終章 君のために 出来ること
――― お前、その“売りもん畳み”はやめろよな。
あれは確か、同居が始まったばかりの頃に、松山に言われたんだったっけ。
〈“売りもん…”?〉
〈その畳み方だよ。今時、女でも“袖畳み”してんだぜ?〉
居間に広げられていたのはコインランドリーから引き上げて来た洗濯物。何日か分のまとめ洗いをしたのでたいそうな山になっていて、それを両側の端から崩し合うように片付けていた時のことだ。随分片付いたとあって、こちらの様子が何気に眸に入ったらしく、ワイシャツやTシャツを…いちいち両袖を後ろへ折って前の身頃をきちんと見せるよな、店で売る時のような畳み方をしていた俺へ、異様なものでも見るかのような顔をしてそう言ったのだ。サラリーマンに比べるとあまり着る機会はないものの、それでも式典だ何だにはスーツ仕立ての制服を着る。その都度、ネクタイをきちんと結べることへも妙に感心されたものだった。
〈お前、見かけによらず、お行儀が良いんだな。〉
〈いや…習慣ってやつだが。〉
そうまでおかしなことをしているとは思わなかった。意識するまでもなく、手がそう動いていたから。歯ブラシを握るように、ボタンをかけるように、当たり前な行為としてだ。こっちが怪訝そうな顔をさせられたこともあった。
〈…お前、フライに醤油かけるのか?〉
〈? ああ。訝おかしいか? 肉ならソースだけど、魚のフライには醤油なんだ。〉
〈じゃあ、刺身にもソースかけるのか?〉
〈………。〉
変なことを言う奴だとばかりに、やっぱり最後にはこっちの方が“変だ”とオチをつけられてしまったのだった。
〈アレじゃねぇのかな。中学・高校と寮だったんだろ? そいで卒業した後、すぐさま事故に遭って入院しちまったんだろ? そんなせいで、周りが皆そんな風にしてたから、それが当たり前だ常識だっていう風に身についちまったんだ。〉
とんだ弊害だなと松山は笑い、俺も“そうなんだろな”とむっつり返した。けど…何か引っ掛かるものがなくもなかった。ああいう服の畳み方は、誰かに教わらなきゃ…よっぽど叩き込まれなきゃ習慣になるほどにはやらないことだ。ソースや醤油、ケチャップなどの好みは違って当たり前で、それを怪訝に思うということは、あまりにも当然視されてて気にも留まらなかった環境に居たからだ。6年も続いた寮生活は、サッカー以外は結構ずぼらに過ごした記憶しかなく、洗濯物なぞ自分で畳んだ覚え自体あまりない。俺が通っていた東萌学園は中高ともに詰め襟の制服だったからネクタイには縁がない。食べ物の味付けも、結構好き勝手な好みで食う奴らが多かったことを覚えている。だのに、あんなにも奇妙なこと?をし、怪訝に感じたのは何故だろうと、自分の反応こそが不可解だった。
――― そう。誰かが居たのだ。すぐ傍らに。
いざという時に困らないようにと気を配り、
必要なことを叩き込み、
不自由のないようにと手配りを完璧にこなし、
余計なことに煩わされないようにと
俺の分まで何もかも引き受けていた奴が。
