| エコサイト HOME | 環境連鎖 | エコとっきょ | イースター島 | オーストラリア |


写真をクリックしてください ラノ・カウ アフ・ハンガ・テエ アフ・アカハンガ アフ・ハンガ・テテンガ ラノ・ララク アフ・トンガリキ アナケナ アフ・アキビ アフ・タハイ マウンガ・テレバカ 写真をクリック! 【 イースター島 】
英名:Easter Island
スペイン語名:Isla de Pascua
現地名:Rapa Nui

■大きさ
 面積:180km^2
 周囲:58km
■位置
 西経約109°、南緯約28°
 南米大陸から約3700km
 タヒチから約4050km
■気候
 亜熱帯性気候
 (6 - 9月は雨季)
■気温
 年平均20.3℃
 14.7 - 17.9℃(8月)
 23.8 - 27.9℃(2月)
■人口
 2891人(2001年)
■産業
 主に観光業・農業・漁業
■行き方
 チリ・サンチアゴから約6時間
 タヒチ・パペーテから約7時間


■ イースター島への道 ■
ノルウェーの有名な人類学者トール・ヘイエルダールをご存知ですか?彼は「ポリネシア(イースター島)に漂着した人々は南米から渡ってきた」という大胆な仮説を発表しました。その根拠は・・・

●イースター島に古くからあるサツマイモは南米起源のものである
●イースター島の火口湖には、ペルー−ボリビア国境のチチカカ湖と同じトトラ葦が自生している
●モアイ像の祭壇の石組みがインカ帝国のティワナコ遺跡と酷似した技術を利用している
●インディヘナの神「コンティキ・ビラコチャ」がイカダで太平洋に乗り出したという伝承がある
●イースター島にいた耳長族とインカの支配階級オンホネ族は同じような耳たぶの細工をしていた

というものです。彼はそれを実証するために、1947年4月28日、9本の丸太と1本の帆という簡単なイカダを作ってペルーのリマに近いカヤオの海岸を出発しました。そして見事、101日目の8月7日に、タヒチにほど近いラロイア環礁の無人島に漂着しました。
しかし、努力の甲斐なく、学会ではほとんどの学者が「島民は南米ではなく西方から渡ってきた」という評価を下し、現在でも主流の考えです。

そんな無謀な冒険に心打たれた童心に返り、チチカカ湖でトトラ葦とティワナコ遺跡を確認した後にイースター島へ渡りました(もちろん飛行機で)。何やらテレビ番組によると、「ふんどしを締めたモアイがいる(モンゴル系移動説?)」とのこと。それもこの目で確認せねば。
島では、少し環境に配慮して、一日30〜40km程度を2本の足でひたすら歩き続けました。(島で出会ったニューヨークの広告代理店勤務マーク氏は、一日で島を一周(約60km)してました。完敗・・)

■ イースター島の基礎知識 ■
◆モアイのこと
イースター島には約1000体のモアイ像があり、身長約1〜18mのものが確認されています。モアイ像は、比較的軽い玄武岩質の溶岩で作られており、全てラノ・ララクという場所で岩山から削りだされました。
◆名前の由来
「イースター」とは、1722年にオランダ人ヤコブ・ロッヘフェーンが最初に島を発見した日が復活祭(イースター)の日であったことに因んで名付けられました。ポリネシア系の方言(ラパ・ヌイ)では、Rapa Nui(”大きな島”という意味)と呼びます。
◆島の環境
島民たちは、島のことを世界のへそ(テ・ピト・テ・ヘヌア)と呼びます。島にはまとまった樹木や小川がないため、作物が育ちにくい環境となっており、島の表面はほぼすべて玄武岩質の岩で覆われています。真水は、島にいくつか存在する火口湖に溜まった雨水を利用していましたが、今ではチリ本土から空輸されているようです。

