聖蒼のルミナリエ 
孤高の天狼宮 C
 


          


 

 ほかほかと温かい湯気を上げてそれは美味しそうに出来上がった玉子粥と、病院で蛭魔から渡された内服薬と。トレイに載せて運んで来たまもりの携帯電話が、机の前の椅子へと載せていた学校指定のバッグから、柔らかな子守歌の着メロを静かに奏でて主人を呼んだ。セナのお膝へテーブルを出していた彼女は、あらあらと慌ててカバンへと向かい、
「あら。」
 液晶画面に表示されたメールを見た彼女の柔らかな表情が…かすかに張り詰める。それへと気づいて、
「…どうしたの?」
 ベッドから掛かった声へ、
「あ、ううん。」
 大したことではないのよと、小さく笑ってかぶりを振って、だが、
「ねぇセナ、私、ちょっとだけ出掛けなければならなくなったの。」
 やはり気になるメールではあったのだろう。それも、今の彼女が一番に案じている筈のセナを、こんな状態なのにもかかわらず…独りにしちゃうことを余儀なくされるほど。
「すぐに戻ってくるから。その間に、少しでも食べててね?」
 額髪をやわらかな指で梳き、優しい瞳が覗き込んでくる。
「うん。」
 大丈夫だよと頑張って笑って見せたが、それはあまり効果をなさなかったようで。出来るだけ早く戻るからと、何度も念を押してから、まもりは携帯と財布とマフラーを手に、パタパタと慌ただしく部屋から出て行った。学生カバンは残して行ったから、戻って来るつもりは満々であるらしかったが、パスケースのついた財布が要ったということは…もしかして学校に戻ったのかもしれない。

  「………。」

 しんと静かになった部屋。テーブルの上を見下ろして、だが。やっぱり食欲は沸かなくて。ほかほかの雑炊に蓋をして、傍らの机の上へとトレイごと移した。テーブルもベッド脇の足元へと取りのけて、ガウン代わりのカーディガンを羽織ったまま、もそもそと布団の中へもぐり込む。静かな部屋。表からの物音も届かない。そろそろ日没だから、通る人もあまりいないのだろう。

  "………。"

 これまでが異様だったんだと思う。足の速さを見初められて、アメフトっていう未知の世界へ連れ出してもらえたことで始まった新しい高校生生活は、毎日がとっても楽しくて。それまで勇気も度胸もない弱虫で、痛い思いをするのが嫌で使いっ走りばかりやらされてたボクなんかにも、誰でも代わりが利くというのではなく、ちゃんとした…ホントの意味での"お友達"がたくさん出来た。利用されたり馴れ合ったり、庇い合ったりする間柄ではなくて。小早川瀬那っていう自分をちゃんと見てくれて、力量を信頼してくれたり、負けないからなって競い合ったりする相手に認めてくれるような、対等なお友達が出来たのが嬉しかった。

  ――― そんな中でも。

 進さんは特に格の違う存在だった。日本中のアメフト関係者がみんな知ってて、そのずば抜けた実力に誰もが…あの蛭魔さんさえもが一目置いてる凄い人で。初心者もいいところだったにも関わらず、早々と直接対決出来る機会がやって来たのにはドキドキしたけれど。間近に感じた本物の実力と迫力と。怖いって思いながらも、不思議と…
"逃げ出したいっては思わなかったな。"
 いやあの、最初は怖くて怖くて、もうこんな痛いこと続けてらんないようって思ったけれど。皆だって頑張ってるんだって思ったらボクも頑張ってみなきゃってすぐにも闘志が湧いて来たし、それにね。これは後で気がついたこと。得体の知れない、いかにも素人な選手だったっていうのに、進さんがどれほど真摯に立ち向かって来てくれたか。そんな姿勢がそのまま、このフィールドがどれほど崇高な場所なのかってこと、教えてくれたようなものでもあったから。この人に勝ちたいって思ったし、もっと上手になりたいっても思ったし。
"それから…。"
 何がどうしてなのか、ボクなんかに関心を示してくれた進さんは、大会が終わらないうちからも、時々、ボクの顔を…姿だけをただ見るためにと わざわざ来てくれた。そんなことから始まった、何だかぎこちない、風変わりな御縁はやがて、何日も顔を見ないとそわそわしちゃうような存在感を心の中にも植えつけて。気がついたら…アメフトが間に挟まらなくとも気になる人になっていて。
"………。"
 泰然としていて寡黙…というよりも、武骨で無愛想で朴念仁で。でもね、それって決して人を見下してとか、物事に全く動じなくてっていうものじゃなかったの。ただ、何にも知らない進さんだっただけ。ビーズクッションがあんなに柔らかいって知らなかった。転びそうになったのを咄嗟に支えてくれた時、ボクのあまりの軽さに驚いたって。鞣
なめした革みたいな、すっかり大人の肌をした ほっぺに手を添えたら"小早川の手はこんなに温かいんだな"って嬉しそうだった。その手をはぐれないようにって初めてつないでくれた時、実は…力を掛け過ぎて怪我をさせないかと怖くて仕方がなかったんだって、後からこっそり教えてくれた。まるで小さな子供みたいに何にでも感心してくれた、そんな不器用さんなところが…不遜にも"可愛いな"って思えたの。アメフトしか知らないし、アメフトしか出来ないなんて言われている偏りようさえも愛おしくて堪らない。胸の奥が切なさに きゅうぅってなる。

