critical situation 〜混迷の12月 B
 

 

          



 この談話室を増設した時に買い足した瀬戸物の茶器セットを引っ張り出すと、電気ポットの湯を確かめて、小さな手で上手に煎茶を淹れてくれ、
「はい、どうぞ。」
「ん。」
 まるで新妻が気難しい夫へと淑やかに差し出すように。つつつ…と献上された白い湯呑みからは、絹糸のような湯気がほわりと立ちのぼる。明るい陽光が射し込む部屋の真ん中、何脚かのパイプ椅子で囲まれた長テーブルには、新聞紙を皿代わりに、5、6本の丸々としたさつまいもがこんがり焼かれてごろごろと広げられている。
「…お、旨いな。」
 ああ言った手前、已なく1つを割って ぱくんと食いついた蛭魔が、おやっと意外そうな顔になる。それを見て、
「でしょ?」
 自分の手柄みたいに嬉しそうに笑って、すぐ隣りの角っこの椅子へと腰掛けながら、自分も1本手に取った瀬那で。
「ホントは学園祭でスィートポテトにして売る予定だったんですって。でもこの夏は冷夏だったでしょ? それで夏場に全然育たなくって間に合わなかったんで、こうなったらって秋の間 太るだけ太らせたらこんな甘いのになったんで、量もあるからってお姉ちゃんにって一杯くれたそうなんです。」
 相変わらずにモテている まもりで、だが、そのマドンナはといえば。そちらも相変わらずに…この小さな幼なじみを何よりも最優先にと、それはそれは大切に扱っていて他には目が行かないほどの状態にあるのだから、ある意味、これも勿体ない話。小柄で内気で臆病で、そんな風情が安っぽい いじめっ子から目をつけられやすい、典型的な"いじめられっ子"のセナ。
"………だった、んだよな。"
 この子が自分を怖がらなくなって、もうどのくらいになるんだろうかと、ふと思う。そのずば抜けた脚の速さに度肝を抜かれ、他の部に奪られる前にと、半ば脅すようにしてアメフト部に引き入れた。小器用に色んなことが出来る必要はなく、ランニングバッカーならフィールドをねじ伏せる脚さえあれば良いんだと、そうと言ってやったところが、めきめきと。速さと共に センスと度胸、実力と自信をも身につけてゆき。あの"高校最強"進清十郎との初顔合わせでも、最初こそ怯えていたものが…しまいには、もうちょっとで勝てそうだからと、挑ませてほしいと自分から言い出すほどの"大化け"をした逸材で。

  "だが、まさかその進と懇
ねんごろになろうとは思わなかったが。"

 そですよねぇ。
(笑) アメフト馬鹿な朴念仁と 純情可憐な箱入り少年という、絵に描いたような"天然"同士のカップルはおいおい、セナが繊細なことで色々補って上手くいっていたものが…先日はそんなセナへと不安の陰が忍び寄り、思い込みが過ぎて倒れたほどの窮地を迎え、思わず冷や冷やさせられたもしたが、

  "上手く収まってくれたようだしな。"

 先日の決勝戦でも記録的なタッチダウンを決めて大活躍したほどに、何の憂いもなく復活してくれて。やれやれと胸を撫で下ろしたばかりの話。嬉しそうにほくほくと、特製焼き芋を頬張る幼いお顔を微笑ましげに眺めていると、ふと。その童顔の真ん中寄りに並んだ大きな瞳がキョロキョロと辺りを窺い、それからおもむろに………、


