アドニスたちの庭にて B 〜お遊び企画の続き (笑)
 

 

          



 丹精された腕と厳選された素材により生み出され、それは履きやすく、且つ、丈夫な筈の革靴をここまで…部分によっては中につき通るほど無残に切り裂くというこの行為は、見た目にも衝撃的なまでに派手な所業だし、
「力の要ることですからね。それだけの思い入れや思い込みがないと出来ません。」
 今にも泣き出すか、その場に倒れるかしそうなほど、真っ青になってその場に凍りついていた瀬那だと気がついて。たまたま居合わせた高見は我に返ると、まずは…取るものもとりあえず。セナの肩を抱くようにして、手荷物や問題の靴ごと、上履きのままの彼を生徒会棟まで連れて来た。そうして、丁度 先に来ていて顔を揃えていた桜庭や蛭魔、進に事情を説明したのだが、
「辺りには誰もいなかったと思いますが。」
 ともかくその場を離れようというのがやっとだったので、もしかしたらセナくんの様子をこそりと見届けていた者、つまりは"犯人"が間近にいたのかもしれないと、高見は銀縁のメガネをついと持ち上げつつ、残念そうな言いようをし、
「こんなことするなんて…単なるストーカーじゃないかっ。」
 どこが"あなたを思うと心安らぐ者"なんだよと、桜庭が苦々しげに声を荒らげたが、その懐ろへと いたわるように抱え込んでいたセナの小さな肩がひくりと震えたのを見て慌てて口を閉ざした。窓辺に置かれた古い型のソファーに並んで腰掛け、傍らから抱きすくめるように腕の中へと収めた小さな体の温みが、さっきから小刻みに震えている。痛々しいやら切ないやらで何とも言われず苦しくなる。目に見えない誰かからの脅威を感じながら、胸がつぶれそうな想いをして過ごしていた彼の目の前へと転がり落ちたこんな靴。それが何であるのかを理解した瞬間、どんなに怖い想いをしたのだろうか。こんなにも小さくて、気立ての優しい繊細な彼だというのにと、それを思うともうもう口惜しいやら歯痒いやら苦々しいやら。そんな室内へ、

  ――― さわさわ、と。

 大きく切り取られた窓辺に揺れて見えるはポプラの葉陰。梢の立てるさざ波のような音の向こうの、どこかグラウンド辺りから届く遠い喚声は、クラブ活動中の運動部のものだろうか。ほんの数日前までは彼もまた、今あんな声を上げて溌剌と駆け回っている子たちと何ら変わらないお顔をして陽だまりの中で笑っていたのだろうのに。何も憂うることのないままに、無邪気に笑って過ごせていたのだろうに。手荷物の準備にと授業の時間割を眺めながら、明日は何があるんだろう、予定のほかに何か楽しいことが起こればいいなと、ただワクワクと楽しい日々を過ごしていた彼だったのに。それがこんな事態に翻弄されてしまって…。
"………。"
 自分からはあまり物事に関心を寄せず、動じることも少ないままにひたすら寡黙な進にさえ、こうまでの展開にあってはさすがに…何かしら感じ入るものがあるらしく。日頃は強靭な意志の光をたたえている深色の目許を眇めるようにして、痛々しいものを見るようにセナの稚
いとけない横顔を見守っているばかりであり。姿のない脅威というものがいかに恐ろしく悍おぞましいのかを、皆して声もなく ひしひしと痛感していたのだが。


  「…ったく、なんてガッコなんだろな、此処はよ。」


 とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、蛭魔が…どこか吐き出すようにして、忌ま忌ましげな声を放って見せた。
「しきたりだか慣習だか何だか知らねぇが、人の気持ちをこうまでおもちゃにしても良いのかよ。」
 彼もまた…誰ぞにストーカーもどきの攻撃をされた覚えがあるからだろうか、低く唸るような声でのこの文言は、深い怨念を塗り込めた真っ黒な呪詛へと真っ向から抗する威嚇のようにも聞こえるほど、重々しい迫力があって。…だが、桜庭の懐ろに柔らかく抱えられたまま、眸を潤ませ、身を縮めるようにしているセナのしゃくり上げる小さなお声が耳に入ると、

  「…ともかく。」

 此処で唸っていても始まらないという辺りは彼にも分かっているのだろう。気を取り直して肩を落とすとそのまま、凭れていた壁から身を浮かし。部屋の中ほどまで足を運びながら、おもむろに…自分の着ている制服の、前をはだけていた上着の襟元へと両の手を持ち上げる。

  "…え?"

