第三章 ちまたに雪の降るごとく…
Ⅲ
〈ねえ、ピエール。“キス”って何?〉
〈…え?〉
訊いたのは岬で、訊いた相手は自分のナビゲイターのピエール。訊いた場所はリビングだった。と言っても、前の段落で日向と若島津ハジメちゃんがじゃれ合っていたうーむTOKIO-CITYの日向宅の、ではなく、フランス州はリヨン郊外にある彼らの自宅の、である。特に予定のない昼下がりの所謂“ティータイム”に差しかかったところで、刳り貫き戸口でつながっているダイニングの方からは、若島津が淡い玉子色のキルティング製のカバーをかぶせたティーポットと四人分のカップ&ソーサーといったティーセット、作りおきのタルトやら焼き立てのスコーンやらといったお茶の用意を運んで来かかっていて、先に足を運んでいたジノの方は、先週手に入ったという有名な指揮者のタクトによるラヴェルの協奏曲の復刻版をCDプレイヤーにセットしかけていたところ。…えらいもん聴くんですねぇ、お茶の時間に。
〈だから。キスってただ口と口をくっつけるだけでしょ?〉
〈あ、ああ。〉
ソファーに並んで腰を下ろす格好になった二人だったが、少し遅れて後から追って来た岬は尻からではなく膝からソファーの上へ乗り上がっており、
〈そんなのより、こうやって…。〉
言いながら…自分の側にあったピエールの腕を持ち上げ、その下を掻いくぐるようにして相手の膝の上へ馬乗りになって、ぱふっとばかりに胸板へ凭れかかって、
〈こうやって抱っこされてる方が一杯くっついてて温ったかくて気持ち良いのに。
だのに“キス”の方が特別なんでしょ? ねぇ、どうして?〉
〈…う~ん。〉
臆面もないというか、こういうところがまだまだ未分化・未経験で“お子様”だというか。だが、
〈まさか、唾つばつけとくとか取って食べちゃいたいくらい好きって意味だとか?〉
そんな筈ないよねぇと言いたげに言葉尻を微笑いで滲ませる辺りは、そう言うほど“お子様”でもないらしいから話が面倒になる。現に…そんなオマケを付け足した岬へ、
〈あはは…。〉
いやに乾いた笑い方を返したところをみると、実はそれで誤魔化そうとしたピエールだったのかも知れない。元は孤高の美丈夫スナイパーも、こうなると形無しだねぇ。そして…彼らに背中を見せるようにサイドボードの方を向いていたジノの肩がいやに細かく震えていたのは、必死で笑いをこらえていたからに違いない。自身の感情表現に限っては鉄面皮な彼がこれ程判りやすい反応を見せるとは随分珍しいことだが、はてさてどんな説明が飛び出しますことやら。無責任ながら拝聴することにしましょうか…と、待つこと数刻。
〈…ほら、口ってのは食べたり息をしたりする他に、人と話をする器官ものでもあるだろう?〉
腕の中に抱えたまま向かい合った岬に、ピエールは…どこぞの王子様か皇太子を思わせる気品に満ちた華麗な顔を柔らかくほころばせて口火を切った。
〈うん。〉
素直に頷く岬へ、
〈ってことは、時には色々と…言い訳やらおべっかやら嘘やらを並べ立てることもあるかも知れない。〉
〈…うん。〉
〈そういう誤魔化しをするどころじゃありませんよって。
言葉なんか要らないくらい、何て言って良いか言葉を思いつかないくらい好きですよって。
そんな表現なんじゃないのかな?〉
スコーンにかけるハニーシロップは要らないんじゃないかと思うほどの甘ったるい説明に、岬は“う~んと”としばし考え込んだ後、
〈ほんとぉ?〉
首を回して第三者に確認を取る。彼にしてみればいつものことで何気ない順番だったかも知れないが、こらこら、訊くに事欠いてそういう問題をジノさんに訊きなさんな。 訊かれた方はサイドボード前から振り返り、
〈ま、そういうもんじゃないのかな。〉
ピエールの顔を立てて、是という対応を示した。
〈後は“こんなに近づいても良いですか? 私もあなたに警戒してませんよ”って、そういう意思表示とか。
なんたって頭部ってのは、目とか首条とかっていう“急所”の塊りだからねぇ。〉
