それが かりそめの恋ならば… B
 



          




 何の気配もないままの無音かと思ったら、無色透明な静寂の中に何かの囁くような気配がしていて。頭を回そうとしかけて、その時に初めて、自分が何だか妙な態勢にあることに気がついた。
"………あ。"
 気分がすぐれずに帰って来たそのまま、ベッドへぼすんと上半身だけ倒れ込み、うつ伏せに突っ伏した格好で…いつの間にか転寝していたらしい。覚醒し切らぬ感覚のまま、周囲の気配をまさぐってみる。

   ……………………………。

 耳鳴りのような、静かな気配がする。何かに軽く没頭していたなら、気づかないでやり過ごしていたような微かな音がしていて。敷布に肘を突き、億劫そうに身を起こして、ずるずると引力に身を任せて床までゆっくりすべり落ち、ベッドの脇にぽそんと座り込む。ブラインドを上げた大きな窓の向こうには、淡いグレーを染みひとつないようにと上手に染められた絹布のような空が一面に広がっており、そのガラス窓に…よく見れば銀色の引っ掻き傷のような痕跡が一つ二つと散らばっていて。

  "…雨、か。"

 やや寝乱れた髪を指で梳き、特に感慨もないまま、ぼんやりと眺めやる。曇っている割には明るいけれど、果たして何時頃なのかな。ベッドの上、枕の傍らに携帯電話が無造作に放り出されており、常の習慣でメールチェックとついでに時間を見ようと手を伸ばしかけて、

  "………。"

 その手が中空でひたりと止まる。触れてはならない呪
まじないでもかかっているかのように。一番身近な人との連絡にとだけ使っている携帯。ナンバーを教えた人が限られているこれへ、彼からの連絡も入っているに違いなく。あんな唐突な真似をしたのはどういう料簡かと、そうと問うよな文面が予想されて何だか気後れを感じてしまう。いやいや、もう愛想を尽かしたことだろうよと思いもするのだが、だとしたら。何の反応もないのを確認するのが、これもまた妙にためらわれて。
「………。」
 億劫そうに首を回して背後の壁掛け時計を見やり、夕刻だと確かめると、溜息を一つついて立ち上がる。日常の習慣を淡々とこなすことにして、携帯には結局、触れなかった妖一である。





 一階の内部側のエントランスホールには、分厚い壁で出入り口のある向こう側と仕切られた格好で、各家庭へと届いた投函物を内側にいながら受け取れるメイルボックスが並んでいる。最近では郵送物も個人情報目当てに盗まれる危険性が出て来たための配慮であり、封筒以上の大きさの物は入れられないスリット状の投函口は表にあるが、配達されたものが溜まる箱の方へは、警備員の詰めている入り口から入ってこちらへ回って来ないと触れられないという仕組み。これでも一応"情報"を手持ちの武器の一つに勘定している身であるがため、こういった郵送されてくるオフラインからの情報だっておろそかには出来ない蛭魔であり、そんな生活振りが長かったからか、どんなに億劫でもこの時間帯になると見に行かねばと体が動くから習慣とは恐ろしい。
"………。"
 こういう些細な習慣はともかくも、行動力には自信があって。常にアイドリング状態のままを保ちつつ、日頃はあまり…突き詰めてまでは何かを考えずにいたと思う。アメフトにまつわるもの以外には取り立てて関心がなく、ともすれば"警戒"してもいたからだ。だから、