奴のことを思い出してから…しばらくの間は随分と切なかった。虫食いになっていたパズルのピースが次々と埋まってゆくように、懐かしいあれこれがパタパタと蘇り、元から覚えていたものにも…そのどれにも必ず傍らにいた親友の笑みが気配が新たに添加されるだけで、一層温かく現実味を帯びた代物へと変貌を遂げた。学生時代は実は今以上の暴れん坊で、だがそれは“手綱取り”が居たればこその無鉄砲だったとか、洗濯物の畳み方からネクタイの結び方、箸の上げ下ろしに至るまで、恥をかくのは本人だけではないからと叩き込んでくれたこととか。そんな風にいつもいつも気を回してくれていた奴に、口では敵かなわず悪態ばかりついていたこととか…。どれほど大きな存在だったか、いなくなってから判った間抜けな自分にも腹が立ってしようがなかった。奴の秘かに抱えていた重荷にさえ気づかず、好き放題の我儘勝手を通していた自分。奴のことを親友だと…大切な存在だと示すことさえ面倒がっていたズボラな自分を、それと気づかせないようにわざと挑発的な辛辣な態度を取りまでして、どうしてあんなに護まもってくれたのか。その答えはもう永遠に聞くことは出来ないのだと、それがたいそう苦々しかった…。
◇
夕刻をだいぶ過ぎて、陽も既とうに落ちてはいたが、まだ何とか空は暮色に明るい頃合い。慣れぬ者には耳驚かされるほど大きな音でざわざわと辺りに響くのは、見渡すその全てに青々と居並ぶ木々の梢の葉擦れのざわめきだ。昼間の暑気の名残りが滲んだ風は、けれど埃っぽいばかりな新宿のそれとは違い、瑞々しい草いきれと土の香りをたっぷり含んでいて、その分だけ沢山の生気が生き生きと満ちているようだった。どこか落ち着かぬまま早番の仕事をざっと片付けておいおい、そのままバイクを飛ばしてやって来たものの、辿り着いたこの場所の落ち着いた情景についつい呑まれて、ハイウェイの風の中を疾走していた間は凍結されたままになっていた気持ちの逸はやりも随分と沈静化した様子。閉館時間になっていたので正面玄関を行き過ぎて、以前渡されていたIDカードを使って職員ゲートを通過する。乗って来たオートバイを預かってもらって、ちょっとした緑地公園並みの“前庭”とやらをのんびりした歩調で進んでいると、
「…っ!」
ザ…ッとばかりに進行方向の芝草の上へ降って来た人影があって、思わず立ち止まった日向である。
「日向さん。」
すらりと伸びやかな肢体が着地したのにわずかに遅れて、項うなじでくくった長い髪の房がぱさんと背中へ降り落ちる。相変わらずに端正なその顔を見るのは丁度3日ぶり。茨城はTSUKUBA-CITYでは、午後ところにより若島津が降ってくるらしい。…そうじゃなくって@
「…よく判ったな。」
こんな登場をされて“どわっ!”とのけ反らない辺りの慣れがある日向にも困ったもんだが、それは今更の話なのでおいといて。こらこら さっき通ったゲートで照合されたIDカードの登録を館内で読んだにしても速すぎる。第一、担当の係でもない彼がそんな細かいチェックをいちいちしてはいなかろう。(でも、気を利かせて教えてくれるシステムは設置してあるかもだぞ?こらこら)気配を感じてか、バイクのイグゾートノイズでか、若島津自身が察して出て来たというのなら、これほど偏ったセンサーもないものだが。
「…なんか、警報とかが盛大に鳴ってないか?」
降って来たということは…日向が歩みを運んで近くなった建物の、頭上の窓のどれかから飛び出して来た彼であるのだろうが、その背後の建物から様々なBGMが入り混じってけたたましく鳴り響いている。もしや緊急事態の只中に来合わせた自分なのだろうかと、だが…そう思う割には特に慌ても焦りもせぬまま首を傾げている日向へ、
「? ああ、あれは俺が規定の順路を通らなかったから、融通の利かないセンサーが“論理矛盾”を起こして鳴ってるだけですよ。」
若島津は悪戯っぽくクスクスと微笑って見せる。そういえば一番最初の章でも言ってましたね。さっきまで2階にいたのだから突然現れようのない人が出現した…とかですか?