色気のない言い方を。 でも、どうなんでしょね、実際。キスと一口に言ったって色々なのがあって、ご挨拶代わりの軽く触れるだけのもあれば、相手をそこから取り込んじゃいたいって言わんばかりの濃厚なのもある。まあ…大した経験のない人間には、論じる資格もないのかも知れませんがね。うにゃむにゃ ただ、口唇っていうのは人間が一番最初に快感を覚える場所です。赤ちゃんの頃、一番の関心事である「満腹・空腹」という“快・不快”のうち、お母さんのおっぱいを含んで空腹を満たされる…という一番原初の心安らぐ“快感”を与えられる箇所ですから、これは間違いない。くわえ煙草やチェーンスモークといった形で、ひっきりなしに煙草を吸ってる人というのは、精神的に乳離れ出来てないとか、甘えん坊なところがあるという説があるくらいです。勿論、それだけではなくって。愛してるとか大好きだとか、あなたなしには夜も日も明けぬだとか。所謂“好いたらしい”という想いは、到底目に見える形には出来ない代物だから、互いの言葉や態度でしか確かめようがない。相手の誠実と自分の気持ちを信じてさえいれば良いようなものには違いないのだけれど、それだけではやっぱり何だか不安なので、まさか何とも思っていない相手とこんなことはそうそう出来なかろうという証しめいた“秘め事”の一つなのかも知れない。単純に考えたって血肉の赤みが透けて見えるほど皮膚が薄くて過敏な場所。おいおい 誰が一番色気がないんだ。そんなに感じやすい箇所なんだから、ついばんでみたいとか、そこで感じてみたいとか、そう思ってしまうものなのかも知れませんね。
◇
『此処に大きな樹があったとする。
世界的にも…とまではいかないまでも とっても有名な樹で、
沢山の人たちに知られてもいた。
“ああ、あの樹ならそこの森の向こうだよ。”
“有名だよ。世界一は大仰だけど、この国一番じゃないのかな。”
それがある日、寿命か落雷にあってか、地震や大風のせいか、
まあともかく突然ばったり根こそぎ倒れたとする。
だが、それを誰も目撃しなかったらどうだろう。
誰も倒れる軋みを聞かなかったら、その瞬間に気づかなかったら。
誰一人として倒れたことに気がつかないまま、
地図の上や皆の認識の中では、
その樹は其処に依然として存在し続けていることにならないか?』
-例えば、道路の混雑状況を分析し、最も効率的な経路を弾き出して人々を誘導するというコンピュータ制御システムがあったとする。データ収集や計算速度の速さから言っても、人手でやるより効率的で何より正確だろうが、そのシステムが拾いあげる現地情報が間違っていたら? 地震計の誤作動で安全システムが働いて、何にもないのに6時間から止まってしまった新館線…という実例があるように、絶対あり得ないことだとは誰にも言えない。中央制御へ資料として寄せられる情報がすべてダミーだったら? 正しいことが前提になっている基本が間違っていたら? 例えや引用としては逆説っぽいが、この説話はそういう話の引き合いにと提示されていたのを覚えている。
「そうそう、イタリア州へ近々戻るんだってね。」
ジノの故郷ふるさとへの“お里帰り”は、何かしらへの口実でも何でもない事実であるらしく、
「妹さんの結婚式だって?」
丁寧な手つきでいれた紅茶を手渡してくる三杉へ、
「ああ。」
当のジノは短い応対を返した。三杉さんが居るということは、此処はTSUKUBA-CITYの総合工学研究所。単に前の前の段落の場面へ戻っただけでなく時間もちょこっとばかり経過していて、只今遅いめのアフタヌーン・ティータイムというところか。彼らがいるのもジノさんの私室ではなく、テラスルームの窓辺近い一角で、大空長官からのあらためての指令へはそれなりの下調べが必要なため、訊き込みやら何やらの地域と対象を絞るべく、ただ今コンピューターの検索に任せて基本データを抽出中。という訳で、午前中に引き続きちょいと暇を持て余しているジノさんであるらしい。
「どうでも良いことかも知れないが、
どういう訳だか…君と僕という組み合わせのシーンはやたらお茶ばっかり飲んでないかい?」
