君のために 出来ること 〜明日の話をしましょうか K
 



   
第三章  ちまたに雪の降るごとく…




       
X



〈私がこのチームに参入したのは、本来必要とされない代物というのが気に入ったからなんですよ。〉
 あれはいつだったろうか。若林からすげないところを改めろと言われて、つい…誤魔化し半分に持ち出した持論。
〈本来あってはならないもの。いや…無くても何ら支障のないものでしょう? それだけじゃあない。関わったこと、見聞きしたこと込みで、誰にも知られぬまま葬られた方が良いもの。そういう響きが何だか気に入ったからなんですよ。〉
 無論のこと、嘘ではなかった。………けれど。いっそのこと“構われるのが鬱陶しい”とばかりに、反抗期の子供のような判りやすい可愛げのなさでひねこびていれば良かったものを、ついつい持って回った言い回しをしていたのは、心のどこかで真正直な部分が“見捨てられたくはない”と女々しくも働いたからなのかも知れない。
〈けど、お前らが立ち回っているからこそ、色々な事件や事態が“この程度”で済んでるんじゃないのか?〉
〈どうでしょうねぇ。〉
 澄ました顔で応じつつ、そんな応酬が嬉しくて仕方のない自分が、胸の奥底のどこかで甘く微笑っていたような気がした。





          ◇



「まぁーったく。」
 三杉が呆れるのも無理はない。
「例えようのない怒りが込み上げて来て、それに衝き上げられて一気に行動に走る…なんてのは、とっても一般的な現象なんだぞ? 普段からちゃんと身体を動かしてないご老体ならともかく、日頃あれほど途轍もない活躍を繰り広げてる君が、そんなごくごく当たり前な反応の余波で寝込むとは…。」
 岬を庇った若島津。彼がそうであったのと恐らくは同じように、咄嗟に頭に血が上って…気がつけば身体が無意識の内に動いていた。あまりに急激な激高だったせいだろう。一気呵成な立ち働きが止まった途端、可笑おかしいほどの細かい震えに襲われて、頭がぐらぐらと揺らいでしまい………その後の記憶がすっぽりとないのだ。どうやって担ぎ込まれたやら、気がつけば研究所の自室に戻っていて、だが、枕から頭が上がらないほどの疲労がドッと出たジノであり、そんな彼を相手に遠慮のないお説教をくれた副所長殿であったのだが、
「…三杉、もう良いだろう? 病人には違いないんだからさ。」
 ベッドのすぐ傍らに付いていた若島津が居たたまれぬように言葉を挟む。ジノの意識が戻ったのは夕刻近く。問題のQ博士と解析用物質細分化装置とやらとを近所まで乗りつけてあった大型トレーラーへ積み込んで、随分わたわたとしながらあの現場から離れたのが、丁度やって来た地元の警察と入れ違いというタイミング。打ち合わせ済みな段取りだったとはいえ、指揮担当のジノが引っ繰り返っていたせいでのわたついた手際であり、
〈情けない限りだよな。〉
 これじゃあジノこいつが頼りあてにしてくれないのも無理ないかと、ピエールが苦々しく微笑ったのが、若島津には何とも感慨深かった。問題の装置はこの研究所で分析された上で封がなされるらしく、Q博士の処遇は最初に追跡を任されていたICPO日本州支部が検討するとかで、待機していた移送警備班が早々に引き取って行った。某国で無届けの危険な実験をした揚げ句に建物が壊滅状態になった研究所の責任者だったのに逐電していた責任逃れやら、日本州への密入国やら、その日本州で特に厳重に禁止されている危険物所持やらと、枚挙の暇がないほど表立った罪状が色々とあるので、まずはそれを清算してもらうことになりそうだというのが、片桐秘書官経由で伝えられた大空総監からのお言葉だった。ちなみに…例の廃墟でのドタバタは、駆けつけた最寄りの警察が凶器を所持していた“暴力団関係者たち”を片っ端から逮捕連行して行ったそうで、表向きにも見たままの解釈がなされているらしく、
〈××区の建設予定地で暴力団同士の抗争〉
という速報テロップが昼下がりのワイドショーの画面の端を走り抜けたんだとか。夕刻のニュース番組でもう少し詳細が扱われるだろうから、3丁目の渋川さんの奥さんや おん年七十九歳とは思えぬほど背条のしゃんとした門倉のご隠居さん辺りがインタビューされて、
〈そういえば…昨日の昼頃、見かけない外人さんたちが何やかや訊いて回ってたんですよねぇ。〉
なんて証言をするかも知れない。今時の暴力団には不審な外人さんも多数出入りするので、特に注目されてモンタージュ付きの手配書が回るなんてことはあるまい。気にした捜査官が出たとしても、ああ、そりゃあ国際的な麻薬売買の線で内偵に来ていた某国からの捜査官だから問題はない…と納得させる伝手はあるのだし。(若林さんも大変だねぇ。)以上をもって拝命された任務は一応の決着となり、事後処理としての報告書の作成はピエールが受け持っている。最後の方に思いがけないオマケが飛び出しはしたものの、ファイルの上では、一昨日の騒動と同じく“特に厄介でもなかった速攻解決ケースの緊急任務”として片付けられるだろう代物である。そう…彼らは既に『穏やかな日常』という名の“待機
インターミッション”へと戻って来ていたのだ。
「まあ…良い機会だから骨休めにゆっくり養生すると良いさ。」
 意識が戻って診察が済んだジノを見舞った三杉は、開口一番に先の“お説教”を述べたものの、ベッド脇から庇い立てをする若島津ハジメちゃんに気圧けおされてか、それとも今更なことをわざわざ言っても詮無いと我に返ったのか、それ以上の言及は辞めることにしたらしい。白衣の腰辺りのポケットから小さな陶器の人形を取り出すと、それをサイドテーブルに置いた。メルヘンチックにデフォルメされた真ん丸な顔をした女の子の人形で、頭の上をちょいと撫でるとゆっくり回りながらチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の一節を奏でる電子オルゴールになっている。掌に収まるくらい小さいのに“花のワルツ”の楽章全てが収録されているらしく、
「モーツァルトの“ロンド”も入ってるよ。」
 正確には『セレナード第9番“ポストホルン”より』で、どちらも1/f ゆらぎ成分を持つことから、安眠に最適な“導眠曲”として、もしくはリラクゼーションのBGMとして有名な曲だ。(余談ついでに…ドラムに植えたピンで櫛歯を弾く型のオルゴールは、何と日本が生産量で世界一で、シェアの80%を製造しているのだとか。長野県の三協精器という会社が最も有名だそうで、先々の技術者不足だの空洞化が危ぶまれているだの言われていつつも、精密機器と職人芸では一応トップクラスの国なんだなぁ。
おいおい)何だかんだ言いはしても、彼もまた…任務中に引っ繰り返ったというジノのことが心配ではあったらしい。じゃあねと会釈し、部屋を出た彼を見送って、目にもやさしい淡彩の、足元まであるワンピース姿の女の子が一通りのダンスを披露してから止まって…幾刻か。
「…俺、此処に居ない方がいいかな。」