 少しばかり、細い顎を斜め上へと持ち上げて。ごそごそと何かしらを弄っているその仕草は…もしかして。

  「ほら、お前も外せ。」

 セナへと声をかけつつ降ろされた、彼の白い手のひらの中で。ちゃりっという かすかな金属音がする。手が退いた側の襟には校章がなく、少しほど毛羽立ったような小さな穴が空いているだけ。
「ちょ…、妖一、それって…?」
 窓辺のソファーにて、セナを何かから守るかのように抱き寄せていた桜庭が、ハッとしたそのまま驚いたように上げた声へ、彼はすかさず、しかも平然と応じていて、

  「カモフラージュだよ。」

 本来の学年のと違う校章をつけていれば、この子には"兄貴"が出来たらしいと、名乗りを挙げた誰かを受け入れたんだなと、ガッコの中で広く公けに知れ渡るんだろう?
「たとえ"兄貴候補"とかいうのとは別口の奴であったとしても、ああまでのことをしでかすような奴なら、この子を常に観察していようから、校章の変化なんていう重要なポイント、すぐにも伝わることだろうよ。」
 しかも、だ。ここに連れて来られてからの変化だ。生徒会関係者がその相手だってのまで、きっちり伝わるだろうからな。
「どうやら相手は、陰でこそこそと、しかもか弱い下級生を相手にでしか手を打てないような、肝の小せぇ奴らしいからな。こんな現実に向かい合えば さぞや慌てるだろうし、うまく運べば目を覚ますかも知れねぇ。」
 そううまくは運ばないならないで、今度は俺が校庭ででも宣言した上で学内中に片っ端から手ぇ入れて、そんな陰湿な野郎、陽の下へ引き摺り出してやるまでだと。だから…一刻も早くと言わんばかり、てきぱきと動いた彼であるらしいのだが、

  「ちょっと待ってよっ。」

 とんでもないというトーンにて、セナを抱えたまま声を高めたのは桜庭で。

  「妖一のそれって、ボクと交換したやつじゃないか。」

 去年の夏休みの初めにやっとほだされてくれて、この蛭魔が自らの手で自分のを外して差し出して、納得した上での初めてのキスと共に交換してくれた同じ色の校章。そりゃあ、想いの丈を通したくてと色々な無理強いをしもした覚えは少なからずあるけれど
おいおい それでもでも。今となっては両想いの、すなわち一方通行なだけじゃあない、相手からの"好き"という気持ちをもきらきらと象徴している、ある意味、幸せを表すバッジでもあるというそれを。自分の目の前で、しかもそんな目的のために外すかと。情況も忘れて躍起になってしまった桜庭の側の心情は、恐らく蛭魔以外の…朴念仁そうな進や当事者であるセナさえもを含めた全員が深いところで理解していたが、
「何だよ、たかだか1個 500円のバッジじゃねぇか。」
 購買部には常置していない特注品だが、それでもたかだかワンコインの、七宝焼きのただの小さなバッジだ。落とし物として届けられることだってザラな代物であり、
「これ以上の何かが起きたらどうすんだ。」
 それを防ぐことが出来るのならば、背に腹は変えられない、そのくらいの"嘘"にくらい、目ぇ瞑れと言いたいらしき蛭魔らしかった。あくまでも合理主義者であるからか、中途入学者であるがゆえ、そういう点への思い入れがさほどには深くない彼なのか。
「ほら、外しな。」
 そうと迫られたセナにしても、そんな形での交換を、しかもこの部屋で…あの人の見ている前でするのは何だか気後れがして嫌だったし、
「妖一っ!」
 桜庭が悲痛な声を上げる気持ちも重々分かる。

  "…でも。"

 たとえ弟の側からお願いしていいと"決まり"が変わったとしても、自分からあの人にそれを願うなんて出来っこなかろうとも思う訳で。

  "どうせボクなんか…。"

 その程度の子なんだと、思い上がってどうすると、悲しくて堪らない気持ちを何とか胸の奥底へと押さえ込む。そんなセナの頭上では、
「妖一ってばっ。」
「うるさいな。これじゃダメだってんなら、ほら、俺がやったのを返しな。」
「やだっ!」
 取り上げられてなるものかと、桜庭が自分の首元を押さえる。何だか騒然として来た室内であり、ああ、皆さんがこんな揉めているのも、ボクが至らないせいなんだと。小さな前歯で柔らかな唇を、切れそうなくらいにキツク咬みしめたセナの耳へ、


