君のために 出来ること 〜明日の話をしましょうか B
 

 

   
第一章  ナイト・メア 〜nightmare



       
V



 旧約聖書 創世記11の7〜バベルの塔

  神 下り来たまいて、人々の言葉を通じざらしむ

 ノアの洪水の後、もう二度と洪水では人を滅ぼさないという神との契約をなしたノアの子・セムの子孫がシヌアル(バビロニア)にやって来て、それまでの天幕生活を捨て、煉瓦を焼いて石の住居を築きます。中でもジグラトの高い高い塔は"神の門(この地方の言葉でバベルBabel)"として一族の反映を象徴するもの。契約の民だというのに、神を崇める祭壇ではなく自分たちの名前を知らしめるものを建て、散り散りにされないように町を築いて、自分たちの行く末さえも勝手に決める。人間たちのそんな傲慢さをご覧になった神は、彼らが一つの言葉によって団結しているため、それを混乱(balal)させて通じないようにするだけで彼らの団結を解き、その野望を突き崩して散り散りにさせました。


   〜この下りは、欧州の各国語の違いを指しているとも言われている。





          ◇



 とりあえず、ピエールとジノの私室を調べてみたところ、夜な夜などこからともなく特殊な波長の音…音波が探知されるという結果が出た。
「数値や成分的には微妙に違う音だな。」
 リビングルームの一角にて、巻物のような長い長い波形図のペーパーを見比べていたピエールが小首を傾げる。
「音波を発してる装置を設置した場所からの距離や、途中にある干渉物っていう条件が違うからだろうさ。」
 他人の夢を自在に操作するのはまず困難なことだろうと Dr.シェスターは仰せだったが、もう一つだけ可能かも知れない要素があると気がついた。催眠療法、若しくは催眠学習法というのは、皆さんも一度くらいはお聞きになったことがお在りだろう。…え? このシリーズにも出て来てた? あ・そうそう。 ハジメちゃんや岬くんが年齢相応な一般常識を身につけるのにお世話になった"睡眠学習機"というのがありましたよね。脳の活動に影響を与えるα波やβ波をより多く生じさせるような音楽や効果音を聞いたり、もっと単純に…暗記しなくちゃならないことを眠ってる間にお経のように延々と囁き続けたり。そういう形での"外部からの干渉"が行われていれば? これに関してはどこかで既に答えを書いたように思うんだが、実際にこの方法で何かを暗記するのはまず無理だそうな。録音スイッチが入っていないプレイヤーに音を聞かせるよなもんで、意識が寝ている身には最初の段階である"覚える"という機能が働かないからだ。だが、微妙な刺激という形で働きかけて、相手の想定通りではないにせよ、他人の夢を故意に歪めることが可能かもしれないと考えた彼らなのである。けど…くどいようだが、何をまた真剣に取り組んでらっしゃるんだろうか。任務でもない単なる"夢"のことだのに。
「やっぱり嫌なもんじゃないですか。得体の知れない仕掛けや工作が、それも寝ている隙をつくようになされてるなんて。」
 そりゃそうだけども。
「それに、あの二人が検診を受けてる間は暇なんですよ、私たちはね。」
 若島津と岬が受けているのは数日間かけてのいわゆる"人間ドック"みたいなもの。促成栽培された身の上な彼らには
おいおい成長にかかわるホルモン調整やらに何かとフォローも必要だろうし、加えて言うなら彼らには特別な能力も備わっているため、それが人体に及ぼす影響というものも細かくチェックされている。とはいえ、
「終わったよん♪」
 それほどあちこち執拗にいじくり回される訳ではなく、診察や検査も午前中だけというのんびりしたもの。半分は休暇のような滞在でもある。診察室のある棟からパタパタ…っと戻って来た岬がさっそくのようにまとわりつくのを、こちらも慣れたもので"はいはい"とじゃらしているピエールの傍、
「何か判ったのか?」
 手首に残った医療用サージカル・テープを剥がしながら若島津が覗き込んだ波形図の数ヶ所を、とんとん…と指先で示してやり、
「微妙な周期でね、おかしな音が検知されたよ。」
 ジノが解説をつけてやる。任務ではないが、まあたまには…こういう日常上での奇妙な事態の収拾にあたるのも一興というところだろうか。
「これって"聞こえる音"なのか?」
「いいや。低周波や高周波の部類だね。延々聞いてたら体調や何やにも影響が出るんだろうが、ほら…ぽつりぽつりと信号音みたいに時々発してるって代物だ。」
 ところどころで上がったり下がったりしている波形を指先で辿ってみていた若島津は、細い眉を怪訝そうに顰めて小首を傾げた。
「何かしら悪い幽体の霊障ってやつではなさそうだね。」
 おいおい。科学的な検証をしとるんじゃなかったんかい。
「おや。そうは仰有いますが、そうそう論外にしといて良いもんでもないんですよ?」
 そぉお?
「日本州ほど先進の科学が進んでる国だって土地神へのご挨拶を忘れないじゃないですか。新しい施設を作る際には必ず起工式の中でお祓いをするし。」
 まあね。亨が"おいおい"と思ったのは、01年だったか高知でゴミ処理実験用の熔融炉が完成した時、その火入れ式でやはり神主さんがお祓いをしていて、しかも熔融炉には細いものながらしめ繩が張られていたんですな。ニュースで映像を観た時は"最新の施設で何をしているやら…"とも思ったんですが、地震だ台風だと自然災害が多い日本、事故が起きませんようにという願いは無下には出来ない。ま、それはともかく…霊の仕業じゃないとしたら?
「何かの機械の稼働音とか?」
「どうだろう。何か増やしたなら増やしたで、こういう音や何かもチェックする筈なんだがね。」
 くどいようだが、此処は数々の研究が24時間態勢で行われている先進科学の不夜城。よって環境保持にも殊更に気を遣っており、温度湿度や日照、気圧、果ては空気成分に部屋の水平度や地磁気に至るまで、かなり綿密に一定の条件を保つよう管理されている。実験の結果が偏ったり設置されている様々な精密な機器が狂っては一大事だからで、なればこそ…いくら実験棟ではないにせよ、人体に影響しそうなややこしい周波数の振動や音が出る代物にも、それなりのチェックがなされている筈なのだが。