 若島津までがそんな風にぽつりと呟いた。ナイフを受け止めて負った左腕の傷は、幸いにして…籠手型のアーマーを腕に巻き付けていたことから重要な筋や神経を切断するまでには至っておらず、出血がひどかった割には早く完治するだろうとのこと。そんな病状であろうがなかろうが、何より心配だから傍に居たいが、一方で人の目があると気を抜けないジノなのではないのかなと思ったらしい。それが習い性になっている彼だと、こちらもまたよくよく知っている。自分は彼が居てくれた方が安心出来て伸び伸びとリラックスも出来るのに。以前、自分と岬の違いは、ナビが自分を一番好きなんだと傍若無人なまでに当然視しているかどうかだと言われたが、だったら…ナビの方はどうなのだろうか。ピエールと同じくらい、いやそれ以上に…敢あえて意識して“不安にさせまい”と構えているところがあるジノではなかろうか? 任務上の理不尽さに焦れたところを理詰めであしらわれるのは常のことだが、いつぞや岬が怪しいピンクの封筒に怒ったような、プライベートが絡んだそんな喧嘩はしたことがない。選りにも選ってあの大好きな日向を相手に、腹の底からの言葉として面と向かって怒鳴ったことがある、
〈大っ嫌いだっ!〉
の一言を、果たして自分はこのナビに言ったことがあっただろうか。まったくもって“自分は自分、他者ひとは他者ひと”なんだなぁと…この時もそれを思ったかどうかはともかく。(色々と考えるお年頃なんだね。
こらこら)とりあえず安静が第一なのなら、自分が居ることが余計な気を遣わせることになるのではないかと思った若島津である。だが、
「いや…居ておくれ。」
 かすかに喉にからんだような声がそう言った。顔を上げると、枕の上の白い顔が真っ直ぐにこちらを見やっていて、
「…うん。」
 ごちゃごちゃ考えた色々が音もなく溶けて、何だか…ちょっぴり嬉しかった。子供が何の気なしにしたことを母親にほめられたような、想いもよらぬところから飛び込んで来た甘酸っぱい心持ちがした。とはいえ、
“そういえば…。”
 例えば『第四話』ののっけのように、そして今回の左腕のように、任務の途中などで怪我を負ったことは結構あるジノだが、こんな風な原因で引っ繰り返ったのは初めてだ。怪我の場合はたいがい不可抗力で背負った代物、そんなくらいで萎えるほどかわいらしい気力である筈もなく、あの時も“療養所からの脱走”なんていうとんでもない思いつきを発揮してくれたものだが、精神的な…つまりは気持ちが参ってのダウンというのはお初である。それも、つい先日にお酒が入っての例の爆睡をしたばかり。積もり積もったストレスだの何だのは、あったとしてもすっかり清算されている筈だのに。
“………。”
 こういう時にはさすがのジノでも誰かに凭れたくなるのかな。そんな大役、自分で良いのかな。三杉やピエールを呼んだ方がもっと安心出来るんじゃないのかな。そんな風にちょろっと不安になった若島津は、ふと、
「…。」
 掛け布の端から出ていた右手をそっと包むように両手で握った。あるいは自分の不安を宥めようとしての行為だったのかも知れない。意外なくらいやわらかな手だというのはよくよく知っているが、力なく投げ出されていたせいでか、いつも撫でてくれる時よりももっとずっとやわらかで、少し冷たいせいでだろうか、いつもと違って壊れ物のようにさえ感じられた。一方のジノはというと、
“温味
ぬくみの浸透圧…か。”
 ついついお固い言い回しを選んでしまったが、そんなイメージが脳裏に浮かんでいた。ちなみにそれだと水溶液の濃度現象の話で、温度の移動は正しくは“熱伝導”。けれど、それこそ物理的な問題ではないのでこの際は構わない。具体的な温みの問題ではなく、その行為が気持ちにやさしく触れて心地いいからで、そういうイメージがジノにそんな言い回しを選ばせたのだろう。軽く伏せていた睫毛を上げて、再び若島津の顔を見やる。日頃から小利口ぶっていて、事実、ジノの側が秘かに自慢に思うほど文句なく聡明で、しかも思いやりという奥行きのある繊細さをも持ち合わせている彼だ。じっと黙ってはいるが、ホントは不安で不安で仕方ないのだろうに、一生懸命に看取る立場になっているのが何とも健気で、こちらがこんなに無防備なのは却って不安を与えるかも知れないかなと頭のどこかでちらりと思ったが、何だか億劫で今更取り繕う気も起こらない。
「………。」
 ベッドの半ばほどの位置に据えたスツールへ、こっちを向くように座った若島津の丁度背景となるように奥の壁に大窓があって、そよぎ込む風にあおられて、窓の両端でまとめられたカーテンがその裾を時折揺らめかせている。不意な小雨でも降り出したのかと錯覚しそうな“ざぁ…っ”という勢いのいい音がしたのは、その窓の向こう、庭の木々の若い梢が風に揺れた弾みの、木の葉擦れの音だろう。潮騒にも似たその響きが引き切らぬ間合いに、
「…ごめん。考えなしだった」
 再びぽつりと呟いた若島津であり、どうした? という眸を上げると、いかにも神妙そうな顔でいる。怪我の痛手から来た憔悴ではない、ストレスのせいでもないとなると、その原因はやはり…自分があれほど危険な目に遭ったことに肝を冷やしたジノだったからだろうと察したからだ。どんな事態に際しても徹底した冷静さから的確な判断と行動を選んで来た彼が、あれほど無茶苦茶な突撃を敢行したのは、あまりの怒りか目が眩むほどの衝撃から気が動転して身体が衝き動かされたからであり、こういう平たい言い方をすれば三杉が呆れたように誰にでもある激高だろうが、それをこのジノがやらかしたとなると話は別だ。あの数刻の一部始終を、こちらは光線から逃れた先から岬を抱えて見下ろしていた若島津だったのだが、自分の身が間一髪で擦り抜けた死の顎あぎとへの冷たい恐怖の余燼をあっさり掻き消してしまったほど、鮮やかで容赦のない…何より随分と向こう見ずな攻勢だった。あれは即ち、自分の身が浴びた危機にそれだけ心胆を寒からしめたジノであったということなのだろう。
「あんな…自分から危険に飛び込むような真似をしちゃいけないって、いつもいつも言われてたのに。」
 以前から言い置かれていたこと。
〈ちゃんとシュミレートしてあるミッションなんだから迷うなんて事態は起こり得ないし、お前の判断に間違いなぞある筈はないんだが。〉
 そうと前置きしてから、
〈お前がやっていることは、その判断と結果に沢山のものが乗っかっている。任務の成否は勿論のこと、それを除のけたとしても、色々とね。だから、万が一にも戸惑うような事態に直面したら…思い出しなさい。その行為で喜ぶ人と困る人。お前がやったと知って笑う人と泣く人の顔を。そうした上で改めて判断しなさい。〉
 迷ったり困ったりしたなら自分の意志で行動を選べば良いと、そういう意味で…プレッシャーを除く意味で言ったジノなのだろうが、それと同時に危険からの回避についても口を酸っぱくして言われ続けていたのだから、この二つを突き合わせれば…危険にむざむざ飛び込む無茶は皆を悲しませることに通じるから絶対に選ぶなと、そういう解釈も自然と導き出せる筈。あまりにも咄嗟だったあの瞬間から時間も経過し、こうやって落ち着いたことで反省に至ったのだろう。いやさ、自分のやらかした向こう見ずが彼にこうまでの心痛ストレスを与える結果を導いてしまったのだと思うと、無事だったんだからまあ今回は大目に見よう…では済まされない決着。まるで自分が引っぱたいて怪我を負わせたようなものだと言いたげな、申し訳ないという顔をして肩を落としている若島津だったが、
「いや。お前は間違ったことはしちゃいないよ。」
 ジノの声は穏やかで、
「そうしなくてはいられなかったんだろう?
