Little AngelPretty devil 〜ルイヒル年の差パラレル 番外編W

    “かりそめのままで いいから…”B
 

 



          




 光の加減で翡翠のような冷たい碧がいや増して見える。異形の者なれど、純朴にして聡明な気心をしていると、言動の端々やその眸の冴えから読み取れた。精悍な面立ちに映えてそれは綺麗だった深色の眸が…今は。表情豊かだった虹彩を、縦の絃のように細く細く絞り上げられており。見る見る内にも、月の光に青みを奪われてか、黄色みの強い褐色へと濁ってゆく。
「…葉柱?」
 彼の足元に転がっていた匂玉は、もはやどこにもなくなっており。先の位置に立ったまま、やがては首を黒衣に包まれた胸元へと深く折るようにして項垂れてしまった…邪妖の青年総領は。蛭魔からの呼びかけにも動かぬまま、その目許を覆うほどに長かった黒い髪が、煩げに顔の上へ降りていても気がつかぬほどの状態にて立ち尽くし続けており。月光がその身に染み込んで、そのまま青く凍ってしまったのかと思ったほど。そんなところへ、

  ――― ひ る ま。

 何処からか。不意に聞こえた声へハッとして。だが、

  ――― 其処に いろ。

 続けて“その場から動くな”と言われて、何故なのかが判って…唇を咬む。簡易なそれだとはいえ、瘴気に触れた皇女
(ひめ)たちが次々に倒れたほどの力を持っていた負の陰体を、何とか寄せつけなかった結界の陣。先程は媒体になっていた先の斎宮姫がいたから侵入を許してしまったが、今度はそう簡単にはいかない筈で、だからこそ、そこから出るなと…ぎりぎり残った意志から言い置いた葉柱だったに違いない。先程の不審な意志の気配から察して、彼に襲い掛かったものは、今回の企みを彼らに妨げられた負界からの手先に違いなく、だとすれば………。
“…格が違うやも?”
 葉柱も一族を率いる立場にあるだけのことはあり、その身に帯びた魔力は相当なもの。但し、邪妖という陰体でありながら、されど こちら側“陽世界”の存在でもある彼は、日輪に押され負けぬだけの“殻”が発達した、言わば生身の“個”でもあり。こちらの世界により適応した身に進化している分、陰力は比較するなら未発達で、咒も単純なものしか使えないほど。故に、完全に“向こう”の存在である者から見れば、人間と変わりないほどに付け込みやすかったのかも知れずで、
“一族の総領が聞いて呆れる。”
 そんな彼の強靭な意識を…彼という存在の“意志”を封じ切ってしまえるほどの者だということか。

  “…だが。”

 先程の呼びかけは、完全に呑まれてはいなかったことを指しはしまいか? 人に仇なす邪妖の成敗にと、蛭魔に呼び出されては共に封咒の仕儀へと奔走してもいる彼のこと。その身をくるむ殻に、人より強く負力への抵抗力がついていたら?

  「…誰に向かって物を言ってる。」

 まだ間に合うかも。そうと思うや、じっとしていられなくなった。術師である自分が、こんな…式神として支配下におく奴に庇われていてどうするか。そうと思えば気力も奮い立つ。先程の仕儀にて薙ぎ倒された笹の杖を引き抜いて、それを錫杖
(しゃくじょう)の代わりに振るい、向かい合いたる相手の胸元へと真っ直ぐ伸ばせば、

  《 ばかナ ヤツヨ。》

 泥の中を掻き混ぜるような、ぐつぐつと泡を含んだような声がして、葉柱がゆっくりと顔を上げる。吐き棄てるような、嘲笑を底に潜ませたようなさっきの声は、彼が漏らしたものだったのか。艶のある黒髪を左右に振り分けて日頃からも露にしているその額の中央に、半ば埋まった翡翠の匂玉。まるで三つ目の眸のように月からの光を受けて、濡れたような光沢を見せているそれが、神聖なものであるはずなのに、どうしてだろうか、禍々しい
(まがまがしい)ものにしか見えなくて。
「そいつを離せ。」
 愚かな邪妖。仲間を救うためにと小狡い人間との契約を結んだ。案だけもらって自分がこなしても良かったろうに、そんな捻ったことまでは思いつけなかった。単純で粗野で、だからこそ…本来ならば陽世界では生きにくい筈の彼らなのに、周囲の自然が愛してくれている存在。
「そいつは“俺のもの”なのだからな。勝手なことをするんじゃねぇよ。」
 その昔に誰ぞ人の手で作られたものだろう匂玉を通じて、あの哀れだった斎宮姫を、そして今、自分の式神を侭にしている何かがいる。
“………。”
 怒っても笑ってもいない顔。それが本性なのだろうか、肌目が剛
(こわ)く立ち、鱗(うろこ)のような紋様が浮き立ってもいるのが、月光に照らし出されている。初めて見る獣じみた顔には、だが、平気でおれたものが、