          ◇



 今度は"音と生態"ということで、お懐かしやのデューター=ミュラー氏の研究書を紐解いてみる。今回はいつにも増してお勉強づいてますねぇ。
「人が言葉を使いこなすほどではないが、動物たちも求愛、警戒、威嚇などのメッセージを含んだ独特の波長で鳴くことで、彼らなりのコミュニケーションを取るそうだ。」
 会話よりも単純に…縄張りを守るためだとか、異性の気を惹くためだとかに使われている鳴き声。
「けど…野性に"他へ救援を求める"って認識が果たしてあるもんだろうか?」
 種の保存という大前提の下に、強いものだけが生き残るのが、かのダーウィンが説いた"自然淘汰"の原理。これは余談だが、人間がすさまじく長寿なのは"老い"てなお生き延びられる"助け合い"が行き届いた社会にいるからだ。たとえ体力的に不自由になっても、労働と引き換えに出来る蓄えがあれば生きてゆけるシステムが整っているし、物理的な財産ばかりではなく、知識や人徳、縁故という人間ならではの財産も有効。それより何より…個々の繋がりに愛や情という"絶対無敵な感情"による強い絆が結ばれている。それに引き換え、自然界では自分で餌を採れなくなったらそれでもう死を待つしかなくなる。体力だけではなく、視聴嗅覚などという五感の一つでも衰えれば、それだけで他に狩られたり飢えたりする。動物園に居るのでない限り、野生の動物たちに"老衰死"という言葉はない。あったとしたなら、よほど逞しく賢く、ついでに運も良かった特別な個体だったということなのだろう。
それはともかく…百歩譲って"危険"を知らせる合図ならばあるだろう。もう二百歩ほど譲って"断末魔の悲鳴"というのもあるだろう。だが、
「"救援求む"なんてのは、百万歩以上譲ったとしても…一歩間違えれば自分の種を滅ぼしかねない情報だからなぁ。」
 ですよねぇ。
「でも、ボスザルは弱い者が苛められてると苛めてる方を追い回してやめさせるっていうじゃない。」
 おや、岬くん。変なことを知ってますねぇ。
「昨夜の"うきうき動物ランド"でやってたもの。」
 おいおい@
「それは群れの秩序を守るためのことだぞ?」
「けど、助けてくれっていう声を出すからそうだと気づくんでしょ?
 群れ全体をそうそういつもいつも満遍なく見てらんない筈だもの。」
「う〜ん、どうだろなぁ。」
「見たままから判断するんじゃないのかねぇ。」
 お子様の意見だからと無下に否定出来ない部分があって、大人たちがついつい唸ってしまった。
「だけど偉いよねぇ。弱い仲間はちゃんと守るって。」
「そうだね。共食いをする種はそうは居ないんだし、そうなると同族の中でどっちが強いかっていう優位を誇示するって意味での勝負の相手に、わざわざ格下の相手を選ぶのは理屈がおかしい。要は"一対一"で負けないってのが彼らの世界での"強さ"なんだから、狩りをする方法としてのもの以外では、寄ってたかっての"苛め"なんてものはないんだろうね。」
 感心するのはいいけれど…論点がズレとるぞ、あんたたち。仲間たちにまで巻き添えを食わせるような"助けを求める"というような情報を流すものだろうか? という話をしてたんじゃなかったの?
「やはり警戒音が限度だろうな。もしくは"生き延びたい"とする悲鳴の変形ってトコなんじゃないのかな。相手が辟易してくれたらラッキー…ってね。」
 そんなお軽く…。
