“…ったく、面倒かけやがってよ。”
自分でも判らない。この彼を失ったとて、ただ単に…元の独りに“戻る”だけのことなのに。こんな人外な奴なんて、単なる使い捨ての道具、傀儡に過ぎない筈なのにな。代わりなぞ幾らでも見つけられる筈なのに、なのにどうしてだろうか。そんな風に捨てておかれない蛭魔であり。
「………。」
無心な顔、無表情なまま降りた瞼、閉ざされた口許。意識はないのに、それでも…時折わななくように震える大きな肩を撫でてやり、
「…もう、大丈夫だから。怖がらなくても、良いから。」
誰もお前を苛めやしない。否定しない。其処に居ていい。自分が一緒に居るから。呼べばすぐにも駆けつけてやるから…と。途切れそうになる咒を唱えると同時に、胸の裡にふんわりと沸き立った想いがあって。それをぼんやりと、爪繰(つまぐ)るように意識でなぞっていたならば。懐ろへと引き寄せて抱え込んだ葉柱の、いかにも人外のそれとして冷たく堅く鱗が立っていた頬が、心なしか…温かくなって来たような気がした。
――― ダイジョウブ ダカラ。
ハヤク、アノ キレイダッタ眸ヲ 見セテ…。
◇
…さわさわさわ、と。何かが秘やかにさざめくような音がして。海辺のさざ波、渓流のせせらぎ。そんなものが聞こえるようなところだったかな? …ああ、そうか。茅が。枯れかけた茅の茂みがあったよな。すっかり乾いた丸い砂利が冷たくて。両岸に土手を設けてあったり橋があったり、中途半端に人の手が入ってた名残りがあったもんだから余計に、薄気味の悪い雰囲気がした河川敷。一体 何でそんなところに…。
“………っっ!!”
一気に目が覚めたのは、何かを思い出すより先に、自分が頬を寄せている、その身を添わせている“相手”があった事への条件反射。かすかにだが呼吸の気配が頭のすぐ上から届いて、こうまで不用心に、全く意識のなかったこの身を誰ぞの懐ろに預けていただなんてと大きに慌てた。それが情を通わせた、その上 非力な女であったとしても。こうまで…身も心もとまでは、一度も誰にも気を許したことがないことなだけに。何事かと慌てふためき、そして…。
「…ヒル魔?」
勢いよく身を起こした自分の背や肩から、ずるりと力なく滑り落ちたもの。まるで柔らかな若木のように、優美な所作がいや映える、それはそれは撓やかな腕が…無造作にもぼとりと落ちて。間近い朝の、黎明の青に周囲が染まり始めていたそんな中、昏々と眠っているように見えた彼が着ていた、狩衣の厚絹が視野に自然と入ったのであるが、
“…っ!”
その見目感触が…あまりに惨く塗り変わっているではないかと愕然とする。片方の袖が引き裂かれたままに打ち捨てられており、吸った血が乾きかけてのことだろう、古来よりの文様を織り出し、季節の花を細やかに縫い上げたそれは見事だった綾錦の金銀の糸が、一緒くたになって黒ずんでいる。緑色の、小石だか宝玉だかの砕けたものらしい破片が散らばった胸元の上、細い顎の陰になった袷の衿元。斜めに交差した直線の狭間から覗くは、まだ赤々とした鮮血が光っている生々しい傷痕で。
「な…っ!」
一体どうして、彼ほどの者がどうしたことだと、ややもすれば恐慌状態になりかけて…それから。息を引いた葉柱だ。
「……………。」
小さな小さな声が聞こえた。血の気が失せて青くなった顔の、瞼も降ろされ、唇も舌さえも動かないのに。微かな微かな、今にも途絶えそうな呼吸のような声がする。間違いなく、間近に見下ろしている“彼”が発している声であり、何度か聞いた覚えのある咒でもあり。長く念じて荒らぶる魂を宥めるための、気力と忍耐が必要な、そりゃあ特別な咒の文言。それを彼は…こんな姿になり果てても、ずっとずっと唱え続けていてくれたというのか?