  ――― これから何が起こるのだろうか、何がやってくるのだろうかと。

 ある意味ではこれも屈託なく、全方向にアンテナを広げて構えていられた。いつだって果敢で挑発的なポテンシャルを保てていて、何か事を起こす時は自分の体が一つしかないのが苛立つほど意気盛んになれたし、向かって来るもの全てへの"返り討ち"を見事に決めるためには幾らでも闘志が沸き立った。感情や思い入れなどを一切差し挟まないで冷然とこなせるものだから、切り替え、見切り、立ち上げの素早さには自負があり、究極の合理主義者であることが誇りでさえあった。そんなせいか、自分から身動き出来ない種の事象へ、意味なくとらわれるのは苦手だったかも。何か相手があっての"待ち"の我慢でさえ苦手だのに、今回のは…その対象が"自分の気持ち"という代物だから始末に負えない。そう、桜庭へ取り付く島さえ与えないでいる意固地な構えを取っているのは他でもない"自分"なのだし、ならば とっとと思い切りよく振っ切ればいいのに、それへと振っ切れないでいるジレンマもまた、何とも歯痒くて苛立たしい。
"…チッ。"
 こうまで落ち込んでいる自分もまた鬱陶しい。ただただ感情に振り回されている。誰が悪いのかと言えば、いきなり子供みたいに駄々をこねた自分の方だと、頭の中の冷静な部分があっさりと答えを差し向ける。これまではきっちりと納得出来ていたことではないか。自分の側からも"彼"を信頼するようになって、その懐ろに安穏ともぐり込むことを自分に許すようになってからは尚のこと。余裕を見せて、大人ぶって。誰からも愛され、求められる彼であることを、自分の誉れであるかのように優越感にも似た気持ちで見ていた筈ではなかったか? それが何故、今日に限って…。
"………くそっ。"
 ああ、まだ とらわれている。こだわっている。感情と理性とが不整合を起こしていて、それで落ち着けず居心地が悪い。こんなこと、今までになかった。理性で割り切れないことへは、根本から捨てるか、気が済むまで徹底的に挑むか。待ちの姿勢はやっぱり苦手で、とにかく何かしらの動きを取ることをモットーにしていたのに。それが、今はどうだろう。動き出せずにいる自分。見切ることも真っ向から向かい合うことも出来ずにいる自分。向かい合えないのは…。
"………いい加減、呆れてるんだろうな。"
 もう既に、向こうから見限られているやもしれないと思うから。だとしたら、こっちから働きかけたところで、つんと無視されるか最後通牒を改めて突き付けられるだけのこと。そんな詰まらないものへと向かい合うのはけったくそ悪いので、結句、こちらからのアプローチは取れず、明確なピリオドも打てぬままになりそうな気配なのが今から憂鬱な妖一さんで。
"………。"
 こんなに我儘で身勝手で。自分のやりたいことへ手段を選ばぬ、強引傲岸な人非人で。仲が良いだなんて広く知れたなら、体裁が悪いだろう奇天烈な存在。そんな人間に、よくもまあ根気よく付き合っていると思う。好奇心から気になってのことなら、もうそろそろ堅実なものを選ぶようにならないといかんぞお前と、説教してやりたくなるほどで。

  "…馬鹿みてぇ。"

 ぐるぐると愚にもつかない考えや想いばかりが巡る頭を指先で押さえつつ、はあと今日だけでも何度目かの大きな溜息を零しつつ。ゆるやかに停まったエレベーターから降りて、自分の部屋のメイルボックスへ真っ直ぐに向かう。素っ気ないステンレスの箱の扉を開くと、輪ゴムで束ねられた何通かのDMの封筒が大小幾つか収まっていて。それらを無造作に掴んで引っ張り出した蛭魔のその足元へ、とさりと落ちた封筒があった。
"???"
 淡い水色の洋封筒。今時に手書きの表書きというのも珍しく、紙質の分厚さを考慮した上でそれを除外しても1cm近い分厚さで。

  "……………。"

 勉強を見てやったせいですっかりと見慣れたものとなった字で、丁寧に綴られた自分の苗字と名前。封緘にはシールが貼ってあって、それを無造作に剥がして中身を引っ張り出す。封筒とお揃いの便箋には、表書きと同じ字がたくさん並んでおり、


 『妖一へ。

    ごめんなさい、ごめんなさい。
    ボクが悪かったです。妖一だけが好きです。
    堪忍してください。何でも謝ります。だから、もう一度だけ逢って下さい。
    ごめんなさい、ごめんなさい。
    ごめんなさい、ごめんなさい。
    軽率でした。ボクが悪かったです。
    どうか許して下さい。妖一の顔が見たいです。声が聞きたいです。
    ごめんなさい、ごめんなさい…。』



 その後も延々と"ごめんなさい、許して下さい"という種のお詫びの繰り返しばかりが、なんと十枚近くもあったりする。それだけの内容でこの分厚さというのは尋常ではなくて。さすがは、暇を見てサインの書き溜めをしてきたアイドルだけのことはあるよな…だなんて、そんなひねくれたことを思うより。

  "直接投函…だよな。"

 切手の有無を見るまでもない。さっきの昼間、ほんの数時間ほど前に別れたばかり。そんな相手からの手紙が、郵便局経由でこんなにも早々と届く筈がない。
"………。"
 しばらくほど。その場で固まっていたものが、顔を上げると外への自動ドアへと顔を向ける。このドアを通過するためにと"彼"を登録したパスコードは抹消してしまったから。やって来たものの中へ入れなくて…それでの事だろうとは思うのだが、
"………。"
 ガラス扉の向こう、エントランスのロビーには誰もいず、がらんとした空間が乾いた照明に照らされている。その向こう、外へと出入る扉の大ガラスには、そろそろ満ち始めている宵の翳りがほんのりと滲んでいる表の様子が透かし見え、
"………確か、雨が。"
 ためらっていた爪先が、そのままそちらへと向かっている。2枚の大きなドアを足早に通過して出た表。丁寧に擦った墨のようにつんとする、雨に濡れた土の独特な匂いが鮮烈な印象で立ち込めている中を忙しげに見回した。外壁沿いに常緑の植え込みがあって、それを縁取るレンガの端っこ。昼間のまんまのいで立ちで、長身を窮屈そうに縮めて座っている彼がいる。曖昧な天候のせいで、陽が落ちかかればまだ多少は肌寒い時節。一応は上着を着ている彼だけれど、いつからどのくらいそうしているのか、所在無さげに佇む顔色は、薄く暮れなずみ始めたグレーの暮色の中へと沈み込みかかっており、
「…おい。」
 声を掛けたこちらを見やり、それからゆっくり立ち上がった。表情が動かないのは、さすがに怒っているからだろうか。そういえばこの青年、日頃は穏健だが、キレると凄まじく恐ろしいと先日知ったばかり。そうそういつもいつも柔順に構えて下手に出てばかりでもない、怒ればそれなりに行動が取れる人性でもある筈なのにと、頭の隅でちらりと思っていると、

