月の子供 Q  〜なんちゃってファンタジー“鳥籠の少年”続編
 



          
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  「妖一っ! セナくんっっ! 無事かっ!」


 どがっ、と。分厚かったろう石の壁が、作り戸棚ごと勢いよく吹っ飛んで。もうもうと上がった砂ぼこりの靄
もやの中、高らかに凛と響いたは、救助にと駆けつけた白魔導師様の伸びやかなお声。………って、このフレーズ、これで3回も繰り返しておりますが。二手に分かれていた彼らだったので、演出上、仕方がないこと、どうかご容赦下さいませ。そしてそして、蛭魔にだけは…前触れとして守り刀が震えて起こす小さな共鳴の気配が聞こえていたらしいが、

  「な…っ。」

 皇太后の身を"寄り代"にしている魔女にしてみても、この突撃は不意を突かれた急襲であったらしい。さすがは城の内部で何かしらの聖なる影響力も働いていて、よほどに集中しないと物の気配などは感じにくい彼女なのかも。長いドレスの裾を引き、思わず後ずさりをしたほどだった皇太后様の慌てぶりに反して、

  「あっ!」

 そうそう簡単に屈したりはしないぞと思っていても、それでも…あまりに不利な情況に置かれていた二人であり。唯一の頼りだった黒魔導師さんの懐ろに匿われながら、どうなることかと息を呑みつつ唇を咬んで耐えていた瀬那王子が、砂ぼこりの中から現れた人々の中、今一番に逢いたかった愛しい人の雄々しき姿に胸を熱くする。
「…進さん。」
 もう二度と再び逢えないかもと思っていたから尚のこと、眼前に開けた空間を見回す彼の様子に"此処です"と、気が急くまま叫びたくなったほど。壁に埋め込まれた小さな火皿のおぼろな明かりだけだったところへ、闖入者が持参した"光の玉"という明かりが加わって、石積みの地下牢は随分と見通しも良くなって。
「遅せぇぞ。」
 鉄格子の中、捕らわれの身にしてはなかなかに泰然とした態度でいる黒魔導師さんのお声を聞いて、忙
せわしく周囲を見回していた桜庭がハッと表情を止め、それから獄屋の1つへと駆け寄った。扉の錠前は正規の鍵で既に開いていたが、
「θγρψδ…。」
 鉄格子の前にて立ち止まり、素早く咒を唱えてから、ついと伸ばした腕の先。人差し指で指差すようにして、肩口を覆い背中へ流れるマントの端を跳ね飛ばすようにして、格子に大きな輪をくるりと描いた白魔導師さん。その軌跡は青白い光の輪となって残り、最後にパチンと指を鳴らすと、頑丈な鋼鉄の檻であった筈の鉄格子の真ん中が、丸く切り抜かれたようになって呆気なくも蒸散して消えてしまったから物凄い。そこから悠々と中へ入って来た桜庭は、マントの裾を翻すようにして愛しい人の傍らへと大急ぎで歩みを運ぶ。

  「妖一だっ、妖一だよう。」
  「判ったから、これをまずは何とかしろ。」

 此処までの毅然とした凛々しさはどこへやら。狂喜の体のまま駆け寄って来て、妖一さんへひしっとしがみついた桜庭くんと入れ替わるように、蛭魔さんの懐ろからごそごそと這い出したのは、こちらさんも捕らわれの身だった小さな王子様であり、

