月下星群 〜孤高の昴

          其の十 長い夜 A


          



 辺りから間断なく潮騒の音がする。ただゆらゆらと波打つ単調な調べではなく、波濤を散らして岩礁へと打ちつける音も、浜辺をさらって沖へと帰ってゆく足音も混じっていて。そこが、大洋の真ん中に浮かぶ船の上で聞く海の呟きとは少々違っていた。陸から海へと吹きおろす風の音も、いつもなら帆を叩くだけの響きしか立てないそれが、今は草むらをさわさわと鳴らしてゆく音や、どこかの空洞を低く唸らす口笛のような音も率いていて。寒い土地ではない筈だのに、ついつい肩を寄せたくなるような、薄ら寒い気持ちを誘うよう。
「………。」
 夜陰の中、小さなランプの灯火に照らされて、じっとその大きな眸を見開いたまま、まんじりともせず起きている小さな人影がある。生き人形のようにじっとじっと。息さえ詰めてじっとじっと。何物かを見逃すまいと、必死になって集中して、もう何時間もそうしている。ともすれば夜でもかぶっていることの多い麦ワラ帽子を、傍らの脇卓の上に載せたまま。誰もいないガランとした仮眠室にぽつんと一人、小さな椅子に腰掛けて、じっとじっとそうしているルフィである。


