モザンビーク食糧増産援助(2KR)問題を追及

モザンビーク洪水被害者支援ネットワーク
代表  舩田クラーセン さやか

私たちモザンビーク洪水被害者支援ネットワークは、2000年2〜3月にモザンビークを襲った大洪水の被災者を支援する活動を行ってきました。

そんな私たちが食糧増産援助(通称2KR)の問題を知るきっかけとなったのは、大洪水に対する緊急援助として、日本政府がモザンビークに対して15億円相当の2KR援助を予定していることが判明したことに遡ります。

何も知らない私は、当初これほど巨額の援助が決定したことを非常に喜んでおりました。しかし、その後日本の2KRが問題のある援助であること、モザンビークに対しては15年間に渡り115億円もの2KR援助がなされてきたものの、その一部が放置されていたり在庫となって水に浸かっていたりと問題になっていることを知るようになりました。地域のレベルからモザンビーク史を研究する者として、農薬を中心とする大量の援助物資(毎年10億円近く)が、83年(到着は85年)から97年(到着は99年)まで「小農による食糧増産支援」のために送られていたと知るに至り、即座に「おかしい」と思い当たりました。


ご承知のとおり、モザンビークは長い武装解放闘争を戦って75年にようやく独立するのですが、77年に隣国の南ローデシア(現ジンバブエ)で結成された反政府武装勢力MNR(或いはレナモ)による「不安定化工作」により、92年の和平合意まで全土を巻き込む長く醜い紛争を経験することになります。特に、農村地帯(中部と北部)は焦土と化し、人口の1/3(450万人)が故郷を追われ、難民・避難民となりました。紛争と飢餓による死者は100万人にのぼります。特に、集団農場(国営農場)は、国の機関であるためにレナモの攻撃を受け、食糧生産はもとより生活をすることさえままならない状態に突入するのが、まさに日本の援助物資の到着する85年のことでした。

和平合意の後も、人々は国に戻ろうとせず、私が国連平和維持活動(ONUMOZ)の仕事でモザンビークに入った94年5月には、200万個とも言われた地雷の存在と長引いた戦争の傷跡がはっきりしており、農作以前に、まずは住民をどこにどうやって帰還させるのかという問題が生じていました。


勿論、モザンビークは大きな国ですし、農民というのはたくましいものです。戦争中も何らかの生産活動はなされていました。しかし、食糧さえ届かない、薬さえ届かない、子ども達の命さえ救えないような凄まじい状態の中で、果たして2KR物資が使われる現場である農村に、必要なものが必要なだけ、さらに必要な時期にタイムリーに届いていたのでしょうか。


また長年の搾取型植民地支配により、教育を受けた層が極僅かにしか育たなかったモザンビークで、農薬や化学肥料がどれだけ適切に使用されたのか、されなかったのかについては疑問が残ります。この「食糧増産援助」が小農による食糧生産支援を目的にしているにもかかわらず、モザンビークの大半を占める小農は外部投入財に頼らない農業生産を行ってきました。

そのことの是非はさておき、では誰がこれらの資材を使っていたのかという点については、現地の多くの人が綿花会社の利用を指摘しています。実際、日本政府もそのことを知った上で、「食糧増産援助」として大量の農薬等を供与してきたわけです。綿花会社さえも使わない農薬は、全国に置き去りにされ雨ざらしになってきました。このような未使用あるいは使用期限切れ農薬が、モザンビークには実に900トン以上も存在し、これを回収・処理する必要が生じています。この中に日本の供与分がいくら含まれているのかについては、現在も明らかになっておりません。同国に供与された農薬の半分程度は日本の供与分となるので、相当量だと推測されています。


これらの疑問については、昨年8月30日に田中眞紀子外相(当時)宛ての公開質問状を関西・南部アフリカネットワーク、JVC、ジュビリー九州と共同で外務省に提出しました。しかし、この質問状は担当官レベルに留まったまま調査はするが、いつ回答できるか分からない」という対応が続きました。その後、福島瑞穂参議院議員の協力を得て問い合わせをしたところ、ようやく文章での返事が確約されましたが、実際に回答文が出るまでに約束の倍の時間がかかりました。回答内容の問題点については私たちのコメントをご参照ください。


凄まじい規模の武力紛争にあえぐモザンビークに対して、現地調査もせず、フォローアップも技術教育もまったくなしに、何故大量の農薬を中心とする農業資機材が何年も垂れ流しになってきたのかという点については、やはり日本の援助のあり方が影響していると思います。去年、情報公開法を利用して請求した一連の資料からは、冷戦構造下においてフレリモ政権(89年までマルクス・レーニン主義を標榜)を西寄りに政策転換させるために日本が援助することになったことが伺えます。モザンビークを支援しなくて良かったと言うつもりはありませんが、では何故このような形の援助となったのかについては日本の商社の関わりも大きいようです。なにせ、モザンビークには日本の大使館は一昨年、2000年1月までなかったわけですから。


日本にいながらアフリカに関わる者として個人的に重要だと思うのは、これまで日本の対アフリカ援助について、モニターする市民団体が極めて少なかったことです。このような状態が、アフリカにおいて援助の質を問う体制を欠かせてきたのではないかと考えます。(94年にアジアでの2KRについて見直し機運があったのに、アフリカではそれが適応されなかった現実があります)


つい先日も第3回東京アフリカ開発会議(TICADIII)の閣僚会議が開催されましたが、残念ながら日本の市民の側の政策提言能力が非常に低いことが露呈されてしまました。巨額の税金を使った援助が、どのように使われているのか、アフリカの未来に本当に役に立っているのか、立っていないとしたらどうすれば良いのかといった問題について関わっていくことが求められているのではないかと思います。

1月に行われたアフガン支援の国際会議にしても、金額が一人歩きするのではなく本当に役に立つ復興支援とするために、NGOや国際機関との連携はもとより、平時におけるODAのあり方が十分に議論される必要があると痛感しています。ちなみに、アフガン支援のために2KRが検討される可能性は高く、私達としても注意深くフォローしていく必要があると考えています。


モザンビークへの2KRについて「今後の計画はない」と外務省は明言しましたが、問題はモザンビークだけではありません。他の国々に対する2KRの内容をチェックし、2KRという援助形態の「廃止を含めた見直し」を求めるため、私たちは「食糧増産援助を問うネットワーク」の設立を呼びかけました。

これまでの私たちの取り組みの中から、2KRの問題点を整理した文章や、過去の新聞記事、外務省への質問状と回答、などをまとめたました。昨年(2001年)12月に辻元清美衆議院議員が国会に提出した「食糧増産援助についての質問主意書」(政府の回答期限は3月4日)も収めました。

これらをお読みになり、2KRの問題を一緒に考えていただけるのでしたら、20002年2月24日に発足した「食糧増産援助を問うネットワーク」(略称2KRネット)に是非ご参加ください。メーリングリスト上のネットワークとして運営しております(連絡先:t-imai@tkc.att.ne.jp)。


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