ES細胞
  「全能性」か「多能性」か、再生医療が私たちに問いかけるもの

7. 「ぞっとする」感情

 こうした議論を通じて私が感じたことですが、医学側、科学側あるいは産業化を含めて、それを推進する方向からは、「これによって人が助かる」、つまりこの研究の有用性ということですすめます。
 

  これに対して、なんかこれは変だぞ、おぞましいぞ、人によれば天罰があたるぞ、そういう形でしか言えない一般の立場からは、それをどういう風に理論にして示したらいいかと問われます。一つは人権からという観点。しかし、人権というものは、人権を主張できる立場、あるいは人権を代弁できる人がいることが条件になりますから、人権ということですべて生命倫理の問題に答えられるとは思えない。もう一つ宗教の立場というものがありますが、これは特定の信仰を深くもっていない側からみると、これは納得のいく論議にはなっていかないと思います。
 

  社会学者であり僧侶でもある大村英昭氏は、かつて臓器移植の問題のとき「我々はいまこそ、『役立つものは使うのが当然』とする功利性の観点からではなく、『ぞっとする』という『感情の権利』を優先させるべきときにきているのではあるまいか」と、述べています。理論的に是か非かがでてくるものではなく、人が生き延びるためにはそこまでやるのかという、誰もが本来もっている素朴な感情から起こる違和感を大事にすることから、議論を出発していきたいと思います。
 

  その意味で、特定の信仰の立場を超えて一般的に受け入れられるものとして大本教の生命操作批判文章を紹介しておきます。

  「人として活きいきと卵割をすすめている受精卵(初期胚)の内部を破壊してES細胞をつくり、これをモノとしてさまざまな実験を加えるのである。実験はきわめて多様で、マウスに実施されると同様に、殺したり、薬品づけにしたり、奇形化したり、キメラ(異種の動物と混合する)化したり、果てしない実験が加えられる。これは一個の生命の破壊というのみでなく、生命の加工であり、人体実験であって、とても許される行為とは思えない。」(『ヒトES細胞研究は容認できるか』)
 

  世界には多くの苦しみや悩みがあります。とりわけ貧困というたいへん重要な問題があり、そこで必要とされている医療があります。しかし、そこにはお金がいかないで、先進国の贅沢な医療にますます投資が行なわれようとしている。   
 

  臓器移植の時、もしかしたら発展途上国の子どもが誘拐され臓器提供者になっていないかという不安が起こったように、医療の体制や医療産業の拡大は、そういう負の面をますます拡大していかないだろうか。
 

  再生医療の明るい面だけがいわれていますが、そこには、人の欲望の充足に広く適用される危険性があります。又、技術の安全性ということも問題です。昔は、自然に流産して生まれなかった子どもも、いまは生まれるようになりました。自然淘汰されるはずだったものがされなくなって、世代が重なっていくとどうなるのか。非常に危惧されます。

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