Summer-Garden H
 

 

          
その9



 結論から言うならば。桜庭がその注意を引かれたサッカー用のゴール枠が、ある意味で幸いした一件となった。

  "いや、それじゃあ何が起こったのか、まるきり判らないし。"

 まま確かに、これでは話をはしょり過ぎではありますね。それに、そんなにも穏やかな事態でなし。一体どんな緊迫の凶事が彼らの身に降りかかったのか、あらためまして…それをこれから掻い摘まんでお話しすることに致しましょう。


 彼らが随分と早い朝っぱらから顔を揃えていたグラウンドの、すぐ脇の道を通ってまだ少し坂の上。保養所や研修所など大人数が短期集中という形にて利用する宿泊施設への、食材やら消耗品やらの大量一括配達を請け負っている業者の小型コンテナトラックが1台、配置的にはここ合宿所の"お隣りさん"にあたる、数メートル先の研修所への配達に来ていたのだが。ドライバーさんが運転席から降りて"門扉を開けて下さい"とインターフォンへ告げている間に、コンテナトラックが勝手にずるずると坂を下り出したのが、今回の緊急事態の"コトの発端"であった。どうやらサイドブレーキがきっちりかかっていなかったらしく、ゆるやかなカーブがかかった下り坂、無制御のトラックはハンドル操作もないままに下り続けて。そして差しかかったのが、カーブの中程に当たるこちらのグラウンド。道路と、道路からは少し高さのあるグラウンドとの間には、下へ行くほど高さが増す斜面があって、それが一種のフェンス代わりのようになっているのだが、坂の高みから下りながら突進して来たこの場合は、その斜面もないに等しくて用を足さず。トラックはその頑丈な車体を斜めによじりながらフェンスにまともに突っ込んで来て、そのままフィールドへ直になだれ込む結果と相成った。

  『っ! セナっ!』

 これは…いくら瀬那でも反射的に逃げるのは間に合わないだろうと判断した蛭魔が、せめて直撃だけでも防ごうと、素早く引き倒して自分の体の下に庇って。そんな二人へ襲い掛かったのは、結果的には…頑丈そうな金網フェンスの一部とその枠だった。フェンスに沿わせる位置から、少しほど離してあったサッカー用のゴール。一緒くたになっておらず、フェンスから数メートルほどという微妙に空いた距離があったため、まずはフェンスに衝突することで減速がかかったトラックに、間を置いてもう一度の衝撃を与えた格好になり、トラックの方はその重い枠に背面の真ん中をぶつけたそのまま、足止めされて何とか停まった。悪くすればトラックごと一気に突っ込んで来たコース上。実際に飛んで来たのは…ネットを張っていなかったゴールポストの枠の中をくぐり抜け、引き千切れて吹っ飛んで来たフェンスの枠が数メートル分のみ。それにしたって、宙を舞うほど軽いものではなく、それが"ぶんっ"と飛んで来ただけの荷重は乗っていたのだから相当なもの。そんな代物が…折り重なって地に伏せていた二人に襲い掛かったその瞬間を見た進と桜庭もまた、

  「………っ!!」「………なっ!」

 正直なところ、咄嗟には体が動かなかった。いくら反射神経に自信があったとて、そして いくら身を呈してでも守りたいほど大切な人がそこに居るのだとはいえ。穏やかで静かな早朝の静寂
しじまの中で突然遭遇するには、あまりにも唐突であり、あまりにも信じられない事態であったから。よほどのこと、予期とか予想とかいう心積もりが有りでもしない限り、専門のレスキュー部隊の人間であっても、この渦中と"同時進行"という形では、そうそう手を出せるものではない。

  「…けほ……っ。」

 ドカンとかガツンとかいう大きな衝撃音に始まって、がつごつ・がりがり、めりめり、ぶちぶち…っと。凄まじい音と共に砂ぼこりを舞い上げながらなだれ込んで来た、途轍もない"非日常事態"。実際の時間経過としては十秒ほども消費してはいなかろうそれを、当事者以外の一番の至近という位置から目の当たりにした王城組の二人の視野の中、小さな咳き込む声と共に何者かの動く気配がして。