  「…進さん。」

 途中からぷっつりと消え失せている牢獄の格子跡の向こう、案じるような表情をして立ち尽くす偉丈夫のお顔に やっと再び逢うことがかなったのが、それはそれは嬉しかったのだろう。ぱたた…と急ぎ足にて駆け寄って、こんな場合だというのに、そして周囲に他人の目があるというのに。控えめな気性の彼には珍しくも…大好きな人の頼もしい懐ろへ、ぱふんっと自分から飛び込んで行ったセナくんであったりする。一方の進にしてみれば、
「セナ、様。」
 この腕の中へやっと無事に戻って来た、柔らかで小さな愛しい温み。小さいが、自分には何にも代え難い宝物であり、この小半時ほどの別離がどれほど心掻き乱したことかと思うにつけ、
「申し訳ありません。」
 先程、桜庭から浴びせられた罵倒句の数々をあらためて思い出す。彼がホントは自分をこそ詰
なじって罵ののしりたかったと付け足した、後悔と口惜しさにまみれていた数々の叱責の言葉が、今の自分へも切実な響きでもって迫って来る。手足がもげても守るべきだった、その懐ろへ今のように抱き締めて、決して手放してはいけなかった大切な人。自分が狂おしいほど切なかったよりもずっと、怖くて辛い想いをした彼だろうにと思えば、尚のことに申し訳なくて。大きな図体がそのまま消え入ってしまいそうなほどに、情けない気分にもなって来るのだが、
「いいえ、いいえ。」
 懐ろへとしがみついた柔らかな温みの持ち主さんは、それは違うのとかぶりを振って見せる。
「進さんに心配かけたことの方が、ボクには…。」
 ついさっきまではね、自分がどうなってしまうのかということよりも、進さんにもう逢えないのかな、逢いたいなって思う気持ちの方が切なくも辛かったの。でも今はね。抱き籠められた懐ろから見上げた深色の眸が、それはそれは切ない想いを告げて下さるものだから。ボクは平気です、やっと逢えたことで もうもうこんなに幸せですと伝えることで、騎士様を宥めて差し上げなければという想いがあふれて、小さなお胸がいっぱいになっている模様。
"良かったことですね。"
 世情の混乱よりも王家の未来よりも、それは大切な人、愛しい人。そんな人の無事を確認出来た彼らに、我がことのようにホッと安堵の吐息をついていた高見さんであったものの、
「…っ!」
 冷たい石の床に倒れ付していた雷門陛下へ、ハッと気づいて慌てて駆け寄る。こんなところに居らしたことも意外だったがそれよりも。小さな御身を腕の中へと抱え起こして、
「陛下っ?!」
 あの石壁の崩落の間近にいらしたのだろうに、堅く閉ざされたままな瞼といい、何の反応もないことといい、もしかしてどこかに重いお怪我でもなさったのだろうかと、さすがに焦ったようなお顔になった高見さんだったが、

  「大丈夫だ。こいつのかけた咒で昏倒しただけで、意識や生命に別条はない。」

 先程彼へと唱えられた咒をちゃんと聞いていたらしき蛭魔がそんな声をかけてやり、桜庭くんの解封の咒でもって鬱陶しい封印の腕輪が消えた手首を摩
さすりつつ、ようやく檻の中から外へとその姿を現した。うっそりとした大儀そうな動作と態度ではあったけれど、だからと言って…何かしら消耗しているからではないらしく、

  「お待たせしたな、御大将。これがこちらのオールキャストだ。
   多少は歯ごたえもあろう逸材ばかりだから、退屈はさせないと思うぜ?」

 ふふんと居丈高に言ってのけた先、粗末な木扉の側に後ずさるようにして立ち尽くしていた皇太后様へと、あらためての挑発的な視線を投げやる彼であり、

  《 よくもまあまあ、此処まで辿り着けたものよの。》

 一気に頭数も増え、しかも…捕らえて自由を奪った筈の蛭魔やセナが、その身の就縛を解かれた状態。情況は大きく一変し、少なくとも魔女の側の断然有利ではなくなった筈。それを示す傍証になりそうなこととして、

《 さては。実は全てを知っていながら、時間稼ぎのために妾
わらわに無駄なお喋りをさせたのだね?》

 蛭魔を見据え返しつつ、ええい悔しやと眸を吊り上げ、ぎりぎりとその表情を尖らせる皇太后様であったものの、
"いや、こっちはマジで何にも知らなかったんだがな。"
 言ってやった方が良いのかな、けど、どうせ聞く耳持たないだろうなと。自己完結によってこちらの失点を隠して蓋した、完全復活いたしましたの黒魔導師さんである模様。