。…っ。 三杉さんたら、いきなり何んて事を訊くの。
「それはお前が活劇担当のキャラじゃないからさ。」
亨に代わって澄ました顔でそう応じたジノさんへ、
「このお話では心臓だって丈夫な僕なんだから、一度くらいアクションシーンで活躍したいもんだな。」
三杉博士は少々不満げだが…欲張っちゃいけませんぜ、旦那。 あなたには知的キャラとしてのお役目がちゃんと沢山あったでしょうが。
「そうだぞ? 第一、誰も彼もが乱闘シーンになだれ込んだら…。」
「なだれ込んだら?」
「今以上に話の収拾がつかなくなって、亨さんが切れた揚げ句に俺たち全員が“ええじゃないか”を踊らされることになる。」
まったくである。こらこら。…冗談はそのくらいにして。ミーティングルームから望める中庭には、春から初夏にかけての花々が瑞々しい翠に包まれて妍けんを競っており、中でも少し遅咲きだったユキヤナギの茂みが真白き花を一杯つけた枝々をしな垂れさせているのが周囲の緑にたいそう映えて美しい。頭上にはアカシアの花が開き始めていて、もう少しすればツツジや芍薬の練り上げたような濃密な白がお目見えする筈。緑の中に白というのは鮮やかな上に一際清冽なコントラストを呈するものであり、瑞々しくも清々しい初夏にはたいそうマッチした配色だが、
“でも…白ってのは何だか責められてるようだったり、痛々しかったりしますよね。”
おや、ジノさんにはそんな風に思えるんですか? 亨としては、花嫁衣装と死に装束が同じ“白”だってのがなんか変だなぁと思えてしょうがない。特に共通の意味や含みなんてものはないんでしょうけれどもね。(西欧では何か1点だけ青いものを身につけるそうですね、花嫁は。)ちなみに、青春と言えば…といいますか、流行の歌やらキャッチコピーなんかのフレーズやらに若さの象徴として多く使われたのが、昭和30年代からの高度経済成長時代は「赤」だった。それが40年代後半辺りには「白」になり、50年代頃からは「青」。今時は…一体何色なんですかね? 脱線はともかく、ジノさんの里帰りに関しては少々オマケがあって、
“………。”
日向への説明の中では、自分への躾けを兼ねてるような言い方をして実のところは羽根伸ばしの建前にしようとした…というようなこぼし方をした若島津ハジメちゃんだったが、実を言うと、
〈俺もついて行こうかな。〉
そんな風な言葉を口にした彼でもあったらしい。
〈機会があれば家族にも紹介してやるって言ってたろ?〉
そういやそんな事も言ってましたかね。だがまあ、結婚式などというドサクサでは何だろうし…ということで、今回は見合わせるよう諭した次第。前回、改めての距離というか把握というかを再確認したせいか、ハジメちゃんのジノさんへの甘え方も少々様変わりして来たようですのな。そんなやりとりを思い出してか、ちょこっとばかり思考の的を宙に飛ばしかけていたジノだったが、
「…何だよ。」
ふと…怪訝そうな声を出したのは、向かい合う三杉が意味深な微笑い方をしているのに気づいたから。
「いや。お相手がどこの誰だか判らないんだってね。」
言わずもがな、妹さんの結婚相手のことだ。招待状入りの手紙を受け取った時、少々困惑げな顔をしていた彼だったというのを、ピエールあたりから洩れ聞いたらしい。ああ、そのことかと得心がいって、
「まあね。不精して音沙汰なしにしていたのはこっちなんだし、自業自得だってのは判ってる。」
そんな返事をするジノへ、
「オマケに…岬くんに拗ねられたんだってね。」
くつくつと微笑う三杉なのは、そんな岬くんに直接喰ってかかられた本人だから。
〈ジノに妹がいるってホントなのっ(怒)〉
ラボへと躍り込んで来た岬にいきなりそうと訊かれた三杉としては、事情コトの運びを知らなくて。それでピエールに何がどうしたのかを改めて訊いたという訳ならしい。
「学生時代からの知り合い同士だからって僕に訊きに来る辺り、念の入ったことだ。」
それだけ間違いのないところを訊きたかったらしい。それへはジノも苦笑混じりという顔になり、
