月の子供 21  〜なんちゃってファンタジー“鳥籠の少年”続編
 



          
21



 こちらは泉から離れた壁際に身を避けて、意識のないままな雷門陛下と、それから…息絶えてしまった進の身を旋風から庇いつつ、高見と二人、事態を見守っていた桜庭だったが、

  「…あっ。」

 あまりに強い奔流が吹き出すその圧迫に、とうとう蛭魔の足が泉の半ばで止まったことへと気がついた。本人は渾身の力を込めて前進しようと踏ん張ったままでいるのだが、どうにも足が前へと進まないらしく。そして、

  「セナ様っ!」

 逆巻く旋風の只中にそれのみが威風堂々、まるで神様がそこへと降臨なさる目印であるかのように、揺るがぬ存在として立ち上がっている光の柱。遠目には動かぬように見えつつも、時折表面へ放電のような細かい火花を散らしつつ、細長い竜巻のようにどんどんと太く太く成長し続けているらしき、目映いばかりのその柱が。まずはセナの小さな全身を、その胎内へとすっぽりと飲み込んでしまったがために、高見が思わずの声を上げた。それだけでは足りないのか、光の柱はますますと膨らんでゆき、あと少しで届くというところまでぎりぎりで迫っていた蛭魔へも、何とも淡々とした成長ぶりにて接近すると、

  「妖一っ!?」

 そんな彼の…立ち止まった格好でいた黒ずくめの痩躯をも、その腕から頭、胴に足という順番で、柱の中へと飲み込んでしまったのである。抵抗する暇も与えぬままの、あっと言う間のことであり、苛烈な熱を帯びてさえ見える目映い光柱は、その内部を塗り潰す凄まじい光芒の濃密さが過ぎて中を見通せないほど。

  「妖一っっ!」

 切迫した声を上げながら今にも飛び出して行きかねない桜庭の腕を、高見が捕まえる。柔らかな亜麻色の髪を疾風になぶらせながら、尖らせた眼差しにて"何をするか"と肩越しに振り返った美丈夫だったが、
"…あ。"
 彼が何を言わんとしているのかが…自分の感応で判ってハッとする。

  "………空気の気配が、変わった?"

 荒々しい疾風にいいように蹂躙されて、ただただ無機的に殺伐と、誰をも寄せつけず乱暴なだけだった洞窟内の雰囲気が…いきなり変わったのだ。それぞれのまとう装束の、襟やら裾やら縁やらを勢いよくはためかせていた嵐のような旋風が、ふと。その斬りつけるようだった勢いを失くして、ふわっと一瞬膨張し。大きな刷毛にて"ひゅひゅっ"と、最後の仕上げの色を載せたからとでも言うかのように。若しくは、指揮者が髪を振り乱して指揮していた情熱的な演奏の、最後の最後の小節のタクトを振り終えたからと、その手を唐突に止めたかのような。大きな、やわらかな風が最後に通り抜けて…不意にひたりと止まったのだ。

  "…妖一とセナくんとを呑み込んだからか?"

 もう目的は果たしたということなのか? だが、忌ま忌ましい光の柱は依然として健やかにそそり立っているばかり。そのまま堅い手ごたえのありそうな、固体物であるかのようにさえ見える柱だが、ちかちかと瞬くように放電の光が閃いては依然としてぐんぐんと太くなってゆく様相を呈しており、

  《 な、何なのだ、この光は。》

 うっかりと、そっちの存在を失念していた…皇太后様に取り憑いた邪妖の声が、こちらへまで届く。妙にうろたえているのが怪訝な印象の声として聞こえて、利用するためにという下心から、この泉については相当に詳しかった筈の彼女でさえ、思いもよらなかった展開だということか?
"陰体が光を嫌がるのは当然の反応だけれど…。"
 さっき自分でも言っていた筈。月の光が作用する泉だと。こんな夜半に自然に存在する煌々とした光というと、成程、月の放つそれしかなくて。そして月光ならば、陰体である邪妖にはさして負担ではない筈なのだが。だが、それにしては、

  "何だか…随分と存在感のある光だな。"

 どう表現すればいいのか。月から降りそそぐ光はもっと静かで冷たく、ただ青白く明るくなるだけ、何かを照らして見せるだけという無機的な印象があるのだが、この光はまるで太陽のそれのように、躍動的でパワフルで、何かを育む光だという実体感がある。

