北天迷宮図 B
 

 
          




   ぱたん、と。


 後ろ手に閉じたドア。もうすっかりと陽も落ちていて、真正面にある窓辺の勉強机や、その傍らのベッドの輪郭が、薄暗い中にぼんやりと見える。
"………。"
 あれから一体、何をどんな風に話したやら。当たり障りなく過ごせたことへと"ほう…っ"て溜息をついて。何だかどっと疲れたなという印象ばかりがのしかかって来て、肝心な内容を一つも覚えてはいなかった。
"こんなことって今までには無かったなぁ。"
 いつもだったら、何か1つ…進さんが言ったこととか、見せてくれたお顔だとか、一つだけでも思い出せたなら、それに連なっての前後のやりとりだとかも するすると思い出せるのに。そいでそいで、いつまでも心がほこほこと温かくなって。また早く会いたいなって、そんなドキドキで胸が一杯になるのにね。
"4日振りに逢えたんだのに…。"
 手荷物を床においたまま、ぱふんて。カバーをかけたままのベッドへと倒れ込む。外さないでいた襟元のマフラーの、少しほど強
こわい感触が冷えてた頬にちくちくと当たってる。試合の内容が途切れ途切れに思い出せて、それから…蛭魔さんのちょこっと慌ててたお顔とか、待ち合わせした通路の壁の色。ざわざわと毛羽立ったような感触のした空気の中、乾いた明るさが…照らし出したもの。呼び止められてか立ち止まった彼に、私服姿の数人の女の子たちが怖ず怖ずと駆け寄って。その中の一人が、どこかおどおどしながらも何か話しかけていて。相変わらずの無表情なまま、それでもちゃんと話を聞いていたあの人は。

  ――― 彼女から差し出されたものを、
      その大きな手で、しっかりと受け取った。

 少し大きめのオレンジ色の封筒。隅っこに手書きの赤い蝶々が描いてあったな。結構遠かった筈なのに、そこまで鮮明に見えたのは何故だろうか。無事に封筒を渡せた女の子は、途端に"ぱぁっ"と表情が明るんで。何度も何度もお辞儀をしてから、後ろに立ってたお友達だろう女の子たちの輪の中に取り巻かれると、控えめにはしゃぎながら…その場をそそくさと立ち去ってしまって。

  『…小早川?』

 まるで、スクリーンの中の出来事を眺めてたみたいな気がしたの。進さんのお顔とか、女の子が羽織ってたブルゾンのボタンの色まで分かるくらい鮮明で、遥か彼方というほど遠くではなくて。でもね、それって銀幕の中で繰り広げられてることだから、別世界のことだから。関係者ではないボクには口出し出来ない…っていうのかな。見えはしても触れられない、そんな場所での出来事って感じがあって。

  『???』

 こちらに気づいて、すぐ前まで来てくれてた進さんが、もう触ってもいい進さんになってたのにさえ気がつかないまま、ぼんやりしちゃってて。
『あ…あと、すみません。』
 はにゃんと笑って見上げると、大きな手でぽふぽふっていつもみたいに髪を撫でてくれて。
『頑張ったな。』
 短いけどね、優しい一言。試合に勝てて偉かったねって褒めてくれて。それから二人で、競技場を後にしたのだけれど。そこからの記憶が、おかしいくらいに殆ど無い。いかに心ここにあらずな状態だったセナかということだろう。

  "……………。"

 あれってやっぱり、そうなんだろうか。………そうなんだろうな。なんか、少女漫画の1シーンみたいだったよな。恥ずかしそうに、でも、精一杯の勇気を振り絞ってた女の子。そんな彼女を応援していたお友達。そんな構図を見て取っただけで、意味するもの全てがすぐさま分かった進さんかどうかはともかくも。お手紙は受け取ったのだから…今頃は中身を読んで納得がいってる筈だ。

  "………。"

 進さんはとても素敵な人だから。男らしくて頼もしくて、凛々しくて誠実で。自信にあふれてて堂々と、いつだって胸を張ってる前向きな人で。これまでは…禁忌をもって自分を制すような、自分に厳しいトコもなくはなかった人だったから。無愛想で表情も乏しくて。口数少なく気が利かなくて。そんなせいでちょっとだけ、気難しそうで近づき難い"怖い人"なだけだったけど。実は実は、何にも知らない"不器用さん"なだっただけ。今は随分と表情も優しくなったし、ボクみたいな小さい子や気の弱い子、か弱い子への接し方も、恐る恐るだったものが手慣れても来たし。壊しはしないか、傷つけはしないかと、最初の内は触れるのさえ躊躇
ためらわれたのだそうだけれど、今では…そぉっと接して包み込んでくれるくらい、余裕で出来ちゃう進さんで。毎日逢ってても日に日に際限無く"好き"が高まるほど、どんどん素敵になってく人だから。そういうのに敏感な女の子たちが見逃す筈はないもんね。そして………とうとう、勇気出して告白する子が現れたんだね。彼女の方も、良かったね。一生懸命な気持ちを突っ撥ねたりしない、それは優しい人だったでしょ?

