君のために 出来ること 〜明日の話をしましょうか A
 

 

   
第一章  ナイト・メア 〜nightmare




       
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  しんと冴えた蒼い闇
  鏡のように濡れ光る
  水のおもてを縁取るは
  練り絹の白も 生めく桜花
  遠く近く 木霊こだまの透いて
  稲妻走り
  捲きかえる 水風に
  花闇の揺らめいて 音もなく
  けぶる銀嵐 眸舞う月夜



「………っ!」
 無理矢理という感で眸をこじ開けて身を起こす。深い深い水底から一気にもがき上がって来たような、そんな風な息苦しさがあって、だのに…喉がカラカラに干上がっている。
"え…っと。"
 シーツの上へ突いた手を目許へ上げる。額から目元へこぼれる前髪を透かして、一つ一つの調度が見て取れるが、まだ夜半なのだろう、室内は仄暗い。となると、
"…夢か。"
 良くあるシチエーションだが、マンガやドラマ、小説などでの"これ"は表現上のデフォルメがあってのことだろうと、亨は常々思っている。金縛り状態でなくたって
おいおい、実際に寝床から身体を起こすほどの勢いで"ぐぁばっっ!"と目覚めるなんてのは余程のこと。自分の身で実際にやったことがあって言ってるんだから間違いない。こらこら そういったごちゃごちゃはともかく…当の御本人はといえば、
"………。"
 亨の変テコな論法にも耳を貸さず、ただ黙りこくったままで何やら考え込んでいる様子。睡眠不足は美容に悪いぞ〜?





          ◇



「…ピエール?」
 相手が座っているソファーのすぐ傍に膝から乗り上がって来て、肩口にちょこんと両手を掛けるのは、岬のお得意"甘えたい"のポーズ。だが、今朝の彼は自分の最愛のナビゲイター氏の様子を不審に思って、その顔を覗き込むためにそうしたらしく、
「眸が半分開いてないよ?」
「そうか?」
 察するところ"寝不足"だろうに、ぴとんと身を寄せ、肩口に頬を寄せてくる岬の髪を慣れた手つきで撫でてやる。それだけすっかりと身体に染みついた当然の対応なのだろう。そんなピエールの懐ろにもぐり込んだ形になって、
「ピエール、髪から変な匂いがするよ?」
 間近になったから気がついたという声で岬が呟いた。
「変な匂い?」
「うん。いやな匂いじゃないけど…お香みたいな匂いだ。」
 うなじ辺りからの匂いであるらしく、肩口と首元の狭間辺りのより一層深みへ"くんくん…"と鼻先を擦り寄せる岬である。リビングルームに満ちていた午前中の爽やかな空気を一気に甘〜い蜂蜜色に染め変えてるお二人さんだが、
"…自覚はないんだろうなぁ〜。"
 ジノの苦笑に若島津が同感の意を込めた相槌の目配せを返した。この二人の構い構われ方は最初からこのカラーであり、ちょっとやそっとでは変わりそうにない。岬がすこぶるつきに可愛いらしい容姿だから救われているものの、それでもあと何年続けられるものなのやら。
「ねえ、ジノ、ほら。これって白檀とかいうお香の匂いだよねぇ。」
 ご指名がかかっては見ぬ振りも出来ず、こちらは新聞を読んでいたジノが席から立ち上がり、
「どら。」
「どんな匂いだって?」
 簡単なキッチン仕様になっているカウンターからお茶を運んで来た若島津までもが寄ってたかって来たことへ、
「こらこら、次々嗅ぎに来るんじゃないっ。」
 さすがに…岬以外の相手には尋常な反応を示して、ピエールが後ずさるような嫌そうな素振りを見せた。確かに、男どもにモテて擦り寄られても嬉しくはなかろう。慌て始めたピエールの背後に回り、その胸板を岬ごと押さえ込んだ若島津がソファーに固定し、ジノが匂いとやらを嗅いでみる。
「…これは白檀じゃないな。似てるけど人工的な香りだ。」
 う〜ん。香水や香料、お香にまで詳しい人だったとは。しかも、
「もしかすると…導眠剤や催眠スプレー系の匂いだぞ?」
 そんなことを付け足したりしたものだから、
「…え?」
 ピエールの眠そうだった目許がますますぱっちりと見開かれたのであった。