  「…待て。」


 よく通る声が、それにしては…少々遠慮がちなトーンで響いたのが聞こえた。

  ――― ざわりと。

 窓の外で、ポプラの梢が大きく揺れる。目映い木洩れ陽が光のモザイクみたいに躍って、窓辺や窓ガラスをきらきらと濡らす。古びた板張りの床。進み出たその人の乾いた靴音が こつりこつ・ぎしりと立って、

  "………あ。"

 甘い香りのする桜庭さんの懐ろの中から、涙に潤んだ瞳をそぉっと上げたセナの視野の真ん中。自分へと向けて腕を伸ばしていた蛭魔の背後辺りへ。すらりと、そして威風堂々と、真っ直ぐに立っているその人の姿を目にして。セナの萎縮し切っていた胸の奥で、何かがぽわんと甘く疼いた。こんな騒動とか何事もないままだったなら、こちらの方もやっぱり何事も進展しないままだったろうけれど。それでも…ただそのお姿を見ていられるだけで十分幸せだった憧れの人。どんなに間近になっても、その間にはどうあっても越えられない、堅いガラスの壁のようなものがあって。住む世界が違うのだ、見ている先が違うのだと、諦め半分、これで幸せだからと思っていられた人。

  "進さん。"

 正義感が強くて曲がったことが嫌い。誰も見てはいなくとも、決まりごとは丹念に守る人で、他には誰もいない早朝の道場でも、使う前と後の礼は欠かさなかったし、板張りの空拭きだってちゃんと黙々とこなしてた。そんな人だからこそ、間違っていること、いけないことをビシッと正せる清潔さ、誠実さ、そして強さにあふれてもいて。余裕に満ちた頼もしさと、そんな目映いばかりの潔癖さとに、ただただ憧れていた。ああでも、

  "そんな進さんにまで…。"

 見かねて口出しさせるほどのことをしでかしたんだなと、そうと思えばますます気が重くもなる。蛭魔さんの校章バッチは使わせられないからと、それなら自分がと申し出て下さるつもりなんだろうと、そのくらいはセナにも判る。くすんと息をついたセナと、それは堂々と立ちはだかって下さっている進と、自分を挟む位置にいる二人を前後に見比べていた蛭魔だったが、

  「ほほお。」

 どこか感心を乗せたような声を出し。それから。手近にあった背もたれのある木の椅子をガタンと引いて、その背もたれに腕を乗せる格好で後ろ向きに腰掛けながら、
「こんなタイミングでそんな風に言われたって。俺と同じでカモフラージュなんだったら願い下げだよな。」
 演技の下手なお前じゃあ むしろ迷惑かもしれないぜと、鋭角的な面差しをますますのこと尖らせて、言葉がそのまま突き刺さりそうな辛辣な言いようをする。そんな蛭魔に、だが、むっと怒り出しもせず。それどころか、

  「…そうだな。そう思われても自業自得だ。」

 そんな言葉を呟くお顔は、沈痛悲壮に打ちひしがれた………ようには到底見えない。まだ十代とは思えぬほどの威容をたたえ、至って堂々とした態度のままな彼だったが、

  「こんなに話がこじれたのも、俺が女々しくも表立とうとしないでいたからだ。」

 そんな言いようをしてセナの方を真っ直ぐに見やる進さんの眼差しには、どこか…見覚えがあって。

  "………あ。"

 ふと。セナは とあるものを思い出していた。
「あの…。」
 ついさっきまでの蛭魔との舌戦にて ついつい力が入ったか、懐ろ深くへぎゅうと抱え込むようにされていた桜庭の腕の中から。小さなお声が洩れ出して、

  「雨傘…。」

 ぽつりと呟いたセナへ、進さんは何とも言えない…優しげなお顔になり、その瞳をわずかに細めて微笑って見せたから。

  "…おおう☆"
  "こいつ、こんな顔して微笑うのか? …っていうか、微笑えたのか?"
  "付き合い長いけど初めて見たぞ。長生きはするもんだ。"