■ 用語解説 ■
[ラノ(Rano)] = クレーター(crater):休火山の火口湖にはこの言葉が先頭に付く
[アフ(Ahu)] = 祭壇(shrine):モアイ像には全てこの言葉が先頭に付く
[アナ(Ana)] = 洞窟(cave):文字通り洞窟にはこの言葉が先頭に付く
[ハンガ(Hanga)] = 小湾、洞穴(cove):島南部のモアイにはこの言葉がよく使われている
[マウンガ(Maunga)] = 丘(hill):火山でできた島なので、休火山の丘陵地がたくさんある



◆ ラノ・カウ(Rano Kau)
イースター島の中心ハンガロア村から徒歩2時間半(約12km)で到着する島の南西端にある休火山の火口湖。三角形のイースター島の各頂点には、カウ、カティキ、テレバカの3つの休火山がある。
大半がトトラ葦に覆われており、まさしく「クレーター」という風景で、直径が約3kmもある。この先には、オロンゴという聖域があり、岬の突端には、かつては部族の戦士であった「鳥人」のレリーフが刻まれている。
「だ〜れもいない、自分ひとり」と思いきや、少し離れたところに男女のカップルが一組(写真中央やや左、おそらく見えないと思います)。
あとで聞いてみたら、定年退職してこの島へ旅行にやってきたドイツ人のご夫婦でした。

▲ページトップへ



◆ アフ・ハンガ・テエ(Ahu Hanga Tee)
柵に守られたモアイ、アフ・ハンガテエ。数あるモアイ像の中でも割と小柄な彼ですが、それでも身長2mほどはあったと思います。
モアイ像が作られたのは10〜11世紀頃と言われているので、彼は約1000年の間ここに立ち続けてきたわけですね・・・
後方では、島の人が観光客相手におみやげ物を売っていました。木彫りのモアイ、石彫りのモアイ、アクセサリなどなど。雨季のこの時期、観光客は島全体で200人ほどいたと思いますが、通りかかる人は極まばら。のんびりした風景です。

▲ページトップへ



◆ アフ・アカハンガ(Ahu Akahanga)
アカハンガのモアイたちは皆顔面を下にして引き倒されている(中には顔面を上にしているものもあり)。これは、18世紀頃から始まったフリ・モアイというもモアイ倒し戦争の結果です。
10〜11世紀に最盛期を迎えたモアイ製造も、森林破壊などの理由で停滞し、社会は荒れ果てた状態となって食料などをめぐる殺戮が繰り返されたとのこと。やがて勢力をつけた支配階級は敵対する村の守り神であったモアイを次々に倒していった。この時、モアイの目から出る霊力を恐れてモアイをすべてうつ伏せに倒していった。
倒されたモアイの横に落ちていたモアイの帽子。モアイの中には帽子をかぶった(というか頭にのせた)ものがいくつかあります。帽子はだいたい赤石の安山岩でつくられているようです。
ちょっと失礼して、500mlペットボトルと一緒に撮影。大きいです。帽子だけでも1tほどありそうです。
島民出身の考古学者セルジオ・ラプによると、帽子は階級を表しており、帽子をかぶっているモアイにも階級が存在するとのことです。

▲ページトップへ



◆ アフ・ハンガ・テテンガ(Ahu Hanga Tetenga)
こちらも倒されたモアイ像。この2体は顔面を下にして倒されています。
モアイを祀ってある祭壇の石組みもバラバラに崩されてしまっています。

