を傾げ、
「………後で最初から読み直せ。」
 これこれ、若林さんっ。大方、窃盗犯の一人…あのヒューマノイドを、目撃証言だけでハジメちゃんと間違えたことを突っ込まれるんじゃないかと、それを警戒して不機嫌でいらっしゃるんでしょうね@
「けど、どんなややこしい工作かは知らんが…わざわざ若島津に似せたってことは、
 あいつらの存在が結構知れ渡って来たって事なんだろな。」
 傍らのデスクに行儀悪くも腰掛けて、松山が感慨深げな声を出す。単なる脅迫や襲撃だけに留まらず、そんな搦め手をも用いたその背景。目に見えてのものとして仕掛けられるということは、すなわち構成員が知れ渡ってのことと考えられもする。まあ、今回のはそういう目論みまでは抱えてなかったようなんですけどもねぇ。
「本人たちは“犯罪抑止力になって良いから”なんて言ってるがな。」
 若林もその辺りに関しては懸念しているらしく、
“何かとやりにくくなるのは目に見えてるんだからな。”
 どこかで以前例に挙げたと記憶しているのだが、日本の刑事やイギリスの警官たちは日頃は拳銃を携帯していないのを御存知だろうか。警邏担当の巡査が一応は携帯している日本の場合も、発砲には厳しい規定が有り、正当防衛と緊急避難という例外を除いて、死刑や無期刑に当たるほどの凶悪犯罪を犯した者が抵抗したり逃亡しようとした場合、または第三者がそんな人物を逃がそうとした場合。そして、逮捕するのに他に方法がなかった場合という、とぉっても究極のケース以外では撃っちゃいかんのですな。当たり前っちゃ当たり前なんですが、空に向けての威嚇射撃でさえ査問会が開かれかねない徹底ぶり。(でも、確か不法発砲に関する不祥事もあったような…。)警察官が武装していれば、犯罪者はそれを上回る武装に走る。こういう“力関係の図式”という単純な問題だけではなく、殺傷能力の高い武装をしている以上、それを行使することにより、逮捕出来ずに已なく殺してしまうケースが格段に増えるのは間違いない。それでは犯罪の背景を窺うことは元より、犯人の更生の機会も与えられないことになってしまう。一罰百戒ではないが、どのくらい罪深いことなのかを、本人のみならず周囲の人間や社会にも知らしめるためには、やっぱり…問答無用で殺してしまうのはよろしくない。いや、今語りたいのはそれではなくって、武装しているに等しい相手だからと、相手の抵抗や武装も半端でなくなるのではなかろうかと、彼らの前に立ち塞がるだろうこれからの困難を憂えてしまった若林だったのだ。
「法律なんてのも発端はそういうところにあったんだろにな。」
 松山が殊勝なことを呟いた。あんまり後手後手なものが多いせいで、亨も“禁止法はお上かみがしゃしゃり出てまで禁止する必要があったから生じたもんだ”なんて良く言っとりますが、ぶっちゃけた話、本来はそっちの解釈をする方が自然ではある。起こり得るかもしれない諍いや犯罪を先に想定し、それを封じるための…専門用語で言うところの“犯罪抑止力”としての効能。
「常識ってのが常人のそれと掛け離れてる奴らも居るこったしなぁ。」
 それも関係ある。つまり、とある事象に対して“あんたには平気なことでもそれで傷つく人は一杯居るんだぞ”とか“そこまでやっちゃうと単なる我儘勝手やお茶目な失敗では済まないぞ”と、他人への迷惑と犯罪との区切りをつけるため、これは良いけどそれはダメという境界線ボーダーラインをつけるために取り決めたものもあるに違いない。目の前にいる非常識人たちへの揶揄も兼ねての言い回しだったのだが、
「何だよ。急にしみじみと。」
 今更な講釈の真意が通じなかったらしく、ジーンズのポケットにキーホルダーを確かめながらそんな風に訊いたのは日向だ。夜勤明けでこれから帰る身の上だからだが…宿題の始末書は忘れんなよと言いたげにチロリと睨んだその後で、
「お前ら見てると…法規の下に逮捕していいと許された相手だっていう条件付きではあれ、
 やっとる事は無法者たちと同じような無茶にしか思えんのでな。」
「う…☆」
 今日はまた鋭い突っ込みが冴え渡ってますねぇ、若林さん。
「いっそのこと、あいつらのお仲間に加えてもらうか?」
 そこまで言うかい。





 クリスタル張りの大きなドアを押し開けて、エントランスから外へと出る。初夏の午前中という時間帯は、何だかワクワクと落ち着けない。こんなにスカッと晴れていては尚更である。学校も仕事も何もかんもおっぽり出して、何にも縁取られていない広い空を探しに行きたくなる。

「でも、始末書は書かなきゃダメですよ? 文化住宅半壊だなんて、とんでもないことしちゃったんですからね。」
「…お?」

 ムズムズとした顔に心境がそのまま書いてあったらしくて、それをすっぱりと読んだらしい声が日向にかかった。その方向へと眸をやると、
「お久し振りです♪」
 長い黒髪にすんなりした肢体をしゃんと伸ばした青年が、明るい陽射しに鮮やかに照らされて立っている。
「今日は夜勤明けなんでしょ? 一緒に帰りましょ♪」
 当然顔でそんな風に言う彼に、日向は苦笑を見せ、短い階段をリズミカルな足取りで降りて来た。街路樹の若い翠が少し強い風にあおられてザァッと揺れる。ああ、やっと逢えたね、お二人さん。




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