  「…蛭魔さん?」

 不意に襲い掛かって来た物体の、あまりに間近に居たればこそ、自分の身に何が起こったのやら一番分かっていないらしき人物。どうして先輩さんがいきなり自分を突き飛ばしたんだろうかと、そんな段階についてを考え始めていた辺りだったに違いなく。その直後のこの突発事は…あまりに間近であったことから、彼の思考を軽々と放り上げ、揉みくちゃにしたに違いなく。とんっと胸板を突かれて尻餅をついたところへ更にのしかかって来た先輩さんの、細身の体がそのまま動かない。ぶわっと舞い上がった砂ぼこりで目が痛くて、それに蛭魔さん、案外と重い。ミントみたいな匂いがする温かい懐ろは、でも何か、ちょっとだけ居心地が悪い。自分からこうしたのに"いつまでくっついてやがるんだ"とか言って怒るような人だし。でも………。
"いつまでこうしてるのかな?"
 そう思って、もう一度声をかけた。
「蛭魔さん?」
 だが、やはり返事がなくって。
"………???"
 やっぱり何かが訝
おかしい。大体、こんなに重い人じゃない。これが"馬乗り姿勢"であっても、自分の体のバランスを取るための自然な反応として、腕なり足なり多少なりとも突っ張ってしまうから、組み敷いた相手に全体重をかけるのはむしろ難しいことな筈。

  「…蛭魔さん?」

 間近になった白い面差しを見上げて…息を呑む。頬の縁に睫毛を伏せて、ゆるく閉ざされた双眸。整髪料で立たせている金色の髪の、そのどこかから伝って来たものらしき………赤い何かが、こめかみまで届こうとしていて、

  「蛭魔さん? …蛭魔さんっ?!」

 意識がないからそれで重いのだと、やっと気がついた。何があったのかは相変わらずによく分からないのだが、この人は自分の身を呈してセナを庇ってくれたのだということだけは判った。判った途端に、何とかしなくちゃというスイッチが入って、

  「蛭魔さん?! 蛭魔さんっ!!」

 何度も何度も名前を呼び、あまりにも応答がないのに焦れて、肩辺りへと向けて腕を上げ、相手を揺すぶろうとしかかったその時だ。


   ――― 触るなっ!


 張りのある、鋭い叱咤の声が飛んで来て。それに叩かれたかのように、
「…っ!」
 ビクッと、セナの動きが凍りついたほど。そこへと足早に寄って来た人があって、
「落ち着くんだ。」
 素早く屈み込みながら、さっきの声が…やはり緊張を残しつつも今度は優しく言葉を紡ぐ。
「セナくん、いいか? 蛭魔は頭をぶつけてる。判るな? 揺すっちゃいけない。」
「あ………はい。」
 そうだ、脳震盪を起こしている恐れがある。無闇矢鱈、動かしちゃいけないんだ。そんなの基本じゃないかと思い出していると、その声の反対側、やはり駆け寄って来ていた人が、自分の頭のすぐ真際に屈み込む気配があって。広げられた大きな手が、セナの薄い肩から背中へと差し込まれ、先に声を掛けて来た人と呼吸を合わせる。のしかかってた蛭魔の体が少しだけ浮き、そのタイミングに"ぐいっ"と、思い切り横へ引っ張り出されて、
「大丈夫か?」
 一回引っ張っただけでセナの全身を一気に引き摺り出せた"力持ちさん"は進であり、先程の声をかけたのが、そして蛭魔を抱えたのが桜庭だとやっと判って、
「あ、あの…。」
 自分たちを不安げな顔つきで見下ろしている二人を、こちらからも見回すセナである。そのまま…進に助けられ、上体をそぉっと引き起こされてやっと目に入ったのが、自分が置かれている惨状だった。支えられるようにして身を起こしたことで開けたその視野の真っ正面には、フェンスを踏み越え、蹴倒して、後ろ向きに乱入して来ていたトラックが、コンテナ後部の扉のほぼ真ん中を、サッカーゴールの枠に叩きつけられることでようよう止まったその有り様が、何とも生々しく広がり。傍らには凄まじい負荷に引き千切られたらしき、捩
よじれた金網とフェンスの枠が落ちていて。しかも…着地した後に勢い余ってすべった跡として刻まれたのだろう、芝草がズタズタにされ、鋭く抉えぐれているということは、とんでもない加速と威力でもって飛んで来た凶器だった紛れもない証拠。そしてその凶器が…。
「…蛭魔さんは?」
 白い横顔がすぐ間際にある。さっきから変わらず、眸を伏せたままな彼であり、
「意識がない。」
 その頬をそっと撫でてみていた桜庭が、どこか固い声を出す。
「頭への衝撃だ。強さや大きさは判らないけど、突然がつんって殴られたようなものだろうからね。」
 まずはと心配した脳震盪を引き起こしている恐れがあるし、これほどのものが当たったのだから他にも危険な状態は幾つも想定出来て、
「救急車を呼んでもらってくれ。」
「ああ。」
 携帯電話はつながらないし、たとえ通じても最寄りの消防署に直通していないケースがあるので固定電話でないとダメだと、その辺りはすぐに通じて。桜庭の投げた声に進が素早く立ち上がる。それを見て、セナも続きかけたのだが、
「セナくんはダメだよ。」
 桜庭はくっきりとした声で言い置いた。
「え?」
「君も、じっとしていた方がいい。庇われてたとはいっても、何かが当たっているかもしれない。だから、ここで待つんだ。」
 いいね?と。真っ直ぐな強い眼差しを向けられて、小さなランニングバッカーくんはその場で"こくり"と頷いて見せる。何とも頼もしい口調と態度で理路整然と説かれては、仰せのままにと従うより他になく。こんな時に引き合いに出すものではなかろうが、さすがは芸能人で、大人たちに混じって一人前に仕事をこなす、ある意味"社会人"としての責任の下、色々に様々な形での一発勝負を沢山経験していればこそ、いざという土壇場での度胸がやはり違うものなのだろう。こんな場にあってもしっかり冷静な桜庭だというのが何とも心強くて。進はこの場を彼に任せると決め、そのまま宿舎の方へと全速力で駆けてゆく。その大きな後ろ姿を見送って。