  「………さっきのって、桜庭さんのことでしょう?」


 こそりと。大仰なくらい掠れさせた小声で訊いてきた。皆まで言われずとも、何を指している彼なのかは蛭魔にも通じて、
「…まあな。」
 ちっ、覚えてやがったかと、少々表情が引きつりかかる。そこへ重ねて、
「やんないとっていうのは………あのその、もしかして………………。」
「……………。」
 何だか、物凄く年の離れた…まだまだ小さい従弟や甥っ子辺りを相手に、自分の恋愛相談を持ちかけるみたいで気が引けるのだが、大きな瞳をじぃ〜〜〜っと向けて、心配そうに窺われると、
「ま、まあな。/////
 そうそう、この子だってもう高校生なんだしィと。やっとのことで思い出してみるご隠居様だ。
(笑) そういえば前にも、相談に乗ってもらったというか、話を聞いてもらったことがある。あの時は"桜庭さんへまだ突っ慳貪にしているのか?"と、そんな態度を窘たしなめられたんだったっけ。嫌いなのかと直接訊かれて、そんなことはないって…はっきり口にしたのも、もしかしたらあの時が初めてじゃあなかったのだろうか。(『オータム・デート』参照)
「ダメなのかなぁってことは、迷ってるんですか?」
「…そういうことだ。」
 見かけで判断してはいけない。この子もまた、人を思う心の奥行きが たいそう深い子なのだと思い出す。あの朴念仁の大男を、どう見たって叩かれ強い鈍感な奴だろうに…なのに傷つけまいとして、沢山の我慢を抱えて来れた強い子だ。どうかすると自分なんかよりも大人かも。そうと見識を改めてから…きれいな緑に淹れてくれたお茶に口をつけ、

  「ここんとこ、謝らせてばかりいるもんでな。」

 ぽつりと呟いた。
「謝る?」
「ああ。」
 昨夜の話はちょこっと伏せたが、それを除いても。キツく抱っこしてゴメンとか、急にキスしてゴメンとか、いつまでもしつこく頬擦りしちゃっててゴメンとか、etc.…。秋めいて来た頃からこっち、桜庭くんが"やり過ぎた"あまりに蛭魔のご機嫌を伺うべく謝らないで済んだ日は一度も無いのではなかろうかと思うほどであり、
「そ、そうなんですか。/////
 う〜わ〜〜〜、またお惚気聞いちゃった/////、と。自分から訊いといて真っ赤になったセナくんだったが、

  「幸せそう…ってのかな。俺なんぞへ嬉しそうに懐いてくれてサ。」

 静かなお声がそんな風に言い、

  「だから、勢いが余ったくらいの甘えかかりなら、別になんて事ないんだけどよ。」

 沢山の"好き"を囁いてくれた。いっぱい微笑いかけてくれた。忙しいのに出来るだけ傍らに居ようとしてくれている。自分がどういう人間なのかを、少しずつ少しずつ拾って感じてくれて、今ではかなり知り尽くし、判ってくれてる人でもあって。

  "………。"

 だから…というのでもないけれど、一緒に居ると心地いい人。優しくておおらかで、自分のさんざんな我儘にもめげなくて。愛嬌があってソフトな人当たりだが、でも芯は強くて。辛いことに遭えば、さすがに苦しそうな顔になるけれど、ちゃんと立ち上がって克服するだけの性根はあると知っている。そんな人だから、多少の馴れ合いくらい、むしろ擽ったさが楽しいくらいで全然OKなんだけれども…。

  「…ただ。」

 そう。ただ…どうしても踏み切れないのが、

  「そういう順番だってのは分かってるんだが…どうしてもな。」

 ちょこっと口ごもって逡巡。それからおもむろに…。

  「…やっぱ、やんないから あいつも不満なのかなぁ。」

 本心から“困ったもんだよなぁ”という困惑のお顔になって、

  「俺としては…そんなに急ぐ必要はないのになって思うんだよな。」
  「はあ…。」

 そか、と。何となく、ここに至って妖一さんの戸惑いの理由がセナにもやっと見えて来た。

  "蛭魔さんは今の状態で物凄く満足してるんだ。"

 あまりに経験値が低すぎて、例えば好きな人の体温を感じるだけで、大好きな匂いに包まれるだけで十分に満足出来てしまえる段階。奇しくも少し前の章で、その桜庭くんが進さんへと感じた…正にそれ。今が十分に居心地が良いから、そんなに急いて先へと進めない。優しい彼へと報いてあげたい気持ちは山々なれど、流されるのは何だかヤだし。ましてや、させてあげてもまあ良いかなんて薄っぺらなのは、昨夜ぞっとしたように思い上がりもはなはだしいような気がしてどうしてもイヤ。どうせならこっちも同じくらい盛り上がってからが良い…と。

  "そんな風に思ってるから…。"