 ああいうものは、足がすくんで動けなくなるのと同様にそうそう自制の利くものじゃないんだ。」
 そうと返しながら、ジノはいつだったかピエールが言っていたことを思い出していた。
〈大好きなものを守ってやりたいだとか手助けしたいって思うのは、義務感なんてお固い理屈じゃないからな。たとえ自分の方が非力であれ格下であれ、何とかしてやりたいって感じることは多かれ少なかれ誰にだってある筈だ。〉
 自分の足元さえしっかりしていない者がそれを言うのはとんだ思い上がりだがな…と、いつもの調子で茶々を入れられなかったのは、何かしら妙に感じ入るものがあって心の奥底をつついたからだろう。言葉という形にされたことで、それも少なからぬ信頼を寄せているピエールが口にした言葉であったことで、はっきり肯定されたもの。これまでどこか及び腰だった…認めても良いことなのかどうか、未決のまま持て余していたもの。今回、屁理屈もおためごかしも歯が立たないほど判りやすく、実際の行動で自らが選んだのは何だった? これまで理屈や方便で誤魔化して認めずにいたことを、あっさり肯定してしまったのは誰だ?
「…俺は逃げたんだ。」
「?」
 声音は穏やかなままだが語調は少し強まっていて、若島津がその唐突さに思わず小首を傾げたほどだった呟き。

「お前のように、どんなに挫けそうになっても前向きでいられる強さがなかった。誰かを傷つける“失敗”に怯えて、誰かの手を借りるだけの素直な心まで臆病さに塗り潰されて。俺は…逃げ出すことに全力をかけてしまったんだ。」

「ジノ?」
 やや怪訝そうに声をかける若島津の手をこちらから握り返して、
「…話しておきたいことがあるんだ。」
 ジノはそんな風に切り出した。







「母方の叔父…フランス州にいる母方の親戚筋の一人にあたる人なんだけどね。気さくで優しくってとっても大好きな人だったのに、子供だった俺は、選りに選ってその人をとんでもないことに巻き込んでしまったんだ。」
 それを思い出す時は、脳裏に必ず白い雪が舞う。春先だったと思っていたが、もしかするとまだ春も浅い、寒の厳しい頃だったのかも知れない。そんなにも…曖昧になるほどにも思い出したくない事なのか。だとすれば、自分はそんなにも卑怯者だったのかと、いつもその入り口で後込みして引き返していた。
「母方の兄弟の中で一番上だったのが俺の母親でね。その叔父は逆に一番末っ子だったから、俺とは十才しか年齢差がなかった。学生の気楽さもあってか、イタリアまでしょっちゅう遊びに来る子供好きの明るい人で、甥や姪たちには少し大きいお兄ちゃんという形でそれは好かれていた人だったよ。」
 大人のジノしか知らない若島津には少しばかり把握しにくい話かもと、それに気づいて、
「そうだな…岬より小さい子供から見た、シニョール松山みたいな感じだったかな。」
 そうと付け足した。
「何でも出来るし何でも知っていて、子供が相手でもいい加減に構うことはない、とっても頼りになる人で。中でもサッカーが得意で、近いうちに所属している地元のクラブチームの一軍への昇格テストを受けることになっていた。」
 誰よりも優れていること、誰からも好かれていることが、そのまま我がことのように自慢でもあったと言いたげに、それは懐かしそうに並べるジノであり、その語りように、
“………。”
 松山のような…と言われたが、むしろ自分にとってのジノ本人のような人だったんだろうと、若島津はこっそりと自分なりの変換をし、それで納得したようだ。
「俺が子供の頃に住んでいたのは、小麦畑もあるが近隣の会社に勤める人の方が多いような、今時のイタリア州にはごくありふれた小さな町だった。あれは何かの…春先だったからお祭りでもあったのかな。いつもは車の行き来もなく広場代わりになっていた石畳の道に、車で引くような屋台が幾つも並んでいて。品評会や見世物のイベントも組まれていたんだろう、朝から町中がにぎやかだったよ。近くの子供たちの中では一番年上だったせいでか、俺も子供向けの用事や連絡係のようなことを幾つか抱えていたようだったけど、雰囲気に呑まれてたいそう浮ついてはしゃいでもいた。」
 そこで言葉を区切った彼だったのは、より正確に話そうと記憶を整理したからか、それとも…思い出したくない事に触れるための覚悟が必要だったからか。
「通りかかったその広場で、奥まった位置に据える筈だった屋台が何かの手違いで遅れて到着して、並び替えようかそれとも空いている手前に押し込もうかと、大人たちがそういう話し合いをしていたんだ。傍の者にはどうでも良いようなことだけど、使い勝手や何やの融通を考えて取り決めたものだったらしくて、それじゃあ並び替えようということになったらしい。小さな屋台は人の力でも引けたが、重いのもあったんで車を用意して、さて移動を始めようとなったところへ、俺が通りかかったらしいんだ。」
 当時は子供だったこともあって、随分長い間、事態の経緯を正確には把握出来なかったが、誰に訊いてもそれは全くの“事故”だったらしい。
「ところが間が悪いことに、しっかり固定されていなかった屋台が幾つかあったようでね。車との接続にかかった途端に玉突き状態になって、一番端のが突き飛ばされて向かって来た。広場の状況なんてものが判らなかったのは不可抗力だけど、一緒にいた叔父の手をふざけ半分に振り切って駆け出さなきゃ、暴走して来た大きな塊りは、俺の目前の何。か先でスクラップになってお仕舞いだった筈なんだ。」
 話の展開と同時に…疲労から血の気がないままだったジノの顔色が尚のこと白くなったような気がして。若島津は自分までが寒気を感じて息を呑む。彼の声は、だが淡々とした調子で続いた。
「空と地面とが大きくぐるって回ってね。何かに物凄い力で腕を引っ張られて、そのまま空へ放り出された感じだった。沢山のものが一度に引っ繰り返った物音がとても長い間響き渡って、気がついたら…叔父にしっかりと抱かれた格好で石畳の上に引き倒されていたんだ。」
 耳鳴りのようなざわめきの中、悲鳴や怒号が遠く近く警笛のように飛び交っていたが、自分が途轍もない異常事態の只中にいるとはすぐには理解出来なかった。戸外の、それも人通りの多い広場で地べたに伏せたのは初めてで、こんなにも低い視野から見上げる植え込みや建物は、良く知っているどれもがいやによそよそしく見えたっけ。散乱する残骸の中、誰がどうやって収拾に務めたのか、その辺りは今でも記憶が曖昧で覚えていない。とんでもないことに遭遇し、しかもその真ん中にいた小さな子供だ。大人たちにしてみれば、大した怪我をしなかったのを幸いに、怯えて泣き出さないようにとあやすばかりでいたのも判らないではない。どんな風に片付けたかなんて、怖かったのを思い出させるだけだからと話してくれる筈もない。判っているのは…自分を庇って屋台車の暴走事故に巻き込まれた人が居たこと。
