“尋常な存在の空間ではないということか。”
他でもない、今の自分がおかれている状況の話だというのにね。そんな場所だと、冷静に分析して断じてしまえるところが、底の見えない御仁であり。
“…皆は無事なのだろうか。”
意識が途切れたその寸前のことを、これまた冷静に思い起こしている金髪痩躯の術師様であったりする。相手の狙いはこの自分であり、大失態を演じさせて失脚させるか、いっそこの世から葬りたいと思う者だっていたのかも。神祗官ではなく補佐次官であれば、まま民草にまでは名も知られておるまいから。秘密裏に“すげ替え”も可能かという魂胆にての実行なのだろうが。こうまで大掛かりで荒っぽい運びとなろうとは、相手の大胆さをその身に浴びて、自分の方こそ鈍(なま)っていたかなと小さく苦笑をしたその時だ。
《 いい度胸だな。此処へと連れ込まれて笑えるか。》
声がした。襲って来た一団の輩たちとは違い、滑らかな抑揚の、味のある良いお声であり。
「何者ぞ。」
姿を見せぬは我を怯れてのことかと鼻先で嘲笑すれば、ほんの数歩分ほども間合いを取ってあるかないかというほど間近なところへ、唐突に現れた人影がある。
《 花のような姿をしておりながら、噂に違(たが)わぬ豪傑よの。》
現れいでたるは…意外にも若い男である。これが本性ではなく、言葉を交わしやすいようにと人の姿に変化しているのであろうが、それにしたって…飄々とした態度にも気負いはなくて。威嚇するでなく警戒するでなく、それほどにも余裕のあるところを見せているのかと思えば憎々しいが、此処は相手の懐ろの中、
“余裕があって当然か。”
そうと思えば腹も立たないらしい蛭魔の側も、成程 大した豪胆さである。自分が灯した咒符の明かりに照らされた青年は、在り来りな若者のようでいて、やはりどこかが風変わりで。後ろででも合わせるのか、継ぎ目が見えない胴巻きのような内着の上、胸元を大きく割り開いてゆったりとまとった、尻の下あたりまでの厚手の袷。下は余り(あそび)の少ない、踝(くるぶし)までの短袴を履いており。背まである黒髪は…小分けにした房をそれぞれに、幾本もの縄か紐のように結っているという、何とも変わった頭をしている若者で。まるで蛇のような結い方をした漆黒の髪の光沢が、頭の輪郭を周囲の闇から浮き上がらせており、
「蛇、か。」
やはりなと確信を深めたようなこちらの言いようへ、
《 見透かしておったか。そうとも、我は主(ヌシ)らが蛇と呼ぶ一党の者。》
ふふと笑い、
《 お前様には以前にも、我の腹心が目通りしておる筈。》
覚えておらぬかと首を傾げるのへ、蛭魔がふんと鼻で笑った。
「公家の娘を垂らし込もうとした麗しの君か? それとも、俺の寝首を掻きに来た女の方か?」
《 両方ともさね。》
闇を透かしてもなお、力が届く強い眸。笑う形に細まっても鋭い冴えの消えぬその目は、だが。不思議と…愉しげな躍動をはらんでおり、こうやって向かい合う蛭魔と言葉を交わすのを、しみじみ楽しんでいるようにさえ見える。
《 まま、腹心とはいえ変化(へんげ)は下手くそだったらしいからの。這う這うの体で戻って来たのを叱り飛ばしてやった。》
そうと付け足し、
《 殺さなんだのは…情けか?》
ふと。和んでさえいた双眸が突然に冷たく冴える。一応は目をかけてやっていたほどの手練れであった自分の同胞。それを倒して、だが、殺しまではしなかった人間へ、驕りからかけた情けかと問うているらしき青年邪妖だったが、
「そんな偉そうなもんじゃねぇさ。」
金髪痩躯の若い術師は、いかにも面倒そうに言い返し、
「気が乗らなかったまでのこと。」
それ以上にもそれ以下にも、意図などないと言い放ち、
《 恩などとは思わぬぞ?》
この亜空間からも出す訳には行かぬ。そうと言い置いても、
「ああ良いさ。」
けっと吐き出すように、やはり…何でもないことというノリで応じており。特に力むこともない様子から、しゃにむな強がりには見えない言動。
《 ………。》
何がそうまでこの青年を落ち着かせているのだろうかと、黒の邪妖が首を傾げる。
《 なあおい、導師よ。此処から出られぬというのは、ただの幽閉ではないのだぞ? いつまでも同じ時を彷徨い続ける、次空間の迷子となるということだぞ?》
飢えて乾いて、それから命の灯火が掻き消えて死を迎える…というような代物ではなくて。時が止まり、永遠という那由多(なゆた)の牢獄に押し込められるということ。だというのに、
「解っているさ。」
蛭魔はやはり笑って見せる。
「音も光も何も届かない空間での、永劫の独り。どんな剛の者であれ、一月も保(も)たずに自我を壊され、無残にも発狂するのがオチだろうよ。」
《 ………。》