  「……………。」

 このまま捨て置ける筈もなく、とはいえ、何をどう構えればいいのかも判らず。こんなことなら自分もすぐ傍らに張りついていて、どんな些細なことへでも手を貸せばよかった、背中を押してやっても良し、逆にこれは危ないと思ったら妖一さんに恨まれても良いからやはり小脇に抱えて退避しても良しで、少なくとも今よりは何とかなったのかもなんて、文字通りの後悔に苛まれかかっていた桜庭だったのだが。セナと蛭魔の二人を飲み込んだまま、その力を尚のこと増してゆく光の柱を、高見と二人、為す術もなく固唾を呑んで見やっていたところが、

  「…あ。」

 それは正に一瞬の出来事。光の柱が"ちかり・ちかちか…"と何度か瞬いたかと思うと、その根元に接している部分から泉全体へ、同じ濃さの光が凄まじいまでの速さで侵食して一気に広がり、ぱんっと弾けて………洞内を満たしたのだ。

  「うわっ!」

 瞬間的だったとは言え、下手に見据えていたなら"雪盲"に似た状態で眸を灼いていたかも知れないほどの、凄まじい光が弾けたものだから。ついのこととて目を閉じてしまった桜庭たちで。反射的に顔ごと背けた彼らの、瞼の裏を真っ赤に叩いたその光は、

  「あ…。」

 再びそろりと眸を開いたその視野の中、場末の芝居小屋のようにどこか薄暗かった洞内を、煌々と照らし続ける光へと変化していた。さっき弾けたのはこまやかな粒子に砕けるためのものであったらしく、激しさこそ一瞬のものであり。この空間内の隅々にまで舞い飛んだのだろうそれらによって、ところどころに闇溜まりがあった筈の薄暗さが今や綺麗さっぱり拭い去られ、真昼のような明るさが満ちているほど。
"これって?"
 一体何が起こったのか。暴風渦巻く、嵐のような状態からのこの急変ぶりに、ついつい呆然としかかった桜庭が、だが、慌てて泉へと眸を向けた。この光は、蛭魔とセナを呑み込んだあの柱に連動したものではなかったか? それがこんな変化を見せた。それがあった場所には………。


  「……………………妖一、と、セナくん?」


 あれほど強烈な存在感を持ち、放電を帯びるほどの凄まじいまでの光芒を放っていた光の柱はどこにもなくて。その代わりのように、泉の中央には人影が立っている。鏡のような静けさを再び取り戻した聖なる泉に、拒絶も蹂躙もされず。塑像かオブジェのように、ただただ静かに向かい合う二つの人影。恐らくは柱に呑まれた時にやっと相手を捕まえた蛭魔であり、その白い手に二の腕を掴まれたそのまま、彼と向かい合っているセナであるらしく。

  "二人とも、発光してる…?"

 眸を灼くような、攻撃的で痛い光ではなくて。真白きものの表面に淡く弾けるハレーションのような、柔らかで軽やかな光をその姿の内部に呑んでいる彼らに見える。だが、それって…何かしらの咒や魔力の影響下にある二人だということではなかろうか。まだ予断を禁じ得ない状況なのか?

  "…それにしては、穏やかだな。"

 セナの側はまだどこかぼんやりとして見えたのは、依然として焦点の怪しい瞳があまりに大きく見開かれたままでいたからで。内から発光しているかのようなその双眸は、どういう加減なのか…ほのかに紅い光をたたえている。やわらかに変化した風の奔流が…まるで羽衣のように彼らの周囲を柔らかく舞い飛んでいるらしく、着ているシャツや上着、マントの裾がスローモーションの映像を見るかのように軽やかにひらひらと舞っているし、髪もはたはた・さらさらとやさしく翻
ひるがえっている。そんな二人の額の中央、前髪が躍っているのでよく見えるその場所に。それぞれにぽつりと浮かんでいたものがあって。遥か東方の異国の文化にあって"第3の眸"を意味するビンディにも似たそれは、セナには銀の、蛭魔には金の、涙の滴のような形をした小さな粒鉱石だった。
「あれは…?」
 一体何でしょうかと訊く高見だが、桜庭にも何が何やら。ただ、
「判らない。でも、悪い兆しではないと思う。」
 そんな気がするのだ。例えば、鏡のような穏やかさを取り戻した泉の、玻璃のように澄んだ色合いや、洞内の空気の、淑々と引き締まりながらも穏やかな温もりを孕んだ緊張感。この高潔そうな匂いと軽やかな高揚感は、正に聖なる"祝福"の気配ではなかろうか。その中心に、身を寄せ合うようにして立つ二人であり、