「細かいだけでは能がない。このくらいの融通も利かないようじゃ本末転倒。毎度毎度ゼロと森崎さんにしてやられてる三杉にはいい薬ですよ。」
おいおい。まあ、言いたいことは判らんでもない。人の目で追えばどういう次第なのかあっさり判ることだのに、それに追いつけない融通の利かなさを鍛えてやるつもりの無茶苦茶だと、彼の立場からはそう言いたいのだろうと。機械の融通の利かなさといえば、判りやすい例として…もう随分と古いお話になりますが、大量の偽造五百円硬貨事件というのがありましたよね。韓国だったか中国だったかの“ウォン”という硬貨の表面を削ったり穴を穿ったりして五百円硬貨と同じ重さにして、自動販売機の払い戻し機能を使って釣銭をせしめて回った“アレ”。人の目で見れば一目瞭然だのに、機械のセンサーはあっさり騙されまくり、自販機向けの至便化を狙った硬貨だのに、当の自販機では敬遠されてしまったというからちょっと間が抜けている。大蔵省は新しい硬貨を発行することで一応の対処はすると言うてはりましたが…ま・それはともかく。ハジメちゃんの言い分も判らんではないが、ごくごく一般の人間には出来ないことまでインプットしていたらメモリー容量が幾らあっても足りない。第一、そんなとんでもない現象を“異常事態ではない”と見過ごすようにセッティングしたならば、途中まではガードシステムをクリアした侵入にも『こういうことも起こり得る』と判断するような学習発展をしかねないし、万が一窓から落ちた人があったとしても『異常なし』と解釈されて発見が遅れてしまいかねない。こらこら 特別視しなくちゃいけない人物として彼やゼロのデータを書き換えるというのが、せいぜい無難な対処というところだろう。相変わらず突拍子もない存在であることを確認し合ってご挨拶に代えた二人だったが、
「どうしました? こんな遠くへわざわざ。」
前以ての連絡のなかった訪問で、それが若島津には少々驚きであったらしい。
「確か非番じゃあなかったでしょう?」
それとも急に当番がずれ込んだのだろうか。仕事に関わる何かしらの訊き込みなら若林が同行する筈だし、そっちにしたって…やはり何かしらの連絡がある筈。彼が単独でここを訪れるというのは大概…。
“………。”
そう。自分に関わることで用があってという理由しかない。だが、非番でもないのにただ顔を見に来ただの遊びに来ただのという来訪とは思えないし、何より…どこか様子が違う。日向の行動の奥底を少しでも知ろうとでも思ってか、微かに訝いぶしげに小首を傾げつつ真っ直ぐ見つめてくるその表情がやや不安げで、
「うん…。大したことじゃあねぇのかも知れないが。」
日向はちょいと言葉を濁して、そのまま足元へしばし視線を逸らしたが、
「…お前、昨日の昼頃、何か“怖い想い”しなかったか?」
そうと訊いた。すると若島津の大きな瞳が瞬いて、
「昨日の昼頃?」
その時刻なら、丁度すったもんだの真っ最中。最寄りの警察が動くような小細工はしたが、日向の所属する部署とは管轄が違うのだし、大事にはならぬようにという工作もちゃんと行き届かせておいたのだから調べたところで自分たちへ辿り着きようがない筈だが、どうしてそれを知っているような訊き方をする彼なのだろうか………とそこまで思ってからはたと気がついた。
“…あ。”
昨日のすったもんだだということは、あの光線を浴びた一件だということになり‥そして彼も例の“アレ”を感じたのだろうと判った。あの“若島津オリジナル”が遺していった置き土産。彼と自分…とゼロとを時々つなぐ“エンパシィ”のことだと。
「あ…。でも、日向さん、どこに居たんです?」
「下北沢だ。」
「そんな遠くに…届いたのか。凄いなぁ。」
何へとまでは口にせぬまま、一人感動の体でいる若島津へ、日向は少々苛立たしそうに足元の芝草を爪先で蹴ると言葉を重ねた。
「怖かったのかって訊いてんだよ。」
「あ、ええ………………………………………………少しだけ。」
どうせ隠し事は出来ない相手だ。この年齢で?“怖かった”という感情を認めるのは少々恥ずかしかったが、そこは素直に頷くと、
「怪我はなかったのか?」
静かな声で問われた。
「そっちは大丈夫で…。」
うなじで束ねていた髪をほどいて、
「ここをやられただけで済みましたから。」
少し短くなったところを摘まんで見せる。