「叔父は、リハビリも含めた全治に一年以上もかかるような大怪我を負ってしまった。頭を打ったのと、無理な体勢になったせいで肺と内臓に損傷を負ったものだから、それらが治るまでは起き上がれなくてね。それで足腰のリハビリに取り掛かるのに時間が掛かってしまったんだ。半年近くも横になったままでいたくらいだから、当然、サッカーなんて無理な話で…。」
 ここでジノはかすかに視線を泳がせたが、そのまま瞼を伏せる。
「しかも…頭を打ったことが原因らしいんだが、左目の視力を失ってしまったんだ。」
「………っ。」
 覚えているのは病院の冷たい廊下。窓の外には確かに日盛りの陽射しが眩しいのに、そこから差し込む筈の光がすとんと断ち切られたような日陰の通廊は、年季の入ったPタイルがそれでもよく磨いてあって、ところどころがでこぼこに小さく波を打っているのが冷たく光てかって見えた。その片隅で細い肩をなお縮めてこっそり泣いていた女の人。確か…叔父がその頃いつも連れて来ていたお姉さんだった。何でもないのよと見るからに無理をして微笑った白い顔を今でも覚えている。

  「俺が彼の一番大切なものを奪ってしまったんだよ。」

 他でもないイタリアという国で、子供の頃からプロの選手になりたくてこつこつと頑張って来て。クラブチームのプリマヴェーラまでようやっと漕ぎ着けていた十七、八歳の少年にとって、そんな夢を唐突に断たれたということがどれほど苛酷な現実なのかは、沈痛で悲惨な形容詞を山ほど持って来てわざわざ述べるまでもないこと。
「でも…。」
「俺でなくとも庇ったろうさ。そういう人だ。でもな、その時庇われたのは…助けられたのは俺なんだ。」
 誰にも過失がないとまでは言わないけれど…少なくとも故意の悪意なんてものはまるでないのに、とんでもない災難を呼んでしまうことは多々ある。どこにも悪意がない分、誰が引き取っていいのやらと宙ぶらりんになってしまう責任や罪悪感を、誰もが均等に抱える羽目になるのかも知れない。
「視力の不利…それも単眼というのは遠近感を取りにくくなるから、サッカーのようなオープンな球技には大きな痛手だ。そりゃあ、全く出来なくなるとまでは言えない。まだ若いのだし、他の後遺症は全く残らなかったのだから、いくらでも再挑戦は出来たろう。それでなきゃ、関係筋の指導者になるとか道は他にもあるだろうに…って周りは残念がっていたけれど、彼には入院中に別の目標が出来たらしくてね。今もその道で忙しく働いている。屈託のない、人当たりの良い、友達も一杯いる、昔と変わらない やさしいままな人でいるそうだよ。」
 人づてのような言い方をするという事は、それからずっと会ってはいないジノなのだろうというのが偲ばれた。そして…彼はそんな経験があったからこそ“自己犠牲”という言葉に異様なほど過敏になったのかも知れない。
「子供だったからな。大好きだった叔父さんからサッカーを奪ってしまったって、それはそれは思い詰めた。自分の方がよっぽど重傷だったのに、怖かったろうに痛かったろうにって、こっちのことをいたわってくれた…心配してくれたやさしい叔父さんだったのに。もしかしてサッカーを見切ったのは、物にならなかったなら俺が気にすると案じてのことだったのかも知れないのに。俺は…そんな叔父さんがそうまでして庇ってくれた甲斐のない子供になってしまった。」
 投げ出すような気配のあるため息をついたジノであり、
「…それって?」
 訊くと、ため息の中へ滲ませるように小さく苦笑って見せる。
「他でもない…一番好きだった人が俺のせいで傷ついたんだ。大切なものを諦めなきゃならないほどにな。」
 思い出したくはないという形でいつまでも覚えていたのは、初めて実感した“慚愧ざんき”と“絶望”だったから。誰かの負担となってしまった不甲斐なさと、誰かに守られる側の歯痒さは、芽生えかけていた幼い自尊心に容赦のない牙を立て、深くて消えない傷を残した。そして、そんな想いをもう二度と味わいたくないから…と、彼が選んだものは、
「俺は意気地いくじのない弱い人間だから、関わった人の重荷にしかなれないと思ったのさ。そんな自分のために、もう誰にも“自己犠牲”なんていう無鉄砲を選ばせたくはない。だったら“強い人間”になるしかない訳だけど、その方法はっていうとこれがなかなか難しい。だから“誰も傷つけない強い人間”になれるまでは、何にも誰にも関わらないようにしようと、何も持たない人間になろうとしたのさ。」
「………。」
 そういう節があるようだと薄々感じてはいたことだったが、まさか本人の口から聞こうとは思わなかった。何がどうしたって心配をかけることもない、誰とも感情的なつながりを持たない存在で居ようと心掛けている彼だと…若島津にはここ最近、何かにつけて感じるようになっていたこと。だが、思う端から気のせいだと打ち消してもいた。自分にとっての彼は、人としての下地を築いてくれた礎のような存在なのだし、そういう存在にいつまでもしがみついてはいられないのは判るが、だからといって振り払われて巣立つものではあるまい。それに、自分には無茶や非道に走れば悲しむ人がいるのだから自制しろと言っておきながらの“これ”は大きな矛盾である。それとも…仕事として割り切った上での“それはそれ、これはこれ”だったのか。そして、自分が心配しないようにと平然とした顔をいつでも保っていた彼だったのも、そんな心構えの延長だったというのだろうか。
「最初は単なる逃避だったよ。その秋には上の学校へ進学という年齢だったから、自分で調べて奨学生試験を受けて、寄宿舎のあるイギリス州北部の学校へ進んだ。そこでも人との付き合いってのが煩わしくって、英語を身につけることを優先しなくちゃって誤魔化して、がむしゃらに机にかじりついてたら、結果として飛び級スキップを重ねる羽目になってしまって、3年で中等・高校課程を終わってね。あんまり早々と社会に出るのも目立って困るから大学はのんびり過ごしたくって、それでイギリスの大学には行かず、知り合いのいないフランス州の大学へ進んだんだ。向こうも“飛び級”組だった三杉と知り合ったのはそこでだよ。」
 目立ちたくなかったと言う割に…自覚はなかったろうけれど、相当派手な二人組だったんじゃなかろうか。 まあ、見栄えはいくらでも地味に繕えるし、その辺りの工夫が今の仕事に生かされているのかもしれないが。
「その辺りで気がついたんだ。心がつぶれる思いをするよな煩わしさは、相手があってのものだ。ならば、いっそ大切な対象ってのを持たなきゃいい。そして…人との接点を断ち切りたければ、物欲しそうに何かに執着を持つのをまず辞めれば良いって。関心という形での誰かとの“共通項”を持たなければ良いんだって。」