  "なんでだろう。二人が…兄弟か何かみたいに見える。"

 容貌も雰囲気もまるきり異なるままなのに、同じ処から発した繊細さや何やを分け合って持ち合わせているかのように感じられて止まない。鷹揚なほどゆったりとした高貴さと優美な格調とを気配の中に滲ませて、まるで聖像のような端麗で且つ神秘的な落ち着きをたたえたままに。身長の違う二人が…片やは少しだけ顎を引いて、優しくいたわるように俯きがちに。片やは白い喉を晒して、甘えるようにあどけなくも上を向いて。互いの額と額をこつりと合わせた。その身を寄せ合い、ほのかに微笑み合っての、まるで接吻のようにも見えたやわらかな所作であったが、それは粒鉱石同士をやさしく触れ合わせる仕草であり、奇しくも同じくらいに色白な額同士が接したその狭間にて………。

  ――― ぽわり、と。

 小さな綿帽子のようなやわらかい光が新たに灯る。

  "………ああ、これは。"

 何かの"儀式"なのだと、今ようやっと気がついた桜庭であり。ちらりと見やった傍らで、高見も同じことを思ったか、視線が合って柔らかく口許をほころばせて見せる。何とも愛らしくてやわらかい、慈しみと温かさに満ちた所作だろうか。蛭魔の金の髪やセナの稚
いとけない微笑が、それは甘く潤んで見えるのはもとより。蛭魔がまとっている鋭角的な印象の漆黒の道着さえ、セナがまとっているいかにも質素で簡単な装束さえ、淡い光に上塗りされて神衣に見えるほどであり。額同士をやさしく寄せ合った、二人の"光の眷属"たちは、こちらには到底届かぬ小さな声で何ごとかを囁き合っており、祈りのようにも見えたそれが何かしらの咒であったのか…小さくぽあんと灯された綿帽子はそのままするりとセナの額へ吸い込まれていって。



  ――― 小さくて小さくて、
       蛭魔の腕の中にでさえ易々と収まってしまう"月の子供"は、
       金のカナリアの典雅な歌を聴いて、
       静かに静かにその覚醒を始めたばかり。




   たとえば。
   生まれたての風は、どうやってその行き先を知るのだろうか。
   青葉の上へころんとまろやかに留まった朝露は、
   その中に鮮やかに洗われたばかりの世界を内包して煌めく。
   稚(いとけな)い和子のつぶらな瞳。
   雛のさえずり、産毛に甘くぼやけた若葉の輪郭。
   さらさらと抵抗なくすべり落ちる新鮮な蜜の香。
   陽を透かすせせらぎの中に秘やかに忍んでいる玻璃の声。
   小さき手のひらに全ての未来(あした)を感じ、
   わきわきと空をくすぐる様の何とも愛らしきこと…。




 あくまでも無垢で清浄な、純白のまろやかな光が少しずつ育って育って。泉の只中に立つ二人の末裔たちを、光の繭玉の中へと包み込んでゆく。子供同士の小さな約束。妖精たちの悪戯な内緒話。そんなささやかな声音での囁き合いを、透けるような薄紙で一枚一枚丁寧におおって、少しずつ少しずつくるみ込んでゆくように………。



  《 ………これは、一体どういうことだっっ!》


 この静かな儀式を、唯一、忌ま忌ましげに見やっていた存在が、洞内を震わせるような金切り声を上げたが、
「…チッ!」
 そんな無粋な雄叫びへこそ、忌ま忌ましげに眉を顰めた桜庭が、肩を覆ったマントをさばいて綺麗な右手を高々と掲げ、頭上でパチンと指を鳴らす。途端に、

  《 な、何を…っ。》

 あがくような声を最後に、かはっと息を吐き、苦しげに喉元を押さえてうずくまる魔女であり。そんな様を泉の向こうの彼方に見据えて、日頃あれほど柔和なお顔をしている白魔導師さんが、いかにも酷薄そうな笑みを唇の端に浮かべ、冷然と言い放つ。

