聖蒼のルミナリエ 
孤高の天狼宮 B
 


          


 

 連休明けの放課後のトレーニングルームには、彼以外の人影はない。二年以下の正部員たちはグラウンドにてのシフト練習に励んでいる。いよいよ今週末に迫った関東大会の決勝戦を控えて、調整段階に入った皆であり、筋力増強などという種のトレーニングはなるべく避ける時期。進本人もこれまでの数年をそうして過ごして来た身だったのでよくよく分かっている。ベンチに腰掛け、肘を曲げては伸ばすという単純な動作を繰り返す。膝下から胸元へ。規則正しく振り上げられるダンベルの軋みがかすかに響くだけの、冷ややかで静謐な室内にあって、
"………。"
 ふと思い出すのは、昨日数日振りに逢った、小さくて愛しい人のこと。今頃は彼もまた、黄昏間近いグラウンドで練習に励んでいるのだろうか。
"………。"
 自分と向かい合っているというのに、時々 珍しくも上の空になっていた瀬那であり、どこかしら常の様子ではなかった彼へ…悪いことをしたなと思う。どこが寡欲(ストイック)かと思うのはこんな時だ。自分と変わりないほどに生真面目なセナのことだから、彼もまた来るべき決勝戦へと集中したかったのだろうに。気の優しい子だから、逢いたいと乞うたこちらの要求をすんなり通してくれた。
"………。"
 愛しい人、大切な人。大きな瞳に柔らかな髪。ふかふかな頬に小さな手。自分と1つしか違わない高校生男子なのだと、到底信じられないほどに愛らしい、舌っ足らずな声に甘い匂い。幼(いとけ)ない仕草に目映い笑顔。それらが自分へと向けられるのが、擽ったくも嬉しくて堪(たま)らない。勿論、愛くるしい外見だけが魅力なのではなく、一途で健気で、そして…我慢強くて懐ろが深くって。朴念仁で気の利かない自分には思いもよらないほどの繊細さな気遣いを、武骨で叩かれ強い男にまで振り向けてくれる優しい子。

  『さっきまでは仔猫がいたから…。
   だから、急に立ち上がって怖がらせちゃいけないって、
   ずっと屈んだままでいたんですね?』

 そんな彼が自分へと意識を向けてくれる、関心を寄せてくれるのが、例えようもなく嬉しい。今まで誰にも関心がなく、外部から何をどう思われていようが意に介したことなぞなかったのに。好敵手として向かい合う"誰か"という存在がなかなか現れなかった自分には、いつまでもどこかが欠けていて未熟な自身を高めることしか頭にはなく。あくまでも効率を優先し、意識を鍛練にのみ集中させ、その結果として…何にも誰にも関心なぞ寄せたことはないままに此処までを淡々と歩んで来た。そんな自分の視野の中へと飛び込んで来て、果敢なまでに何度も何度も食らいついて来た小さな少年。どんなに叩き伏せても引かず怯まず、最後にはとうとう…この手の届かぬ"光速の疾走
ラン"を見せた小さな背中。その時初めて"自分はこの存在と競うことになる"と直感し、それがそのまま総身を熱く震わせたものだった。………そう。始まりはそんな熱血の胎動であった筈なのだが。

  ――― …この子がアイシールド21なのか?

 素顔の彼の、到底高校生には見えないくらいだったその幼
いとけなさに。今にして思うと、正直言って…一目惚れした清十郎で。当初は自分でも、理解し難い、奇妙な感覚に小首を傾げてた。これまで誰かに関心を寄せたことがなかったから、それでなのだろうと思いつつ…三日と日を空けずという勢いで、彼の顔を見たくてしようがなくなる自分が自身でも不審であり。怯えたような態度でいられるのが何となくもどかしくて、されど。だったらどうしたら良いのかなんて、当時の進には知りようがなく。春から初夏にかけての少しずつの積み重ねから、何とか馴染んでくれて、向こうからも声を掛けてくれるようになって。駅の方でと待つ場所を指定され、公園があるから ちょっと歩きましょうかなどと言われた、7月初めの試験前のあの日のことは今でも何だか忘れられなくて。(…なんか意外なんですけど、そんな細かいこと、ちゃんと覚えてたんですね。/笑)そしてそして、気がつけば、

  『せっかく進さんと…二人きりなのに。
   誰かからの電話が掛かって来たら困るって、
   あの、邪魔されたらヤダからって、
   そう思って携帯の電源を落としてたんです。//////////

 彼の中での自分の"居場所"を作ってくれていることが実感出来て…やはりやはり嬉しくて堪らない。フィールドでの頑張りように負けないくらいに、その小さな体で、小さな両手で、不器用な自分を懸命に…包み込もうと、傷つけまいと頑張ってくれている。そんなまでして、持ち得る限りの愛情を惜しみなくそそいでくれる彼であるのが、無性に嬉しいが…。

  "………。"