  "…凄いなぁ、桜庭さん。"

 セナは、まだ少し緊張の抜けない、きゅうっと縮こまった胸を押さえつつも、倒れたままの蛭魔と、その傍らに屈み込んだままの桜庭にあらためて目をやった。セナの体をその下から引っ張り出したために、直に芝草の上へ顔を伏せる格好になった蛭魔だったが、その頬の下へ、今は桜庭が自分の手を敷いている。てきぱきとした対応と、それらを進めるのにちょうど良い、張りと存在感のある声と。いくら芸能人さんでも、自分たちと変わらない年頃なのに。だから、こんな事態にあっては、どうしたら良いんだろうかと狼狽したっておかしくはないのに。さっきからずっと堂々と振る舞っていることで、おたつきかかっていたセナを落ち着かせ、その結果として進の判断や行動の冷静さと機敏さを支えてもいる。上背があって手足が長く、それらを動かす動作や仕草、声の張りようなどに"見せ方・聞かせ方"という指導を受けていることが、少しは関与しもしようけれど。それでも…こんな突拍子もない修羅場にて、こうまで毅然と振る舞えるものではないと思う。日頃とっても優しくて、場を和ませるためにとお道化たりもする穏やかな彼しか知らないセナだったから、尚のこと、その落差が意外だったのかも知れない。

  "大人なんだなぁ。"

 やがて、フェンスの向こう、道路の方から人の気配がざわざわと聞こえ出し、こちらの宿舎の方からも昇降口の辺りに人影が見え始めて。あまりに静かな中へ突然突っ込んで来たせいで、何かの幻とか降って湧いたことのようだったこの突拍子もない事態が、ようやく"日常"の中に認識され始めた頃合いになって、

  「…ごめんね。」

 ふと…そんな小さな声が聞こえた。
「え?」
 声を発した人物の方を向いたセナへ、だが、相手は視線を落としたまま、
「俺、セナくんにちょっと八つ当たりしてるかも。何か喧嘩腰みたいで、その…ごめんね。」
 意識がないらしい蛭魔の容体が心配で目が離せないのか、それとも…何となくこっちを向けない彼なのか。桜庭は少しほど小さな声でそんなことを言い出した。とはいえ、
「???」
 何がどう"ごめんね"なのか、どんな"八つ当たり"なのか、セナの側には欠片さえ見えなくて。
「えと…。」
 訊き返そうかなとしかかったものの、結構距離があった宿舎の昇降口から、ついさっき駆け込んだばかりの筈の進が、早々と飛び出して来た姿が見えたため、
"…うっと。"
 こんな時にややこしい問答もないかなと、口を噤んだセナだった。