《 だが、お前たちとて何も判ってはおるまいて。月の子供と金のカナリア、二人が揃っただけでは何も起きはせぬ。》

 こちらを不躾にも指差して、いかにも憎々しげに罵声を上げた魔女は、そのまま…止める間もあらばこそ、空中に真白き手で印を幾つか結んで何かしらの咒を唱え始めた。それを見て、
「…っ! 皆、近くに寄ってっ!」
 今度こそは遅れを取るまいと集中していたか、桜庭が皆へと声をかけ、こちらも防御の咒を唱え始める。
「あ…っ。」
「なにっ?!」
 足元にあった古い石の床がほろほろと崩れ出したが、こちらの白魔導師さんが頭の脇あたりに掲げた手の指先、合わせた指先を擦るようにしてぱちんと小気味のいい音を鳴らしたその途端、ふわりと指先からあふれ出すように広がったのは、純白無地のシルクのスカーフが一枚。しかもそのスカーフ、まるで生き物のように彼の指先から腕を伝って足元へと滑り降りてゆくと、どんどんと際限なく四方へ広がってゆき。まずは皆の足元へ敷物のように滑り込み、その次には天蓋のように頭上をもフォローするまでの大きさへ、ふわふわスルスル広がってゆくではないか。ヒラヒラしている薄絹なのに、踏み締めた足元はどこもしっかりした土台となって、包み込んだ皆をゆっくりと下へ下へと運んでくれており。周囲にぼろぼろと降り落ちているのだろう瓦礫からの衝撃も、頭上に広がった方の端が案外と丈夫に受け止めて、皆の身には全く伝わって来ない。
「…これが魔法の咒というものなのですね。」
 初めて見ましたと、ここまで冷静に案内役を務めてくださった高見さんが唖然としており、彼の腕の中には雷門陛下が、そして白い騎士殿の腕の中にはセナ王子が、それぞれにしっかと守られたまま。スカーフの防御障壁にくるまれた一行は、先程までいた地下牢の床の下、ポカリと大きな口を開いた更なる下層部へ、ゆるゆるフワフワと下降してゆく。そこは尚の漆黒が立ち込める真っ暗な空間だったが、桜庭が灯した幾つもの光の玉が追随しているおかげで、そうそう恐ろしげではなく。とはいえ、
「…このまま追うの?」
 桜庭くんが一応の確認をと、すぐ間近にいた金髪の黒魔導師さんへこそりとした声をかけてみた。一旦引いて体勢を立て直すという手もあるからで、それは蛭魔とて手立ての一つ、候補としては考えてもいたのだろうが、

  「今こっちが引いて陣営を立て直しゃあ、
   それ以上の馬力の充足を、向こうだって構えちまう。」

 冷静な白いお顔がそんな風に応じて来て、鋭気をたたえた切れ長の瞳が、進の懐ろに庇われている小さな少年と視線を合わせた。
「そうなれば、顔も何もすっかりと正体が割れちまった俺たちだからな。今度こそは徹底的な追跡にあうのがオチだ。手配書がばら撒かれるなんて穏やかなもんじゃあ済まない。一気に謀殺しちまおうってほどの軍勢を仕立てて追い回されるかも知れん。」
 徒に脅すつもりで並べ立てた蛭魔では勿論なく、セナにしてもそのくらいのことは予想がつくのか、真顔のままで こくりと頷いて見せて。

  「今このまま決着をつけた方がいいと、ボクも思います。」

 どちらかといえば皆様に"守られる身"という自分に、一体何が出来るのか。それはセナにも判らないけれど、少なくとも"怖い"からと逃げ回るより立ち向かいたいという気持ちの方が、今は相当に勝(まさ)っている彼であるらしい。これまでの逢瀬・同行の中、初めて見るのではないかというほど毅然としたお顔になって、大きな琥珀色の瞳を力ませる小さな王子様だとあって。蛭魔は勿論のこと、桜庭や進、高見までもがにんまりと強かに笑い返して、

  「よーし、これで決まった。
   このまま奴を追って、きっちり決着つけようじゃねぇか。」







            ◇



 一体どのくらいの深さがあったのやら。本当に城の地下礎台の下なのか、それとも…実は次元の裂け目の断層にでも滑り込んでしまったのではなかろうかと、余計なことまで案じてしまうほどに、どんどんと下って下って辿り着いたのは、