「生き物の行動は例外なく生命存続への執着が一番優先されるもんですよ。第一、そうでなきゃ生まれて来た意味が本末転倒してしまうでしょう? 危機に見舞われたり、あるいは死に際にあたって見るという"人生の走馬灯"だって、これまで生きて来た中に今現在の窮地を救う手立てがないかを、無意識下で脳の中を引っ掻き回して必死で探すために起こる反応だっていう説がありますからねぇ。」
 そりゃまあ、そうでしょうが…。
「ほら…ここにある。」
 研究書の中、とある一節を指でなぞり、
「警戒音を出す行為は人間の本能にも残ってるそうだぞ。」
 ピエールが皆の注意を招いた。
「いきなり驚かされた時なんかに"うわっ"とか"きゃっ"とかって声を上げるだろう?
 あれがそうらしい。悲鳴の波長ってのが、どんな小声でも結構耳に入るのもその名残りなんだそうだ。」
 まあ…そっちは、所謂『自然淘汰』でいうところの"甲高い悲鳴を上げた方が多く生き残った"って形の結果論になるのかも知れませんけどもね。ちなみに高い声、すなわち波長の短い音の方が遠くまで届くそうで、また、人間の耳は低い声は拾いにくいんだとか。上手いこと出来てるもんです、はい。(犬の躾けなどには男の人の低い声の方が効果的なのも、耳のいい犬には、高い声でキンキンと叱ったりすると、警戒音に近いせいでむやみに興奮させてしまって訓練にならないからだそうな。)
 *悲鳴には他にも、緊張や恐怖からくるプレッシャーを外へ吐き出す作用がある。声を出すという行為には脳の制御による抑制を解放し、緊張からの弛緩を促すという効用があって、このシリーズ内でも以前(『第四話・完結編』59頁)に"随意筋の限界を緩めて実力以上の力を出せる"とご紹介したことがあったような。(人間の筋力は"火事場の馬鹿力"こそが実は本当の最大筋力で、日頃は60%を臨界とするように制御されている。大声を出せば筋力は20%アップするので、痴漢に遭ったらサイレン並みの悲鳴を上げての抵抗を是非ともお勧めします。
こらこら
よって、B級ホラー映画を観たり、遊園地の絶叫マシンに乗って大声を出すことがストレス解消になるというのは、あながち出鱈目な宣伝文句ではない。ただし、こういうものは香辛料と同じで、もっともっとと貪欲に過激なものを求めていると、しまいには感受性が麻痺してしまって…怖いことになるのでご注意下さい。………またまた話が逸れたな。警戒音ならともかく、助けてくれという波長は果たして存在するのか? でしたよね。
「そうだな…例えば動物の仔の鳴き声は、別な種族の保護本能にまで訴えかける波長をしている。ほら、狼が人間の女の子を二人も育てたって話があるだろう?」
 ディズニー・アニメ『バンダーブック』の下敷きになり、日本のアニメ『狼少年ケン』のヒントにもなった実話だ。インドの密林で赤ちゃんが二人前後して行方不明になり、数年後、狼の群れの中で生活しているのが保護されたというもので、彼女たちはまるきり狼の生態を身につけていたという。
「生まれてからさほど日の経たない仔犬や仔猫の声を聞いたことがあるかい? それで精一杯なんだろうに、声にならないくらい弱々しくってね。寒くて震えてるみたいに喉の奥を震わせて、糸のような声で"クーンキューン"と鳴くんだよ。これを聞いたら…よほどの動物嫌いでもない限り、放っとけなくてついつい手を伸ばしてしまうよ。」
 これもまた、学問的な分析をするなら"弱いものなりの防衛手段"というものなのだろうと思われる。何しろ、自力では到底生き延びられない段階だ。