 双方の極端な温度差に戸惑っていて。で、選択決定権を持つ身であるものだから、自分の気持ちばかりを優先しても良いもんだろうかと困っている…というところかと。

  「蛭魔さんて進さんに似てるんですよね。」
  「はぁあ?」

 あ。またまた十文字くんの真似させちゃったわ。
(笑)
「いえ、あの、見かけとかじゃなくて。アメフトしか目に入ってなくて、アメフトしていればそれで満足だったってトコです。」
「………う"。」
 図星を指されて、ちょっとたじろいだものの、
「それはそれで構わないんですけど………。」
 何をか語ろうとしているセナであるらしく、
「………。」
 ここは黙って拝聴しようかと、蛭魔も椅子に凭れ直しかけた…のだが。


  “………?”


 おやと。気がついて、まじと眸が留まる。かたんと椅子から立ち上がり、テーブルの端を回って、すぐ間際の隣りへと腰掛け直す蛭魔に、
「?」
 何事だろうかと小首を傾げつつも、だが、まだ危機感は無さげな顔で、こちらの動向を見守っているだけなセナであり。小さな両手で胸の前、ほこほこのおイモを持ったままの、リスかハムスターを思わせるようなポーズのままでいる。そんな彼の無防備な顔へと向けて。まるで"お嬢さん、お手をどうぞ"とワルツにでも誘
いざなうかのように、形良く斜めに指を揃え、ゆるやかに差し出されて来た白い手のひらがあって。
「???」
 その手がするりと。頬を掠めて耳の下、おとがいが始まる辺りの首元へと伸べられて、ようやく、

   「あ…っ!」

 あわわと慌てたセナだが、もう遅い。細い指先が摘まんだのは、肌色のプラスター…一般的には"バンドエイド"という商標で有名な絆創膏。制服の白いシャツの襟元からその端っこが覗いていたのが見えて、何でそんな場所に貼っているかなと………思ったと同時に体が動いていた蛭魔であり、
「…つっ☆」
 素早く"ぺりり"と剥がされた下から現れたのは………さざんかの花弁を思わせる赤い痣が一つ。

  "…おおう☆"

 ほのかな予想はあったものの、実際に…しかもこのセナくんの肌に見るとなると、そこはやっぱりインパクトが違う。ちょいとばかりギョッとした蛭魔だったが、
「な、内緒ですよっ?/////
 パッと手で隠しがてら、真っ赤になってそんなことを言うセナには………ついつい、

  「………誰に何を言えってんだ、これ見て。」

 ちょっと呆れたご隠居様でもあったりした。
(笑) お約束の漫才はともかく。

「そっか、先を越されてたか。」
 ふ〜んと。彼には珍しくもしみじみと言われて、
「いや、あのえっと…。/////
 セナくん、ますます真っ赤になる。からかうような口調ではないし、
「…あ。」
 ぽふぽふと。軽く髪を撫でられたのへ顔を上げると、

  「優しいのか? 奴は。」

 それは穏やかなお顔になって訊いてくれる蛭魔さんだったものだから、
「はい、あの…。/////
 とっても優しいですと、蚊の鳴くような声で言い、
「そいで、あのあの…。/////
 クリスマスボウルに差し支えがあってはいけないだろうからって、実はまだあの、………までは至ってはいませんと。首条のキスマークが飲まれるほどに真っ赤になって、詳細を御報告下さったものだから、
「…そ、そうなのか。/////
 それはどうもご丁寧にと、こっちまで釣られて照れてしまいそうになる。
(笑) とはいえ、二人揃って真っ赤になっていてもしようがない。とりあえずは…絆創膏を貼り直してやらんとなと、棚から救急箱を降ろして隣りへ戻り、顎を上げさせ、
「あー、こりゃ半分は襟の下なんだな。」
「はい。」
 しょうがないかと、ネクタイをほどいて襟を少しほど はだけさせる。細くて白い華奢な首。クラッシュの多いスポーツだから万が一にも傷めてはいけないと、ちゃんと鍛練を積んでいる筈なのだが…これ以上の筋肉はつかないらしき幼い肉付きの首条に。いかにもなタッチにて…花びらを筆でやわらかく描いたような、微妙な丸みと濃淡を見せている紅の刻印は、きめの細かい肌目に鮮やかに目立って、なかなか煽情的な構図でもあったが、