  《 ソレハ ドウダロウカノ。》

 気に障る声だと思った。葉柱の喉を使っているがため、当然のことながら微妙に彼自身の声と波長が重なる。深く響いて仄かに低い、伸びやかなその声が実は大好きだったから。勝手に同じ声を使われているのが、それだけで不愉快で堪らない。

   『人間ごときに従う、式神になど成り下がりおってっ!』

 蛭魔の補佐を務めていた葉柱に襲い掛かった何者か。少なくとも、自分の仕事に水を差されて不快になったには違いなく。邪魔者でしかない葉柱と蛭魔をただでおくつもりはないのだろう。だが、そこまで執念深いものともなると、
“…黒の邪妖か。”
 負界の存在の中でも、最も滅びの瘴気に近い者。悪戯者や小者とは違い、陽世界の混乱を使命と任じて、錯綜した企みを張る者。
“崩壊されたか、それとも…。”
 先程、自分へ警戒せよと告げた念を思い出す。まだ魂魄まで食われてはいない。意識を侵食されただけで、壊された訳ではない。
“魂魄に直接触れれば、間に合うか…。”
 これは一種の賭けかもしれない。自分の唱える咒や呪
(まじな)いへの自負はあるがその前に、葉柱の側の気力や何やにずば抜けた忍耐力があるかどうか。ほろほろと砕かれてゆく自我を、つなぎ留めておれるだけの意志の強さが果たしてあるか。

  《 があぁっっ!!》

 ほんの刹那に戸惑っていた隙を衝き、その葉柱から掴みかかられ、肩口へと牙を立てられた。よくよく見やれば風貌が随分と変わっていて、鋭い牙が狩衣の厚絹を易々と通して肌へまで食い込んでいる。手も日頃よりも大きく、指の1本1本が長く伸びており。鋭い爪もまた、いかにも恐ろしく尖っており。無造作に手元を掴んだその拍子、その手からはみ出した爪により、手首や甲に肌を裂いて痛々しく、紅の線が幾つも幾つも容赦なく走ったほど。
「…チッ!」
 我を忘れてか、それとも。もしかしたらば、苦しい苦しいともがいてのことか。人外としての桁外れの力を発揮して、無造作に引っ張り裂いた狩衣の袖が、月光に褪めた青にて晒された河原の石の上へと打ち捨てられる。露になった撓やかな腕へ、薄手の袷の袖ごと食らいつき、反射としての悲鳴を上げかけた蛭魔の口許へ、鋭い爪ごと横ざまに、大きな手がぶんと薙いで来て、
「…くっ。」
 白い頬へと斜めに傷が開いた。咄嗟に身をすくめて避けたことで、浅い傷で済んだものの、位置が悪ければ眸を一気にやられていたところ。一方的に攻撃を受け続けていたが、

  “まずは…止めねばな。”

 このままでは共倒れは必至だから。意を決すると、自分の腕へと食いついている蜥蜴の惣領のその頭を、もう一方の手にしていた笹の枝にて鋭く薙いだ。咒符を吊るした青い枝には、破邪の聖気が宿っているから。多少なりとも苦手な衝撃が届いたか、黒髪を振り乱して一旦は離れた葉柱であり、そんな彼の背中の向かいかかっていた先を目がけて、
「…………呀っ!」
 冴えた気合いの乗った声にて、周囲の夜気へと祈りの念気をぶつけて止める。それから…痛くて上がらぬ腕をそれでも何とか持ち上げ、特殊な咒陣を宙へと描いた。此処からどこか他へと逃げてゆかぬように、それは強固な結界を張るため。

  「吽っ!」

 次界ごと元の世界から分断した“合”という最強の障壁結界で自分たちを囲い込む。どこまで気力が保つかは判らない。その前に決着をつけねば、何もかもがこの手から擦り抜けて消えてゆくのだろうと、それだけは判っている蛭魔であり。葉柱も自分の命も、失いたくはないのなら、氷壁のような“絶望”を相手に爪を立ててでも粘ることだ。
《 がウっ!》
 不意を突かれて、喉笛へ。真っ直ぐ飛び込んで来た牙。外へ出られぬならばと、結界を張った蛭魔をまずは食おうとでも思ったか。力強くも大きな手で、肩と二の腕を押さえつけられての攻撃であり、
「う…っ。」
 喉元という肉の薄い場所。肌のすぐ下で骨が軋んだ音を、これ以上はなかろうというほど間近に聞きつつ。意識が遠のきそうな激痛を堪
(こら)えながらも…それを真っ向から受け止めて。