「素早かったからそれで済んだってやつか。」
「まあ…そうなんでしょうね。」
小さく微笑って、だが…そのまま間近になっていた日向の肩口へ、ぽそっと自分の額を乗せるようにして凭もたれかかる。
「…心配してくれたんだ。」
「馬鹿。喜んでどうするよ。」
「あはは…。すみません。でも…嬉しいんですよ、ホント。」
突然びっくりさせられたからと、わざわざ文句を言いに来た訳ではなかろう。たかだか他人の身の上に起こったこと。それをいちいち気にかけて、しかもわざわざこんなに遠くまで足を運んでくれた彼だという事実が、自分をどう思ってくれているのかをたいそう判りやすく現してくれたようで、それが若島津には笑い出したくなるほどに嬉しかったのだ。そっと顔を上げてゆっくり身を離し、少しばかり仏頂面になっている日向の顔を見やる。
「それを確かめに来てくれたんですか?」
「う…ん、まあな。」
普段なら任務が終われば後始末も早々に遊びにくる彼が姿を見せない。依然として“お仕事中”なのかも…とも思ったが、あんなエンパシィを受けたことも気になって、つい足が此処に向いてしまった日向だった。
〈………っ!〉
何しろ只事ではない衝撃だった。背条にいきなり逃れようのない格好で氷の刃を突き立てられたような、それは冷え冷えとした、痛みさえ孕んだ強い悪寒が走ったかと思うや、全身が総毛立ったそのまま、掴み潰されそうなほど胸が苦しくなって。だが、やがては一気にそれらの感覚が弛緩したので、一応ホッとしたのではあったのだが。
「………。」
そんなこんなを順序だてて要領よく説明出来ない日向としては、わざわざ足を運んだ事実はともかく、そんな柄にないことへの弁明も苦手で、視線を落とし気味にしたまま已なく黙っているしかなかったりして。そんな彼へと若島津は小さく微笑って見せて、
「俺は大丈夫だったんですが、ジノがちょっとね…体調を崩してまして。」
「ヘルナンデスが?」
ならば…この彼が心配して傍から離れられないのも頷けはする。だが、その前に、
「あの健康管理にうるさそうな奴がか?」
そっちの方が意外だった。若島津は“体調を崩した”と言った。怪我をしたというなら、彼らほどの危険職には判らんでもない話だが、あの精神力の塊りのような男が、ストレスさえわざわざ自分に集めて喜んでいるような男がおいおい、そう簡単に体調を崩すもんだろうかと感じたらしい。日向の驚きようには、若島津も思わずの苦笑を見せて、
「イヤだなぁ。ジノだって人間なんですから、気を張り詰め過ぎれば反動で引っ繰り返りもしますよ。」
「…そうか。風邪とかじゃないのか。」
“おっと。”
この彼に悟られるとはちょっと一言多かったかなと素早く反省し、にっこり微笑って、
「でも、もう大分落ち着きましたよ。なんか思うところがあって吹っ切れたみたいですし。明日辺りになれば自分から起き出してくるんじゃないのかな。」
「そっか。」
曖昧な言いようをされたため、日向には正直言ってよくは判らなかったものの、そんな言い方をしたということは恐らくは彼らの間柄の上での話だろうから、彼本人が納得しているのならそれで良い。その件に関してはそれ以上突っ込んで聞きほじることもないだろうと思った日向だったが、
「お前は…。」
ふと、とある想いが口を衝くように出かかった。
「はい?」
打てば響くといった間合いで素直に聞く構えを見せる若島津の反応に、声をかけた側であるにも関わらず日向の方がわずかにたじろいだように少々言い淀む。相変わらず深く考えない言動を取る自分だと、ちょっと舌打ちしたくなったから。ふと想ったことというのがあまりに直感的で、尚且つ微妙なことだっただけに、感じたそのまま、胸の裡うちをそのまま、きっちり伝えられるだろうかと、言い回しや表現力に自信がなかったのだ。だが、じっとこちらの言葉が続くのを待っている相手だとあって、日向は“えいっ”とばかりに口を開いた。
「お前は、微笑いたくもないのに微笑うような人間にはなるなよ。」
「…。」
途端に、思っていた通り…かすかに物問いたげな気配を感じ、
「言っとくが、ヘルナンデスがどうだからって引き合いで言ってんじゃねぇからな。」