 実は…とピエールが語り始めたのは、ここ数日の夢見の話。どうにも奇妙な夢を、それも同じ情景のものばかりを立て続けに観るせいで、連夜のように跳ね起きている彼であったらしい。その夢というのが、
「辺りには何も見えない、どうやら鍾乳洞か洞窟のような暗いところでね。足元には踝(くるぶし)にも届かないくらいの浅さでひたひたと水が溜まってる。その真っ暗な闇の中に、まるで意志を持っているような水が涌き立つんだ。どういう加減なのか内側からぼんやりと淡い緑に光ってて…あれって培養液じゃないのかな? で、少し先の足元から舞い上がるその水に、あっと言う間に取り込まれそうになるのが…岬なんだよ。」
 岬や若島津らが再生されたポッドに満たされていた培養液。そこへと還元されるかのように、不思議な水に取り込まれ、助けを呼ぶ岬を、だが…助けられずに目が覚めるのだという。一夜だけならともかく、こうも続くと覚えてしまう。ましてや内容が内容。気になって気になって、昨夜なぞは眠る前から身構えてしまい、浅い眠りの中、同じ夢ばかりに苛まれたというから穿っている。
「成程…お前にも仕掛けられていたのか。」
「…ジノ?」
"も"ってことは? と、皆の視線が集まって、
「お前もなのか?」
「………まぁな。」
 言った途端に"口がすべった"という顔をして見せていた辺り、鉄壁のポーカーフェイスを誇るジノにも、こういう形でそれなりの影響が出ているということか。今更言を左右にして誤魔化してもしようがないという切り替えはさすがに早く、ジノはため息混じりの失笑を白い頬に浮かべて見せた。
「具体的な夢や何やってのは全く見ないんだが、なんだか喧しくて眠れんのだよ。」
「そういや…三杉が"テトラチェス"で連勝中だって喜んでたよな。」
 若島津が持ち出したのは、フォログラムシステムを活用した三次元構成のチェスゲームの話。駒を進める一手分を盤面の角度を変えるという"指し手"にも使えて、立方体状態の戦場をタテにしたりヨコにしたりクルクル回して戦況を変えられるというややこしいチェスで、ジノと三杉の就寝前の一番勝負は、それぞれに贔屓筋の応援がつくわ、所内トトカルチョの対象になってたことさえあるわ…という有名な代物なのだ。
「だが、まさか三杉がそんなことのために何か仕掛けたとも思えんしな。ピエールにも仕掛けられてたんなら、やっぱり違うのか。」
「当たり前だろ。」
 たかがチェスの勝ち星のためにそんな大人気ないことをしてどーすんだと、皆して呆れた。
「意外と信用してないんだな。」
 そんな企みを、例えとしてでも思い浮かぶとは…という連想をしたらしいハジメちゃんだったが、本人はくすくすと微笑って見せる。
「なんの。大学生時代からの付き合いがこんだけ続いてるんだから大したもんだ。もしかすると一番の身内みたいなもんかも知れんぞ。」
 確か彼らは揃って"飛び級"進学をしたクチだったと聞いたことがあり、となると…普通以上に若いうちに大学に入り、やはり若いうちに卒業した身でもある。それはすなわち、尋常な"大学からの同期"という間柄以上の長さをツルんで来たということで、
「…怖いコンビだねぇ。」
 まったくだ。
"相乗効果って知ってるかい?"
 こらこら、誰です、これは。
「けど…喧しいって?」
 横道に逸れかけてた話題を戻したのはピエールで、
「音っていうのでもない、何かの気配かな? そういうものが感じられて、どうにもすんなり寝付けんのだよ。」
 取り繕ろうつもりはないらしく、困ったことだという顔になり腕を組んで正直なところを語るジノであり、
「ジノって元々眠りが浅い方だしね。」
 若島津が気の毒そうな顔になって苦笑したのは、自分がよく魘れては彼を起こした日々のことをちらっと思い出したからだろう。
「体調の変化や何かかとも思ってたんだが、ほぼ同時に二人も…っていうのは訝おかしい。」
「とすると…これまでには無かった外的な要因があるってことなのかな?」
 そうなりますかねぇ。
「亨さんも"夢ネタ"が好きだねぇ。」
 何を仰有る。ここんとこずっと大きめの事件が続いてたし、随分と久し振りじゃないのさ。
「夢と言えば…ジグムント=フロイトってとこかな。」
 精神分析学の権威であるフロイトは、夢を"心の願望を満たすもの"として定義づけたことで有名だが、
「けど、フロイトのはあくまでも"夢判断"であって、メカニズムがどうのこうのってのは突き止めちゃいないんだけどもね。」
 何せ"心理学者"ですからね。深層心理がどうのこうのと、そっちの方へ行っちゃいましたし。
「落っこちる夢を見てる時って、背が伸びてるって言うよね?」