 昨日の彼はまるで、出会ったばかりの頃の彼のようだったなと、そうと思うと…気が晴れなくて。彼には今だに、自信を見失って立ち止まる時がたまにある。もう逃げないと、倒れても倒れても頑張るんだと意識を塗り替えた決意に嘘はないが、相手のあること、対人というジャンルでは、相変わらずに相手ばかりを優先する優しい子だったから。何にか気をとられていても、それを打ち明けてはくれないのが何となく水臭いなと。
"………。"
 相変わらずにぶっきらぼうで大雑把な自分では、到底頼りにならないと言われたなら、それは否めないことだが…それでも。これまでどれほど"彼"という存在に救われて来たかを思えば、どんな些細なことででも良いから、今度は自分が彼の支えになりたいと思う。乾いた砂にどんどん降りそそぐ慈雨のように、それまで空虚な空間でしかなかった胸底を温かく満たしてくれた人。一緒に居るだけで、いやいや遠くに横顔を想うだけでも、十分癒されてエネルギーになってくれる、愛しくて大切な存在だから。自分のような欠陥だらけの人間が、そんな大それたことを思うのは、それこそ不遜というか思い上がりというか、分をわきまえない発言なのだろうけれど。急に器用な人間になれない以上は仕方がない。不器用なりの何かを…風が強ければ小さな肩を暖めるだけでも良い、心細いならその傍らに立って見守るだけでも良い。何でも良いから力になりたいと切実に思う進なのだ。

  「………っと。」

 辺りに垂れ込めていた静けさの片隅で、微かに微かに自己主張をする物音がした。あの少年が好きだという、何とかいう巨匠の交響曲の取っ掛かり。クラシックは苦手だと言っていた進だけれど、ほんの一瞬の着メロでならまさか眠ったりはしませんよねと、クスクスと笑って彼の手でダウンロードしてくれたもの。後にたまたま聞いた桜庭や高見なぞが"いかにも進らしい選曲だねぇ"と感服していたが、実はフルコーラスまでは知らない彼で。そうこう言ってるうちにも、素早く曲は寸断されて、
「…はい。」
 響きの良いお声が小さな機械を相手に応対する。相手もまたよく通る声をしているらしく、歯切れよく要点だけを並べている声が、だが…黙って聞いている進の表情をどんどんと重く強ばらせてゆき、
「………っ、それは本当かっ?!」
【こんなことでわざわざお前に電話掛けてまでの嘘をついてどうするんだよ。】
 俺はそんなにも暇人じゃねぇと、吐き出すように言ってのけ、
【お前にも責任がある。だから、伝えたんだ。順番を間違えてんじゃねぇっての。】
 つけつけと勢いのある相手の言いように、
「俺にも責任が…?」
 一瞬、戸惑ったように眉を寄せた彼だったが、続いた説明に無言のままで何度か頷き、用件だけを伝えてせっかちにも先にあっさりと切った相手の顔を、手の中の携帯の上へ重ねて、
"………。"
 連絡をくれてありがとうと、もう一度深々と頭を下げた進であった。











            ◇



 点滴を終えて、少しだけ休んでから。タクシーで家まで真っ直ぐに帰って来たものの、小早川家に家人の姿はなく。もうそろそろ夕食の支度時だというのに、明かりもなければドアには堅く施錠がなされたまま。
「おば様、残業なのね。」
 セナの母親は とある出版社に勤めており、元は派遣社員だったものが、機転の利く敏腕さを買われ、今ではかなり主要なポストに就いている。年末を控えた出版業界の、印刷所の業務の"前倒し"から来る忙しさは半端ではない。12月を前にしての連日の残業も例年のこととて特に珍しい状況ではなく、それは まもりもよくよく知っていて。
"そっかそれで…。"
 ご飯をちゃんと食べていないことに気づく者もないままに、この少年の状態が悪化したのでもあろう。小さなセナの肩を抱くようにし、二階までゆっくりゆっくりと一緒に上がってくれた まもりは、勝手知ったる幼なじみのお部屋、新しいパジャマをクロゼットから取り出して、
「着替えられる?」
「あ、うん。出来る。」
 いくら何でもそこまで子供扱いはせず、マフラーと上着を脱いだセナへとパジャマを手渡すと、
「なにか…そうそう、玉子粥を作りましょうね。少しでも食べなければいけないわ。」
 蕩けるように やわらかく、にっこり笑って部屋から出てゆく。やさしい まもり。いつも心配かけてごめんなさいと、セナの胸が痛んだ。今更全部を話すことも出来なくて。そのせいで、掴みどころのない心配をさせてしまってる。どうしてこうも、自分は皆に迷惑を掛けなきゃいられない存在なのだろうかと、そんな風に思った途端に…喉の奥に何かが迫
り上がって来そうになって。
"………っ。"
 じわって目許へ浮かんだ涙をパジャマで押さえて、必死で声を押し殺してしまったセナだった。











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