「…。」
 若島津にしてみれば、意外すぎて言葉がない。修行僧じゃあるまいし、そんなことが簡単に出来る筈はない。第一、関心や執着は生きる者全ての原動力だ。食欲だの物欲だのという即物的なもののみならず、穏やかに過ごしたいと思うことも健康で快適に居たいとする努力も自らの生命を永らえさせたいとする欲求に連なるものだし、他人との関わりや何らかの称賛の声を嬉しいと感じてしまうことだって、少なからず大切なこと。そういった“ここに他の誰でもない自分が居るということの証明”を欲しいと思うのは、人が“意欲”を持つ“意志ある生き物”である以上当然なことだ。そんな小理屈より何より、自分に対して…それを失わぬようにと、前向きで居るようにと、いつもいつも傍に居てくれたのは誰だった? 疲れ果てて座り込めばずっと傍で待って居てくれたのは、見失えば“こっちへおいで”と手招いてくれたのは誰だった? それらはただの義務感から与えてくれたものだったのか?
「自分が何にも執着を持たない性分になるのは、まあ…そうすぐには物にならなかったが、そういう素振りをするのは慣れれば簡単だった。ただ、その逆はなかなか難しくてね。世の中捨てたものではないというのか、世話好きな人は結構居るもんで、判りやすく背中を向けて一人で居るのはなかなか難しい。飛び級を重ねたのだって本意ではなかったが、奨学生だったことに加えて、勉強にしか関心がない生徒だと教師たちに誤解されたのだからこれは仕方がない。」
 その点、三杉は他人を詮索するタイプではなかったんで随分助かったけれどねと小さく微笑って見せて、
「だからといって、意固地ムキになって突っぱねることで敵を作ってはそれこそ意味がないから、その調整が難しくてね。」
 無関心な態度を誤解され、生意気な奴だとか目の敵だとかいう格好で関心を持たれるのもまた本意ではないという意味だろうが…妙なことに苦労してたんだねぇ。若島津としては“大変だったねぇ”と単純な相槌を打つ訳にもいかず、
「………。」
 何とも複雑そうな顔になる。
「そこで、構おうなんて気を起こさせぬよう、何でも自分で何とか出来る強い人間、誰の手助けも要らない可愛げのない人間にね、なろうと構えて来たんだよ。」
 誰にも心配させない…というのはなかなか難しい。難点のない人間なぞあり得ないし、挫折がない道などなく、不器用な者にも秀でている者にも公平に試練や苦難はついて回るもの。何も出来ないと見かねる人が出るし、何でもこなせると頼りアテにされるから、苦を苦と感じず適当にいい加減で他者ひとから執着されないタイプでいようとした。

「意固地にならず、多くを求めない。
 自分なんてどうでもいいし、どうなってもいいが、あまりに捨て鉢だと見とがめる人が出るので、
 心配はさせない程度にいい加減に。
 可愛げなく卒なくやっている、ああいう男だと型に嵌められ、それ以上の関心は持たれない。
 どこにでもザラに居るような平均点を保ちつつ、俺でなくては困るという立場にならぬよう、
 むしろ“いい加減だから構わない方が良い”と思われるよう、
 そういう人間であろうとしていたら、それが一番生かせる仕事を長官から任されて…これには不意を突かれたもんさ。」

 確かに…諜報活動を執行する人間には、人目を引く個性も執着も不要。自分との関わりがあるというだけで罪のない人間を巻き込んでしまう恐れのある“柵しがらみ”なぞ無いに越したことはない…という訳で、そこを注目されたという皮肉にだろう“くつくつ”と微笑って、
「そういう訳で、今ではすっかりとそれが“地”になってしまったのさ。実際“一匹狼”っていうのは気楽だからね。何せ…自分ではどうしようもない“誰か”の存在や気持ちやらに振り回されることはない。困ってはいないかとか充分に幸せなんだろうかとか、どう思われているんだろうか、自分は負担ではなかろうかなんてこと、いちいち考えないで済むだろう? そうやって何も持たない人間になることで、俺はやっと念願の“強い人間”に辿り着けたって訳さ。」
 ため息のような深い吐息を再びついたジノだった。
「ただ…お前にはそんなで居るのが“正しい”なんて風に偏ったことを吹き込む訳にはいかなかったから、何とか“標準”ってものを装って隠していたんだけどもな。」
 彼はそうと締めくくったが、
“………。”
 果たしてそうだろうかと、若島津の感覚にはしっくりこないものがある。確かに、日頃の…例の“資料室長”という顔でいる時は、どこかいい加減な男を装っているジノであり、そういった態度は、昼行灯なところは頼りあてにされないという形で、小手先の誤魔化はぐらかしはまともな問答を望めないと煙たがられて、どちらも功を奏しているようだが、そちらはあくまでも本来の職務への“カモフラージュ”に必要な演技。そもそも…冷徹で型通りな対処やマニュアルに沿った判断しか必要のないことなら、何もわざわざ“特別中の特別”という子飼い部隊に任せたりはしないのではなかろうか。少なくとも、今の彼が請け負い、片付けているあれこれは、どれを取っても“いい加減な人間”に任せられる事柄ではないし、ジノ自身もそれ以上はなかろうというくらい念の入ったケアをいつだって心掛けている。杓子定規なマニュアルには「公正さ」という点を重視するためにだけ目を通し、立場や心が弱い人たちを優先的に守ることこそを忘れないくらいに。それに、自分を“どうなってもいい”と処断するような無責任な捨て鉢さを持つ人間に、仲間たちの生命を預かるような綿密緻密な作戦が練り出せるものだろうか。彼への評についてまわる“水臭さ”だって、様々な重圧やストレスを自分にだけに集めるためのものだ。それより何より…たいそう不安定だった自分を支えてあれほどの辛苦を辛抱強く一緒に歩いて来てくれた、親身になって心を砕いて、本来なら二十年分の蓄積で得られるべき自信をほんの数年で身につけさせてくれた彼が、そんな“いい加減さ”を身につけることを目指していたとは到底思えない。
「それは…。」
 違うんじゃないか…と反駁しようとしかけたところを遮ったのは、スライド・ドアの開く音と、
「成程ね。そうして、意識せずとも習慣ならいになってたくらいに“人を突き放しちゃあ切り捨てるよな素振り”を培って来たつもりだったんだろうけど、大空総監に…いや、僕やピエール、聞くところによれば若林警部補にまで見抜かれたんだから、大したものではなかったってワケだ。」
「…三杉。」
 ノックもなしのマナー違反に加えて、廊下側の居間とこの寝間とをつなぐ刳り貫きのところで立ち止まった彼は、少々お行儀悪く白衣のポケットに両手を突っ込んだままでいる。