  「ボク、進さんのこと、信じてなかったんだなって思ったんですよね。」

 とんでもない一言には、

  「…っ?」

 絆創膏を貼ろうと伸ばしかけていた蛭魔の手が思わず止まったほど。さっき話しかけていたことの続きであるらしく、
「先
せんにボク、思い詰め過ぎて倒れちゃったでしょう? あの時に、進さんに言われたんです。惜しんで良い言葉じゃなかったのにな、済まなかったなって。」
 そう言ってから、薄い肩を窄
すぼめて、

  「好きだよって、あらためて何度も言われたんですよね。////////
  「………☆」

 勝手に不安になって、色々と先走って悪い方へばかり考えちゃって。相手が居ることなのに、勝手に自己完結してしまうのって、考えてみれば失礼なことですよね。今だから笑って語れるけど、あの時は本当に怖かった。でも、

「進さんっていう相手がいることだったのに…。直接聞いちゃうとそれはもう取り返しがつかない"真実"じゃないですか。だから怖がって聞けなくて、そいでそのまま勝手に不安がってて。」

 これって、やっぱり。進さんのこと、信じてなかったから怖かったんですよね。小さく笑って見せたお顔が、何だか泣きそうな切なさに染まって見えて。

  「………っ。」

 ふわりと温かく、撓やかな腕が伸びて来て。すぐ隣りに座ったまま、セナの小さな体をきゅううっと、包むように抱きしめた妖一である。一生懸命な優しい子。ただ臆病なんじゃなくって。人を傷つけることや、傷ついた人を知ることまでもが、自分の痛みになってしまう繊細な子。あんなに怖い想いをしたくせに、それさえ自分に非があったと言い張る お人よし。ああもう、どうしてこいつは…と、こちらまでもが切なくなった。

  「人を好きになるって、幸せなばっかじゃないみたいだな。」
  「………そう、みたいです。でも。」
  「…?」
  「苦しかったり辛かったりの後にね、物凄く大きな"嬉しい"が来ます。」
  「………。」

 腕の中から ほこりと見上げてくる、幼
いとけない笑顔が堪らなく愛惜しい。抱きしめているのはこちらなのに、この小さな温もりはなんて優しく自分を包み込んでくれるのかと、そう思う。

  「だから、あの。桜庭さんはきっと、
   不満なんじゃなくて"不安"なんじゃないのかって思うんです。」

 そか、と。小さな肩の上で頷いてから、だが、

  「蛭魔さんて、やっぱりあんまり"好き"とか言ってあげてないんでしょう?」
  「………っ。」

 どきりと来て、思わず…息を引く。その震えが伝わったのか、セナが小さな声で案じるように呼ぶ。

  「蛭魔さん?」
  「言ってない。」
  「はい?」
  「言ったことない。」
  「…え?」

 肩の上から浮いた顔。かくんと俯いて、小さな声で繰り返す。

  「今までに一度も、桜庭に"好き"って言ってない。」
  「…はぁあ?」

 どうしようか、だから桜庭は不安なんだよなと。だったら自分が悪いのに、奴に謝らせてばかりいて。そんなのって絶対に間違ってるよなと。この人のこんな困ったお顔を見るのは初めてで、それこそ こっちまでおたつきそうになったセナだったが、

  「大丈夫ですよ。」
  「…っ!」

 二の腕をがっしと両手で掴んで、たいそう間近な真下から…ただでさえ色素の薄いのがもっと白くなりかかってる、線の細い端正なお顔を見上げたセナで。

  「今からだって十分に間に合います。
   だって、桜庭さん、まだまだとっても蛭魔さんのこと好きなんですもん。」
  「…そうだろうか。」

 不意に開けた意外な落とし穴の大きさが、あまりに深かったからだろう。こんな蛭魔さんは…後にも先にもホンットに見たことがないというほどに、それはそれは不安そうな顔をしていたが、