            ◇


 大切な存在の、いつもなら頼もしい温もりを、今は…例えようのない不安と一緒に背中に負って、息をもつかぬ勢いでただただ駆けて来た。日頃から結構速いと自負している駆け足を、こんなにもまだるっこく感じたことは、今までにもそうはなかったと思う。翼があれば良いのに、一気に空を飛べれば良いのに。そう思って、口惜しくて歯咬みして、それでも駆けて駆けて。
「チョッパーっ!」
 昨夜から泊めてもらっていた村の集会所。その正面のドアを、跳ね飛ばさんという勢いで体当たりで押し開く。入ってすぐの広間の一角、縛り上げた賊たちを集めて見張っていたトナカイドクターの姿を見つけると、ルフィは大声で助けを呼んだ。そういう声を彼が発したのを、
『聞いたのは初めてだったな。』
 そうなのだったとチョッパー自身が気づいたのは、随分と後日の話だったが。
「どした、ルフィっ!」
 あんまりにも血相を変えていて、それは悲壮な声を出すものだから。ぱたぱた慌てて歩み寄り、
「…っ!」
 丁度、ルフィたちとは別方向へ捕り方に向かっていたロビンやサンジが戻っていたので、見張りに多数でついていなくても良かったため、
「…こっちだ。」
 間近に見た彼らの様子から大体の状況を察したらしい船医殿は、二人を廊下を挟んだ隣りの間へと導いた。そこは昨夜彼らが寝かせてもらった大きな部屋で、嵐の時などの避難所でもあるのだろう、ベッドが幾つか元から並べてあった。その内の一つへと、背中に担いでいた…自分よりも一回りは大きな剣豪をそっと降ろして横たわらせて、
「これ。ゾロが自分で引き抜いたんだ。チョッパーに見せろって。」
 両手が塞がっていたからと、麦ワラ帽子は口に咥わえて。手の方で落とさぬようにとしっかり握っていた、一本の粗末な矢をチョッパーの前へと差し出すルフィである。いかにも素人の手製という粗野な代物で、先から10センチほどまでを鮮血に染め上げているが、特に鏃
やじりの部分には別な色合いが浮いていて、
「判るのか?」
 ルフィには何が何だか一向に判ってこない。それがとにかく苛立たしい。倒れたゾロ本人からして判っていた風情であり、今また、現場にはいなかったチョッパーにも事情が判ったらしい頷きを見て、
「なあ、一体何なんだっ?! ゾロはどうしちまったんだ? こんくらいの小さい傷…。深いったってこんな小さいのによ。歩けないほどんなって倒れるなんておかしいんだ。なあ、チョッパーっ!」
 居ても立ってもいられない。どんな無茶だってやり通すし、サンジとの突っ掛かり合いとはまた別物な"突っ張り合い"を、いつだって自分へと示して見せてくれる彼だのに。わざわざ口に出して言いはしないが、
『お前に出来る我慢が俺に出来ねぇ筈ねぇだろが』
 何につけ、いつだって期待以上の働きや活躍を決めてくれる、それは頼もしいゾロなのに。一体何がどうしたのだろうか。こんなにも頼もしい彼を、そんな小さな矢がどうやって昏倒させたのだ? そして、今の彼に何が起こっているというのだ?
「………。」
 チョッパーはそれは真摯な表情になると、白衣のポケットから銀色の横長で平たいケースを取り出して見せる。
「ルフィ、とにかく落ち着いて。ゾロは助かる。大丈夫。それをまずは理解して。」
 言いながら、ケースの上蓋をパカリと開いた。独特の消毒薬の匂いがして、中には注射器が収まっている。それを取り出したチョッパーは、ベッドの傍ら、脇卓の上へケースを載せて、小さなアンプルを摘まみ出す。どうやらそれをゾロへと注射するらしい。液体の薬剤を注射器へと移し、患者の腕を消毒し…と、チョッパーの手際は相変わらずに見事なもので、ベッドの傍らへと寄せられたスツールの上へ飛び乗ると、
「〜〜〜〜〜。」
 苦い薬の次に嫌いな注射へ、ついつい自分が打たれたかのように眉をきつく寄せて見せたルフィだったが、あっと言う間に終わった処置に"ほうっ"と肩を撫で下ろす。
「なんだったんだ? ゾロが引っ繰り返っちまうなんて、よくせきなことだ。」
 これで大丈夫なんだと。そこは信頼の度合いが違う。すっかり安心し、改めてチョッパーに声を掛けたルフィだったが、
「………。」
 何故だか、チョッパーの様子が少々おかしい。大丈夫だと、助かると言った本人だのに、そのための注射を打った彼なのだろうに、妙に打ち沈んだ表情でいる。
「チョッパー?」
「毒なんだ。」
 頭の中で、胸の裡
うちで、一体どういう説明をすれば良いのか、どこからどう切り込んで語れば良いのかと、そういう逡巡をしていたらしい船医殿であるらしく、
「村長さんが言ってたんだ。あいつらがこの島に目をつけたのもそれが目的なんだって。この村の外れには、根を煮詰めると物凄い猛毒のエキスが採れる草が自然に一杯生えてるんだ。けど、大丈夫。葉っぱに解毒作用があって、しかも即効性だから、投与が早ければ早いほど、後遺症とか残らずに治せるよ。」
 大事なポイントのまず一つ目を説明し、
「…ただね。高熱が出る。」
 これが肝心な、二つ目のポイントの説明に入る。
「覚えてないかもしれないけど、ルフィもアラバスタで、同じ理由で熱を出して3日も寝込んだんだよ? ナミがケスチアの毒にやられたのは、毒がリンパ腺とか色々な器官を腫らしたせいだけれど、ルフィが熱を出したのは毒が中和された後だった。それって"毒だ大変だ"ってルフィの体が慌てて体内に送り出した治癒のための白血球が、けど、目的を見失って何ともないところへ溢れんばかりの量になったことで起こる炎症から出た熱なんだ。」
「???」
 随分と分かりやすいように噛み砕いての説明ではあったが、専門的なものだ、全くの素人に理解させるのは難しい。発熱には幾つかの種類があって、怪我をした部位が治癒に向けて熱を帯びるというものだったり、体内に入り込んだ異物を殺そうとする機能が働いてのことだったり、その異物が暴れたり刺激を放出することで傷ついた箇所の炎症によるものだったり…と色々あるため、種類によって処理・対処も多種多様。ゾロの身にこれからやって来る高熱は、言ってみれば新陳代謝の凄まじきもの。自己再生能力が働いてのものであり、
「だから、今回のはそんなに心配は要らない。」
 毒性のあるものではない。これはホント。ただ…ルフィが発熱した時にチョッパーが憂慮した"抵抗力"への不安がない訳でもない。(『眠れる君へ』参照)この彼もまた、怪我は多いが病には縁がない人間だそうで、体力とは少々種類の異なる"熱への抵抗性"を持っていないとえらいことになる。………だが、
「ゾロは物凄く体力があるからね。それに、聞いた話ではこれまでに一杯深手を負ってもいる。」
 船医として皆の病歴を知っておく必要があるからと、そうと前おいて訊いたところ、そんな気を遣わなくても良かっただろう呆気なさで、あちこちに見受けられる大きな傷をどういう経緯で負ったものだか全部話してくれた彼だそうで、
「これ一つ一つを負った時に、やっぱりかなりの熱を出した筈だ。それを隠して戦い続けてたりしてたんだってね? とゆことは、体に"熱"への免疫も一応はついてるから、大丈夫、乗り切れるさ。」
 チョッパーはそう言って、反っくり返り過ぎて背後へ倒れそうになるほど、自信満々に胸を張って見せたのだった。


