ブルターニュへの旅

〜ヘンリー7世を探して〜






Dinan フランス北西部に位置するブルターニュ地方は、フランスにありながら、かつてこの地に住んでいたケルト人の文化を現在まで色濃く残す地域です。ブルトン語と呼ばれる独自の言語を持ち、ブルターニュ気質といわれる独立心旺盛な人々が住むブルターニュ地方は、1532年フランスに併合されるまでは、ブルターニュ公国として独立国に近い地位と権威を誇っていました。フランスのその他の地域であるブルゴーニュ地方やプロヴァンス地方と比べるとあまり日本では馴染みのない地方かもしれませんが、私にとって、ブルターニュは長い間憧れの地となってきました。

私がイギリス中世史好きになったきっかけはいくつかありますが、その一つにイングランド王ヘンリー7世があります。ペンブルック城のところでお話しましたが、私の卒論のテーマは「彼がなぜイングランドの王冠を手にすることができたのか?」というものでした。

ヘンリー7世ことヘンリー・テューダーは、ヨーク家とランカスター家がイングランド王位を奪い合うばら戦争のさなか1457年にランカスター家の一員として生まれました。1485年にプランタジネット王朝最後のイングランド国王となったヨーク家のリチャード3世を戦場で打ち破り、イングランド国王ヘンリー7世として即位しましたが、彼はイングランドの玉座に就く以前、ヨーク家の追従から逃れるためにフランスのブルターニュ(当時はブルターニュ公国)に亡命していたことがあります。結果として1471年から1484年までの13年間をブルターニュの地で過ごすことになるのですが、王族とはいえ王位継承権を持たず、玉座とは程遠い地位にいたヘンリー・テューダーが、何もせずにブルターニュで身を潜めていた間に、イングランドの状況はめまぐるしく激変し、あれよあれよという間にイングランドの国王候補にまで押し上げられていってしまうのです。

14才という若さでブルターニュに亡命し、長年ブルターニュ公爵の庇護の下でいたために、ヘンリーには自分の領地の管理や運営をした経験がなく、軍を率いて戦争に赴いた経験もなく、イングランドの政治に関わったことすらありませんでした。そんな彼がいきなり一つの王国を指揮する立場になり、なおかつ繁栄の道しるべを築くのに成功したのですから、私の興味は尽きません。残念ながらブルターニュに亡命していた頃のヘンリー・テューダーの記録はほとんど残っていないそうです。もしかしたらブルターニュ地方は、彼が多感な少年期を過ごした地であるだけでなく、その後の成功に結びつく何かを学びとった地なのかもしれません。

前置きが非常に長くなってしまいましたが、このページでは、ヘンリー7世ファンの私がブルターニュ時代の彼の軌跡を求めて訪れた街やお城の風景を中心に紹介しています。どうぞお楽しみください。
St. Malo
Suscinio Mont Saint Michel
Fougeres Vannes
Josselin Largoet
Vitre Others
Trevarez
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