 成長期には伸びる骨が軋んで痛いほど…という人もあるそうで、それが夢にも影響を及ぼしているのではないかというのが岬くんの口にした御説だが、
「それって亨さんがその辺で聞いた話なんだから、あんまり根拠がないぞ?」
 悪ぁるかったわねぇ(怒)




          †



 さてとて…わざわざの復習おさらいという必要もないとは思いますが、ここで改めて簡単に触れておきますと、夢は"レム睡眠"という浅い眠りの段階で垣間見ることの出来るもの…とだけしか、はっきりした実体は判っていませんでした。レム睡眠というのは、睡眠状態になった間での脳が覚醒に近くなる眠りのことで、一晩に四、五度といいますから、平均60分から90分に一度の割合で訪れる。その時に脳が働いて眼球が動く様子を外部からもチェック出来るのだそうで、実際に何か見ている訳でもないのにこの反応ということは、イコール夢を見ての反応である…という理屈で検証されている。ちなみに、疲れている時やうたた寝の寝入り端に何かしら踏み外すように足元がなくなる感覚を覚えるのは、この状態から寝入ろうとする狭間…全身が弛緩して無防備な状態になる瞬間(スリープ・スターツ)に防御本能の名残りがギリギリで働くからなんだそうです。眠るというのは一番無防備な状態に身を置くってことですからね。眠っている犬や猫が時々ビクッと身を震わせる事があるのもこれと一緒で、人間より鋭い反射神経が過敏に反応するからだとか。また、水泳の後や退屈な授業中、帰りの乗り物の中などの"疲れている時やうたた寝の寝入り端"だけに起こるものだと思われているのは、その弾みで目が覚めてしまうほどの浅い眠りだから。普通の睡眠でも同じ現象は少なからぬ割合で起こっているのですが、ぐっすり眠ってしまうとそういう反応があったこと自体を忘れてしまうのだそうです。これは東邦大学の鳥居教授という方が仰有ってらしたことなので、信じて下さっても結構かと思います。…ちょっと卑屈ですか?
こらこら 怖い夢を観ている時に"声が出ない"とか"身体が動かない"せいでもっともっと怖いのも、そこら辺に関係しているのかも知れません。(脳は半分起きているのに、身体は眠っていて動かないため"おかしいぞ。これって何か有ったらヤバイぞ"という情報が来るせいという説もある。世に言う"金縛り"も概ねこれの親戚だそうで、旅先のホテルや旅館で多いのは、興奮や疲労、緊張などから、身体が一気に眠ろうとするのに脳が置いてかれるせいなのだとか。夢と現実が混在している"入眠レム睡眠"という状態にあって、だのに体が動かないのを脳が"起きているかのように"鮮明に感じてしまうアンバランスさから、異常体験をしているような錯覚を受ける。)ちなみついでに"落っこちる夢"は人間の祖先が樹上生活をしていて落ちそうになった恐怖感の名残りで、空を飛ぶ夢は人間以前@の祖先が海を泳いでいた頃の記憶の名残りだ…とする説もあるそうです。そ〜んな昔のことを覚えてたって…ねぇ? それはともかく…。
ヒトの大脳は大きく分けて二つ…本能や感情を司る古い皮質と、理性と結びついた意識を支配する新しい皮質とで構成されていて、新しい皮質というのは、あのエルキュール=ポアロの名文句にある"灰色の脳細胞"のこと。この新しい皮質部からは、本能的な欲求や感情的な衝動に駆られて興奮状態となった古い皮質部を静める成分が常に放出されているそうで、人間はそのバランスによって本能的な暴走をコントロールされている。この"灰色の新皮質部"は遥か古代のネアンデルタール人の時代から既に持っていたそうで、仲間を埋葬し、花を手向けたという習慣がそれを裏付けているのだとか。ところが次に現れたクロマニヨン人には"前頭葉"という皮質が新たに備わっていて、彼らの侵略によりネアンデルタール人は滅んだとされている。この前頭葉部は"創造力"を司り、数々の発明や文明を生み出した。また…新皮質部位の方がバランス的に増えたことから、感情を自在に圧おし殺して振る舞う術をも制御出来るようになり、人間に本能と理性という"二面性"を身につけさせた素因もとでもある…との事である。大いなる自然を征服しようとしたり、常に優位にあろうと他と諍い合ったり、しまいには人間同士で殺し合いをしたりという愚挙もまた、そこから発したものなのかも知んないね。
 ………で、話を「夢」の方へ戻しますと。ニューヨーク州立大学・グーデンナフ博士は
〔思い出す人が見、思い出さない人は見ない〕
とし、東大脳研究所・時実利彦博士の曰く
〔夢とは、新しい皮質が眠って、古い皮質が盛んに活動している状態〕であるそうな。