  "可愛い子だったなぁ…。"

 真っ直ぐで真っ黒な髪、動くたびにつやつやの光の帯が揺れていて。細い指の小さな手がお人形さんのみたいに愛らしくて、進さんの大きな手が近づくと赤ちゃんのみたいに見えたくらい。封筒を受け取った進さんが何か短く言ったのへ、やっとのことでお顔を上げて…その手でお口を押さえてパァッて真っ赤になってた。大きくて男らしい、精悍な進さんと並んだら、いかにも可憐で華奢なところがお姫様みたいで。強い人から守ってもらえる構図に自然と嵌まってお似合いかなって思えるような、そんな雰囲気の女の子。

  "進さんの方が先にGFさんを作っちゃったか。"

 苦笑
わらおうとして、でも………。
"………。"
 口許が凍って動かせない。口惜しいとか残念とかっていうのとはちょっと違う、何だかとっても切なくて…苦しい気持ち。大好きな人、取られちゃったような気持ち。でもネ、でもサ………。


  "………ボクって、進さんの何なんだろう。"


 別の学校の、別のチームの人間だけれど、それでも目をかけてくれてるのは…アメフトの実力で歯ごたえのある後輩さんだから? 小さな仔犬みたいに擦り寄って、凄くよく懐いてくれてるから、小さくて可愛い"弟"みたいだなって思ってる年下のお友達? これまでは誰も視野にはいなかったという、そんな進さんに"並び立つ者"として認めてもらえた光栄さに、今まで ふわんて浮かれていたけれど。フィールドを離れても"いい子、いい子"って構ってくれる優しさに、ついつい甘えても来たけれど。………もしも、もしも。そんな進さんに、傍らに添って絵になる女の子が現れたら? 進さんのこと、ちゃんと包んであげられるようなしっかりした。それとも、進さんの側から守ってやりたいって思うような可憐な。そんな女の子が現れたら? 一番仲がいい、一番目をかけてる後輩さんとかお友達であっても、そこはやっぱり"一線"を引かれてしまって。その人をこそ優先しちゃう進さんだろうと思う。どんなに大切でも、アメフトの試合とご家族の窮地とだったらどっちを選ぶ? そう、たとえどっちもが至上なくらいに"一番"で"大切"であっても、まるきり次元の違う"それ"と"これ"であり、いざとなって選ぶのはやはり………。


  "………。"


 何だかお鼻の奥が つきつきってして来て、眸の奥がじんわりと熱くなる。薄暗くなって来たお部屋の中、壁に凭れて座ってるベージュのクマさんが視野に入って。でも、すぐに歪んで見えなくなる。


  "………進さん。"


 ボクからの"好き"は、これからの進さんにはご迷惑な"好き"になっちゃうのかな。そうと思うと物凄く胸が苦しい。ボクがいた場所に、これからはあの子が立つのかな。だって、女の子だもん。それが自然なことなんだもん。そう。とっても"自然なこと"が突然降って現れて、それで…なんだか悲しくなってしまったセナだった。





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  *いつかは書かなきゃいけないお話の、これは序章でございまして。
   (もしくは"前編"かな?)
   実は、ウチの瀬那くん、
   自分と進さんの間柄をきちんと把握してない節がある。
おいおい
   自分の側からは、誰よりも大切な人、大好きな人。
   でもね、男女の間に成立する、所謂"恋仲"なのかどうかとなると、
   実は…きちんと納得把握していない。
   きっちり"告白"していても、キスまでされてたっても、
   その"好き"と この"好き"とは別問題らしいです。
う〜ん

   悪い言い方で、ずっとずっと見ないようにして逃げ回って来た"それ"へ、
   今回ちょろっと接近遭遇しちゃいましたね。
   さてさてどうなりますやら。ちゃんと書き切れますかどうか。
こらこら
   終盤戦、頑張りますね。