 こらこら、あんたたち。
(笑) なんだか、二人だけに通じる何かであるらしいのだが、周囲の方々にはそんな短い一言で連想されるものになど、到底 見当のつけようがないとあって。
「悪いがご両人。」
 依然として腕の中に抱え込んだままなセナの、その小さな背中をポンポンと軽く叩きつつ、
「ボクたちにも判るように、きちんと説明してくれないかな? その"雨傘"っての。」
 桜庭が掛けた声に、

  「あ…えと、あの。////////

 セナくんがたちまち、ぽおっと頬を桃色に染めたのは何とも愛らしかったが、怖いもの見たさに(こらこら)そろぉっと、向かい合う進の方をと見やった皆様は。

  「………。」

 まずは何の変化もなかったので少々拍子抜けし。………だが、

  "………おお。"

 耳の先だけがわずかに、濃緋色に染まっていたのに気づいて…ちょっと感動。それはともかく。
(笑)

  「あの。ボクはここには幼稚舎から通っているんですけれど。」

 セナが恥ずかしそうにしつつも話し始めたがため、皆の注意は彼へとあらためて注がれた。
「初等科に上がったばかりの頃は、何だかあのその…ちょっとだけ苛められてて。」
 桜庭が先にちょろっと言っていたように、このセナくん、小さい頃からそれは愛らしくて、視野に収まれば誰であれそこからついつい目が離せなくなるほどに、結構目を引く存在だった。ただ、あまりにも腰の引けている怖がりな子でもあったので、そんなところをからかわれたり、子供の焼き餅というやつなのか、可愛いから憎たらしいと意味なく突々かれたり苛められたりすることもなくはなく。
「それで、皆が嫌がる飼育係をずっとさせられてたんですよね。」
 ご他聞に漏れずこの学園でも、ウサギやモルモットや鶏などを校庭の隅っこの飼育小屋に飼っていて。基本的には用務員さんが様子を見ていてもくれたのだが、日々の掃除や餌やりという世話は当番制で子供たちが順番に受け持っていたはずなのだが、どうやらセナの居たクラスでは、無理矢理彼一人に押し付けられていたらしい。
「でも、ボク、あの…。////////
 不意に真っ赤になったセナくんは、んん?と桜庭さんにお顔を覗かれて、
「あのあの。ボク、実はそれのお陰で、進さんが毎朝道場で練習してらっしゃるのに気づけたんですよね。」
 ウサギさんやセキセイインコは嫌いじゃなかったし、突々いて来たり飛び掛かってくる鷄さんも、慣れれば怖くなくなった。ただ、冬場の寒い朝にお水を交換したりお掃除したりはさすがに辛くて。しかも一人でこなしていたので、随分と早くに来なければ、授業前までには片付かなくて。そんなセナが、暗いのに怖いなと思いつつも飼育小屋に向かった朝に、それより早く明かりが灯ってるところがあって。それが…初等科と中等部が一緒に使っていた道場の明かりだった。全部ではなく半分くらいを灯したその中では、背の高いお兄さんが道着姿で黙々と竹刀を振るってらして。何とも凛々しいお姿に、何をしに早く来たのかさえ忘れてうっとり見入ってしまったセナであり、
「それからは、早く学校に来るのが楽しみになったんです。//////
 財閥の御子息やら政治家のお子様やら、ある意味で"要人"の子供たちだけは、身の安全の確保という意味合いから車での登校が認められていたが、それ以外は電車やバス、徒歩による通学しか許されてはおらず。それでも、白い吐息を吐きつつ、頑張って毎朝のように当番に通い、自分たちのクラスが当番ではない月の朝も、道場をこそりと覗くためだけにやっぱり早くから登校していたセナくんで。ところが。半分は"苛め"のつもりで押しつけたものを、それは楽しそうにこなしている彼なのが気に入らなかったのか、クラスの悪ガキたちがある朝、やっぱり早くにやって来たセナを待ち伏せして、その傘を取り上げ、わざとに踏んずけて壊してしまった。冷たい雨の中、傘もないまま、お当番を頑張ったセナは、それほど丈夫ではなかったものだから、帰宅するとそのまま熱を出して数日ほど寝込んだのだが、
「風邪が治って来てみたら、飼育小屋はきれいなままでしたし、それと、新しい傘がお道具を収めてた小屋にかけてあったんです。」
 学校指定の青い傘。柄のところには、丁寧だが見るからに子供の字で"小早川瀬那"と名前が入れてあって。でも物は真新しい新品で…。
「もらってもいいのかな、珍しい名前だから僕のことだと思うんだけどって、ちょっと考えちゃいました。」
 恥ずかしそうに"うふふvv"と笑った瀬那くんの、柔らかな前髪を撫でるように梳いてやり、
「そん時のいじめっ子たち、どうなったか知ってる?」
「………え?」
 言い出した桜庭さんが に〜んまりと笑って見せて、
「首謀者の3人、2年のクラス替えで別の組になったでしょ?」
「あ、はい。」
 それからの噂は知らないし、そういえば…あれから姿を見てないような………? あれれ? まさか?
「転校してっちゃったんだよね、結局。」
 どうしてだかは知らないけどねと、口許だけをふふんと笑った形にした桜庭さんだったから……………。彼もまだ2年生だった筈なのに、そんな幼い頃から一体何をしたってんでしょうか、この坊ちゃんってば。//////// 他人事ながらも少ぉし青くなったセナと、おいおいとしょっぱそうなお顔になった蛭魔さん以外は、高見さんも進さんも さして態度が変わらないのも…考えようによっては末恐ろしく。だが、
「高学年になってからじゃなくってね、その時から。進はセナくんのこと、見守ってたんだよ?」
 今度はお顔全部を柔らかい微笑に染め上げて、桜庭さんはそうと言い、向かい合って立ち尽くしたままな、武骨で朴念仁な幼なじみをちろんと見やる。
"いつもは単刀直入で簡単明瞭な奴が、本題に入るのに1時間もかかったんだものな。"
 セナが寝込んで、よって朝の練習を覗きにも来なくなった翌朝に。実はずっと気づいていたそのギャラリーくんの気配がないことへ、どうにも落ち着けなくなった小学2年生だった進少年は、その子の名前が入った壊された傘と、餌入れが空なままな飼育小屋の様子に、何となくながら何かしらを察し、どうしたら良いのかを桜庭に相談しに来たらしい。可哀想な目に遭ったセナに何かしてやりたいと、放ってはおけないと思ったらしいし、他の誰でもないセナがそんな目に遭ったことへ、もしかすると…怒っていた進でもあって、
"こいつでも怒るんだって、あの時はビックリしたもんな。"
 それで、彼にはセナの代わりに当番を続けといてやれと指示を出した。きっとそれを一番心配しているセナだろうからと。そしてそして。可愛くてこっそりとお気に入りだった後輩へのそんな仕打ちには、桜庭自身もむっと来ていたがため、ちょいとした制裁を企んでみた訳で。………ということは、桜庭さんの"権謀術数"の基本って、セナくんが発端だということなのかも?
(う〜ん)
「でも。雨傘のことは知らなかったな。」
 これはホントで、今の今までよくも隠しててくれたよねと、進に向けて口許をとがらせた桜庭だったが、
「雨に打たれて辛かったねって、いたわってもらえたような気がして。//////
 ほわりと真っ赤になったままなセナくんの様子には、そんなむっかりもすぐ消えた。その傘に書かれてあった純朴そうな子供の字。それをふと思い出したセナだったらしく、