「なに、忘れ物をしたんでね。」
 白皙の美形博士がそう言って差し出したのは小さなボタン型の電池。オルゴールのものだろうそれを指先に摘まむと、人差し指の周りで器用に一周させながら、
「これを持って来ただけだが、立ち聞き・盗み聞きは嫌いなんで顔を出したのさ。」
 変な理屈を言う彼であり、
「…廊下までは声は漏れない筈だけど。」
 サイドテーブルに置かれたオルゴール人形に若島津がちらりと斜はすに構えた眸をやった。こんなに可愛い“間謀スパイ”をこんなに堂々と潜入させるとは相変わらずに油断も隙もない。盗み聞きは嫌いだからという言い方だったことからして、追及すれば盗聴も認めるつもりなのだろうし、口を拭って知らん顔はせずこうやって顔を出したことで確信的“未遂犯”と解釈出来なくもないのだが。色々といちゃもんをつけたいところながら、それに関しては今は一応不問に伏すとして。それで? という視線を向けて来る若島津に会釈を向けて、三杉はおもむろに口を開いた。
「何となくね。原因は知らなかったが、作り物を一生懸命“本物”に見せようという、おかしな努力を怠らない君だと気づいていたさ。僕は頑ななところに却って気を引かれる臍ヘソ曲がりなもんでね。」
 ふふんと笑い、
「作り物ってのは何だよ。」
「違うとは言わせないよ。」
 ジノからの反駁にも強気そうな姿勢は何ら揺るがない。
「意識してそうであろうとしてたって事が、まず第一に“作り物”である証拠だ。本性からのものであるなら、わざわざの努力は要らないからねぇ。」
 三杉は口許だけで“にっこり”と微笑うと、ゆっくりとした歩みでベッドの傍まで歩み寄ったが、ふと…視線をやや伏し目がちなものにした。
「そんな事情があったとはね。」
 先程ジノ自身もそう評価したように、詮索を好まないことをポリシーにしている彼である。何かあるらしいと気づいてはいても、こういった事情の存在は、今の今までまるっきり知らなかったのだろう。
「君を正当に評価したいと思っているんだろう人々を、体よくはぐらかして来たのも、そういう理由があってのことだったんだな。」
 若林や日向、松山、時にはピエールや大空総監にでさえ、話の途中から澄まし顔でお茶らけてみたり、屁理屈を持ち出して自分がいかに調子の良い人間かを匂わせたり。そんな小憎らしい態度や物言いをすることで“自分たちは決して正義の味方なんぞではないんだよ”と、周囲にも自分にも言い聞かせたい彼なのかも…とは、前話で若林とピエールが論じ合って出た見解だったのだが、そうさせていた動機となる“真実”はもう一つ奥まった扉の中にあった訳である。
「前向きになれるような意気地が無かったと君は言ったが、それほどの大事件に翻弄されても、いっそ全てを投げ出して彼岸へ逃げる…という道だけは選ばなかったのは大した底力だと思うがね。」
 日本語な上にいやに文学的な言いようだが、ジノには充分通じたらしい。
「…そんな事、論外だろうが。」
 身を投げ出してまで庇ってもらったのに、自ら命を絶ってどうするんだと、そこはすんなり言い返す。だが、
「そういう律義さもまた君らしいが、生命を助けてもらった事への義理立てというより、自分への罰という感があっていっそ痛々しいよ。」
「………。」
 その言いようよりも穏やかな眼差しが、ジノを黙らせてしまった。
「何ひとつ執着を持たない人間ってのは、突き詰めると“自分”というものを持たない人間だ。だが、それはもう“人間”ではないんじゃないのかな? 禅の真理の“無”でさえ、虚無を体感する本人が在るからね。」
 三杉さ〜ん。 難しい話は亨も苦手ですので、出来れば宗教哲学へ逸れないで下さいまし。
「諸行無常だ何だに耽っていられるような立場じゃなかったから無理だと言ってるんじゃない。人との関わりなんぞ、構え方でいくらでも表面的なものだと割り切って処理出来る。わざわざ肩を張って構えていたってことは、それだけ君の側にも外向きの逞しい“自分”があったってことだ。突き放しや弾き返しも出来るが、実を言えばとことん受け止めることの方が得意な…ね。」
 そう…これは関心や執着に限った話ではない。自信であれ矜持であれ、心のベクトルの起点は“自分”から始まる。たいがいの人が自覚までは持たないが、それは仕方がない。自分の瞳を自分で直接覗き込めないように、確かめようがないことだからだ。どうしても知りたければ周囲の人間からの把握という“鏡”を使うしかないが、そこに映し出された“らしさ”という評価だって、どこまで客観的だか。そういった“虚像”に振り回されないことが“自己の確立”な訳だが…話がえらく逸れて来たような。
「それに…君自身も気がついた筈だ。何にも執着を持たない人間になれたつもりだったのが、傷つけられたり奪われたりしたなら、全身の血が沸き返るほどの怒りを覚えるくらい、理屈抜きで大切なものを抱えてしまったってことにね。」
「………。」
 本人の許容量を易々と越えた怒りだったというのは、その反動で現に引っ繰り返ってしまっている事実がある以上、どんな言い訳も通じない真実でもあろう。
「君のこのところの戸惑いやむずがりは、つまるところそこにあったのさ。誰も傷つけたくはない、人を幸せにしたいという気持ちは、そうして得られる崇高な快感や達成感によって自分が幸せになるという条件と一対になってる。だのに、君は“自分は幸せになってはいけない”という正反対な代物に強引に置き換えようとしていたんだ。大前提でそんな矛盾を設定していて、思う通りに運ぶと思うかい?」
 そう。第一部の終盤から第二部にかけて
おいおい、この三杉やピエールを相手に、消化こなれの悪い何かがあると時々こぼしていた彼だった。その正体に、選りに選って本人が強引に蓋をし続けていたのだと、三杉は言ってのけたのである。
「君が言うような…執着を持たず誰のこともかえりみず、その結果、どんな状況下でも冷酷な判断を行動に貫徹出来るようなって方向で“強ずぶとい人間”なら、大空総監はきっと公的な裏の部隊“C・S・F・V”の方へスカウトしたさね。」
 ややこしい表現だが、つまりは…今現在のような私的な部署ではなく、ピエールがかつて籍を置いていた狙撃部隊のような、極秘でありながらも一応“ICPOの組織下に実在する”裏組織の部署に配属したと言いたかったのだろう。(『第五話』第一章 参照)
「君のその“何でも一人で抱え込もう”という悪癖にしたって、君一人が全てを抱いたまま消えれば済むという解釈から出ているらしいが、現状はそうは行かないことに気づいてないのかな? 君らが腹の中に抱えて表沙汰にしてはいない“あれやこれや”は、公けの恒常的平和を保つためにやむなく蓋をしたものでもなければ、後々で恩を着せたり笠に着るための切り札でもない。弱い人たちを守るための秘密が大半だ。」