▲ページトップへ



◆ ラノ・ララク(Rano Raraku)
島の南東端に近いところにあるモアイの製造現場ラノ・ララク。全てのモアイ像がここの岩山から切り出されたと言われています。
入口にはしっかりと「RANO RARAKU」の目印がある。しかし、島の周回道路からこの入口までの道はかなりの凸凹でした・・・。
山肌にポツポツ見える黒いものは、すべて切り出し途中のモアイ像です。
未完成のまま切り出されずに横たわるモアイや、運搬途中で突然放り出されたようなモアイが全部で約400体ほどもあります。
中には、半分以上身体を地中に埋めたままのモアイや、ひたすら空を見上げるモアイ、顔だけで数mもあり完成すれば10mを超えるような巨大なモアイもあり。
つい先ほどまでモアイの切り出し作業をしていたような、不思議な光景です。
数百ものモアイ像が人間のように空や海を見上げている様子は実に不思議な感じです。
また、石切り場から数十km離れた場所までの運搬方法も、多くの考古学者が仮説を立ててきましたが未だ定説はないようです。島の伝承では、モアイは自ら回転しながら前進するとのこと。
ちなみに、ヘイエルダールは1956年に巨大なモアイ像の彫刻作業の再現を試みたそうですが、その結果完成までに約1年間を要したそうです。
岩山の正面から右側へ回り込んだ東斜面には、正座したモアイが岩山を見上げていました。島で正座したモアイはこの一体だけしか見かけませんでした。
ちょっと失礼して、500mlペットボトルを膝元に置いてみました。だいたいの大きさが想像できると思います。
岩山を30分ほどかけて汗だくになりながら登り、岩山の向こう側へ出てみると、火口湖が広がっていました。
湖面の半分をトトラ葦、半分を青い水が覆っていました。
ヘイエルダールの話の通り、チチカカ湖で自生していたトトラ葦が、確かにイースター島でも自生しているのを確認することができました。

▲ページトップへ



◆ アフ・トンガリキ(Ahu Tongariki)
イースター島の中心ハンガロア村からちょうど島の反対側(距離にして25km程度)、ポイケ半島のつけ根に15体のモアイがずらりとならぶアフ・トンガリキがあります。
この中の1体は、1970年の大阪万博にお目見えしました(おそらく一番右側のモアイではないかと思います)。
このモアイたちは、ちょうどモアイの製造現場「ラノ・ララク」の方向を向いていました。右から二番目のモアイは帽子をかぶっています。
モアイたちの後方には、島の南東端に位置する休火山が見えます。
このモアイたちは、ちょうど春分と秋分の日の太陽が沈む方向を向いているようです。基本的に全てのモアイは島の内陸部を向いていますので、島の中心方向と偶然に重なっただけなのかもしれません。

▲ページトップへ



◆ アナケナ(Anakena)
島で唯一と言っていい白砂の入り江「アナケナ(8月という意味)」ビーチで、伝説の王ホツマツア一行が8月に上陸した浜辺です。
非常にきめの細かな白砂で、もちろん海水もとてもきれいでした(日本の海岸で見かけるようなゴミの山を見かけることはありませんでした)。
ヘイエルダールが復元したモアイで、ちょうど浜辺の砂地が途切れる位置に整列していました。
ここへ来る前に、島の人に「ふんどしを締めたモアイがあると聞いたのだが?」と聞いて、教えられたのがこのモアイです。
教えられたと簡単に書きましたが、最初「ふんどし」が全く伝わらなかったので「相撲」から話を始め、最後はジェスチャーでした。また、島の人も「ふんどし」という認識がなかったようで、何人かに聞いて回ってようやく「アナケナのモアイのことか?」となりました。
ここのモアイたちもちゃんと帽子をかぶっていますね。正式名称はプカオというらしいです。
さて、この中のどの人が「ふんどし」を締めているのやら・・・・
どうやら、後方から見て一番右側の彼がふんどしを締めているようです。立体的なふんどしを想像していたのですが、ふんどし(のような)模様がお尻のあたりに彫られていました。あまり近づけなかったので、手持ちのカメラではこれが限界でした。写真ではほとんど判りませんね。