          †



「此処でもそういう研究を手掛けていたとはね。」
 彼らが足を運んだ研究室にいたのは、さらさらとした金の髪に水色の瞳も相変わらず、それはリリカルな風情をたたえたうら若き博士。久し振りのご登場を願った Dr.フランツ=シェスターである。
「何 言ってるんだい。若島津くんと日向刑事との例の一件があっただろ?」
 互いの存在を知らずにいた頃から同じシチエーションの夢を見ていた二人であり、それが糸口となった不思議な縁えにしは、科学的には解明出来ずにいる謎をいまだに幾つも残したままでもある。臨床として扱うには忙しすぎる身の彼らなため、症例としてのデータを取れないという事情が関与してもいるのだから仕方がないが、
「ま、そっちはともかく。一時流行はやった"リラクゼーション"の研究にも応用されてたくらいだし、夢というのは…洒落しゃれじゃあないが、努々(ゆめゆめ)馬鹿には出来ない代物なんだよ。」
 こっちの"努"は「決して、絶対に」という意味で、打ち消しの語(〜しない とかいう)を伴って使われる。よく古風な物語やお告げなんぞに"ゆめゆめ疑うことなかれ"って言い回しが出て来ますが、あれは"夢だと思っちゃあいけないよ"という意味じゃなかったんですね。
こらこら 洒落の解説はともかく、
「工学研究所だからって訳でもないんだけれど、此処で扱っているのは物理的な神経作用の一部としてのもので、精神分析とは微妙に方向性が違うんだけどもね。」
 シェスター博士の解説に、
「???」
 岬やハジメちゃんがちょいと小首を傾げて見せる。
「早い話が、夢占いとか心理テスト、精神分析の一環として扱っているんじゃなくて、暑いと汗をかくとか、急に寒くなると鳥肌が立つとかいうように、身体の機能の一部として研究の対象にしているってことだよ。」