早口になってそうと付け足した。ジノのことを含んで非難している訳ではない。日向もまた、あの…自分には到底理解不能なややこしいことをいとも容易たやすくこなす澄ました顔のその陰で、自分なら造作もないくらい簡単なことをわざわざややこしくしてから呑み込もうとするような、対人関係においては途轍もなく不器用な男のことを、彼なりの把握で“いい奴だ”と思ってはいる。この青年がこうも屈託なく笑えるようになるまでには、幾つも幾つも辛いことやら苦しいことやらがあったに違いない。それらを乗り越えるために傍に居て、辛抱強く陰日向ひなたなく支えて来たのがあのジノなのだから。…ただ、
「腹が立ったら怒れば良い。怖いなら怖いって認めろ。要は後込みしなきゃいいんだ。」
辛いだとか苦しいだとかいう弱音や、そういった想いを抱え込んでしまった面倒を他人ひとに押っ付けろと言っている訳ではない。見栄や片意地を張るのも、結句、本人の勝手だろう。ただ…この顔が取って付けたように微笑うのを再び見ることになるのは辛い。かつての“若島津オリジナル”が常に余裕錫々でいたのとは随分とカラーが違うものの、こっちの彼の温ったかい微笑みの中にも同じような…何かを隠すための代物がないとは限らない。何かと隠し事をしなければならない立場上のものはともかく、下手な虚勢を張られるのはもう沢山だと感じた日向なのだ。これは恐らく自分の我儘。でも、間違ってはいまいと思う。
「お前のこと、ホントの顔とかどういう奴かとか、本心から判りたいって思う奴は必ずいるんだから、せいぜい判りやすいようにしてないと誤解されるばっかだかんな。ヘルナンデスの周りみたいに、察しの良い奴ばかりとは限らんのだ。」
ややもすると怒ったような口調で言葉を継ぐと、
「………。」
「何だよ。言ってる傍から笑ってんじゃねぇよ。」
「…嬉しいからですよ。」
煙幕を張るような判りにくい真似はするなよと言いながら、ジノのことを彼を取り巻く環境も含めてちゃんと理解している彼であること。そして、それがジノへの興味からではなく、若島津への関心の延長オマケであるということも、あっさり察することが出来た。だから、それがくすぐったくて…衝動的に泣き出したくなるほど嬉しくて、何とか誤魔化した結果の苦笑が洩れた…というのが正解だろう。
“………。”
今から日向を心配させるような、本当の自分を人目から隠してしまう“頑なさ”。確かに自分に育ちやすそうな素養だろうなという心当たりはある。ジノと出会ったばかりの頃に既に抱えていたからだ。その頃の“頑なさ”は、ジノの語ったトラウマほど複雑ではなかった。ただ単に、自らに自信が持てなかったから。自分へ過小評価をつけるという性分くせはどうやらオリジナルも持っていたらしく、それはこの日向が教えてくれたのだが、
“オリジナルのそれとも同じじゃあなかったんだろうけどね。”
馴れ馴れしくされるのが疎ましいのではないという点は同じ。だが、ジノのように、そしてオリジナルのように、相手のことを考えてのものでは到底なかった。ただ単につないだ手を振り払われるのが怖かっただけ。誰彼なく自分を優先してくれると思うほど自意識過剰ではない。ただ…まだ幼い子供に近いくらいに無垢で頼りない立場であった頃に、後回しにされて独りで置かれる心細さを幾つか味わった。自分でも具体的に思い出せないほどちょっとしたことだったし、今ならそれらが単なる事務的な、些細なものであると理解も出来る。そのくらいの小さな我慢くらいは出来ようと、少しは“お兄さん”になったと信頼されてのものだろうと。だが、その時は随分心寒い想いがしたのだろう。何しろアンバランスな状態だった。本当に何んにも判らない…自分とすぐ傍らにある環境しか知らず、だのにそれで良いとされる“子供”ではなかった。自分の両手が触れるものは全てが初めて接することばかりであり、直接目に見えるものや両腕に抱えられるだけのことしか判らないのも“子供”と同じだが、背が高いだけ遠くまで見えたし、その両手は大人と同じ大きさがあり、抱えられる腕の長さも…つまりは理解も把握も大人と変わらぬ解析力のそれを既に持っていた。感受性と理解力とのバランスが大きく食い違っていたがため、感動にせよ寂しさにせよ、受ける衝撃の度合いもその格差の分だけ大きくて、それによって受けた“余波”を傍目には判らぬものとして幾つも幾つも抱え込んでいた。
“………。”