「別に隠してた訳じゃないんだが、考えなしだったってのはこっちも悪かったんだろしな。」
素直に反省の弁を述べた。日頃の彼がこういうことへ常からよく使うフレーズに、
〈特に訊かれなかったから話さなかった〉
というのがある。屁理屈っぽいが確かに正論で、人はそれぞれの観念やポリシーによる表現体で居る訳なのだから、誰もが自らの全てを腹蔵なく語ってくれるとは限らない。(だからといって、過剰な詮索や不確かな噂話の収集などなどは、俗で僭越な…所謂“エチケット違反”かも知れないが。)人は無防備なありのままな要素のみで構成されているとは限らず、意識して、もしくは無意識に表に出さぬものだって幾たりかは抱えているもの。そういった部分を深くあれこれ訊かないでいた側には、つまるところ見えている部分からの見たなりの把握しかしてはいなかった、つまりはそれ以上の関心がなかったという解釈も出来る。そこで、先の〈特に訊かれなかったから話さなかった〉という一言で充分抗することが出来るという訳だ。だが、親しい者同士としては、自然な関係の一端として“共有物”を持ちたいと思うもの。これもまた…毎度お馴染み“愛するものとの一体化”という欲求の延長上だか派生物だかにあたる代物であり、無論、一番理想的なのは“接している内に判ってくる”というパターンなのだが、そういった内面を自ら語ってくれるという行為自体にも、互いの信頼関係を感じ合えるという一種の触れ合いに似た温かな意味がある。今回の場合、岬にそれらを語るまでもない対象だと感じさせたのは事実だろうし、それに加えて、
「岬にはそれが通用しないんだって事を失念していたもんだからね。」
岬や若島津ハジメちゃんには“過去”という蓄積がない。ジノもピエールも、三杉や所長も、彼らにとっては生まれてからこっちをずっと一緒に過ごして来た人物ではあるが、自分たちと出会う以前というものがそれぞれに存在するのだという事への理解が浅い。年齢分の歳月だけ“あれやこれや”があったその末に「現在地」に立っているのだという“当たり前なこと”が彼らには当たり前ではない。故に、他者の辿って来た「これまで」というものの存在自体、理屈では判っていても肌身にはピンと来ず、それがこんなにも間近な人間のプロフィール上に見つかったと来て、何で隠してたんだッという憤りにつながってしまったのだろう。これがずっとずっと年齢差のある相手ならともかく、さして変わらぬ年格好なだけにこちらもついつい錯覚してしまうのだが、あまりにも基本的な事ながら、こればかりは意識して気を配ってやらねばならない先天的なハンデキャップに他ならない。
「若島津くんにも拗ねられたっていう学習があった筈だ…ってかい?」
このジノには珍しい失態だが、それを素直に認めるのがまた珍しくて、三杉がついつい…判っていながらわざわざ訊いた。言葉面づらの応酬よりも、も少し突っ込んだところをつついて心情の滲んだ顔を見たくなるのは、親しいからこその悪気のない“茶目っ気”が頭をもたげたからのことなのだが、
「いんや。健の時は上手い具合に誤魔化せた。」
意外にも平然とした声が返って来た。
「…?」
小首を傾げる三杉へ、
「女の子に関心を持つのはまだ早いって言いくるめたのさ。」
「…成程。」
こらこら。冗談はともかく、ふと…ジノは感慨深げに吐息をついて見せた。
「人が対象になるもの全てに言えることだが、コンピューターへのデータ注入とは事情ワケが違うからね。」
人を一人育てるという事の難しさをしみじみ味わっている彼でもあるのだろう。
「こちらも色々と改めて学べるのが、面映ゆいやら照れ臭いやら。」
何となくという感覚で判っていれば充分だったものが、白紙状態の他者へ正確に解説するとなると、曖昧な把握であった自分の中の認識まで改めねばならなくなる。単に“そういうものなんだよ”というだけでは済ませられないからで、それは知識のみならず、モラルや物の考え方、姿勢にまで及び、もしも恥ずかしいものであったなら一から見直さなければならなくなる…かも知れない。