          †



 人は褒められると嬉しくなって、褒めてくれた人物へ好意を持つ。これは実は"心理的な反応"ではないそうです。嬉しいという快楽刺激をくれる対象だという認識から"この人には警戒しなくて良い"という判断がなされ、脳の扁桃体が反応して緊張状態を作るホルモンが抑制されるから。つまりは"物理的"なものなんですな。一方、特にオバさんに多い、褒められると嬉しいクセに何故だか相手を軽くはた叩いてしまうという行動は、慎ましやかにあれとされ続けて来た日本人女性にだけ見られる"心理的"なもので、照れを誤間化し、尚且つ、好いたらしいお方にさりげなく触るという行動の変形されたものなのだとか。このように、心理と物理の間には結構複雑な区別があったりするのだ、お客さん。
おいおい こういったものがどうして『工学』に結びつくのかというと、そこが科学者の目の付けどころというやつで、何らかの形で応用出来るものがおいおい出てくるだろうから。おいおい これではあまりにも無責任すぎるので具体的なものを挙げるなら…例えば人間工学なんて学問では、何に必要なんだか人間の"反射"なんか調べてみたりする。切手より小さめくらいの大きさの同じ形のマークが幾つか散らばった図が次々とアトランダムに出てくるTV画面を見ながら、色違いはどれか、もしくは向きが違っているのはどれかを素早く探し出すというゲームを数十人かのモニターに試してもらって、そこから"瞬発的な反射に於ける脳波の状態"なんかを調べて、操作盤をどういうデザインにすれば操作ミスが少なくなるかというような製品の機能向上に役立てる訳である。この実験の場合、色を見分ける反射の方が脳の働きは少しで済むと判れば、操作盤のスイッチのボタンは形より色を変えることで区別した方がよりミスは少なかろう…という具合に使えるのである。判ったかな?こらこら 効率を考えるとあまり機能的とは思えない"二足歩行のロボット"を相変わらず研究し続けているのだって、それを産業上の人間の代替物として使いたいというよりも、人間の体の機能の追及として…のことだとか。学問というのは相変わらずに奥が深い。



          †



 いきなり余談が挟まりまくっておりますが。判りやすい言い回しに直してくれたシェスター博士は、若々しいかんばせ顔容をやわらかくほころばせて更なる解説を続けた。
「此処で扱っているのが"そういうコンセプト"だからってこともあるけど、内容的にはあまり意味はないとするのが最近の定説だね。つまり…起きてる間に酷使された脳の"配線"を修正したり微調整を施したりする睡眠中に、それらの余波が引き起こす感覚なんだろうって事で落ち着いてるんだよ。」
 夢は右脳で見る…のだそうで、論理の左脳、直感の右脳のあの"右脳"。例えば、どんなに"見るぞ"という意識をし集中していても、ほんの一瞥から拾える"情報"には限りがある。どれほど把握出来るかという点には"集中力の差"という個人差も関与するが、大抵は必要のない情報は選別を受けて切り捨てられているからで、とんでもない騒音の中で会話出来たり、パーティー会場のただ中でさほど大きくない声での呼びかけを聞き分けられたりするのも、その作用が働くせい。この"知的判断"の能力を備えさせて、作業効率と最適性を高めようと開発された新世代コンピューターが「人工知能AI」である…というのは『第四話』の完結編のどさくさに紛れてご説明申し上げておりますので、よろしければそちらをご参照くださるとありがたい。
おいおい こうして考えると、人間の融通って凄い能力だとも思うんですが、当然のことながらそれなりに不器用でもある。そんな作用が働いて取り込んだ"情報"だが、実は意識して把握したもの以外にも吸収しているのを御存知かな? とある場面への一瞥から…本人はその中の一部しか覚えてはいないと感じるのだが、実を言えば選別から弾かれた部分も一切合切、一緒くたにして吸収してたりするのだよ、お客さん。こらこら 勿論、目的があって把握した訳ではない…もしくは拾い損ねたと思っている"情報"の方は、きっちり整理&管理する必要はなかろうという扱いをされるので、ラベルも付けられず、本人にすら思い出せない代物になってしまうのだが、催眠術を使ったりすることでより鮮明に引き出せる場合がある。制御可能な感知能力により意識して把握したものにくっついて来たオマケ…漠然と捉えた情報も、一応は脳の記憶層へ整理・格納されるから。
それら全ての莫大な体感情報を取り込む大脳の活動は、通常は睡眠中に行われている。主にレム睡眠時に見られるこの活動は、脳の中心の古い皮質の"橋"という部位から表面の大脳新皮質へ強い電気信号が発射される形で行われ、この信号は記憶を司る組織へも走る。この時に最も新しい体験や学習で得た一時的な"記憶"が、それらを直接読み取った古い皮質の回路から新皮質の記憶層へ書き写され、そちらでずっと記録される"メモリー記憶"となる。この信号…つまりは刺激なのだが、これは眠っている間の活動なのだから意識に制御されないため、正常な感応ではない"でたらめ"な刺激。夢の筋書きが奇妙なものになるのはその"でたらめ"のせいなのだそうだ。
「判りやすく言うなら…人の脳をとっても大きな書庫や図書館だと仮定する。そこにはその人の体験や知識という"記憶"が、その人ならではの整理をされて詰まってる。50音順な人もいればアルファベット順の人もいるだろうし、趣味優先にしている人もいれば、全部横向けに積んで詰め込んでるような人だとかもいるだろうからね。」
 それこそ人の数だけ、千差万別というところだろうか。
「一日の活動の中で、必要があって思い出すものがあったり新しく知ったことがあったりする度に、その書庫から関連する情報を引っ張り出したり、新しいものに差し替えたりする訳なんだけど、それらは"覚えておこう"と意識したものだけじゃないんだ。目を覚ました途端に動き始める無人カメラで、延々と録画し続けてるようなものだと思ってくれればいい。」
 勿論、見るだけでなく、聞こえる、触れるという方面の知覚でも同じことが行われている。
「そういう訳で、次から次へと入ってくる情報のチェックを連綿とこなしているのだから、書庫の中では…机の上にファイルが開きっ放しになってたり、とりあえずのメモだけが走り書きされてるだけだったりする。その散らかりようを整理するのが、眠っている間なんだよ。」