            ◇


"………。"
 大丈夫だからと言われたにも関わらず。そして…何もしてやれず、ただ見ているだけなのは辛いばかりだのにも関わらず。小さなスツールをベッドの傍らへ引き寄せて、まんじりともせず、じっと座ったままでいる。水差しと洗面器への氷を入れ替えにと入った気配にも気づいてはいないような、かすかにも動かない彼だったから。ちゃんと呼吸をしているのだろうかと、顔の前で手を振ってみたくなったが、こうまで真剣に張り詰めている彼だけに、下手につつくのさえ忍ばれて。
"…ったくよ。"
 チョッパーが心配したのは、正にこういう意味合いからだった。ゾロ本人は大丈夫だ。かなりきつい高熱が出るが、あの時のルフィとは条件が違い過ぎる。ルフィ本人へと説明したように、これまで皆にはひた隠して来たみたいだが…大傷のたびに熱を出し、激痛や大量の失血と戦うことで抵抗力というものを知らず高めて来ていた彼だから、毒素を取り去った後の高熱が襲い来ても、体力もあることだしさほど心配も要らないまま乗り切れることだろう。だが、苦しいものには違いない。毒素への中和剤を注入した直後なだけに、解熱剤などはバランスを崩す恐れがあって投与しない方がいいと来て、医学的な方法という意味では手の打ちようがなく。これもまた一つの戦い、嵐のようなものとして通り過ぎるのを待つしかない。それを見守ると言い出したルフィに、やはりなとチョッパーは肩を落とした。担ぎ込まれたゾロを見て、病人本人への心配よりも…必死の形相で担いでいたルフィの気落ちや思い詰めの方こそが心配だったのだ。
『ルフィって、人の痛みとかに敏感な方だろ?』
 気弱に構えて一緒に痛がるという性分
たちとは、勿論違うが。見逃さず取りこぼさず、きっちり理解して把握する。心の傷、誇りへの罵倒。それらがどれほど痛いか悔しいか、他人のものへほど敏感で。
『でも、怪我とかには結構無頓着だぜ?』
『怪我にはな。自分が多少の怪我くらい平気だからってのがあるんだろうさ。』
 それでなくたってあんたたちの回復力、只事じゃないし。あのアラバスタの死闘で負った各々の大怪我でさえ、一晩で歩き回れるまで回復した化け物ぞろいだからして、他人のことは言えない彼らなのだが、それはともかく。
『進行や深さが素人には分かりにくい病状ほど歯痒いもんはねぇからな。』
 熱という病状も、ナミが冒された時はちんぷんかんぷんな事を言ったりしてもいたが、あの一件で何とか…大変なことなのだという理解は出来たらしく、更にあのままだったらナミは間違いなく死んでいたのだと聞かされて、いかに怖いものか思い知った節も窺えた。しかも、素人である自分には何の手も打てない代物である。怪我だって治癒や治療は専門家である医師と時間に任せるしかないのだが、それでも安静にしていれば治るもの。触れば痛いという治り具合への手ごたえ
もあって、病気ほどには"形の無い怖さ"はない。
"…そういや、こいつ、幽霊が苦手だったな。"
 形の無いもの。手が出せず歯が立たないもの。そういうものが大の苦手で、見栄も張らず隠しもせずに、不安がったり怖がったりして見せる。そんな苦手と敢えて向かい合うとは、
"そうまで…。"
 目が眩みそうになるほどに大切で大好きで。だからこそ絶対に失いたくはなくって。いつも頼もしい愛しい人。何もしてやれないからせめてと、一心不乱に"帰って来てくれ"と念じている彼に違いない。そんな彼だと察していたから、