  ――― そんな"素敵"をたくさん堪能させてくれた人だったから。

 昔みたいに"どうせボクなんかでは"とか"ほらやっぱりボクなんか"とか。そう思って後ずさって、早い目に身を引いて。痛い想いをする前に、自分から少しでも離れておこうって逃げ腰になって。沢山の"フツー"の中へと埋没して…。昔みたいにそうすれば済むこと。なのに、未練がましくも、いつまでもその場に立ち尽くしてた。自分には勿体ない人だってことくらい、最初から重々判ってたつもりだったのにね。少しずつ膨らんでった"好き"って気持ち。時間をかけて大きくなったものなだけに、そんなに簡単には萎
しぼんでくれなくて。何かへ幻滅した訳じゃあないから、まだ"好き"は続いているから、だから尚更に振っ切ることが出来なくて。
"…でも。"
 早い方が良いのは事実。それが判っているから。早く早くって心のどこかで"昔の僕"が急かすように囁きかける。期待が外れた時の辛さは知っているだろう? 進さんはほら、何にも知らない人だから。これまでという蓄積が全くないってだけの話。これから素敵な女の子と出会ったらどうなると思う? 可憐で一途な、そんな可愛らしい子と出会ったら、優しいあの人は捨て置けずにいるに違いない。それにそっちこそが"正道"なんだよ? 判るだろう? あの人は間違ったことはしない。あの人はいつだって"正しいこと"や"誰にも恥じぬこと"を選ぶ強い人だろう? 優柔不断にずるずると、未練がましくはしない人だぞ?

  "…そうだよね。"

 なんて分かりやすい理屈だろうか。そして、だのに、なんて未練がましい自分なんだろうか。そんなこんなと思っていたところへ、


  ――― え?


 不意に。場違いなくらい軽やかに鳴り響いたのは、玄関からの来客を告げるチャイムの音。こんな時間に誰だろうと、一気に現実へと引き戻された。まもりお姉ちゃんが戻って来たのならチャイムは鳴らさないだろうし、集金の類いは全て自動振り込みにしているし。宅配便とか郵便屋さんかな? パジャマの上のカーディガンのそのまた上に、ハンガーに掛けて出しっ放しにしていたジャケットを羽織って。スリッパに突っ込んだ足を引き摺るようにして階段を降り、廊下を玄関まで向かう。
"…寒っ。"
 細い肩を縮めながらも三和土に降り、覚束無い足でサンダルを突っかけてドアを開け、ノブを支えにポーチへ踏み出したセナの瞳に飛び込んで来たのは、

  「…えっ。」

 目の錯覚かと思った。あんまり思って、想いが強すぎて。それでそう見えたのかなって…ドキリと胸が高鳴った。そんな見間違いを正そうと、何度も瞬きをして、目を凝らそうとしかかったのだが、それより早く。
「あ…。」
 ふわんと体が浮いていて、玄関の中へと連れ戻されている。間近から降って来たのは、
「どうして…っ。」
 切羽詰まったような低い声。玄関のドアが閉じた音がしたけれど、そちらは大きな壁に立ちはだかられてよく見えない。かっちりとした顎の線とおとがいと、男らしい精悍な首条。その襟元にはシルバーグレーの詰襟が見えて。外気の冷たさをまとった制服の感触がひやりと伝わって来て。長くて頼もしい腕で、軽々と懐ろへ抱え上げられているこの感覚には重々覚えがあって、
「倒れたと聞いた。それがどうして…。」
 安静に寝ていないのだと。何でまた倒れた本人が玄関まで出てくるのかと、そんな理不尽の理由
わけを訊きかけた彼だったらしいが、
「…ご両親がおられないのだな。」
「えと………はい。」
 いつも誰か家人のいる自分の家とは違う、セナの家庭の事情。それを思い出しつつ、慣れたものでそのまま上がって2階へと足を運ぶ進であり、

  "…これって、どういうこと?"

 懐かしくて大好きな匂いに包まれながらも、大いに混乱している、小さなセナくんだったのだった。










  ……………そして。


  「二人を直接引き逢わせちゃってもいいの?」

 小早川邸から少し離れた道の脇。静かに佇んでいるボックスカーが1台停まっていて。その車内にてこそりと囁いた青年へ、
「ああいうタイプに一人でうじうじと考え込ますと、ロクなことにならんからな。」
 それはきっぱりと言い切ったのは、闇色のサングラスがいや映える、真白きお顔も冷然と整った。それはそれは妖麗なお人であり、
「この際は、進がデリカシくないことに頼ろう。うん。」
「…おいおい。」
 どういう意味ですか、そりゃ…と、怪訝そうな顔付きになった桜庭くんへ、蛭魔さんが小さく口許だけで苦笑をし、
「さあ、こっちも忙しいぞ。向坂さん、泥門市へ戻る。」
「判りました。」
 運転手さんが会釈を見せて車を出す。短い晩秋の夕暮れは、もうすっかりと辺りを茜に染めていて。東の空に至っては暮れなずむ藍色の中へと、その輪郭の風景をすっかりとっぷり沈ませかかっていたのであった。





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  *さてさて、当事者二人がやっと顔を合わせました。
   蛭魔さんの荒療治は、功を奏すのでしょうか?
   進さんはセナくんの凍えた心を
   迷路の中から引っ張り上げてあげられるのでしょうか?