  「…妖一?」

 ロビーホールからガラス扉を通して零れている明かりに照らされているのだから、こちらの姿ははっきりと見て取れるのだろうに、実在のものを見ているにしては、何となく。力のない、頼りない顔でいる彼であり。そんな相手へ、
「何なんだよ、これ。」
 蛭魔は、彼が投函した封筒とその中身を顔の横へかざすようにして振って見せた。

  「お前は全然悪かないだろうが。なのに…なんで、こんな簡単に謝るんだよっ。」

 癪だけど事実だ。悪いのは一方的に我儘な態度を取った自分。約束はしなかったがそれでも、人気タレントである彼がこんなところにいるぞと大声で公言するなんて、親しいのなら…彼からそうと信頼されているのなら、一番やってはいけないことだのに。そうまで理不尽な意地悪をして駄々を捏ねた"間違っている自分"へ、なのにこんなに平身低頭で謝られたことさえ何となく癪で。やはりやはり咬みつくような顔になっている蛭魔へ、

  「だって。」

 語勢に押されてかうつむきがちになり、桜庭はぽつりと呟いた。

  「妖一、物凄く怒ってたから。
   このままじゃ、もう二度と絶対逢ってもらえないかもって思ったんだもの。」
  「…馬鹿か、お前。」

 普通は、怒らせたって思ったならその相手からどんな報復されるかを考えるもんだろうがと言い返せば、
「そんなのは怖くないもの。」
 こちらも真顔のままに桜庭は言い返す。此処のパスを抹消されていたことに気づいて、尋常な怒り方じゃないと判った途端に、冗談抜きに血の気が引いた。何かされることより、何もされない…切り離されることの方が今は断然恐ろしい。

  「お前なんか知らない奴だって、縁を切られちゃう方が怖いもの。」

 小さく笑った口許が、血の気を失ったような色合いにて見えたのは、体が冷えきっていたからか、それとも。ずっとずっと怯えていた彼だったからなのか。辛い時ほどそれを押さえ込んで微笑えるようになっちゃったと、そんな悲しいことを言ってた彼だと、脈絡もなく思い出し、

  「……………馬鹿野郎が。」

 どんな我儘で振り回しても笑っていてくれる。自分の側に非を集めて甘やかすかと思えば、本当に時々だけれども、優しく叱ってもくれる人。こんな自分になんか近づいたってロクなことはないんだぞと、どんなに突っぱねてもどんなに冷たくあしらっても、粘り強くずっと傍にいてくれた人。それこそ"別け隔てなく"誰が相手であれそうして来た、可愛げのない抵抗をやめた途端に、彼という人物があらためてはっきりと見えて来て。山ほどのコンプレックスと戦って来た、粘り強くて我慢強くて、実は見かけによらず頼もしい人だと分かって来て。大人たちの計算高いばかりな世界に飛び込んだせいで、複雑で残酷な人間関係に間近で接する立場にもなって。さぞかし心痛める思いに揉まれ続けた彼だったことだろうに。辛い時ほど泣けなくなったと、そんな重しに胸を塞がれたまま逢いに来てくれた時は、呆れるよりも嘲
あざけるよりも…そんな顔をさせてたくなくて、何とかしてやりたくて。何者からも守るように抱き締めて、温めてやりたくなったのを思い出した妖一で。

  "…チクショっ。"

 このバカ春人がと忌ま忌ましげに言い放ちながら。こちらから駆け出すように歩みを運んでやって、その場に足が凍りついて動けないような彼の傍らへと向かう。余計な手間かけさせてんじゃねぇよと、毒づきながらも…冷えきっている筈の彼の、温かな懐ろがそれは恋しかったからだった。





 


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  *とりあえず、二人離れ離れなままというのは落ち着きませんので。
   大急ぎで逢わせてあげました。
   一番根性が足らんのは、他でもない筆者です。
(笑)