            ◇



 自分たちが大慌てで呼んだ緊急時ほど、救急車の到着は途轍もなく遅い気がする。それでも…こんな静かな土地にはそのサイレンも一際大きく響き渡り、到着を敷地内全体へと知らしめた。
『この子も何かしら飛んで来たものにぶつかっているのかもしれないんです。』
 やはり意識は戻らぬままに、ストレッチャーで運ばれて行く蛭魔の姿を、硬い表情にて見送りかかった瀬那の小さな肩。ポンポンと叩いて救急隊員たちに示したのは桜庭で、
『判りました。あと、誰か付き添ってくれませんか?』
 コーチ陣の皆様方もまだ寝ていただろう早朝のこと。何が何やらと反応が鈍いのは致し方なく、進が事務室の電話を借りたそのまま引っ張って来た当直の職員さんも、あまりの突発事だからか、対処がとっさには思いつけずにいる様子。そんな雰囲気を見て、
『ひとまずの連絡係で良ければ、僕が。』
 状況の一部始終を至近で見てましたしと、そう進言した桜庭と、合計3人の当事者たちを乗せて、救急車はやっと現場から離れるに至ったのであった。搬送先を連絡し合う無線のやり取り。意識が戻らない蛭魔の白っぽい横顔。そんな彼の頭部の傷口をあらためる救護隊員たちの会話。それらを不安げに黙って見つめていると、桜庭が時々肩を抱き寄せてくれて。車外に鳴り響き続けるサイレンの音の中、何が何やら気が動転しているばかりだったセナは、やっと到着した中堅規模の病院にて担当の医師と向かい合って問診を受けるまで、どこか上の空なままでいたのであった。



「…小早川。」
 一応の検診を受け、眸に少し砂が入っての炎症を起こした他はどこにも異状は無いと確認されて。蛭魔の診察と処理が続けられている集中治療室の前、待ち合い廊下の長椅子にたった一人でぼんやりと腰かけていたセナへ、聞き覚えのある声が掛けられる。
「え?」
 顔を上げたセナの目の前、膝に手をつき、屈み込むようにして目線を合わせ、こちらのお顔を覗き込んでくれている人がいる。
「あ…進さん。」
 救急車とほぼ同時に到着した警察からの事情聴取があって、それに立ち会うためにと唯一現場に居残った彼が、ようやく駆けつけてくれたらしい。
「大丈夫か?」
「はい。」
 自分はどこも…と答えてから、進の後ろ、彼と一緒に来たのだろう、合宿の責任者である協会の先生が、医師に説明を聞きながら集中治療室へと入って行くのを見やって、
「ボクが。あんな早起きして、黙ってお部屋から抜け出して。勝手にトレーニングしてたから。」
 小さな小さな声で。セナはそんなことをぽつりと呟く。どこかうわ言みたいな、力ない呟きは、だが、何だか不穏な震えを帯びていて、
「小早川?」
 進が眉を顰めて見せたのにも気づかないまま、セナは訥々と呟き続けた。
「だって。そうでなかったなら、蛭魔さんもあんなとこには居合わせなかった。そしたらこんな怪我もしなかったのに。」
 若しくは、彼だけであったなら…俊敏に動いて難を逃れていた筈だ。咄嗟の土壇場、いつだってきっちり切り抜けて来た、飛び抜けて聡明で決断力のある蛭魔。でも、例えば…あのセナにとっては最初の王城戦。もう意味がないと見切った試合だったものを、
『進さんを…もしかして抜けるかも』
 そうと思い詰めた、セナの切なる想いを酌んでくれた人でもあって。
「………。」
 余程のこと思い詰めてしまっているのか、目の前にいる進の姿さえきちんと見極めてはいないような、心ここにあらずというお顔でいる彼であり。だが、