そこまで解っていて、なのに? 空威張りでもない、何か強靭なものを感じさせる、いかにも強かな表情のままでいる彼であり。腹の底にどれほど強いものを抱えた奴なのかと、本心から不思議に思ったこちらの顔が見て取れたのか、
「俺にはな、地獄の果てまで追って来て助けてくれる奴がいるんだよ。」
意外なことをぺろりと言い、
《 此処へと来れるのは陰体のみぞ。》
「ああ。そいつも陰体だ。」
《 術師のお前とは敵であろうに…そこまで大切にされているのか?》
あり得ないことと、ついつい言葉を重ねれば、
「さてな。下僕の契約があるまま、なのに守れもしないで逝かれては、
後々まで甲斐性のなさを笑われでもするのかの。
それか、寝覚めが悪いとでも思うのだろうよ。」
どっちでも良いんだがなと、初めて…やわく穏やかに微笑った青年であり、
《 ほほぉ。》
黒の邪妖はいかにも感心したような声を立て、
《 ますます面白い奴だな、お前。》
こちらもまた、くつくつと笑って見せる。
《 この空間も、俺さえも怖がらない。正体が判っていて、なのに、怖がらねぇってところがいいねぇ。》
俺の手下がいくらかかっても、文字通り歯が立たなかった。柔らかそうで美味そうなのに、咬みつくのが限度でそれ以上は弾かれちまう。そうと言って、いかにも骨太で武骨な手を伸ばし、蛭魔の細い顎を易々と掴んでしまう。
《 いいねぇ。いかにもむくつけき野郎じゃあないのに、こんなにお上品そうなのに。よほどのこと、気力が強いんだろうねぇ。》
そのまま握り潰したいかのように、指に力を込めた邪妖だったが、
「………。」
蛭魔の側は怯みもしないまま。揺るぎなき真っ直ぐな視線を相手へ据えたままでいたところが、
「ここかァっっ!!!」
突然の怒号と共に、勢いよく闖入して来た新たな気配があって、その場の緊迫感を思い切り薙ぎ倒している。飛び込んで来たのは“誰か”という存在だったが、それとは別に、どさぁっと飛んで来た塊もあって、
「な…っ!」
どこまでという限りのない空間ながら、放った力によっての落下であったのか。足元辺りという位置へと落ち着いた、人の赤子ほどの大きさの布ぶくろ。特殊な空間である筈なのに、
「これって…。」
ふくろの周囲へ ふわりと沸き立つものがある。独特のくせがあって渋みの強い、いかにもアクの濃さそうな…。
「莨草を煎じたものだ。蛇には天敵、息さえ出来ぬだろうがよ。」
莨は煙草の原料で。嗜好品として日本へ持ち込まれるのは江戸時代まで下がってから。とはいえ、そこは“植物”でもある代物だから。苦手な成分をと探し出し、蛇が相手でも恐れるに足らずとばかり、武器の代わりに持ち込んだ葉柱であったらしく。1つきりではないぞと、あと2つほど、その足元から力強く蹴り出して見せる人影へと向けて、
「…お前。」
人が自力では出られぬ次空の檻。そこに連れ込まれても全く動じなかった術師殿が、驚いたように闖入者をまじまじと見やり、そして…ふらふらと覚束ない足取りで近づいたから。彼こそが頼りにしていたお仲間であり、よくぞ助けに来てくれたと感激し、安堵しての放心かと思いきや、
「何てことしやがんだよっ!」
「あだだ…っ。」
容赦なく拳骨が降って来て、ごつりとこづかれた頭を押さえてうずくまる葉柱であり、
「何だよ、助けに来たんだろうが。」
「あ・の・な。莨草のヤニ汁は人間にも猛毒なんだ。」
お前は邪妖だから知らなかったろうよな、俺まで引っかぶっていたなら、傷口から入ってもがき死んでたんだぞと。それはそれは激怒のご様子。
「そのくらいは知ってたさ。俺はどっかの誰かさんとは違って、物を的に向けて蹴りつけんのが得意なんでな。当たんねぇように出来る自信くらいはあったんだよ。」
「何をぅ?!」
「蹴鞠のお誘いだけは何がなんでも断りまくってるって話、俺が知らないとでも思っていたか。」
「手で投げりゃ済むことなんだ、余計なお世話だよっ!」
せっかくの美人さんも台なしなほど、烈火のごとくに腹を立て、本気で拳を振り上げる捕らわれの姫君と。せっかく助けに来たのだろうに、そんな姫へと容赦のない悪態をついて憚らない、漆黒の髪をした精悍な侍従と。助け出しに来た者と、助けを待っていた者のやり取りには到底見えない、妙に笑えるお題目での言い争い&叩き合いに、
《 ………ったくよ。》
すっかりと置き去りにされてしまい、彼らを脅かす悪党の元締めな筈の邪妖さんが…小さく小さく苦笑する。
“ホント、面白い連中なのだな。”
こんな人間や、こんな邪妖もいたとはねと、何だか毒気を抜かれたらしく。いつになったら収まる喧嘩やらと、腰を据えて見物の構え。…って、あなたも相当に変わり者なのではないのでしょうかと、何だか妙な雲行きになって来たことへ怪訝そうな顔になってしまった、欄外の筆者だったりするのであった。
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