医療は地域文化-医療と仏教-(2)

田畑正久 (佐藤第二病院医師) 

●唯物論的な科学的思考と還元主義

戦後生まれの私たち団塊の世代は、戦後教育の申し子です。少し荒っぽく言えば、見えるものだけが確かだ、脳の活動を含めて、生き物の活動はすべて原子・元素の動きに還元される、というような教育を受けてきたように思います。医学も、理科系の分野ということで、いつの間にか「死んでしまえばおしまい」「死後の世界は無い」という死生観に、どっぷりとつかっていたのです。

 生きている時間がすべてだ、という思いが「生きている時間を延ばすことが善だ」という考えに結びつき、延命を錦の御旗の如くに掲げて、自然に近い、老衰による死をも認めないような雰囲気が病院を包んでいたのです。

「老衰という死亡診断書はよくない」という言い方もされていました。

 病気を治癒に導くために、治癒可能な病気についての診断、治療の知見は積み重ねられてきました。しかし、病気によって死ぬことや、老衰に近い形で死ぬことは、医学の敗北であったり、恥ずべき部分か暗部であり、その過程への関心は少なく、その知見の積み重ねは、ほとんどなかったように思われます。

まして、医療関係者で囲まれた密室に近い病院での対応は、他者の介在を許さないような場所となり、医療関係者の独り善がりな対応で、事は足りているということになっていました。

 医学教育や医療研修の中でなされる教育は、病歴を聞き、診察、検査、診断、治療という課程が主でした。しかし、治癒できない患者や死に臨んだ患者に、どう対応するのかという分野はあまり関心をもたれず、医療関係者の個人的な経験や感性にまかされていました(「死の医学化」と言われるように、本来、医学が関わらなくてもよかった領域が、国民の八割が病院で死亡するという現実のなかで、死が医療の領域に取り込まれました。医療施設で、救命、延命の教育を受けてきた職員による対応で、死に対して適切な対応ができているかどうかという課題があるのです。

 ある識者はこの現状を、「医者の傲慢、坊主の怠慢」と指摘しています。つまり、医療が担当する領域が時代と共に変化して広がるなかで、かつてのおまかせ医療″の影響を引きずりながら、カバーできない領域まで抱え込んだため、不十分な対応にもかかわらず、医療当事者の「十分にできている」とする謙虚さのない姿勢に、「倣慢」という批判の言葉が出てきたのでしょう。また、旧態依然とした死後の葬祭を主任務とする宗教界の一面をみて、生きる人間を相手にした取り組みをしてほしい″との願いが、「怠慢」との言葉となっているのでしょう。


 
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