「けど…そんなに大層に構えるもんだろうかねぇ。」
と三杉が言ったのは相変わらずの無責任発言ではないらしかったが、
「誰だって最初は“初心者”なんだし、
殊に“親”なんて肩書きは選択の余地なく降りかかってくる代物の最たるものだろう?」
またそういう問題発言を…。
「いまだに“よそはよそ、うちはうち”って躾けが幅を利かせているくらいだからね。
人間的にどうかと思うような人物が親になるのも問題だが、
やたら完璧を求め過ぎて子供がプレッシャーに潰される例だって少なかない。」
それはそうですけれどもさ。
「知識だの礼儀作法だのっていうオプションは後からどうにでも付いてくるんだから、
要は親本人に愛情とか自信とか責任感があるかどうかってことじゃないのかな。」
まあ確かに、お行儀や常識という“オプション”は、子供本人がある程度大きくなってから自分で身につけることだって出来ますからねぇ。それよりも…人間としての自信をつけさせてやり、人を思いやる心を育んでやることの方が確かに大事には違いない。
「どこか“とほほん”とした人物が子供と一緒に大人になってくのも悪くないと思うんだがね。」
“とほほん”ってのはもしかすると…トホホと“のほほん”をくっつけたわね。今時の理想論を並べる三杉に、
「そうは言うがな。相手は“いないいない・ばー”で誤魔化されて泣きやむような“子供”じゃないんだぞ?」
さすがに“只今鋭意実践中”のジノとしては理想論だけでは片付けられないのだろう。そう…何しろ相手は小さな子供ではない。失態を“子供だから”と許されないその上に、無邪気な仕草が度を超すと“奇行”と解釈される年頃でおいおい、外見年齢に相応のモラルや世間体というものを一応は把握出来るだけの下地が刷り込まれていて、羞恥心やプライドだって少なからずは持っているのだ。こんな具合で…四角い言い回しの小難しい言葉の意味をきちんと理解出来るのと同時に、まだ随分と不安定でナビゲイターに全幅の信頼を寄せていると来ては、生半可な“親”でいる訳にもいかない。
「まあ…今回みたいに岬くんにはまだ少しばかり注意も必要だろうね。
でも若島津くんの方は、あとの“熟成”はそろそろ本人に任せて良い筈だ。
人間としての育成はもう充分果たせてると思うぞ?」
「…う~ん。」
異議ありとも無しとも、どうとも解釈出来そうな曖昧な声を洩らしたジノである。何かとしっかりして来たのは認めるが、ならば自分と肩を並べられる相手として手放しで扱えるかどうかという定規を持ってくると、そこはやっぱり…ピエールやこの三杉のように完全に対等に向かい合えはしないのである。
“まあ、それはこっちの認識が問題なんであって…あいつには責任はないんだが。”
そろそろこういう判断を下さねばならないようになって来たとは、まったくの“最初”に比べれば随分と育ったもんだよなと、そこは素直に喜んで、ふと…まだ添い寝が必要だった頃のことが思い出された。まるで逃げ出されるのを恐れるようにこちらへギュッとしがみついていたものが、少しずつ余裕が出て来て傍に居るだけで良くなり、やがては離れても安心して眠れるようになった。今では何と外泊も平気という身にまでなって、いやホントに育ったもんである。こらこら
*こんなところに何だが…赤ん坊の“夜泣き”は、
昼間の体験が頭の中へ整理される時の刺激、所謂“夢”のインパクトが
未分化な脳には強すぎたり多すぎたりして、その“ストレス”から
引き付けるように泣き出してしまうのであるらしい。
よって、無理矢理“泣くな”と宥めるのではなく、
安心させてやりつつ思う存分泣かせてストレスを外に出してやるのが一番だとか。
翌日も仕事がある大人にはちと辛いところではありますが、どうかご理解のほどを。
“………。”
文字通り手が離れたことを、だが、少しばかり寂しく思ったジノさんであるらしく、そんな矛盾を振り切ることが“親”たる第一歩なのなら、こっちこそかなり出遅れているということにならないか?