          †



 心身共に疲労が溜まると、血液が酸欠状態になるため"眠り"すなわち"休息"を身体が欲する状態になる。特に脳は身体全体の二割という大量の酸素を使う場所で、年を取ると血管の内側が狭くなって酸素と栄養の供給が途絶え、細胞は死んでしまうのだが、脳の神経細胞は傷ついても再生しない。記憶に重要な働きをする"海馬"は、酸素不足に極めて弱い細胞から作られているため、年を取ると一番に神経細胞が減る。そのため、情報が通りにくくなり、記憶力も落ちるのだそうで、思い出しにくくなるのも同じ理由からだそうだ。ところで…眠りには"酸素量の変化"の他に、脳内物質メラトニンの働きも大いに関係するのだそうで、体内時計を整える効能を持つこの物質が純粋抽出されたなら、副作用のない睡眠薬として通用する。そこで、スイスやアメリカ、日本でも研究中だそうである。この成分が沢山含まれている食品がトウモロコシで、寝付きの悪い方は1日1本分のトウモロコシを、胚芽の部分もしっかりと食べることをお勧めします。



          †



 またまた話が逸れましたな。記憶の整理は眠っている時に行われる…って話をしてたんでしたっけ。
「ところが、あまりにインパクトが大きかったものや、どうしても納得が行かず"未処理だ"と意識したもの、また…日頃と比べものにならないくらい膨大な体験を得た時なんかは、無意識界でのそういう処理がひょこっと意識界の方にはみ出したりもする。そのタイミングがレム睡眠の状態…浅い眠りとかち合った場合、そういう拍子にちらりと見えたものが"夢"として意識の方に残ってしまうってことさ。」
 スクラップは後でするとして今はとりあえず丸ごと取っとこう…と構えると、古新聞ってあっと言う間に溜まってしまうんですよね。
おいおい 相変わらずちょいと乱暴かも知れないが、眠るというのは一種の"意識不明"状態だ。その無意識の内に脳の該当ファイルへ処理されている途中の情報や体感の断片や、その際の電位刺激が、レム睡眠という段階の…脳の"意識"を受け持つ神経が目覚め掛けたところへチラホラよぎって「夢」として感知されるのではないか…というのが、シェスター博士の語る"今時の定説"ということなのだろう。単純作業などでどっぷり疲れた場合や、ずっと考え込んでいたものが解消した反動などで深く深く眠った時に欠片かけらほども夢を見ないのも、レム睡眠という状態が少ないか、あっても錯綜する情報がはみ出していないから…という訳だ。また、夢の中の色はおおむねグレーだが、脳神経をよく使う人ほど"色つき・音つき・感触つき"という鮮明な夢を観る場合が多いそうで、鮮明であればあるほど"好奇心の強さの現れ"というのも、先の理屈から言えば納得がいくというもの。ここまで書いて来て何だが…夢はよく見るけど起きたらすぐ忘れるというのは頭の回線が極めて良好な証拠だそうな。という事は、こんなことを論じるのは一種の不健康自慢なのかも知れない。今頃そう思ってしまった亨は、相変わらず色んな笑える夢を見ております。(それからこれは余談の余談。寝言は夢とは関係ないのだそうで、口にする言葉も深層心理云々とは関係ないのだとか。単なるストレスの発散行動なので、無理にやめさせず放っておくのが一番だそうです。うるさくて傍で寝られないから困るという場合は…ストレスを減らしてあげるしか方法はありませんな。)
「けど…いくら意味はないって言われても、ドラマみたいにちゃんと筋書きがあったりするじゃないか。」
 ですよねぇ。亨も時々凄んごく笑える夢を見て朝っぱらからケラケラ笑ったり、いやにリアルなドラマ仕立ての夢にどっぷり疲れてドキドキしたりしておりますが。
