きぃ。B 〜蜜月まで何マイル?


          



 翌日も朝から上天気で、穏やかな海は濃青の鏡のように光って見える。クルーたちは担当部署への点検やら最後の買い出しやらへと、それぞれが忙しく動き始めていたのだが、そんな中、
「ほれよ。」
 サンジが朝食後のテーブルへ"だんっ"と載っけたのは、どうかすると体を小さく丸めたルフィが入ってしまえるほどに、大きな大きな籐のバスケットだ。
「なんだ、こりゃ。」
 他の面子たちはもう各々の分担場所に向かっている。キッチンに残っていたのは、此処の主
あるじのサンジと、呼び止められたルフィ(肩に“きぃ”付き/笑)とゾロ。
「お前らの昼飯だよ。」
 サンジは"にかり"と笑って見せて、
「その“きぃ”とお別れすんだろが。だから、これ持って森に行って、好きなだけ遊んでくりゃ良いってことだよ。今から出掛けてって昼飯一緒に食べれば良いさ。そうすりゃ夕方まで遊んでられるだろうが。」
「あ…。」
 目許をやわらかく細めた小粋な笑みに温かさがちらり。彼の意図とそのやさしさを把握したルフィは、途端に思わず駆け寄っている。
「さんきゅっ、サンジっ!」
「こらこら、煙草が落ちんだろが。危ねぇって。」
 きゅうっとしがみついて"嬉しい、嬉しい"を全身表現して見せる彼へ、
"…まあ、しゃあねぇか。"
 いつもならば…こんな光景へは鬼のように眉を吊り上げる剣豪も、今回ばかりは心遣いへ素直に感謝することにした模様。但し、
「…こら、エロコック。その手は何だ?」
 さりげなく…ルフィの背中と腰へと回されていた両腕への"もの申す"は忘れなかったりするのだが。
(笑)





 人の足で向かうには、まず対面の岩場から陸に上がって海沿いの急な斜面を登る。そんな具合に大回りをすることになる断崖の上の木立ちは、近づいてみると結構深みのありそうな森だった。鮮やかな翠が幾重にも層を成す様々な種類の木々。下生えや茂みも瑞々しく育っていて、時折軽く弾むような小鳥のさえずりが聞こえてくる。さして分け入らない浅間近く。互いに差し伸べられ合った梢同士が頭上で編み上げる天蓋が、さほど空を覆い尽くすほどではなく、随分な明るさの降る芝草の上。辿り着いた彼らは、時間に追われるでない身も伸び伸びと、それはのんびりとピクニック気分にひたって沢山遊んで時を過ごした。きぃはやはりこの森の住民であったらしくて。あちらこちらの梢の高みへ駆け上がっては、だが、目の届く範囲から遠くへは行かず、すぐにもルフィたちの傍らへと駆け戻って来る。やわらかに撓う枝の上でわざと撥ねて見せ、枝が揺れるのごと自分の体を上下させて、ルフィが捕まえようとするのをからかってみたり。そうかと思えば、足元をくるくると駆け回ってから、茂みの少し奥の低木まで誘って。そこによく熟したベリーの実が生
っているのを教えてくれたり。お昼を回って、バスケットの中、ゾロが探す缶切りを先に見つけて"此処だよ"と短く鳴いてみたりするほどに、すっかりと"お仲間感覚"で、このピクニックを堪能している様子。そんな小さな友達と、こちらも思い切りはしゃいで遊んでいるルフィであり、思う存分楽しんでいる様子であるのが、傍で見ている者にまでやわらかな苦笑を誘ってやまない。


   ………ふぃ、ルフィ?