  「…で。」

 幼い頃の思い出話は分かったと。蛭魔さんが場の空気を立ちあげ直すような声を差し挟んで、
「そんな頃からだってことは、8年越しで見守って来たって勘定になるんだろう。そういう奴がいて、ちょっかいを出せば必ず何かしらの報復がなされるものだから、このチビさんが苛められることもなくなったは良かったことだが。」
 外したままの校章を、その手のひらの中でちゃりっと転がし、
「今の今、こんなことになっちまったのは、そんなお前が堂々と名乗りを上げなかったのが原因だ。それは判っているんだな?」
 誰だかはっきりとは判らないものの、この子を苛めると何かしらの制裁が飛んでくる。常に見守ってる奴がいる。そんな噂に守られて、健やかに楽しい学校生活を送ったセナくんを、なのに、今はこんなにも怯えさせている。てっきりその"誰か"がお兄様としての名乗りを上げることと思っていた連中が、なのに、あれあれ、そんな気配はないぞと気がついて。それなら…自分がこの愛らしい少年の保護者になっても良いのかな。何と言っても、新入生の中で一番に愛らしくて素直な良い子だ。そんな子の"兄"だというだけで結構なステータスだし、大人しい子だからあわよくば。多少は力づくになっても組み敷いて既成事実さえ作ってしまえば、そのまま"恋人"待遇にだってなれそうかも…なんてことまで考えている不届きな輩もいるという。それもこれも、誰かさんが相変わらずに陰から見守るというポジションから出て来なかったがためなのだ。そして、そうであるという裏事情を知っていればこそ、殊更にセナへと注意を払っていた生徒会の面々だったのでもあって。