慕っていた者、信じていた者に拒絶されて突き放される痛さは格別で、そんな想いを味わうくらいならと、最初から関わりを持たないでいようと及び腰になっていた。それでなくとも自分は尋常ならざる“化け物”である。人という形を持ってはいるが、器が同じだけの人外家畜。人の手によって作られ、さればこそ人の手でどうされようと文句の言えぬ存在だと思い込んでいた時期もあった。
――― 便利なロボット、力持ちの万能ロボット。
人間の代役をこなす身として生み出された“彼ロボット”に人と等しい心を与えたとして、だが、果たして彼はそれを嬉しいと感じるだろうか。代役を必要とするほどの使役の辛さや苦しみは、それこそが生み出された“目的”であり“使命”なのだから生きがいでこそあれ恨むことはなかろうが、自我を持つにも関わらず人間からの絶対命令下に“生き死に”を弄ばれる身である運命を彼はどう思うのだろうか。また…従う主人マスター、愛する人や大切な人の犯した過ちという矛盾に、倫理と“心”の狭間で葛藤せずに済むような論理は、一体誰がどうやって算出して彼に与えるのだろうか。
――― わざわざ苦しめるためにくれた“心”なんだろうか。
いっそ、どんな使命にも動じずに絶対服従出来るよう、何も感じないままでおいてくれれば良かったのに。これもまた“人間”の側の都合なのか? 人の痛みが判るよう、そこまでの苦しみを強いられるほど頼りアテにされているということか? そういった想いから…一人前に平気だと装える仮面をすっかり固め、その実、内面では半ば捨て鉢にさえなりかかって居たところへ、自分のための“ナビゲイター”として現れたのがジノだった。誰よりも何よりも自分を優先してくれる存在。出来ないことがあったって、みっともなくたって良いじゃないかとさんざん甘やかしてくれた。それと同時に…嫌われることも憎まれることも厭わず、真っ直ぐ睨んでくれて、斟酌なく叱ってくれて、どんどん壁を乗り越えて来てくれた。
「ジノが“自己犠牲”を嫌ってたのはね、自分のために、大切な人が身を投げ出そうとするのが怖かった…辛かったからだそうですよ。」
「?」
「ずっと以前に、自分なんかを守るために大好きな人に盾になられたことがあるって。それをずっとずっとトラウマにしていたそうです。
単なる無鉄砲と変わりがないんだし、オマケに自己満足なところがどうにも嫌いだ…なんて、もっともらしい言い方してましたがね。本当は、自分の力不足から守られる側へ押しやられて、その揚げ句に、大切な人を失ったり傷つけたりするのが怖かったからだそうですよ。」
「…そっか。」
いつぞやその辺りの問答を本人と交したこともある日向にも、不審に思えてならなかった事だった。自己犠牲を“傲慢だ”と断じたジノだったが、他人からの好意を“奢おごりだ”と解釈するほどまで…他人をそんな形で貶めるほどスレている人物には到底思えなかったから。
“………。”
感慨深げな顔になる日向を前にして、若島津もまた胸の奥でとある感慨を噛みしめていた。考えてみれば、この彼もまた大切な…大好きな人から庇われて護まもられた経緯を経た人だ。その事実には最近まで封がなされてあったとはいえ、知ってなお、雄々しく前向きでいる。人知れぬ後悔さえ霞ませるほど、相変わらず人を惹きつけてやまない力強さと逞しさに満ちている。人の“死”には、もう再び一緒に居られぬ、何もしてやれぬという、取り返しのつかない絶対の哀しみがあり、だからこそ“生命”は二つとない至上の宝。それをよくよく知っていて、その身で、行動で、体言しているかのように。
“この人は…。”
強い人だと改めて思う。大切な友を理不尽に殺され、サッカーという夢だって…それに費やすにはただでさえ少なすぎるかも知れない若さや柔軟性に満ちた大切な時間を食いつぶされて、結局は握り潰されたようなもの。それだけでは飽き足らず、親友にそっくりな“自分”が現れて、辛い真実を思い出すことを強いられて…。自分と会うたびどんなに心を掻き乱されたことだろうか。もう居ない親友への想いと、彼には非のないことながら…忘れていた罪深さと後悔とに。
〈死んだと思ってたものが生きてて帰って来たってのは正直嬉しかったし、実は“そういうこと”ではないんだってのが少しずつ判って来たけど、その少しずつの間に…お前のことを“お前”として気に入っちまったろ? 少しずつでしか こういうややこしいことが判らん馬鹿なのが、今回ばかりは助かったよなぁ。〉