 いつの間にかうたた寝していたらしいルフィは、大きな手にそっと起こされて、
「はにゃ?」
 顔を上げる。こちらを覗き込んでいたのは、いつものやさしい緑の眼差しだ。
「そろそろ陽が傾くぞ。…帰らんとな。」
 彼の言葉の意味が、されどすぐには分からなくって。腕に抱えていた小さな温もりが小さな声で鳴いたのへ、やっと"ああ…"と思い出す。
「そっか。もうお別れしないといけないんだ。」
 芝草の上、むくりと身を起こし、その腕にはあまりすぎる小さな“きぃ”をきゅうっと抱き締める。名残り惜しくてしようがないらしいが、ナミが昨夜言ってた理屈も重々判っているのだし、この森にもしかして彼の家族がいるのかもしれない。それへ断りもなく勝手に連れて行くのも忍びないと…相変わらず彼らしい妙な理屈ではあるものの、ルフィとしては重々納得済みではあるらしい。そこはやっぱり、本物の“小さな聞き分けのない子供”とは違う訳で。そぉっと芝生の上へと戻し、
「じゃあな。俺らそろそろ帰るから。」
 後足で立って"?"と小首を傾げて見せる“きぃ”に、
「元気でいろよな? もしかして、何年先になるかは判んねぇけど、また遊びに来るから。そん時まで"バイバイ"だ。」
 こちらは四つ這いになって最後のご挨拶。そうしてゆっくり立ち上がり、そろそろと歩き始めるルフィである。あまりにゆっくりした、彼には稀なほどのスローモーさ加減だったものだから、
「ほら、いつまでも未練がましいぞ。」
 空になったバスケットを下げたゾロが、苦笑しつつそんな声を掛けて来たほどだ。
「判ってるよ。」
 後追いするかなと危ぶんだが、やはり頭のいい獣なのか、それとも本来の自分のテリトリーへ戻ったことで…匂いや環境を思い出し安心したのか。追っては来ないのが、ホッとはしたが寂しくもあった。姿が見えなくなるまではと、茂みや梢に“きぃ”との間を塞がれてしまうまで後ろ歩きで進んでいたルフィがやっと前へと向き直り、
「なあなあ、ホントに戻って来ような?」
 もう今からそんなことを言い出すから、ゾロにはその子供じみた言いようが何とも愛らしく聞こえて堪
たまらない。
"これが本当に海賊王も目指してる男なのかねぇ。"
 苦笑をかみ殺しつつ、
「ああ、そうだな。」
 双子岬の大クジラ、ラブーンにも約束していたことだ。1つや2つ増えたって、彼ならきっと大丈夫だろう。あくまでも次の再会を楽しみにする彼の前向きな気性から、今回もまた涙を見せないさっぱりとした別れとして幕を下ろす筈だったのだが………。







   
きぃ―――――っ!



 突然響いたのは覚えがあり過ぎる声。しかも、
「銃声っ?」
 確かに重なって聞こえた不吉な雷鳴。
「“きぃ”っっ!」
 ルフィはざっと振り返り、猛然と走り出す。なんでそんな、今さっき別れたばかりじゃないか。駆けて駆けて辿り着いたのはさっきの場所より少し奥まったところで。数匹の犬がけたたましく吠えていて、その傍らには銃身の長い猟銃を下げた男が一人立っている。
「ちっ! 仕損じたか。」
 忌ま忌ましげに言いながら、チェンバーにカートリッジを詰め替えて、がちゃりっと中折れ部分を元へと戻す。作業着風の服装からして、レジャーや趣味でハンティングをたしなんでいるという風情ではないが、それだけに"相手を絶対仕留めん"という強い集中力のようなものを感じさせる、骨太そうな人物だ。そんな彼へ、
「おっさんっっ!」
 ルフィは辿り着いた途端という勢いで大声を掛けていた。犬たちの声が邪魔だったというのもあったが、それよりも、
「今、何撃ったんだっ!? きぃを撃ったのかっ!」
「“きぃ”? 何だ、そりゃ。」
 応じながらも、仕事が先だとばかり、犬たちの尻を叩いて森の中へと突入させる。なかなか本格的な狩猟らしく、
「なあ、おっさんっ! 答えろよっ!」
 ルフィの懸命な様子に少々苛立ったような顔をしかかったが、その後から現れた連れが、随分と屈強で、しかも腰に刀を帯びていることへと目が行って、
「…お前ら、他所
よそもんだな。」
 仕方がないかと、一応はまともな口を利き始めた。
「それがどうしたんだよ。」
「お前さんたちが言ってるのは、もまもどきのことだろ?」
「"もまもどき"?」
「ああ。こんくらいの大きさの、毛並みのいい、大きめのリスみたいな奴のことだ。」
 宙に大体の大きさを示して説明するおじさんである。もまといえば"むささび"の別称。よって、それが“きぃ”の種のここいらでの名前であるらしいというのは二人にも分かった。猟師は恐持てのする剣豪が、だが、気の短い無法者ではなさそうな物腰であることに気づいてか、深い息を一つつくともう少しばかり説明を続けてくれた。
「可愛い見てくれをしちゃあいるがな。あいつは此処いらじゃあ知らないもんはいねぇ、極めつけの"害獣"なんだよ」
「…害獣?」
「ああ。それも人を襲うっていう、性分
たちの悪い猛獣だ。」

   ――― はい?