「………。」
ちょいと考え込んでしまったジノに置いてけぼりを食った形になり、三杉が小さな苦笑を洩らす。
「?」
「いや何。
君がそんな風に無防備になってしまうのが僕やピエールくんにだけだってのがね。」
ある意味で警戒心を必要としない相手、すなわち、気の置けない相手へのズボラだろうが、
「今更取り繕ったって仕方ないじゃないか。」
だからこそ、息抜きのためのお茶のシーンが多くもなるというもので。おいおい それはともかく…親しき仲にも礼儀ありという言葉があるように、親しいとそれだけどこかでずぼらにもなる。(諺の引用がちょっと違うけど) わざわざの前説も要らない間柄であるからこその代物で、だが、凝縮された言葉で手短に応酬し合うことはこれでなかなか難しい。これまでにも幾度か紹介して来ましたが、そういう間柄の下敷きとして…まず最初に“共通語”をセッティングせねばならないからだ。
〈…ほら。〉
街角の看板。一瞬だけ流れたCMのフレーズ。刹那の仕草。そんな短いものへ、こんな一言だけで、
〈ああ、例の。〉
もう一方がそうと反応出来るのは、以前にも話題にしたことがあったり、共通の興味対象としたことがあったりという“ツーカー”があってこそ。そんな礼儀を排した物言いは…文字通り“言葉の足りないやりとり”なのだから、傍はたの者には肝心な要点がぼやけて聞こえたり、時に粗雑であったりしかねない。そういう会話は、いくら正論でもいくら颯爽としていても、理解が追いつかぬ者にしてみれば英語を使っての大声での内緒話のようで小馬鹿にされたような気分にもなろう。結果として、下手をすると要らない敵を作る結果を招きかねない。つまりは…そうならないほど遠慮が要らない相手としかこなせない“特別なコミュニケーション”な訳で、
「君から気の置けない相手だと把握されているなんて、
ICPO内の上層部では官職以上に幅を利かせるステイタスなんだぞ?」
「それって喜ばれてると解釈して良いのかな?」
「さあ…。それこそ、そちらの感触を訊きたいものだ。」
三杉はそうはぐらかすと意味深な微笑を口許に浮かべた。…意味はないけど、京都の東山に『八尾伊』という漬物屋があるそうだ。おいおい
「人間不信でもないくせに…人に凭れたり頼ったりすることがそんなに億劫なのかい?」
「…そういう訳でもないんだけれどね。」
そう言って泳いだジノの視線が窓辺の光に眩しげに細められた。ガラスの向こうに青い絹を貼りつけたような空から降りそそぐ軽やかな陽射しの中、花簪かんざしの房飾りを思わせる、枝垂しなだれたユキヤナギがゆるやかな波を打って揺れる。その葉擦れの音に紛れるように、彼の耳にいつかの声がふと蘇った。
〈俺じゃ まだ…ピエールほど頼りにならないか?〉
思い出したのはいつぞやの健の独り言。相棒としての信頼を得たいとするむずがりでもなく、また…単に“手を差し伸べる側になりたい”という僭越な思い上がりでもなかったろうと判ってはいる。そんな言葉が嬉しくなかった筈はない。そんなことを言う彼を無性に愛惜しく思えたジノでもあったのだが、
“何故…だろうな。”
何かが胸の裡うちでチクチクと抵抗を見せる。ずっと以前…あの“パンドラ”事件のときに三杉に話したことのある“何か”だ。それを受け入れると途轍もないものに呑み込まれるぞと囁く者が別に居て、四肢を搦め捕るような案配で引き留められている。本人でさえ気づかないほど根の深い“心的外傷トラウマ”を、自分もまた持つ身なのだろうか。
「ジノ?」
黙りこくってしまった僚友へ、三杉が怪訝そうに声をかけてくる。
「いや…何でもないよ。」
視線を戻して柔らかな笑みを一つ。そこへ…左の二の腕につけていたアームバンドのワンポイント、紋章の中に『DINO』というロゴが収まったデザインのバッジがピーッという小さな電子音を鳴らした。
「資料の抽出が終わったらしい。」
アームチェアから身を起こし、会釈を残してテラスルームを後にする。胸の裡のざわめきはそうそう容易く鎮まりそうにはなかったが、
“…依存心ってものが おっかないだけさ。”
誰へでもない言い訳をして、自らの内面にぴしゃりとシャッターを下ろしたジノだった。
←BACK/TOP/NEXT→***
|