▲ページトップへ



◆ アフ・アキビ(Ahu Akivi)
高さがきれいにそろった7体のモアイ像。数あるモアイ像の中で唯一(だと思う)海岸沿いではなくて島の内陸部、荒涼とした牧草地帯の真ん中に立っていました。
モアイ像の後からは石組みや人骨も発見されたとのことで、墓として利用されていたと推測されています。
このモアイは、ホツマツア王の伝説に出てくる7人の使者を祭ったものです。アフ・トンガリキのモアイと同様、彼らも春分と秋分の日に太陽が沈む方向を見つめているようです。
7体のモアイの身長は約4mで、体重は約10t程度もあるそうです。

▲ページトップへ



◆ アフ・タハイ(Ahu Tahai)
イースター島の中心ハンガロア村から徒歩10分程度のところにあるのがアフ・タハイ。タハイは、儀式村でもあったため、住居や火葬場、広場や鳥小屋などの跡が復元・保存されています。
祭壇の手前にリュックを置いて撮影してみました(祭壇の上はダメです)。このモアイは「目」も復元されています。モアイたちは目を開けられ、生命を吹き込まれていたのです。
雨上がりにかかる虹と、祭壇の石組みのアップです。
インカのティワナク遺跡と同様に、隙間無く石が組み上げられています。しかし、ティワナク遺跡の方が、もう少し小さな石を使って精密に組み上げられていたように感じます。
目のあるモアイ像の隣にたたずむ5体のモアイ。雨風に侵食されたこのシルエットは何となく寂しげな感じを醸し出していました。
上の5体のモアイの遠景写真です。後方にはすぐそこまで荒々しい太平洋の波が打ち寄せていました。
この島は溶岩が冷え固まってできているため、極一部の砂浜を除いてゴツゴツした岩の海岸がほとんどで、なかなか海まで近づくことが許されません。場所によっては恐ろしいほどの断崖絶壁があり、南太平洋の大波に吸い込まれそうになります。
中央付近の突起が目のあるモアイです。・・・特に意味はありません・・・

▲ページトップへ



◆ マウンガ・テレバカ(Maunga Terevaka)
イースター島の最高峰テレバカの中腹から、島の中央部方向を撮影したものです。遠くにはマホガニーの林がポツポツ見えます。
しかし、こんな何もない山を登ってる人いません・・・。日本から15000km 離れたこの島の、だーれもいないこの丘で、自分1人何やってんだ?と思っていると、突然上半身裸の兄さんが山を駆け上がって来ました。一瞬身構えましたが、そのまま通り過ぎて行かれました・・・どうもトレーニング中だったようで・・・いろんな人がいらっしゃいますね。 少なくともこの山には2人いたんですねぇ。

▲ページトップへ



■ 結論 ■
ヘイエルダールの仮説の根拠となった、トトラ葦、サツマイモ、祭壇の石組みは確かに確認されました。
しかし、島の人何人かに聞いてみると、ほとんど全ての人が迷いなく「我々は西方(タヒチ方面)から渡ってきた」と言います。島の人の顔つきも、南米大陸で見かけたどこか日本人的な顔つきの人々とは異なり、明らかに南方の太陽の下で過ごしてきた人のそれでした。
ヘイエルダールのことを知っている人も何人かいました。しかし、「どこか遠い国の探検家が、何故ありもしない仮設を立てたのか?」程度のそっけない感想が聞かれました。
日本からやってきて、こんな質問をしている自分も、島の人から見ると「何故そんなこと聞くの?」と不思議がられる存在だったようです。
なお、島民出身の考古学者セルジオ・ラプによる結論は以下の通りです。
「ラノ・ララクでの発掘作業中に6対のモアイの目を発見した。いずれも目の虹彩は赤い砂礫層で、眼球は燐光を放つ白珊瑚でできており、モアイの下瞼の上の突起物に置かれていたようである(モアイに傾斜があるため、特に固定せずとも落ちることはなかった)。この目の発見により、イースター島が、ポリネシア語による別名で「マタキテランギ(”目が星を見る島”という意味)」と呼ばれていることの説明がつく。イースター島の島民は西方から渡ってきたのである。」