  「うわぁ…。」

 ある意味では立派な"別世界"のような場所だった。一番近いイメージで言うなら、そう、巨大な鍾乳洞の中。遠い遠いどこかに吸い込まれてゆく水脈の流れの、囁くようなせせらぎの音が、しんと冷たく冴えた空気の静けさに唯一のアクセントになっているだけの、それはそれは静謐な空間。まるで大きめの蛍のように、幾つかが中空に浮かんでぽうと灯った光玉に照らし出されている情景は、これがまた何とも幻想的であり。石灰質の滴
しずくが永きに渡ってしたたって、少しずつ生長して出来た"石筍せきじゅん"と呼ばれる棘のような石の柱が林立する一隅があるかと思えば、小さな小皿のような、魚の鱗のような升目が、清水をたたえた細かい階段状になってぎっちりと敷き詰められたステージのような一隅もある。そういった諸々の繊細幽玄な美しさもさることながら、この空間の主役たる存在は、洞窟中央部に横たわる、鏡のように静かな水面を青く光らせた泉だ。その向こうには、誰が灯したものなのか、高い脚つき台座に掲げられた炎籠の中に、明々とした篝火が焚かれている。
「これは…きっと遺跡の中の泉です。」
「遺跡?」
 小さなお声で尋ねるセナへ、小さな陛下を腕の中へと抱えたままな高見さんは頷くと、
「ええ。王城キングダムが国として立つよりもずっとずっと古い時代にあったという古代都市の遺跡。その中の聖なる泉の神殿を支えていた構造物が、この城の土台になったと聞いております。」
 にっこりと笑って説明を加え、
「確か名前は…ツテラ・ロ・オウル。」
 意味の分からない言葉を紡いだ彼に、セナはキョトンとして見せたけれど。
「へえ。」
 そんな彼に代わって蛭魔が小さく笑ったのは、彼には理解出来る古い言葉を知っていたことで、初対面のこの高見が結構な博識だと判ったからだろう。
「どういう意味ですか?」
 こちらは耳慣れない言葉だったからまるきり意味が判らないらしく、さっき"ノイエ・シーネ"という古い言葉を教えてくれた蛭魔へと訊いてみたセナへ、
「ああ。フクロウの星って意味だ。」
 これもやはり古い言葉だよと教えてやり、
「こんな壮麗なもんが真下にあったんじゃあ、王城も栄えもするよなあ。」
 神憑りや御利益ばかりが力じゃあるまい、長きにわたって歴史を紡いで来たそれぞれの時代の人々の意志や活躍こそが大きに物を言っての、王国の繁栄に違いないのだろうけれど。それを守護して見守って来た"神聖なる力"まで備えていたとはなと、改めて感心した彼だったのだろう。
"だが、とうとう魔物に食いつかれた、か。"
 いやいや、まだ判らない。邪妖に見入られ、散々な侵食に振り回されたが、まだまだ命運尽きた訳じゃあない。
"最後に笑うのはどっちか。それで決めれば良いことだ。"
 いかにも蛭魔さんらしい考え方です、ええ。王城キングダムの紡いで来た"悠久の歴史"とやらのその始まりの辺りの一端へ、こんな意外な形で接することとなった一行だったが、

  「…あれは。」

 進がその双眸を眇めて見やった先。いつの間にか、篝火のすぐ傍らに立っている人影がある。時折揺らぐ炎の陰のせいで、面立ちの陰影も揺れているが、表情自体は動かないまま。冷たい無表情を保って立っていたのは、皇太后に取り憑いたままの魔女であり。手下や連れ、隋臣たる魔物たちも、特に召喚してはいない気配。
"下手に負の陰体を連ねて包囲しては、俺やチビさんがどんな反応を示すか判らんのだからな。"
 依然として及び腰な彼女だということか。だが、ならばと気になるのが篝火の準備だ。そんなもの、魔力を駆使すれば…丁度桜庭が光玉を灯したように、ちょちょいで出せる奴なのかもしれないが、ということは。此処での対峙が目的だったからという"準備"には違いなく。
"………。"
 この泉の遺跡を知っていて、前以て篝火という明かりを灯していた彼女だということだろうか。此処へと降りてくるつもりが最初からあって…。
"じゃあ、此処は…。"
 彼女は確かこうと言った。

  『準備も万端整っているんだ。さあ、いよいよの儀式を始めるよ。』

 負の陰体が良からぬ接近をしてその身を害するような悪さを仕掛ければ、一体化して対抗する"月の子供"と"金のカナリア"だと彼女は言った。最悪の場合、滅びの業火を撒き起こし、その魔物ごと焼き尽くして次の世代へ魂を転生させると。彼らの、ある意味で母体でもある"負の虚体"の一部にさえなれないほどの消滅を招く"滅びの業火"を心から恐れていたこの魔女は、ただ滅ぼすのでは自分も巻き添えを食うが、そうならない方法があるかのような言いようだったなと思い出して、

  "此処が、その舞台だっていうのかな。"

 それにしては。彼女自身も居心地が悪いとこぼしていたように、此処は"聖なる遺跡"である。魔物の彼女が、此処をどんな風に活用しようというのだろうかと、細い眉を訝しげに吊り上げた黒魔導師さんであったのだが。そんな視線を受けて立つかのように、