  「南莫薩縛、怛他蘗帝弊、南莫三曼多っ!!」

 抱え込んだ格好になっている葉柱の頭の向こう側、何とか伸ばした手で宙に印を結んだ蛭魔の手の中へ、目映いまでの白銀の光が小さく育った。葦の葉のような細長いそれを、白い手の中にて逆手に握り込み、手の真下にある葉柱の首、うなじの真ん中へと躊躇なく一気に突き立てる。途端に、
《 ぐあっっ!!》
 衝撃に身を震わせ、弾みでその牙が蛭魔の喉から外れて…そのまま。向かい合っていた懐ろへと力なくも凭れ落ちる彼であり。柄のないナイフのようだった聖の刃。一時的ながら、これで彼自身を眠らせたも同然となった訳で、問題は むしろ“これから”だ。彼を狂わせた瘴気を薄めて剥がさねばならない。染み入ったものが相手なだけに、一喝で一気にどうにか出来るものではなく、
 
 

 

ぎゃあ〜vv 色っぽいvv
 

 

 
  “…ったく、面倒かけやがってよ。”

 自分でも判らない。この彼を失ったとて、ただ単に…元の独りに“戻る”だけのことなのに。こんな人外な奴なんて、単なる使い捨ての道具、傀儡に過ぎない筈なのにな。代わりなぞ幾らでも見つけられる筈なのに、なのにどうしてだろうか。そんな風に捨てておかれない蛭魔であり。

  「………。」

 無心な顔、無表情なまま降りた瞼、閉ざされた口許。意識はないのに、それでも…時折わななくように震える大きな肩を撫でてやり、

  「…もう、大丈夫だから。怖がらなくても、良いから。」

 誰もお前を苛めやしない。否定しない。其処に居ていい。自分が一緒に居るから。呼べばすぐにも駆けつけてやるから…と。途切れそうになる咒を唱えると同時に、胸の裡にふんわりと沸き立った想いがあって。それをぼんやりと、爪繰(つまぐ)るように意識でなぞっていたならば。懐ろへと引き寄せて抱え込んだ葉柱の、いかにも人外のそれとして冷たく堅く鱗が立っていた頬が、心なしか…温かくなって来たような気がした。


  ――― ダイジョウブ ダカラ。
       ハヤク、アノ キレイダッタ眸ヲ 見セテ…。








            ◇



 …さわさわさわ、と。何かが秘やかにさざめくような音がして。海辺のさざ波、渓流のせせらぎ。そんなものが聞こえるようなところだったかな? …ああ、そうか。茅が。枯れかけた茅の茂みがあったよな。すっかり乾いた丸い砂利が冷たくて。両岸に土手を設けてあったり橋があったり、中途半端に人の手が入ってた名残りがあったもんだから余計に、薄気味の悪い雰囲気がした河川敷。一体 何でそんなところに…。

  “………っっ!!”

 一気に目が覚めたのは、何かを思い出すより先に、自分が頬を寄せている、その身を添わせている“相手”があった事への条件反射。かすかにだが呼吸の気配が頭のすぐ上から届いて、こうまで不用心に、全く意識のなかったこの身を誰ぞの懐ろに預けていただなんてと大きに慌てた。それが情を通わせた、その上 非力な女であったとしても。こうまで…身も心もとまでは、一度も誰にも気を許したことがないことなだけに。何事かと慌てふためき、そして…。

  「…ヒル魔?」

 勢いよく身を起こした自分の背や肩から、ずるりと力なく滑り落ちたもの。まるで柔らかな若木のように、優美な所作がいや映える、それはそれは撓やかな腕が…無造作にもぼとりと落ちて。間近い朝の、黎明の青に周囲が染まり始めていたそんな中、昏々と眠っているように見えた彼が着ていた、狩衣の厚絹が視野に自然と入ったのであるが、

  “…っ!”