 本当に同じ動物のことを話しているのだろうかと、ルフィだけでなくゾロまでもが呆然となり、
「そんな…。」
「嘘ついてどうなるね。現に、俺の娘も…。」
 がさっという茂みの音に反応し、そちらを見やるが、今のは違ったらしい。放された犬たちのけたたましい吠え声は鳴りやまないが、耳の方が慣れたか、さほどの障害ではなくなって来た。そんな中、
「俺の娘もな、子供ん頃に指ぃ食い千切られたんだ。」
「…!」
「大人しいうちは可愛いからな、迷い込んで来たのを膝へでも乗っけて、構ってやってたんだろうさ。ところが、いきなりキレてガブッとな。体中に噛みつかれて、しかも指を…。ピアノが好きだった子だったが、仕方がない、諦めるしかなくってな。そんな話、珍しかねぇ。ウチ以外にも、他にも一杯あんぞ?」
「…でも、だけど…。」
 これが救いようのないほど厚顔な悪党が、臆面もなく身勝手な言い分を並べているのなら、
『そんなもの聞く耳持たねぇ』
とばかり、撥ね除けて振り払えもするのだが、生真面目そうなこの猟師の言うことには、どこか…そう"真実の厚み"がある。
「うう"…。」
 確かに自分たちは"他所"の土地の人間で、此処に定住している人にしか知らない理屈や知識があるのは判る。だが、それとこれとを、どうしても"合わせ飲む"ことが出来ないルフィだ。
「そんな悪さしたのと“きぃ”とは違うっっ!」
 あんなにも人懐っこい“きぃ”だったのに。姿が愛くるしいばかりでなく、人の言うことが分かるのか、大人しくて言うことをちゃんと聞いて、元気が良いのにそりゃあ行儀も良かったのに。言葉の足りないルフィに加勢して、
「個によって違う気性や性格だということもあるんじゃねぇのか?」
 ゾロがそうと食い下がると、
「まあな。何でもない時は大人しくて可愛いし、一匹一匹多少は違うって事もあるんだろうさ。だがな、何にキレるんだが、突然牙をむく、形相が変わる。原因は不明なままだ。そんな、予測出来ねぇ危険なもん、いなくても困らねぇんだ、駆逐しちまった方が間違いはないんだよ。」
 やや激高しているルフィに比べて、猟師はかなり落ち着いている。他所者には分かるまいと、別にわざわざ理解して要らないと割り切っているのだろうか。相手の言っていることの理屈がきちんと通っているだけに、
「………。」
 ナミやサンジのように瞬発的な弁の立つ方ではないゾロとしては、ルフィの肩を持ってやりたいながらも強い姿勢にての援護には出られずにいた。彼自身、きぃをどこか得体が知れない存在だと意識していたせいもあったのかもしれない。………と、

   ――― ぎゃいんんっっ!

「………っ!」
 放されていた犬のものだろう、凄まじい悲鳴が轟いたから、
「こっち、来るぞ。邪魔だから退
いてな。」
 猟師があらためて銃を体の前へと差し上げる。そんな彼が見やった先、ルフィやゾロもその視線を振り向けたが、
「…っ!?」
 木立の陰から出て来たのは、見覚えのある毛並みを、だが、数倍にも膨れ上がらせた、いかにも獰猛そうな生き物だった。興奮してのことだろう、まだまだ赤ん坊に近い仔犬くらいだった小さな体が今は猪ほどにも大きくなっている。真っ黒でくりくりと真ん丸だった眸は、血を噴き出させてでもいるかのような真っ赤であり、鋭く尖った眼光のまま、


   ――― しゃあぁぁっっ!