彼の心の中で静かに静かに形を取った親友の死。ゆっくりであれ唐突であれ、それが辛くない筈がない。だのに、彼は…そんな言い方をして小さく苦笑って見せたのだ。
“………。”
二度と会うことのかなわぬ愛しい人の面影を、後から現れた他人に重ねてしまうことが自分勝手で残酷な仕打ちだと判る、少年のような純粋さ。そういったやわらかい部分が、彼にはおよそ柄にない気遣いとなって現れもする。ただでさえ重くて辛い想いを抱えてるのに、いつだってこうして気遣ってくれる。だのに…そんな彼からの認識の底を窺って、別な誰かの影を感じては一丁前に拗ねたりもした、かわいげのない自分。そんな自分をこそ、苦々しく思ってしまう若島津であるのだ。
「…あんまり俺を甘やかしちゃダメですよ。」
「ん?」
「俺は図々しいから、どんどん思い上がって付け上がる。」
そんな答えに、日向はくくっと愉快そうに笑った。
「いいさ。どんどん付け上がればいい。叩かれても突き放されても“それがどうした”って居直れるほど丈夫になれば重畳だ。」
それはちょっと…限度を越してるかも知れないぞ。だが、若島津にはたいそう響きの良い啖呵に聞こえたようで、くすくすと楽しそうに微笑っている。
“ジノにもこんな強くて優しい人が傍に居れば良かったのにね。”
時折どうすればいいのか判らなくなる。狂おしいとはこういうことかとさえ思う。心配ごとや先行きへの杞憂のみならず、他には何も要らないほどの充足感もまた、時に気持ちばかりが先走っているような欠落感や不安を抱いだかせる。それは丁度…大自然の壮大な美しさや触れることの許されぬ可憐なものへの感動と表裏一体な とある想いにも似ている。なす術を知らないもどかしさは、手の届かないものへの、だからこその強い強い執着でもあるのかも知れない。そんな形の無い不安さえ叩いて形にした上で、
〈何ほどのもんでも無かろう〉
と、にやりと笑って安心させてくれる。本当は見当違いだったり、もっと奥深いところに緻密な答えが息をひそめているのかも知れないが、そんなのどうでも良いやと感じて納得させられてしまう。ジノからの綿密で丁寧な躾けやお説教が立場を無くすようなこの相性の良さには、理屈抜きでどんどん惹かれてしまった自分ではなかったか。たいそうな切れ者だったらしいと時折洩れ聞く“オリジナル”が、何事にも卒のない合理主義者でありながら、だとするなら理解し難い無鉄砲さに満ちた日向に文字通り“生命を賭すほど”惹かれていたのも、そんなところになのではなかろうか。
「ジノがね、もう随分以前になりますが、こんなことを言ってたんです。」
やさしい眼差しで若島津がぽつりと呟く。
「人は誰でも何かを探してるもんだって。何かを忘れているような、それが途轍もなく大切なものなような…そんなもどかしい気持ちを抱えてるって。」
確か『Rの事情』でしたね。あの時のは“不安なのはお前たちだけじゃないんだぞ”って言い方だったんですけど、
「俺が探してたのは日向さんだったんだ。」
「…見つけちまったな。」
「ええ。」
「こんなすぐ見つかるもんで良いのかよ。」
「うん。」
満足げな声だ。
「じゃあ…どうすんだ、これから。」
「判らない。でも、日向さんは掴まえとける人じゃないから、まだまだ全然終わってない。もっともっと追っかけなきゃいけない。追いついたり追い越したりもしなきゃいけない。」
「…そっか。」
相変わらず率直でかわいいことを言う青年だと、日向としては内心での苦笑が絶えない。時に小憎らしい“優等生”だが隠し事はまだまだ下手くそで、一般論を笠に着ての説教こそするようにもなったが片意地は張らない。何より…好きなものは好きだと言ってのける、日向でさえたじろぐほど開けっ広げなところが何とも微笑ましい。
〈大体“告白”ってのは一体何なんでしょうね。〉
〈だって、相手のことが好きだっていうのはその本人の抱いた気持ちでしょう? 何でわざわざ相手に言う必要があるんです?〉