  「黙って見てな。
   お前に引導を渡して下さる、聖なる光を紡いでいらっしゃるのだから。」

 どれほどの罪を重ねた輩なのかを思えば、このくらいの拘束・就縛、まだまだ随分と甘いくらいだと。毅然とした表情が言い置いたその間合い。
「………。」
 泉の中に丸ぁるく仕上がった光の繭玉が、それは静かに"とく、とく、とく…"と。ゆるやかな拍動を刻み始めて。淡くてやさしい光が点滅する中、洞内いっぱいにゆるやかな声が響き始めた。それは桜庭にも高見にも聞き覚えのない、不思議な抑揚とトーンの声で。蛭魔でもセナでもない誰かが、何処かから謎めいた咒を唱えているようにも聞こえた。しかも途中からは、高く低く幾つにも分かれての旋律の綾を綺麗に織り成して。透明なロンドを繰り返す、声、また声。どこか切ない和音で合わさる荘厳な旋律を、洞窟の高い高い天井へと吸い込ませ、再びの静寂が蘇ったその刹那に。


  "……………あ。"


  ――― ぷつりと。繭玉が静かに割れた。








            ◇



  ――― それは さながら、
       伝説の中にだけ語られていた幻の瑞鳥の孵化のように。


 ふんわりとした襟は、小さな顎ややわらかそうな頬に触れるほど やや高く。袖や身頃にふんだんに取られたドレープの曲線が優美に流れているシャツに、重ね履いた筒裾のボトムの後背へ裾を長々と引く上着…という装束には、綺羅らかな宝石や金糸銀糸の縫い取りというような華美な装飾は一切ないが。遠目にもいや映えて美しき、柔らかな光をそのまま織ったような純白の絹衣であり。それらをゆったりとまとった小さな少年が、傍らに寄って立つ青年に、これもやはり小さな手を掲げられ、すっくと真っ直ぐに立っている。青年の方もまた、真白き肌との境が判らないほどに気高くも白い絹衣をその痩躯へとまとっており。そういえば…二人とも、結構な悶着の中で埃や怪我をさんざんに負っていた筈なのに、そんな瑕や穢れなど何処にも見えはしない模様。つややかな髪に曇りのない眼差し。絖絹のようにしっとりと きめの揃った柔らかな肌と、撓
しなうほどにも強靭な張りを保って凛と伸びた背条。泉の中へするすると溶けて消えた繭の褥しとねを後にして、青年に手を引かれ、ゆっくりと顔を上げた小さな少年は、額に銀の粒鉱石を張りつけたままでおり。妙に泰然と落ち着き払ったその視線が向いた先には、


  《 お、おのれ………。》


 すっかりと見通しが良くなった対岸に、わなわなとその身を震わせ、声の詰まった喉元を手のひらで押さえて立ち尽くす、豪奢なドレスをまとった皇太后、いやさ、今世の混乱の全ての元凶である邪妖がいる。先程までのあの、人を食ったような傲岸そうな余裕は何処へやら。明るい褐色のつややかで豊かな髪も、高々と結い上げていたセットががっくりと崩れており、なまめかしいほどに妖麗な美しさと張りを輝かせていた胸元や首条の肌にも、疲弊の陰か、それとも本性である魔物の本物の持ち物が隠し切れずに現れたのか、どす黒くかさついたくすみが斑
まだらになって浮いている。目許口許はぎらぎらと脂ぎったまま、自分の方へと向いた光の眷属二人をただただ憎々しげに睨みつけるばかり。

  《 〜〜〜っ!!》

 悪あがきの悪態をつこうにも、先程桜庭が声を封じてしまったため、大きな声を張り上げることは叶わぬらしく。赤々とした紅を塗られた口許を歪めると、それでも…術や咒まで封じられてはいない身だと思い直してだろう。

  《 …っ!》

 撓やかな腕を大きく振り上げ、勢いを込めて思い切り。ざんっと降ろしたその所作の風圧の中、小さな点からするすると育って中空を滑空してゆく剣の群れが放たれる。二人を目がけての瞬発力の利いた攻撃だったが、対する側の真白き人々はといえば、
《 ………。》
 さして表情は動かないままであり、欠片ほどにも慄
おののかず。蛭魔が軽く手を挙げて見せたのみ。高々と掲げた訳でもないし振り払うような素早さもない、周囲のざわめきをさりげなく制止する合図のような、本当にふわりとした軽い仕草だったのだが。そんな程度の所作ひとつで、ギラギラとした冷たい殺意を乗せた剣たちの殺到を…瞬時に蒸散させ掻き消してしまったから、攻撃を仕掛けた邪妖が愕然としたのは言うまでもなく。

  “…咒も唱えずに?”