  《 この女の命が惜しければ、そこの二人、こっちへ来るんだよっ。》

  「…っ!」

 強い口調で言い放ち、自らの白い首条へと添えられたるは、皇太后としての守り刀だろう白銀の逸品で。どこやらから洩れて忍びいる月光の青い光にぬれぬれと輝く、銀色の短い剣の切っ先が、絖絹のようになめらかな純白の肌へ容赦なく突きつけられている。

《 あたしは痛くも痒くもないがね、ここんところの太い血脈を断てば、こんなか弱い女、ひとたまりもなく死んでしまうよ?》

 嘲笑うような言いようをする魔女であり、
「…確かに。止血の難しい、心の臓へ直結している血脈だ。」
 それを受けて桜庭が軽く唇を噛んだ。彼にかかればどんな負傷でもその場で治癒出来ると、先程も進を相手に豪語してはいたが、
「失血性のショック死の中には、即死するほどのものだってある。」
 生命の灯が灯ってさえいれば何とか呼び戻すことが可能だが、亡くなってしまっては いかな彼でもどうすることも出来ないのだろう。
「いっそ、此処から狙うかい?」
 言ったと同時、ぽうと、その体の輪郭が淡く光った白魔導師さんであり、その傍らでは進もまた、咒の刻まれた聖剣を腰に装着した鞘から一気に引き抜こうと身構えかかったものの、
「ダメですっ!」
 セナがそんな彼の手の上へ自分の手を重ねて押し止める。その御身を妖
あやかしに良いように操られている皇太后様御本人には罪のないこと。だから、決して殺あやめてはならないと、そう思っての制止であるらしく。そんな彼らへ、

  《 おっと、魔咒は使うんじゃないよ。》

 すかさずのようにそんな声がかかって、魔女がふふんと笑って見せる。

《 言ったろ? あたしは痛くも痒くもないって。たとえこの身を滅ぼしても、別の体へ瞬時に乗り移るまでのこと。それだけの大人数で来てくれたんだ。相手には困らないってもんだよ。》

   ………何ですて? この顔触れの誰かへと取り憑き直すって?

 この宣言には、皇太后様の身をのみ危ぶんでいたセナのみならず、他の面々までもが何やらリアルに脅威を覚えたらしい。うっと口ごもり、困惑の表情を浮かべて見せる。
"誰に取り憑いても、今以上に大変なことになるのは目に見えているからな。"
 標的そのものであるセナや蛭魔は例外だとしても、進を狙われても桜庭に取り憑かれても…高見や雷門陛下が対象になっても、ますます手が出せなくなることは必定で。その切れ上がった目許をきりきりと、苦々しげに吊り上げた蛭魔であったが、

  「…蛭魔さん。」
  「判ってる。」

 セナから怖ず怖ずと掛けられた声には、深い溜息と共にその細い肩をかくりと落として見せた。向こうには"人質"がいる。このネックにだけは結局逆らえない。すぐ傍らにいた桜庭が、降ろしていた手の先、中指と薬指とを捕まえて、きゅうと握って来た。ちらりと視線を上げると、随分とキツイ眼差しを向けて来る。ああそうか、こいつには話してなかったな。事情が通じていないから、下手をすると蛭魔だけを攫ってあとはどうでもいいとばかりに逐電しかねない。それを思い出し、相手の真摯な眼差しを見据えながら、つい先程、魔女から聞いた…自分とセナの間柄というやつを強く念じて回想する。いつも傍らにいたものだから、伝意心なんて わざわざやったことはなかった咒だったが、
「…っ。」
 ハッとして息を引き、深色の眸を大きく見張った桜庭で。どうにもなす術のない立場であること…自分だけがこの場を離れたとて、セナの危機には引き寄せられるし、彼が負の力に滅ぼされる時には対となるためにやはり呼ばれることだろうという因果が、どうやらきっちりと理解出来たらしい。呆然となったことで力の萎えた彼の指先を、こちらからそろりと解き離し。その代わり、そちらもやはり…白い騎士の腕の中から名残りを相当に惜しまれながらも抜け出した、小さくて可憐な王子様へと歩み寄り、意を確かめ合うように頷き合った。