  「…ぶん殴ってやるんだ。」

 空耳かと思った。取り立てて静かでもなく単調でもなく、いつもの声だったのが却って場違いで。顔をそちらへ向けると、だが、彼は特にこちらへ言ったという風情でもなくって。僅かにも動かず、真っ直ぐにベッドの主をだけ見ているばかり。その横顔へ、
「………。」
 しばし…何かしら探るように、それこそ呼吸をしていることを確かめてでもいるかのように、じっと視線を据えていたシェフ殿だったが、
「…そうだな。こんだけ心配させてんだからな。」
 在り来りな言いようで言葉を返す。返事はなかろうなと思っていたら、小さな船長殿は、それははっきり"こくり"と頭を頷かせた。
「だから、眸ぇ覚ました時を見逃す訳にはいかねぇんだ。」
 彼らしい不器用さで、だが、これ以上はない懸命さで、彼もまたゾロと一緒に戦っているのだなと。そうと窺えて苦笑が漏れる。どうしてこいつらはこうも寄り添い合えるのか。聞いてるこちらが恥ずかしくなるような不器用さと拙さで。だが、それへと感じる羨望に身が熱くなるほどの深くて一途な純粋さで。必死になって相手を想い、愚かであろうが辛かろうが決してその眸を逸らさない。
「…そっか。」
 サンジは小さな声でそうと返すと、小さな肩に手をやって、ポンポンと軽く叩いてから、そのまま踵を返して部屋を出た。


            ◇


「おい、ルフィ。」
 サンジが声を掛けて来て、
「おやつだぞ。クソマリモを起こして来いや。」
「? うん。」
 怪訝そうな顔をしたのへ、そういうのには敏感なシェフ殿はくくっと笑って見せる。ルフィが何へ小首を傾げたのか、あっさり読んだからだろう。
「あいつはお前の声だとてきめん、跳ね起きるからな。」
「そんなことないぞ?」
 キッチン前のデッキに立ったままな彼を柵越しに見上げ、頬をぷっくりと膨らまして反駁するルフィだ。遊ぼうとか釣りをしようとか、懸命にねだって揺さぶってもなかなか起きてくれない彼なのに。
「どんなに揺すっても起きねぇ時は起きねぇぞ?」
 妙なことへと胸を張る彼へ、
「そりゃあアレだ。狸寝入りって奴なんだよ。眸ぇ瞑
つむったままで、お前が甘えかかるの楽しんでやがるんだ、あのムッツリ剣士はよ。」
 くつくつと楽しそうに笑って見せるサンジだったから………。


   ――― あれ?


 今のはいつの情景だっけ。吹きつけて来た潮風に、思わず眸を閉じて麦ワラ帽子を押さえると、くるくると場面が変わる。いつもの甲板の上だったのが、照りつける陽射しも潮騒の響きも"ざあぁ…っ"と遠のいて、

「…あ。」

 いやに白っぽい空間の先の方。向こうを向いて立っているゾロがいた。距離があったがあの存在感だ。そうそう見落とすものではないというもの。上背があって、シャツにかいがら骨のところが浮いてる、いつもの見慣れた大きな背中で。脚が長いから腰が随分高いとこにあって。その腰に腹巻きで据えた、三本刀の把のところへ肘を引っ掛けているいつもの格好だ。斜めに見えてた横顔の頬の線もすっきりと穏やかで、ついつい見惚れていると。ふと、ピアスが揺れて、

   ――― あれ?

 こちらを肩越しに見やったゾロは…会釈のように片手を挙げて見せてから、そのまま向こうへと歩き出したから。

   ――― ゾロ?

 今のって。今の会釈って、何? 少し眩しそうに眸を細めて、軽く手を挙げて見せて。それってさ、どういう意味なんだ?

   ――― ゾロっ?!

 大きな声で呼んだのに、振り向いてもくれなくて。サンジ、サンジ、やっぱり嘘だ。ゾロ、俺の声だからって反応が特別に違ったりはしねぇよ。そんなのヤだけど、でも、ほら、こっち向いてくれない。

   ――― ゾロっ!!

 こんなに呼んでるのに、全然振り向いてくれない。どうしよう、どうすればいい? 足が動かないんだ。追いかけられねぇんだ。何かが横から呼んでてさ。お前、あいつとは違うだろって。〜〜〜になりたきゃ、そっちじゃないぞって。でも今はそれどこじゃなくて。ゾロの方ばっか見ててあんまりそっちを向かなかったから、

   ――― ………っ?!

 急に何か眩しい光がして………。あ、あ、ゾロが見えなくなっちまうよう。何だよ、これ。邪魔すんなよっ! ゾロ…っ!!








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