 身内である桜庭もまた、少なからずギョッとしている様子。いちいち練らなくとも良いほどに強い魔力を本人の身に持っていた蛭魔でも、それを発動させるにはそれなりの手順が必要だった筈。極端な話、我を忘れるほどカッとして手を振り下ろしたら思わぬ光線が出ましたでは困る。………これは本当に極端なことだが
(まったくだ)、この陽世界は物質優先世界であり、手っ取り早く言うと…気力だの意識だのという形の無いものや力は“殻”に収納されてでしか存在出来ない。例えば体という物体を動かすのは、その肉体に収納されている意識と気力の働きであり、自律的に身動きしない筈の植物や鉱物といった無機物にさえ仄かに、母なる大地には結構膨大に、そういう“気”は含有されているとも言われている。人間という、野生の世界ではからきし か弱い生き物たちが、だが、弱いなら寄り集まれば良い、様々な道具や方法を駆使すれば良いのだと、やたらに知恵がついて来て。知恵と工夫で台頭し、大人数を混乱なく機能的に働かせるための“社会”などという組織を築き始めたものの、超自然と宗教や暦、数学、政治などという哲学・思想分野がまだまだ混然としていた太古の時代に。そういう無形のパワーを引っ張り出して使えないものかと、考え、探求した一派があって。………これ以上このお話で横道を突っ走っても仕方がないので、此処ではこれまでと致しますが。そういう認識が“咒”という呼称で自然なものとして定着しているのがこの大陸であり、そういうものを専門にしているのが“魔導師”であり、
“咒を使いたければ、特別な形式に則った儀式や手順が必要なんだがな。”
 元は魔神だったという桜庭だとて“人間”という器に収まった以上、やはり“咒”という手順を踏まねば所謂“魔法”は使えない。だから。今、蛭魔が事もなげな仕草でやって見せた咒の発動はとんでもないことである訳で。

  “…それほどのことだったんだな。”

 光の眷属、金のカナリアの持つ力の壮絶なことが、こんなにもさりげなく明らかにされて、
《 くっ!》
 それと相対している邪妖の焦燥は譬えようもないレベルのそれだろうなと、他人事ながら少々気の毒になった桜庭だ。後先考えぬような攻撃を仕掛けたということは、彼女もまた、この二人がもはや“月の子供”とその目覚めを促す単なる“鍵”ではないと分かっているのだろう。陰体の魔力、負の穢れで冒すことで“道連れ”にして滅ぼせる段階の存在ではない、それは強大な力を備えた陽世界の皇子とその右腕であるのだと。

《 くうっ!》

 性懲りもなく、何度も何度も同じ攻撃を仕掛けるものの、やはりあっさりと…右へ左へいなすように躱されては宙へと掻き消されてしまい、

  《 これならどうだぇっ?!》

 今度は逆の腕を大きく振るった魔女の、その腕の軌跡から中空へと飛び出したのは、巨大な竜が吐き出したような…大人一人が立ったままで易々と呑み込まれ、一瞬で骨まで溶かされそうな大きさの紅蓮の炎の塊りが1つ。泉の上に真っ赤な光の尾を引きながら滑空し、正に瞬く間に純白の装束に包まれた彼らへと襲い掛かった灼熱の攻撃だったが。

  《 ………。》

 やはり。今度は身動きひとつしないままな彼らを取り巻こうとしたその瞬間に、燃え盛る恒星のようだった炎弾の方から瞬時に消え失せてしまったから物凄い。掠り傷を負わせるどころか、たじろがせることさえ出来ない“非力な存在”に成り下がってしまった邪妖であり、
《 そんな…っ。》
 喉に閊えて掠れた声のまま、瞳の力みや尖るほどいからせた肩を絶望への墜落を前に大きく震わせて立ち尽くす。そんな彼女との対峙を蛭魔に任せて、じぃっと見やっておられた小さな公主様は、