「いかにも"いつか起こりそうなこと"とか"実はそうなるように願ってること"みたいだもの。意味は無いなんて言われたってやっぱり気になるよ。」
 そう言って唇を尖らせる岬だが、
「それは人間の性分から来るものさ。」
 Dr.シェスターはまたまたケロリと応じてくれた。
「"類推"っていって、ものの名前や輪郭なんていう小さな切っ掛けやヒントから、全体像や色、質感なんかのイメージを一瞬でパァッと想起するように、もしくは…一枚の絵から、その情景イメージに至るまでの物語を練り上げてしまうように、人間は何にでも辻褄を合わせようとする習性がある。これって何だろうっていう曖昧なもののままにしとけなくって、状況把握のために筋道をつけることで、自分を手っ取り早く納得させて安心するためだろうね。」
 クイズ番組なぞで、目だけ口許だけのフリップから"さあ誰でしょう?"と当てさせるゲームがあったりするのも、人間のこういう能力に着目してのこと。抽象画や前衛芸術を何とか理解しようと、無理から筋立てをひねくり考えようとする癖のある亨なんかは、その伝でいくと結構"論理派"なのかも知んないわね。
う〜ん、う〜ん そういう"辻褄合わせ"の最たるものが、自然界の色んな法則でしょうかね。そういうところから始まったのが文明なのかも知れませんが、そんなもんを発見してくれた先人たちのお陰様で、学生時代はいい迷惑こいた人も多かろう。こらこら(汗)
「じゃあ、見えた情報を勝手につないで夢に"ストーリー"があるように錯覚してしまうんだ。」
 やっと納得がいった顔になった岬へ、Dr.シェスターは にっこりと微笑って見せた。
「そういうこと。その情報…ちらっと見えた"断片"にしたって、同じような感触のものを自分の知識や記憶の中から勝手に掘り返して持って来てたりするんだからね。だから、夢自体…何が出て来るどんな場面かなんてのはさほど重要な意味は無い。それよりも、どういう筋立てや展開になっていたのかという点にこそ、その人の物の考え方だとか心理状態が映し出されていたりする。だから…そうだね、そうなって欲しいことの現れじゃないかって思ったり、先々でそうなる予感みたいで怖いって解釈するのはお薦め出来ないけれど、夢の脚色の方向性には、その人の性格や素顔が出るのかも知れないね。」
 つまり、結婚式の夢を見たから"結婚願望がある"というのではなくて、そのシーンを幸せなものとして捉えるか、それとも"冗談じゃないっ"とばかりの逃避行動に走るかどうか。そこから次のお題への流れをどう繋いで辻褄をつけるかが重要だって事でして、こういう研究は心理学方面でホントにやってます。ちなみに…今回は関係ないとした精神分析の世界での「夢」は"理性に抑圧されたものが解放されて発散されている状態"とする説もある。これって随分以前の…確か『第三話』の終盤、シュナイダー博士と森崎くんの会見デート辺りで持ち出したかなと記憶しているんだが…人間はその自己を確立するにあたって本能イドと自我エゴ(と超自我)とのバランスを必要とする。ところが、途轍もなく複雑な環境の中に居たり、抑圧された生活により形成された自我だったりすると、その支配下に整然と管理出来ない…恥や屈辱、不安などといった、自分にとって都合の悪い感情や欲求というものの生じ方が尋常でなかったりする。(ex,偏りから来る経験不足のせいで、そのくらいのことでキレるか?というような規格外の反応になったり。) それらは「早く忘れたい、無かった事にしたい」と否定され、大概は"無意識"の世界に押し込められる。ところが、それがあまりにも多すぎると、何かの拍子に夢や空想として流れ出し、ひどい場合には起きてる"意識"まで跳ね飛ばして「白昼夢」という妄想になって現れたりもするそうな。そうそうおおらかでは居られない立場な人も、せめて夜くらいはぐっすり眠って夢を見ることで発散させなきゃいけないってことですのな。