「…じゃあ、そういう音が聞こえてくるの? ピエールの部屋には。」
「う〜ん…。」
 何しろ本人には覚えがないこと。そういう仕掛けをされたから見た夢だとは今の今まで判らなかったからこそこうやって調べているのだし、
「こういうデータを集めてるデータベースがあるかも知れないね。」
 その場に座したままでこうまで色々と調べられるとは、いい世の中になったなぁ。インターネットへ接続するべく、手近な端末機を準備する若島津の手際を眺めつつ、
「それにしても…。」
 そう。それにしても、だ。一体誰が何故、そして"どうやって"そんな細工を施したのだろうか。一応、三杉や営繕担当のヘルマン=カルツ氏に(覚えてるかなぁ?)訊いてみたのだが、新しい設備を増やした覚えはないそうで、
〈ゼロや森崎さんが居る間に増やす防犯装置の数々も、彼らが見事に出て行けばイコール"失敗作"ってことだからってんで、とっとと取り外すしねぇ。〉
 …そうでした。そういう種のお茶目も時々やっとったんでした、この人たちは。
「この所内にそうそう簡単に潜入出来るとも思えないんだがな。」
 ジノが呟く傍らで、
「やっぱりただの機械の音じゃないの?」
 岬がキョトンと小首を傾げて見せる。よほど意識して設計された部屋でもない限り、音は幾らだってあふれているのだし、研究施設の集中するエリアでもない生活棟。こうまで調べておいて言うのもなんだが、単なる雑音の一種なのかも知れない。
「それならそれで、とっとと外すなり改善するなりしないと、
 いつまでもピエールが寝不足なままってことになっちまうぞ?」
「う…ん。」
 それだとやっぱり困るよねと、自分のナビゲイター氏の顔を伺い見て首をすくめた。そんな岬がふと顔を上げ、
「じゃあさ、ジノはどんな夢を見たの?」
 どの辺が"じゃあさ"なんだか、よく判らん繋がり方だが、この一言には…ノートパソコンとコードレス・フォンへの接続用ケーブルを棚から降ろして来た若島津も、参考にしていた文献を重ねて片付けかけていたピエールも、思わずその手を止めたくらいだから…相変わらずどういう把握をされている人なんだか。そして、当のご本人の回答はというと、
「………こらこら、どうして赤くなるんだ。」
 おいおい、ジノさん。意味なく頬を赤らめてどうするね。
"一体どんな夢を見てたんだろう。"
 あんたたちも怖がってどうする@ お約束の冗談はともかく、
「そうだねぇ…ここんとこ忙しかったから、あまり見ちゃいないねぇ。」
 ご本人の答えはあっけらかんとしたもの。
「けど、うるさかったって言ってたじゃないか。」
 これこれ、健ちゃん。 人の尻馬に乗るもんじゃありませんて。
「ああ。なんだかムズムズするような気がしてうるさかった。だから、それを気にしていられないくらいの限界になって、やっとすとんと眠るような、夢なんて見ない寝方をしてたんじゃないのかな。」
 澄ました顔で綴られたこのお言葉が真実のホントであったことが証明されることとなったのが、翌日の騒動の突端に出たというのだから、なかなか穿った話だったりする…と自分で言っててどーすんだか。…そう。久々に任務から離れて至って呑気な様子でいた彼らと研究所を襲った、とある事件が出来したのである。




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