 その見目感触が…あまりに惨く塗り変わっているではないかと愕然とする。片方の袖が引き裂かれたままに打ち捨てられており、吸った血が乾きかけてのことだろう、古来よりの文様を織り出し、季節の花を細やかに縫い上げたそれは見事だった綾錦の金銀の糸が、一緒くたになって黒ずんでいる。緑色の、小石だか宝玉だかの砕けたものらしい破片が散らばった胸元の上、細い顎の陰になった袷の衿元。斜めに交差した直線の狭間から覗くは、まだ赤々とした鮮血が光っている生々しい傷痕で。
「な…っ!」
 一体どうして、彼ほどの者がどうしたことだと、ややもすれば恐慌状態になりかけて…それから。息を引いた葉柱だ。

  「……………。」

 小さな小さな声が聞こえた。血の気が失せて青くなった顔の、瞼も降ろされ、唇も舌さえも動かないのに。微かな微かな、今にも途絶えそうな呼吸のような声がする。間違いなく、間近に見下ろしている“彼”が発している声であり、何度か聞いた覚えのある咒でもあり。長く念じて荒らぶる魂を宥めるための、気力と忍耐が必要な、そりゃあ特別な咒の文言。それを彼は…こんな姿になり果てても、ずっとずっと唱え続けていてくれたというのか?

  「な…んで…。」

 いつもいつも、喧嘩腰でしか物を言わない。相手の都合も考えず、他者を顎でこき使い、言いたい放題のやりたい放題。自分へのみならず、仲間内のことをも愚かの阿呆のと罵倒をし、いくら恩があるとは言っても、こんな契約なぞドブにでも捨ててやりたいと思うことがどれほどあったか知れやしない。自分では歯が立たないほどの強大な邪妖が暴れてくれはしまいか、そうしたら守り切れなくても仕方がないから、彼の生命が潰えて何もかも終わりに出来るのにと。そんな情けないことまで思ったことがあるほどに、心底憎んでいたというのに。

  ――― なんで、なんでまた彼奴は。

 彼の側からも疎んでいると思っていたのに。使い捨ての卑しき式神くらいにしか把握してはいないと思っていたのに。口の中に広がる鉄の味。自分が容赦なく牙を立てたことで、肌からあふれたのだろう彼の血の味。
「…どうして捨て置かなんだっ。」
 そんな義理なぞなかろうに。とうとう使えなくなったかと、打ち捨てるか息の根を止めるかすれば済んだこと。だろうにどうしてと、虫の息の相手へ問えば、

  「………指図を、すん、じゃね、よ。」

 掠れたような声が聞こえて来て、はっと我に返った葉柱が、息を呑みつつ蛭魔の口許へと耳を寄せる。ざんばらに乱れた葉柱の髪が当たってくすぐったかったか、小さな吐息を一つついてから、
「お前のような、使いでのある奴隷は…そうそう持てぬ。なのに、こんな、詰まらぬことで、失う…なんて、洒落にもならんからの。」
 こんな憎まれを聞かずとも、倒そうとして歯が立たなかったのではなく、是が非でも元に戻そうと尽力した彼だというのがようよう判る。淡い色合いのそれだった袷や狩衣が、細い肩から袖から余さず朱
(あけ)に染まって痛々しく。そぉっとはだけた襟元からすぐにも現れた…他でもない自分の歯型に眉を顰めつつ、そこへと唇をそっと当てる葉柱で。自分の中の生気を練って送り込めば、再生を速めることが出来る。人の体は邪妖の端くれである自分とは比較にならないほど脆くて弱いが、なればこそ、自分の濃密な気によって多少の損傷なら見る見る修復出来もするから。肩や腕、首条に脇腹と、着物をはだけて順に探して、片っ端から傷を癒す。血脈をつなぎ、傷口を塞ぎ、それから。少女のそれのようだった、練絹のようだった肌へと戻してやりながら、
「…食われるかも知れぬとは思わなかったのか?」
 恐れはなかったのだろうか。身動きが取れないまでに打撃を受けて、そういえば…暴走していた幼き斎宮姫の御魂を解放する儀式の直後だったのだから、咒の発動を支える気力だって、かなり足りなかったに違いないのに。それでも…逃げようとはせず、こんな夜明け近くまで。その腕に、守るように宥めるように抱いたまま、自分を狂わせた瘴気を蕩かす咒を、根気よく唱え続けていてくれた彼だったというのか。そんな相手から、なのに牙を剥かれて、本能的な恐れはなかったのかと訊けば、
「覚えてねぇな。」
 治療の余波へか、それとも葉柱からの子供のような率直な訊き方へか、力なく…しょっぱそうに苦笑して見せ、こうとだけ付け足した彼だったから。


   「相手がお前なら、別に構わぬかとでも思ったんだろうよ。」


 …ああ。何という咒をかけてくれたのだろうか。全身がかぁっと熱くなったような気がして、気がつけば…彼の痩躯を腕の中へと抱え上げ、自分の塒、あの古びた祠へと一気に立ち戻っていた葉柱であり。もうもう絶対に、この彼からは離れぬと。心底憎んでいたよりももっとずっと深き想いで…もどかしそうな顔をして。その大切な主人の身を、しっかと抱きすくめていた総領殿であったそうだ。










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