 何だかお堅い言い回しですが…どう言い直せばいいのかな。どこの誰がどんな事情からやったことでも犯罪は犯罪なんだから、それを暴いたのなら不公平なしに一から十まで詳細を余さず公表しちゃうのが正道ではあるんだけれど、そんなことしちゃうと社会的な影響が大きすぎるとか、実行者や関係者以外にも白い目で見られたり誤解されたりする人が多数出てしまうとかいう場合。(各地の警察の一部幹部による不祥事隠しで、末端の真面目な警官たちまで肩身が狭くなっていい迷惑をこうむったのなんかは判りやすい実例でしたねぇ。)または、後々で他の摘発だの諜報工作活動だのに便宜をはかってもらいやすいようにと“貸し”にしておく場合なんかは、世間的には公表せずに蓋する運びとなるものもありはするんだろうけれど(大人の駆け引きってヤーねぇ。
おいおい)、ジノさんが抱えてるのはそういうのとは違うだろう…と言ってる三杉さんな訳である。そっちの種の“秘密”を抱えるのは先に例に出した“C・S・F・V”の方々で、Rチームが関わるような事象はどちらかといえば…悪事は悪事なんだからどんどん摘発してどんどん公開しまくっちゃるというパターンのものが多い。(何たって“そう出来ない”“そうならない”不条理な世の中に、お若い大空総監がぷっつん切れたのがそもそもの発端なのだからして…。)よって、彼らが抱えることとなる“秘密”は…陰ながら苦しめられた人々のその悲しみに終止符を打ち、尚且つ、誰も知らないこととなるその苦痛を、判っているよ、最初から無かったものではないんだよと記憶する存在ものになることを兼ねている。
「今さっきの事情から、君は“自己犠牲”というものに過敏で、嫌ってさえいたらしいね。ちなみに、僕は…そこで諦めることだから“自己犠牲”を嫌っているんだがね。」
 おいおいおいおい、三杉さん。
「それはともかく。人との接点を無くし、孤高の中に身を置くことに成功した君は、何かのために殉じても案ずる人の居ない、最も後腐れのない“殉職者”向きの人間になっていたんだから、まったくもって皮肉なことだったね。」
 だからこそ大空総監が目をつけたという言い方をジノ本人はしていたが、
「けれど…判るだろう? いざとなったら自分一人が滅びれば良い…なんて思うのは、実はたいそう無責任なこと。君に限っては尚のことにね。総監が君の中に認めた“優れた判断力”というのは、切り捨てるもののない身軽さから来る冷徹さではなく、何でも胸の裡うちに呑み込んで蓋の出来るその許容力の大きさから育まれたものへなんだよ? そんな素養をしっかり培っておきながら、どうでも良いと思われている人間になれた…なんて言い草は、誰が許してもこの僕が認めない。」
 一つ一つを噛んで含めるようにわざわざ紐解く三杉であり、傍らの若島津が黙って聞いているのはそれらが全てすんなり肯定出来る事だからだろう。
「大体、そうそういい加減な奴に、若島津くんのナビゲイターなんてな立場を預けはしないさ。ちゃんと足が地についている人間だから、しっかりした自己の上に構築された揺るぎない自信を…“自分”を持つ人間だから見込んだんだからね。」
 ここでひょいっと肩をすくめて、三杉はちょろっと舌を出す。
「当たり前のことを仰々しく言うのはさすがに照れるね。」
 そのまま稚気あふれるやわらかな笑みを見せ、彼は続けた。
「人ひとり…君自身も含めれば二人か。二人もの人間を不幸にすると判っているような賭けを任せはしない。僕はそこまで、人を人とも思わないほどお偉い科学者じゃあないつもりだからね。」
 これこそが…先程の照れ隠しに紛れさせたかったらしい、彼の側の本音でもある。こんなに偉そうに大弁舌を奮っている自分だって、判断自体への自信のその先に想いを託す“相手”があって、その自信は相手への信頼に片足引っかけた代物なのだという本音。
「何も持たない人間になろうだって? 他の人間ならともかく、君には土台無理なことだよ。付け入らせる弱みというよりは、自分の至らなさで巻き添えを食わせて傷つけたり悲しませることのないように、誰かを立ち入らせないでいた君なんだからね。判るかい? 傷つけたくないから、大切な存在だから切り捨てる…って順番で判断を下しているんだよ? 君は。」
 これには若島津も無言のままに頷いている。時に辛辣なのも、関わりが鬱陶しくての邪険さではない。こちらの抵抗力がどれほど鍛えられたかを把握した上での、困ればすぐに手を伸べてくれるような、ちゃんと見ていてくれた上での…安心の中でのものばかりだった。
「君が目指した“何も持たない人間”ってのは、自分が一等大事だからこそ何につけ込まれようと動じない、他は全てどうでも良いって思うような輩のことだ。自分の身代わりに誰彼構わず危地へ突き飛ばせるほど、厚顔なまでに図太く逞しくなきゃあいけないんだよ。」
 こういうところがさすがは科学者。言ってることはきっぱりと正論ではありますが…三杉さんたら恐ろしいことを言う。
「現に、今の君の周囲には“どうでも良い人間”なんて居やしないだろう? 皮肉なことに、君の飄々とした可愛げのなさとやらは、あまりの不器用さから…若島津くんの情緒を濃
こまやかにしただけで収まらず、一筋縄ではいかない素晴らしい人々だけを居残らせてしまった。」
 そう。現在の知己として居残っているその誰もが、彼の態度やポリシーを…ただ単に弱みを見せたくはないからという種の可愛げのなさから出ているものではないと気づいている。大した負担ではないことにはおどけてちょっかいを待ったりもするくせに、肝心なこと、大変なことには水臭いまでに平気な顔を装うような奴だと、そうまで見抜かれた上で、却ってやきもきさせている。誰よりも本人自身が嫌いで嫌いでならない“自分”を、罪深くて疎うとましい存在だとまで思っていた“自分”を、どうしてそんなにも望んでくれるのかとこちらが面喰らうほどに。
“………。”
 自分は一体何が怖かったのだろうか。頼りにして(もしくは“されたくて”)差し伸べた手を振り払われるのが怖かったのだろうか。期待が外れることはいつだって誰にだってある。それがどれほど納得済みの行動から出た結果でも、未練はしばらくついて回るし、後悔だって山ほどする。そうなるに至る“執着”は、だが、果たして本当に…相手がいなくちゃ始まらないという、ある種の依存心から来る情けないものだろうか。行きすぎな未練がましさや大迷惑な固執は願い下げだがまったくだ、誰かと共に有る自分を嬉しく感じる素直さは、何もせぬまま自分で自分を正当化するだけの独りよがりな臆病者よりは、よっぽど存在感にあふれてはいないか?