  「ああ。判っている。」

 全ては自分の非であるということも、このほんの数日ほどの間に何の罪もないセナがどれほどの想いをしたのかも、痛いほどに理解している彼であるらしく。椅子に腰掛けたことで蛭魔が間から立ち退いた空間を埋めるように、残りの数歩ほどを こつりこつ・とゆっくり進み出て。

  「小早川。」

 普段あれほど口数の少ない、寡黙で無口な進さんが。ああ、もしかしたら初めて、自分の名前を呼んで下さった。

  「は、はい。」

 声が上ずってしまったほどの緊張を、桜庭さんの暖かな手が そぉっと髪を梳いて宥めて下さる。

  "………。"

 それはそれは深い琥珀色の光がまろやかな潤みの中から滲み出して来そうなくらいに、縁いっぱいに黒目がちで大きな瞳。稚
いとけない仔犬が寒さに震えながら、不安げに きゅうぅ〜〜んと大人たちを見回しているような。今は そんな切なそうな光をたたえている瞳の一途さが、何とも言えない温かな想いを…愛惜しさを、武骨なばかりな自分のこの胸の奥へと灯してくれるから。

  「…すまなかったな。とんだ格好で怖い想いをさせてしまった。」

 これまで離れたところから自己主張もなく見つめていたのは、あまりに可憐な、あまりに繊細な彼だから、自分のようなむさ苦しいものが傍らに寄っては息が詰まるのではないか、桜庭のように気の利く人物の方が、軽やかな彼には相応しいのではないかと思っていたから。無邪気に屈託なく笑っている彼を見ているだけで心和んで満足していたし、それで問題なく過ごせていたからだったのだが。…そう"だが"である。いくら彼を守りたかったからだとはいえ、力技にて人を弾いて来た傲慢さはやはり良ろしくなかったらしく。こんな形での罰を受けてしまったのは、正に自業自得。しかも、選りにも選って一番に守りたかったセナを苦しめた。

  "不器用もここに極まれりだよな。"

 片や、好きなものへは脇目も振らず、相手の迷惑や困惑さえ顧みずに力いっぱい一直線する、自分に正直でとことん周到な桜庭と まったく正反対の不器用男。この二人を足して二で割れば、きっとほどよい人間になるのではなかろうかと、蛭魔がついつい思ってしまったのは、まま、今はおいといて。

  「こんな後から、それも後手後手に回ってしまうようなことしか出来ない、
   どこまでも至らない人間だが…。」

 淡々と紡がれる進の声に、ふと。同席者たちが息を呑む。何故かと言えば、


   「これからは表立って、俺に小早川を守らせてはくれないか?」


 ああ、そうでした。これこそが。この学園の高等部に古くから伝わるゆかしき伝統の、正統なる"プロポーズ"であり、

  "…うわ〜〜〜vv 他人の求愛って、間近に見たの初めてだvv //////"

 それも。この、自分の幼なじみとは思えないほど、いかにも無愛想で無感動男で、恋愛なんて甘いものには世界で一番遠いところに立っていたのではなかろうかという朴念仁が。しかも、こんなにも愛らしい男の子へ想いの丈を伝えたその瞬間に立ち会えただなんて。どんなプレミアのついた舞台劇やら超大作の映画やらリサイタル・ライブにも負けない、物凄いもの観せてもらいましたと打ち震える、桜庭の胸元のすぐ傍らから、

  「あ、あの…。」

 それはか細い声がしたのへはっとする。そうでした。これと対になってなきゃあ話にならない、お返事がまだでした。懐ろを見下ろした桜庭の腕から、セナが自分から…そぉっと手を離したのは、他の男の腕にすがってのお返事はなかろうと思ったからだろう。ふかふかの頬や小さな耳を真っ赤に染めて、何度かうつむいては こくんと息を呑み、進はもとより周囲の3人をもドキドキさせて幾刻か。


   「ボクで良ければ。あの………進さんの弟にして下さい。////////











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