  「そうに決まってるでしょっ!」

 ちょっとだけ、励ますように強めに腕を揺さぶってから、セナが指差したのは…テーブルの上にあった携帯電話だ。
「蛭魔さん、無音モードにしてるでしょ。」
 それでもバイブにセットしておけば、テーブルの上で"む"〜ん"と唸って着信に気がつく筈なのだが、畳まれたタオルの上なんかに置いていたものだから、何も聞こえないままに捨て置かれていたらしく。
「ほら。」
 折り畳み式だが小窓から液晶が見えるタイプのその窓に、何通かのメールのマーク。

  「この“春”っていうの、桜庭さんからのなんでしょう?
   3つも立て続けに来てるじゃないですか。」

 ありゃ、と。ぼんやりとそれを見つめて…幾刻か。それから不意に、ぎゅううっと。さっきよりもキツく抱きついて来た蛭魔さんだったのには、セナくんもびっくりして。
「…落ち着きましたか?」
 そぉって訊くと、こくりと頷く仕草を見せる。こんな蛭魔さんは初めてで、びっくりしたけど…ちょっとだけ。何だか可愛いなって、胸の奥が擽ったくなった。いつもあんなに偉そうで、さっきだってサ、びっくりさせた腹いせにってライフル突き付けたりして そりゃあもう。飛び切り乱暴で偉そうな人なのにネ。自分よりは大きい筈なのに…丸くなった細い背中が頼りなく思えて。ついつい手を伸ばして、何度も何度も撫でてあげてしまう。煩いなって振り払わずに…もっとってねだってるみたいに、きゅうってしがみついて来るのが ますます可愛い。







  ――― そんなこんなしていたところへ、


  「……………な〜に してるのかな?」
  「…っ☆」

 今度の闖入にはセナだけがあたふたし、

  「お前こそ、何しに来た。」

 蛭魔の側は逆に、打って変わって平然と…かわいい後輩さんをぎゅうとその腕に抱っこしたままでいる。いつの間にやら、平生の彼へと戻っていたらしい。
「まだこんな早い時間だ。王城だって授業があろうよ。」
 すげない言い方をする恋人さんへ、
「今日はボクの選択してる授業が午前にしかない曜日なんだもん。その授業も自習続きだったもんだから、いっそのことって帰ることにしただけだよ。」
 窓の桟に両腕を肘から載せて顎を置き、説明しながらこちらをチロンと見やる。いつもはとっても優しいものが、眇められた目許が…何だか怖いですぅと。セナが思わず顔を伏せたところ、ますます身を寄せ合ってるような構図に見えて、
「もうっ! 妖一ってばっ!」
「判ったよ。」
 焦れてる様子へくつくつと笑いながら、こっそりセナの襟元を直してやった蛭魔は、
「今日は俺ももう帰るわ。」
「あ、はい。」
 立ち上がりながら、練習さぼんなよと一応の念押し。携帯電話とノートPCをすべり込ませたカバンを手に、窓へと近づき、
「おら、どけ。」
「あ、うん。」
 桟に足を掛けてそこから軽々と外へ。並んだ格好になった桜庭へ、
「お前はどうすんだ?」
「いや…だからさ。」
 体が空いたから来たんじゃないかと、ぼそぼそと言うのへ眸を細め、
「じゃ、ウチへ来いや。」
「うんっvv
 途端に機嫌が直ってしまい、
「セナくん、またねvv
 さっきまで睨んでさえいた主務くんへ、お手振りつきで別れのご挨拶する現金さよ。
「あ、あ、はい。さよならです。」
 こちらも手を振って返しつつ、

  "…十分好かれてるじゃないですか。"

 なのに何を過敏に心配していた蛭魔さんだったのやら。他人の恋路は難しいなと、それでも ほわりと嬉しそうに微笑ったセナくんだったりする。










            ◇



 まだ午後の授業中の構内や通学路には、同じ制服の姿もなくて。肘から差し上げるような格好で腕を上げ、肩に担ぐように持ち上げたカバンが楯にでも見えるのか。それとも…人目のあるところでは やたらとくっつくなと言っていたのを守ってか。フィールドコート風のジャンパーとワークパンツという、至って地味なスポカジスタイルに変装した天下のアイドルさんは、一般人の後を少し離れてついて来る。その気配を背後に感じつつ、