 威嚇的な声を放った様子は、まさに"悪鬼"そのもの。大きく裂けた口許から、いきおい、炎でも吐き出すのではないかと思わせるほどの形相になっている。
「…あ、きぃ、か?」
 そうだと判る、見分けられるらしいルフィが、だが、信じられないという声音の呟きを洩らす。あまりの落差に呆然としかかったのも束の間、ライフルを構えた猟師に気づいて、はっと我に返ると、
「やめろっ!」
 肩から体当たりをし、銃口を空へと逸らした。当然、
「な、何しやがるっ!」
 猟師は激高して見せたが、
「きぃは悪さはしないんだっ! こんな、銃を向けたり、犬を放したりするから怒ってるだけなんだっ!」
 必死になって言いつのるルフィの剣幕には、
「………うっ。」
 一瞬、気圧
けおされたようだった。だが、

   ――― きしゃあぁぁっっ!

「ルフィっっ!」
 選りにも選って。猟師と揉み合って背中を向けていたルフィのその肩口へ、凄まじい跳躍力で飛び掛かり、鋭い牙を突き立てたものがある。
「あぐっ!」
 容赦のない攻撃であり、小さな生き物のそれだとは信じがたい顎の力が、肉ごと抉り取らんとばかりの食い込みようで突き立っている。
「………このっっ!」
 これには…いくらルフィの援護をしてやろうと構えかけていた剣豪であれ、優先順位がきっちり働くというもの。すらりと、音もなく抜き放った和道一文字を、それは正確に宙へ走らせる。ルフィ自身には毛ほどにも触れぬよう。だが、その悪鬼には深々と突き立つようにだ。ところが、
「………っ!?」
 まずは外れるまい速さと鋭さで繰り出された刃の、ほんの紙一重の先で。ルフィに襲い掛かっていた獣は実に俊敏な反射を見せて一旦離れ、二間ほどの間合いを取って再びこちらを睥睨して見せる。地べたにしがみつくような低い姿勢は、十分な戦闘意欲を感じさせ、彼の側から引く気配は丸きりない。一方で、
"…今のを?"
 これはゾロにも随分な衝撃だった。位置も死角なら風向きも逆。気配を殺すのは獣並みの得意技で、あのスピードで、そして何より…相手は興奮状態にあった筈なのに。素早くて鋭敏な反射を"野生動物のよう"と言いはするが、腕が伸び切る前にルフィから離れていたのがあまりにも意外。まるで背中に目があるか、それともこちらの考えを先に読んだかしたような。
「…つうっ!」
 肩を押さえてその場に崩れ落ちるルフィに気づき、慌てて駆け寄ったが、
"………まさか、あいつ…。"
 ゾロとしては“きぃ”の本性に…その底にある何かに、あらためて感じ入っていた。
「だから言ったんだ。ああなっちまったら、もう、誰の見分けもつかねぇ。」
 猟師のおじさんは、痛々しいルフィの怪我に眉を寄せ、
「頼むから退
いてな。血の匂いに別のまで誘い出されて来かねねぇ。」
 きぃの方へと向き直り、再び猟銃を構えようとする。彼とて必死なのだ。決して趣味やお遊びなんかではなく、命と誇りを懸け、怒りを込めた、立派な仕事であるのだろう。だから、余計な怪我をさせたくないと、振り払うというよりは懇願するようにルフィへ言う彼で。
「ルフィ、退くんだっ。今の“きぃ”は我を忘れてる。」
 ゾロまでもがそうと声を掛けたのへ、
「嫌だっ!!」
 だが、ルフィはあくまでも徹底抗戦の構えを崩さない。再び立ち上がり銃を押さえつけようとしかかったその背中へ、緑の空気の中に殊更映える赤いシャツへと身構えた“きぃ”が跳躍のバネを溜めるのが判る。もはやどれが誰で誰がどうという見分けさえ利かないのだろう。そちらの気配にいち早く気がついたゾロは、

   "………チッ!"

 致し方がないと素早く体勢を切り替えた。そして、






   
――― きぃああぁぁっっ!



   「……………え?」



 背後に、ザンッと風が疾
はしったような気配があって。けれど、こちらへ注がれていた殺気立った気配は、何かに遮られて届かない。ゆっくりと振り向いた肩の向こう。そこには見慣れた大きな背中があって、


   ――― (ぱさん)


 吹き抜けた風の響きに紛れる事なく聞こえた草の音。何か…小さな何かが力なく伏せたような、軽い音。



   「斬ったのか?」


 ………誰の声?


   「…咄嗟に峰を返したが、こんな小さいから死んだろう。」


 単調な声。聞き覚えがあるけれど、顔が浮かばない。


   「………ルフィ?」


 何だか…立っていられなくって。
 何だか風が煩くて。





   ……………きぃ。






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