「な…んで…。」
いつもいつも、喧嘩腰でしか物を言わない。相手の都合も考えず、他者を顎でこき使い、言いたい放題のやりたい放題。自分へのみならず、仲間内のことをも愚かの阿呆のと罵倒をし、いくら恩があるとは言っても、こんな契約なぞドブにでも捨ててやりたいと思うことがどれほどあったか知れやしない。自分では歯が立たないほどの強大な邪妖が暴れてくれはしまいか、そうしたら守り切れなくても仕方がないから、彼の生命が潰えて何もかも終わりに出来るのにと。そんな情けないことまで思ったことがあるほどに、心底憎んでいたというのに。
――― なんで、なんでまた彼奴は。
彼の側からも疎んでいると思っていたのに。使い捨ての卑しき式神くらいにしか把握してはいないと思っていたのに。口の中に広がる鉄の味。自分が容赦なく牙を立てたことで、肌からあふれたのだろう彼の血の味。
「…どうして捨て置かなんだっ。」
そんな義理なぞなかろうに。とうとう使えなくなったかと、打ち捨てるか息の根を止めるかすれば済んだこと。だろうにどうしてと、虫の息の相手へ問えば、
「………指図を、すん、じゃね、よ。」
掠れたような声が聞こえて来て、はっと我に返った葉柱が、息を呑みつつ蛭魔の口許へと耳を寄せる。ざんばらに乱れた葉柱の髪が当たってくすぐったかったか、小さな吐息を一つついてから、
「お前のような、使いでのある奴隷は…そうそう持てぬ。なのに、こんな、詰まらぬことで、失う…なんて、洒落にもならんからの。」
こんな憎まれを聞かずとも、倒そうとして歯が立たなかったのではなく、是が非でも元に戻そうと尽力した彼だというのがようよう判る。淡い色合いのそれだった袷や狩衣が、細い肩から袖から余さず朱(あけ)に染まって痛々しく。そぉっとはだけた襟元からすぐにも現れた…他でもない自分の歯型に眉を顰めつつ、そこへと唇をそっと当てる葉柱で。自分の中の生気を練って送り込めば、再生を速めることが出来る。人の体は邪妖の端くれである自分とは比較にならないほど脆くて弱いが、なればこそ、自分の濃密な気によって多少の損傷なら見る見る修復出来もするから。肩や腕、首条に脇腹と、着物をはだけて順に探して、片っ端から傷を癒す。血脈をつなぎ、傷口を塞ぎ、それから。少女のそれのようだった、練絹のようだった肌へと戻してやりながら、
「…食われるかも知れぬとは思わなかったのか?」
恐れはなかったのだろうか。身動きが取れないまでに打撃を受けて、そういえば…暴走していた幼き斎宮姫の御魂を解放する儀式の直後だったのだから、咒の発動を支える気力だって、かなり足りなかったに違いないのに。それでも…逃げようとはせず、こんな夜明け近くまで。その腕に、守るように宥めるように抱いたまま、自分を狂わせた瘴気を蕩かす咒を、根気よく唱え続けていてくれた彼だったというのか。そんな相手から、なのに牙を剥かれて、本能的な恐れはなかったのかと訊けば、
「覚えてねぇな。」
治療の余波へか、それとも葉柱からの子供のような率直な訊き方へか、力なく…しょっぱそうに苦笑して見せ、こうとだけ付け足した彼だったから。
「相手がお前なら、別に構わぬかとでも思ったんだろうよ。」
…ああ。何という咒をかけてくれたのだろうか。全身がかぁっと熱くなったような気がして、気がつけば…彼の痩躯を腕の中へと抱え上げ、自分の塒、あの古びた祠へと一気に立ち戻っていた葉柱であり。もうもう絶対に、この彼からは離れぬと。心底憎んでいたよりももっとずっと深き想いで…もどかしそうな顔をして。その大切な主人の身を、しっかと抱きすくめていた総領殿であったそうだ。
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