「眠るってのは大切なことだからね。」
 目がしょぼついたり反射が鈍くなったり、軽い酸欠状態になって欠伸が出たり。これらの"眠くなる"状態は、先に余談で触れた催眠物質が分泌されて起きるくらいだからよく出来ている。また、子供の成長ホルモンが分泌されるのは眠るっている間なのだそうで、寝る子は育つってのは単なる諺じゃなかったんですのな。 そんな風に"睡眠"には休養とは別の働きもあって、心身の微調整、すなわち"身体のメンテナンス"をするのも忘れてはならない効果の一つ。例えば、寝相が悪いのは身体が楽な姿勢を無意識のうちに取るためで、睡眠中は筋肉や関節の緊張が無くなるので、その間に歪みが調整されるという。
「何なら安眠術のレクチャーもしましょうか?」
 にっこり微笑うDr.シェスターだが、
「いや、それよりも…。」
 ジノがやっとこ気を取り直した。そうだね、随分と話が脇道に逸れている。
「夢を操作する、なんて事が実際に出来るもんなんですかね?」
 ピエールの髪に仄かに残っていた、クセのある人工的な香り。香りによるリラクゼーションというのが持て囃された時期があり、ハーブによるフレーバー・コントロールは今でも東洋医学の漢方と並ぶ"ナチュラル・ヒーリング"として脚光を浴びている。例えばラベンダーの香りに神経への沈静作用があるとか、逆に柑橘系の香りには活気を出す作用があるとかいうのは皆さんも御存知な筈。このように"香り"は味覚と同様に人間の本能反射だけでなく、意欲や感情にも密接に関係する要素として近年注目されつつある。金木犀の香りがトイレ、ジャスミンの香りがお風呂のイメージとして日本人の鼻に染みついちゃったのは、ちょっと気の毒ですが。(金木犀は好きだったのに…シャル○ンのバカ(怒)) こういう香水とは少々趣きが異なるが、日本古来の"薫香"は百済から伝えられたもので、沈香、白檀、桂皮、丁字、乳香、龍脳などという香料が有名。正倉院には「蘭麝待らんじゃたい」という銘木が奉納されている。…それはともかく。
「奇妙な…それも人為的な香りという遺留品がある以上、自然な夢見とは思えないんですがね。」
「う…ん。今も言ったように、夢の内容には意味なんて無いからねぇ。 脳が何を見るかは、その日の体験やその人個人の知識・経験によってまちまちだし、何と言っても有機的な反応だから、機械のようにこうすればこういう結果になるというマニュアルを敷けない。」
 そういう方向へは遺憾ながらまだ研究も進んではいないらしく、シェスター博士も言葉を濁しがちになる。
「香りを使ったっていうのが、何かしらの"刷り込み"を狙ったものかもって考え方も出来なかないけれど、そういうのになるとプライベートな面での下調べが必要なことだしねぇ。」
 インパクトの強い体験をした時に体感した香りが後々までトラウマにまといつくというのはよく聞くが、そんなものを調べるのはよほど身近な身内でもない限り容易なことではない。
"もっと容易たやすい"搦からめ手"を使われたと、考えるべきだろうしな。"
 …ちょっと待って下さいな、ジノさん。人為的な仕掛けだとして、一体何を警戒してらっしゃるの?


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