  「…あのな。」

 そんなセナの小さな肩をそぉっと掴んで、
「そうやって何でもかんでも"自分のせいだ"って思うのは、悪く言うと自惚れ過ぎだぞ?」
 低くてくっきりした声が、心地のいい響きでセナの懐ろへと直に届いた。
「…進さん?」
 はっと瞬きを一つ。そんな少年へ、
「たとえ、蛭魔があの場所にいた原因が小早川を追って来たから、だから巻き込まれたのだとしてもだ。そうと判断して行動したのは、あくまでも蛭魔本人だ。違うか?」
 こちらもまた、冷静な判断と解析とを、淡々とした言葉が紡ぐ。
「でも…。」
「あのトラックが突っ込んで来たのも、小早川の招いたことなのか?」
 んん?と。この悪夢の全部、何もかもが自分のせいだというのなら、そこまでの面倒は見ないのかと。ともすれば極端で乱暴なことを訊いて来て、
「…違います。」
 ゆるゆると首を振るセナに、
「それじゃあ、庇ってくれた蛭魔の判断は間違ってたのか? お前にそうしてやりたいって思ったのは、いけないことだったのか?」
 責めている訳でなく、だが、しっかと言い聞かせるように問い質
ただし、
「しっかりしないか。守ってくれた気持ちにまでそんな目茶苦茶を言い出すなんて、どうかしているぞ?」
 気が動転しているのなら落ち着きなさいと、少しばかり強い語調で叱咤してくれる、強くて優しい人。セナを守ることをいつだって優先して思ってくれて、そして…相変わらずに真っ直ぐな人。理詰めで語れば…セナの言うこともどこかしら"正論"に聞こえかねないことだが、そうではなかろうと。それはどこかで条件づけを間違えた、それこそ極端な理屈だと、冷静な眸で正してくれる人。
「判るな? そんな…守った甲斐までなくなるような、何もかも否定して後ろ向きな言いようをするもんじゃない。」
「…はい。」
 半分泣き出しそうになりながらも何とか頷いたセナだと確かめてから、やっと立ち上がり、同じ長椅子のすぐ傍に腰掛けてくれて、
「大丈夫だから。」
 懐ろへと掻い込むように凭れさせてくれる、やっぱり優しくて…大好きな人。

  ――― …進さん。

 過ぎる甘えから間違った方向へ向かうのは許さないけれど、そうでないなら…とことん支えになってくれる、そんな懐ろの深さがこんな時には切ないくらいに嬉しいと、そう感じたセナだった。





 そんな二人が蛭魔への処置なり容体の報告なりを待っている廊下へ、
「あの…。」
 とある男性が現れて、彼らへと声をかけて来た。この夏場に、きちんとしたスーツを着付けた男の人で、
「こちらに、蛭魔妖一という青年が運ばれたと伺ったのですが。」
「え?」
 合宿に来ている担当の大人の方々には見なかったお顔の男性で、初老くらいの年齢だろうか。スポーツ関係者というよりも、事務系の几帳面そうな雰囲気のする。されど…何と言えばいいのか。一流ホテルのベテランのコンシェルジュのように、あくまでも控えめでありながら、水も漏らさぬ対応をしてくれると頼りに出来そうな、穏やかな中に人柄の厚みを感じさせるような小父様であり。

  "………あれ?"

 この人には、どこかで会った覚えがあると。そんな気がした。
"どこでだったかな。"
 直接逢ったのではなく、どこかで"見かけた人"だ。このタイミングで思い出せる筈という、何かしらのキーワードがちらちらと、思考の端っこで躍っている。何だったかな、うんうんと。何とか思い出そうと頑張ってみたそんな場へ、どこからか…恐らくは廊下の向こうの喫煙コーナーからだろう、朝早くからテレビのスイッチを入れた人があったらしく、

  【…のおウチでは、とってもユニークなワンちゃんが飼われています。】

 朝のワイドショーらしき番組の、妙に愛想のいいナレーションの向こうから、仔犬の鳴き声が聞こえたその途端。
"………あ。"
 瞬間的に思い出したことがあって…進さんのお顔をハッと見上げたセナくんだった。




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 *何だかもうちょっとばかり続きそうですね。
  謎の小父様が現れた事で、
  もしかしてセナくんたちにも蛭魔さんの素姓がばれるのかも?