いつぞや…恐らくは学生時代に“若島津オリジナル”とそんな会話をしたことがあったのを思い出す。あの頃は日向の側もまだまだ未熟で、ちゃんとした答えが出せなかったように思うのだが、今ならもう少し真っ当な答えが出せるような気がする。好きだという想いの自覚は、その相手を自分にとって大切な存在だと認めることだ。だから…それをわざわざ相手に伝えるということは、優先権や独占権の宣言なぞでは決してなくまったくだ、何があっても味方だからと、たとえ力が及ばなくとも何者からでも守る決意があるから頼りアテにしてくれという“誓い”に似たものなのかも知れない。なればこそ、人によっては簡単には口に出来ない決意だったりもする。確か“オリジナル”は相手に押しつけるものではないだろうという言いようをしていて、成程それも正解ではあった訳だ。一つことに沢山の答えや解釈があると判ってきた今、こちらの…オリジナルの忘れ形見である彼と一緒に一つずつ答えを探しているような気がして、何だかくすぐったい日向でもある。
〈少しずつでしか こういうややこしいことが判らん馬鹿なのが、今回ばかりは助かったよなぁ。〉
日向のこの発言は、もしかすると…最初から覚えていての再会だったなら、元のオリジナルの性格との落差、その変わりようにぶっ飛んだだろうという意味もあったのかも知れない。こらこら、くどいぞ@
「日向さん、仕事明けにいらしたんですか?」
すっかり和んだ顔になり、若島津がそうと訊く。
「ああ。昨日はちょっとした一斉捜索があって、取っ捕まえた奴が例の路上荒らしの方ともつながりがあってな。それで事情聴取に力を入れるとかで、俺や松山辺りは待機扱いになっちまった。」
待機…? …それってもしかして。
「じゃあ非番も同様ですよね?」
こらこら、ハジメちゃん。亨でさえ実際に言うのは憚はばかったのに。 ………で? だったら何なの?
「今晩はここに泊まって明日遠乗りに出ませんか?」
「いいけどよ。」
夕景の中、日向は少々怪訝そうな顔になり、
「お前、自分で走る方がよっぽど速いんじゃねぇのか?」
「そういうのとはまた別なんですって。」
…まったくである。
◇
「………。」
淡く明るい萌黄がかった若葉がまだらに入り混じった低木の茂みやら、陽射しを透かす柔らかそうな新緑が重なったその隙間から、夕刻の斜光になった眩しい木洩れ陽をちらちらと振り撒いている背の高い梢やら。窓から見える様々な翠に眸をやりつつ、ジノはテレラインのインカムフォンを耳にセットしていて、相手が出るのを待っている。軽やかな呼び出し音は1コールごとにこちらの鼓動をとくとくと煽ったが、
“居ないかも知れないかな…。”
時差を考えれば“あちら”は朝だし、当たり前の出勤ならもう事務所に着いて机に向かっている時間帯。そういった道理に気がつかない彼では勿論なかったが、これもまた逃げ腰なところが働いての選択だったのかもしれない。
“………。”
幾つめかのコールが続いて、やっぱり掴まらないかなと諦めかけたその時だ。
【…アロー、お待たせしました。】
不意に声がして…どきりと胸が躍った。とっさに二の句が告げず、間合いが空いてしまったのを、相手も不審に思ったのだろう。
【もしもし? どうかされましたか?】
気短に急くようにではなく、あくまでもおっとりと呼びかけてくる声は、間違いなく…懐かしい叔父の声である。
「あ、あの。レオノーラさん…でしょうか。」
唇が、喉が知らずひりひりと干上がっていて、抑揚がよじれそうになる。いっそ“間違えました”と嘘をついて切ってしまおうか、思い立った勢いに任せてしまったが、もう少し落ち着いてからの方が良いのではなかろうかと気弱なことを思ったところへ、
【…もしかして、ジノかい?】
こちらの動揺やらわたつきやらを、相手の声が易々と掻いくぐる。
【もしもし? ジノだね? 久し振りだね。電話くれてとっても嬉しいよ? …どうしたの? 声を聞かせておくれよ。】
相変わらずだなと、じんわりと胸に滲んでくるものがある。温かくてやさしくて、頑なに鎧よろっていたものを易々と包み込み、片端からほろほろと溶かしていってくれる。
【ジノ?】
「あ…はい、すみません。お久し振りです、ジノです。
………長い間、御無沙汰しておりました。」
〈ずっと一緒だよな。これからも。〉
〈?〉
〈だって、ジノは俺の家族だろ? 独立したって結婚したって、それは変わりようがないじゃないか。〉
〈…ああ、そうだな。〉
ジノはくすんと小さく微笑って、こう付け足した。
〈けど、子供が出来ても“おじいちゃん”は願い下げだからな。〉
…了…
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