  《 ……………?》

 何ごとかを傍らに立つ青年へと話しかけられた。小さく首を傾げるようにして、堂に入った態度で何かを訊かれ、それを余さず拝聴した青年は。くすんと小さく笑ってから、少年の御手に触れていない方の腕を自分の体の真っ直ぐ前へと伸ばして見せて。それから、公主様の方をやわらかな眼差しで見、何かの手本を示すように、空いていた白い手をふわりと開いて前方へかざして見せる。その一連の動作をじっと見やっていらした小さな公主様。コクコクと頷くと、その動作をお真似になり、

  《 ………なっ。》

 仕草に合わせて高めの襟に小さな顎が埋まってしまった、そんなにも愛らしき動作にて。ふわりと無造作に前方へ伸ばされた嫋
たおやかな腕。その先にお花のように開いた小さな手。何とも可愛いらしい、子供じみた仕草にも見えたが、

  ――― 遠いところから何か近づいている金属音のような…。

 きぃいぃぃぃぃぃ…んんと。洞窟内に段々と大きくなって響き渡る音がして、それが…公主様の手のひらへと集まりつつある、膨大な気の気配だと分かった時にはもう遅く。
“………え?”
 洞内が不意に、すとんとどこかへ落としたような勢いで、それまでたたえていた温かな目映さを掻き消してしまって。突然の暗闇の中、ちぃん・ちりり…んと。純度の高い金属かクリスタルの縁を弾くような、小さく微かで涼やかな音が軽やかに響き渡る。…と共に、公主様の小さな手のひらの真ん中へ、金色の光の点がちかりと灯ったから。
《 …チィッ。》
 もはやこれまでと思ったか、忌ま忌ましいと表情を強ばらせた邪妖が、ドレスの裾を掴み上げながら何か念じたらしかったが、

  《 なっ!》

 思わぬ事態が生じたか、自分の体をあちこちと見回して見せる。何か捜し物でもしているかのような動作が、和子様のお手元に灯された光の粒の照度にて透かし見え、その表情がますますはっきりして来たのは、大きさに反してそれだけ強い光へと育っているからなのだろう。それにしても様子が妙な魔女であり、

  「………あっ。」

 思い当たることがあったらしく傍らで小さな声が上がったのへ、桜庭がこくりと頷いてやる。このまま何処ぞへ逃してなるかと、必死で気力を振り絞っている人がいる。それまで抑圧されていた身の途轍もない苦渋を取り返したいのか、恐らくは持ち得る最大の力を振り絞ってだろう。邪妖の動きを縫いつけている人物の強い意志へと、和子様のお顔が小さく頷いて見せ、

  《 ご尽力、確かにお受けした。》

 この邪妖に取り憑かれた悲劇の正妃。何年もの間、意に添わぬ暴挙をその身が成すことを強いられて来た皇太后様。巫女であられたその強い精神力が、今、この機会だけは逃すまいぞと気力を振り絞ったものと思われて。咒を唱えて逃げ出そうとした邪妖をこの場に縫い止めて下さっておられる。それへの礼を静かなお声で仰せになってから、

  《 哈っ!!》

 高らかな気合一喝。金の砂粒ほどの大きさだった小さな小さな光の点は、その一点へきゅううと収縮していたものが一気に弾けて。洞内の隅々までもを はちきれんばかりの光で圧し、灼熱を帯びた火炎のような躍動の生気を満たした閃光となって。逃れられない大太刀の、鮮やかに閃く一振りのごとくに。ばちばちとまとわりつく放電をともなった光の奔流となって、それこそ罪科を滅する業火のように邪妖目がけて襲い掛かって。




  
《 あ…ぎゃあぁぁあぁぁぁあああぁぁ………っっっ!!》




 今世の騒乱を引き起こした一匹の妖
あやかしが滅んだことを告げる絶叫が、長々と尾を引いて洞窟内に響き渡ったのであった。








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 *きっと絶対に段落の“区切り”あちこちで間違ってますけれど、
  だって進さんを復活させるところまで、一気に読みたいじゃないですか。
  っていうか、すっきりそこまでご披露したくてvv
  それでこんなややこしい運びとなってしまいましたです、悪しからず。