“………。”
 あの凶悪な光線に若島津が呑まれそうになった時、自分の中で大きくうねった感情は何だった? すぐ目前でありながらこの手もこの声も届かない悲劇に、全身が総毛立ち、何も考えられなくなるほど総身の血が逆流した。あれは…一体何だった?
「人に知られず泣くのはよくない。物理的にはそれでも充分なんだろうが、泣くこともあると、弱い面もあると誰かに知っておいてもらうことは大切だ。」
 誰にも知られず倒れた大樹。この話を聞いた時、主旨とは別になんだか切なくはなかったか?  先年、その身から不老不死の奇跡が消えた折に、使いに現れた誰かへぽろぽろと涙をこぼした“アンブロシアの御子”だったのは何故? 気が遠くなるほど辛かった孤独との戦いという重荷を下ろせたからか? そんな自分だったということを知っている存在が現れたからではなかったか? もう良いんだよ、辛かったろうね、寂しかったろうねと、彼の抱えて来た筆舌に尽くしがたい辛苦を誰よりも判っている“存在”が言ってくれたからではなかったか? 秘やかな嗚咽であれ、しゃにむな慟哭であれ、それは単なる生理現象ではない筈。哀しみを苦しみをただ吐き出したいのではなく、それを誰かに受け止めて欲しい、感情を震わせることもあるのだと…それによって自分は人としてここに居るのだと確かめたい。そういった意味もあるのではなかろうか。自分が“自分”である根拠は概ね自分で自覚するものだが、その礎えは…自分が此処に居ることを自覚するためには、実は“他者”が必要なのである。
「カタルシスがどうのこうのという話を、今更、それも君を相手に広げたくはない。ただ…誰にも受けとめられなかった想いはどこへゆくんだい? それを知った者に必ずしも負担になるのかどうかは、ずっと若島津くんの傍に居た君が一番よく知っている筈だよ? これでもまだ、頼られたいと思う気持ちはただただ傲慢なだけの欲心だと言い張るつもりなら、僕の見込み違いだったということになるんだろうがね。」
 三杉の穏やかな眼差しと、傍らから見つめる若島津の…どこか物問いたげな眼差しと。その向こうに開いた窓の外。はらはらと舞う白い影が見えた。風に遊ばれ、視野一杯に舞う、真っ白いそれは…。
“ハリエンジュ…?”
 風にあおられてニセアカシアの白い花弁が若い緑の木立ちの中を鮮やかに舞っている。季節外れの雪のように、次から次へとめどなく舞っている。
“ああ…そうか。”
 冷たい雪ではなかったのだ。あの時の自分の視野を掠めたのは、これと同じ、花びらの雨だったのだ。
〈大丈夫かい? どこも痛くはないかい?〉
 叔父の腕の中はとても温かだった。やさしい眸は、その片方が光を失ってもなお柔和なままだった。
〈怖かったろうね。もっとちゃんと庇ってやれればよかったね。〉
 病院の白い部屋に怯おびえていた自分の手を握ってくれた大きな手のひらは、さらさらしていて温かだった。窓の外には初夏の陽射し。やさしい声のいたわりの響きさえ、冷たく凍らせて封をしていた、臆病だった自分。ずっと一人で居ようとしたのは、大切な人を持てば傷つけた時に辛いから…という建前の陰で、自分の弱さに保険をかけていただけではなかったか。強い人間になりたかったと言いながら、実は逃げ回っていたのではなかろうか。
「…ジノ?」
 頬に触れる柔らかな手。それへと薄く微笑って目を閉じる。
〈俺じゃ まだ…ピエールほど頼りにならないか?〉
 自分が“自分”である意味を、自分が“自分”である価値を、意識を越えて身につけたればこその言葉だ。誰かの続きなのではないか、誰かに何かしらの期待をされているのではないかという戸惑いを払拭し、他の誰でもない“自分”に馴染んで歩き始めているからこそ芽生えた欲求だ。そうまで自立した彼の傍に居ることを…もうすっかり“誰かを幸せに出来る”までになった彼に付いている必要はなくなったのではないかと、そう、自分の役割は終わったのではないかと思いながらも、だのにどうしても立ち去り難くて。その矛盾に人知れず困惑を覚えていたのは何故だった? 三杉が言うように、役目ではなく人と人としての繋がりを断ち切りたくなかった自分だのに、それまでに守って来た頑ななポリシーを不器用にも順守しようと意固地になっていたからではなかったのだろうか。こうまで心安らげる存在だと認めたその途端に、ならば離れなければならないという図式が頭をもたげてくることが判っていて、そのジレンマに胸が閊つかえていたのではなかったろうか。こちらの方こそ、自分が“自分”である意味を見失いかかっていたのではなかろうか。
「もう…大丈夫だよ。」
 目を閉じたまま、ぽつりと呟く。
「?」
 小首を傾げたのだろう。掛け布の上に出ていた腕へさらさらと触れる髪の先の感触がした。目を開けてそれをそっと手の中へと掬い取り、
「これまで保身のつもりで守ってた部分も、意地も見栄も全部お前にやる。だから…もう大丈夫だ。」
 何がどうとまで言葉を重ねず、霞むような笑みを見せただけだったのは、それ以上何か言うとさっそくの気弱さが出てしまいそうだったから。いつもの自信にあふれたそれとは違う“大丈夫”に、だが、こちらも戸惑いのない笑みを頬に浮かべて、
「…うん。」
 若島津も頷きを返す。
「大丈夫だよね。これまでより、もっとずっと。」
 凭れるばかりだった“大丈夫”が、二人で支える“大丈夫”になったと、そうと判ったればこその微笑みであった。


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