  《 大して深い泉じゃあない。
    足元を濡らしてしまうが、中を突っ切ってこっちへ来な。》

 今のところは相手の意のままになるしかないが、まだ何とかなる筈だ。今度は蛭魔だって咒を封じられてはいない。間近に寄っての反撃だって仕掛けられる。攻撃するのは寄り代にされている"皇太后"への負担が大きくて無理でも、ならば動きを凍らせる系統の咒がある。何を企んでいるのかは知らないが、自分たちへ直接の手は出せない相手、ギリギリ粘って反撃の機会を探れば良い。
「いいな、諦めんじゃねぇぞ。」
「…っ。」
 横目でちろりとセナを見やり、
「あいつが言ってた"聖なる滅びの業火"とやらは最後の手段。どうやって出せるのかは判らんが、俺らがもうダメだって思うことが引き金になるに違いない。いいな? ぎりぎりまで諦めんじゃねぇ。」
 何故だろうか。何をどうするという方策や根拠は具体的には何一つ語られなかったのに。なのに…蛭魔の言いようはとても心強い言葉に聞こえて、
「はいっ。」
 自分へも言い聞かせて宣言するかのように、しっかりと頷いて見せたセナである。ちょっとばかり乱暴だけれど、いつだって自信にあふれていて、言ったことは必ず完遂する頼もしい人だと重々知っている。それにそれに…、

  "ボクはもう独りぼっちではないんだって。"

 進さんがそうと教えてくれた。セナの身の危険はそのまま彼にとっての切実な危機であり、心配や憂慮なんていう型通りの不安じゃあない、その身をそのまま切り裂くくらいの壮絶な苦痛でもあるのだと知らされたから。自分だけが我慢すればいいことではない以上、簡単に諦めたりなんかしないって決めたばかり。
「…行くぞ。」
 促されて歩みを進める。こちらから向こう岸へは、やはりどこにも乾いた道はなく、泉を突っ切るしか手はないようだ。古い地層の岩盤の上に涌き水がたたえられている、言わば"大きな水たまり"のようなタイプの泉であり、澄んだ水質であることと中空にふわふわと灯された光玉とによって上からでも底が望める。その縁からなだらかな斜面のようになって深くなる中央部まで、それほど深いということはなさそうで。
"…そうか。吹き抜けの高みのところどころが空いてるんだ。"
 漏斗
ろうとを逆さまに伏せたその内側のような格好で、泉の中ほどがちょうど頂点となっている吹き抜けの岩天井。そのどこかから隙間をついて降りそそぐ月光が、泉のおもてを青く照らしており、二人が踏み込んだことで小さな波の輪が立って、鏡のようだった水面がちりめんのような細波に震えて揺れた。足元から徐々に上へと水の高さが上がってゆき、深さの増すごと、踝くるぶしから脛はぎへと浸かってゆく二人だという様は見守る側にも伝わっていたが、

  "………?"

 ふと。どんな些細なことであれ、決して見落とすまいと凝視していたセナの足元が、妙なよろけ方をしたような気がした進だ。昼間のように明るいというほどではなく、泉の底は案外と苔や何やがあって滑りやすいのかも知れないが、
「………。」
 何か、それとは異なる"引っ掛かるもの"があって、騎士殿が雄々しい眉をぎゅうときつく寄せる。何だったろうか、この情景にかさなる記憶がある。以前に見たことがあることを指す、所謂"既視感
デジャヴュ"とかいうものではなくて。

  『…金のカナリアがどうのって言ってた。そしたら、セナくんが…。』

 セナと蛭魔を夜陰の中へと攫われて、恐慌状態のままに王城の城下まで大鷲になって飛来して来た桜庭が、動揺や混乱を静めつつ何げなく口にしたフレーズが、謎のままだった何かへ符合した時に感じたあの感触。セナを守るための強固な結界を、持ち得る力の全てを投じて唱えた少女が、その結界の要石へと封じていたメッセージにあった言葉であり、そして………。


  「………っ。」


 もう一つ。彼らの身の上をなぞっているらしいと思われるものが、もう一つあったではないか。


  ――― 銀の籠にはカナリアを、金の籠には月の子供を。
       星降る夜に泉にかざせば、森でフクロウが ほうと鳴く。


 進が思い出したのはあの子守歌。この泉の元の名前だという"オウル owl"といえば、フクロウのことではなかったか。蛭魔がセナへと説明していたのを思い出したとほぼ同時、傍らにいた桜庭の肩をがっしと掴む。
「?」
 振り返った彼へ、
「お前は蛭魔を引き揚げろっ! 急げっ!」
 一言だけ言い放ち、自分もそのまま大急ぎで泉へと踏み入った。






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 *ううう、クライマックスに突入した筈なのに。
  やっぱり書いても書いても終わりません。
  まだちょっと続くみたいですが、
  どうかお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

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