  "これ以上、小手先であしらうのは無理かもな…。"

 貞操への防衛手段としてという意味では勿論なくて、このままでは自分の側の気持ちもきっと危ういと思った。曖昧なままに可愛げなく振る舞い続けて。もしかしたら…いよいよ今度こそ愛想を尽かされるかも知れない。好きって気持ちは甘いばかりじゃないとセナに教わった。あまりにつのれば、胸を裂かれそうなくらい苦しくもなると。自分は果たして、あの子みたいに乗り越えられるものだろうか。物凄く大きい"嬉しい"が来るまで、我慢出来るものだろうか。

  "………それも無理っぽいかもな。"

 いっそ、ただの顔見知りで どうでも良い奴…なままで 居てくれれば良かったのに。他の奴らみたいに、嫌ってくれてたら良かったのにね、なんて。今更どうしようもないこと、思ってみる。

  "…そっちも無理だよな。"

 名前を思い浮かべるだけで体中がまろやかに温かくなる存在。ふにゃりと緩んだ笑顔を見てるとホッとする。今なんて、すぐ後ろにいるって思うだけで背中がほこほこ温かい。肩越しに振り返れば、すかさずのように"にこにこっ"て笑ってくれる愛しい人。

  『妖一の"満ち足りた気分"に、ボクも少しくらいは貢献出来てるの?』

 訊かれた時は ついふざけて誤魔化したけれど、少しなんてもんじゃない。今や、自分の中での彼の存在感は、そのまま喪失したら…他の全部が機能出来なくなるんじゃなかろうかと思われるくらいに大きくて重い。

  "………。"

 人を駒扱いにするなと言ってくれたのも桜庭で、あの時にもちゃんと思い知った筈なのにね。こちらからの思い入れがある人を、言葉や態度で牛耳ったり操作したりするなんて、そんな傲慢なこと、しない方が良いと。これまでは…そんな高慢さを嫌われて見切られるのなら、それもお互いのためだから構わないさと高をくくっていた自分。ところが…そんな独りよがりな性分さえ理解して、それでもなお"愛しい"という態度を崩さないでいてくれる人がいると、そうまで愛される重みを身に染みて知ってしまった。

  "………。"

 好ましい人からの拒絶という痛み。それを自分の側だけが一時我慢すれば良いだけじゃないかと思っていたのに。拒絶しないままでいてくれるような、そんな優しい相手には、尚の苦渋を与えることになると知ったから…それが辛い。そんなまでして他人を大事にするような奴、ドラマや小説じゃあるまいにそうそう居る筈がないと思っていたら、選りにも選って自分の間近に なんと沢山居たことか。そしてそして、そんな中でも…。




  ――― この存在を…桜庭を、失いたくはない。


 それが、今の紛れもない本音。だったら………どうすれば良い? こればっかりはセナにも訊けない。自分で考えて、自分で決めて、自分でやってみなけりゃいけないこと。

  "………うん。"

 住宅街に入って、マンションもすぐそこ。人通りのない道で立ち止まって振り向くと、それが合図だったかのように、離れてついて来ていた彼が"たかたか"と傍らに来た。キングでもこうまでは言うことを聞いてくれないのにねと。すぐ傍に寄ったノッポな恋人さんを見上げて…何だか嬉しくなる。何から改めたら良いのかな。いや、その前に。ちゃんと気持ちを整理しなくちゃなと、珍しくも殊勝な気持ちになっている…泥門の小悪魔さんである。





←BACKTOPNEXT→***


   *うきゃあ〜〜〜〜っ!
    どうしよ、どうしよ、どうしよ、どうしよっ!
    こんな"乙女"な蛭魔さんが いてどうするよっ!
    一体どこで間違えたんでしょうか。
    女王様な蛭魔さんなら、まだ判らんでもないけれど、
    "乙女"な蛭魔さん………。
    わたしはただ、桜庭くんをカッコよく立ててあげたかっただけなのに。
    ………あああ、石投げないでっ!
    ど、どうか見逃してやって下さいませ〜〜〜っ!
    (そして、まだこのペースで続いたりするのである…。ああう…。)