ブルターニュ南部モルビアン県にあるジョスラン城は、オスト川を見下ろす岩盤の上に優雅な姿を見せています。中世時代の塔とルネッサンス様式の宮殿を見事に融合させたジョスラン城には、ヘンリー・テューダーではなく、1471年に14歳の若いヘンリーと共にブルターニュに亡命したヘンリーの叔父ジャスパー・テューダーが滞在していたことがあります。
自分が誕生する2ヶ月前に、投獄中にかかった赤痢が原因で父親を亡くしてしまったヘンリー・テューダーは、父の弟であり当時のイングランド国王ヘンリー6世の異父弟でもあったペンブルック伯ジャスパー・テューダーの保護の元で育ちました。ばら戦争の初期の頃(1455-1471)に兄王とランカスター家の忠臣として戦い抜いたジャスパーは、ブルターニュへの亡命が人生における最初の亡命生活ではありません。1461年にイングランドの王冠はランカスター家からヨーク家の手に移りますが、その後の彼の活躍には目を見張るばかりです。ランカスター家への支援を取りつけるためにフランス、スコットランド、ブルゴーニュ、ブルターニュなどを転々とし、時にはこっそりウェールズに潜伏して当地に残っていたランカスター派の者たちとヨーク派の軍を相手に徹底抗戦を続けたこともあります。戦の経験が浅かったヘンリーを軍事面で支えたのは、この不倒不屈の精神を持った経験豊かな叔父でした。
ブルターニュに亡命した当初は、ジャスパー・テューダーも甥のヘンリーと共にスッシーニョ城に滞在していましたが、1474年イングランドの追従を逃れる為にヘンリーはLargoet城へと身柄を移され、ジャスパーはジョスラン城守の監督の元に置かれることとなりこの地にやってきました。ジャスパー叔父さんはどの部屋に滞在していたのかなぁ?と探したくなりましたが、どうやら現在見られるジョスラン城は、当時ジャスパーが見ていたジョスラン城とはまったく景観が違うもののようです。
この地に最初となる木造のお城が建てられたのは1008年のことだそうです。時代の流れと共に城は石造りの強大な作りへと姿を変えますが、15世紀にこの城の所有者となったローハン家が、1488年に時のブルターニュ公爵フランシス2世に背いた為、罰として破壊されてしまいます。1490年から1510年にかけてジョスラン城は再建されたのですが、17世紀に起こった宗教戦争の時代にローハン家はプロテスタント側についたため、カトリックを擁するフランス王家の手によって2度目の破壊を受けてしまいます。城の解体には2週間もかかったそうで、この時に巨大なキープも取り壊されたのだそうです。キープの名残として現在でも土台だけは見ることができます。1835年にわずかに残っていた部分を利用してジョスラン城の再建が始まり、現在見られるような中世時代の塔を3本取り込んだ様式のお城ができあがりました。お城は現在でもローハン家の居城となっており、大広間は現在でも大切なお客様を迎える際に使用されるそうです。お城の内部はガイドツアーでのみ見学ができます。
入場口からお城の庭に入り、かつては跳ね橋が守っていた堀にかけられた橋を渡ると、左手に塔が一本だけ離れてぽつんと立っているのが見えます。フランス革命時代(18世紀後半)、この塔の内部には250人ほどの政治犯が収容されていたのだそうです。その大半は裁判を待つことなく、疫病や飢えのため塔内部で亡くなったそうですよ。ブルターニュはフランス革命時代、ふくろう党の反乱といわれる、ブルターニュの農民や旧貴族たちを主体とした反革命議会の反乱を起こしたことがあります。革命議会が送りこんだ軍によって反乱はギベロン湾を見渡すパンティエーブル要塞で悲劇の壊滅を迎えますが、この塔に投獄された人たちも、そういった反乱に加わった人たちだったのかもしれませんね。悲しい歴史です…。
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