エスカレーション白い楽譜バナー

by.大久保美籾&狐月

14番目の奏鳴曲[ソナタ]


    −1− 再 会

 街路樹の葉はすべて落ちていた。
 タクシーは、大通りから駅前の繁華街を抜け、坂を上ったところで止まった。
 もとは瀟洒[しょうしゃ]な洋館だったのだろう。その店は、聞かされていた評判にくらべて、ずいぶん小さく見えた。
「リエーっっ!!、こっち、こっち」
「あ、バカ……」
 マリの絶叫に続いて、居酒屋じゃないんだから、とミドリがたしなめる声が聞こえてくる。
 おかげさまでボーイに案内される前に席はわかった。
 一瞬とはいえ、あつまった視線が痛かった。
 なにか改まった席にフランス料理というのもワンパだが、新橋の料亭で懐石、という年齢[とし]でもない。 ナオミおねえさまの選んでくれたこの店は、若輩者にはちと気後れのする雰囲気だった。ピアノの生演奏が流れる店内は、上品な年輩客ばかりだ。
 しかし、周囲を気にしているのはリエだけで、あとのふたりは単に喜んでいるようだ。
「リエ、元気してた?」
 だいだい色のゆったりしたドレスのマリは、髪を伸ばしてパーマをあてている。
 さすがに高校生には見えないが、まだ大学生と言って通じるだろう。とても一児の母とは思えない。……LA[ロス]の大学を卒業した後、マリは白人の男と結婚して、すでに一昨年、長女を出産している。何度も手紙[エアメイル]をもらっているから、どんな幸せな結婚生活を送っているかは、よく知っていた。
 だから、マリがつい先日まで地球の裏側にいたなんて、信じられない。とても 7年以上も顔を合わせていないとは思えなかった。
「リエ、お久[ひさ]」
 そっけなく言うミドリは、あいかわらずポニーテールだ。が、グレーの三揃えでズボンなんかはかれてみると、きついまなざしに妖しい色気がともなう。
 ミドリがどこで何をやっているのかは、ぜんぜん知らない。季節が変わるたびくらいの周期で、転居の旨を記したハガキが来たから、元気でいることはわかるのだけれど、リエがいくら手紙を書いても、「賀正」以外は書かれていない年賀状しか来なかった。
 だから7年間は会っていない。だのに、3日しか会ってないような挨拶だった。
「ふたりとも、ひさしぶり、ね」
 リエは黒のロングドレスだ。黒の毛皮のコートと、黒のベレー帽は、店員が“お預かり”していた。
 髪を束ねるのは嫌いだから、ストレート・ロングのままだ。
 ずいぶん落ちついちゃって、大人びて見えるとマリはいってくれたが、ミドリはだまってこちらを見ただけだった。
「ひさしぶりね、ミドリ」
「……。そうね」
 あぁ、これ、遅かったから、と、赤ワインのグラス越しにミドリは返事をした。
「いちおう、待ってるつもりだったんだけど、ね」
「そーだそーだ、リエが遅いのが悪い」
「ごめんね。帰り際に、教授に次のコンクールの話をされたもんだから」
 ふたりがかりでおこられてしまった。
 リエは音大の大学院にいる。あいかわらずピアノと生活していることは、ふたりとも知っている。
 イスを引いてもらって、席に着く。
 ご注文のほうは、と聞かれて、リエはナオミおねえさまに教えられていた「7品のコース」を頼む。ワインをどうするか聞かれて、これも、おねえさまに教えてもらった銘柄を口にした。
 ボーイが、リエに聞こえるようにだけ聞いてきた。
「しっっ、失礼ですが、お客様。お支払いのほうは……」
「あぁ、カードでお願いします」
 ナオミからもらったカードを無造作にリエが見せると、ボーイは首をつかまれた子猫のようにちぢこまり、たいへん失礼いたしましたと言って、消えた。
 クスクスとミドリが笑っている。
「バカね、リエ。あのボーイは、お支払いの方は大丈夫なんですか、って言いたかったのよ。それ、メチャクチャ高いんだから」
「え?。どれくらいするの?」
 おねえさまは、おいしい逸品[もの]だ、としか言わなかった。
「聞かないほうがいいわよ。そんなのたのまれたら、こんなモン飲んでらんない、ってだけ言っとく」
「こんなモンで悪かったわね。でもそれ、カリフォルニア・ワインでも一等品よ」
「あ、悪い。これが悪いんじゃなくて、これから来るのが良すぎる、てこと」
「どーいうことよ」
マリがつっかかる。
「それ、有名なチリ産ワインだよ」
「チリなんかでいいワイン、とれるの?」
 マリの疑問は、リエの疑問でもあった。
「そんなことも知らないの?。特上の貴腐ワインのとれるブドウの木ってのは、欧州のは病害にやられて、南米に移植されたのしか残ってないの。しかも、第二次大戦中のものなんて。欧州ものがない分、当時の南米産は宝石なみの貴重品よ」
「キャリフォルニアもワインの本場なんだけどねー」
「なんでもUSAがいちばんじゃないのよ。お国自慢もわかるけど」
 マリは結婚を機に、アメリカ国籍になっている。
 フーン、そーなんだ、とマリがいう横で、リエは口を挟んだ。
「ねえ、ミドリ」
「ん?」
「キフワインて、何?」
「……もう、いい。とにかくおいしいワインよ」
 ウンチクたれてたミドリが、急に疲れたみたいだった。
 そう言われてしまうと、へえ、そう、としかリエも言いようがなかった。
 ミドリはいろんなことを知っている。
 在学中は、いろいろ教えてもらった。いいことも悪いことも。
 育ちがいいのか悪いのか。高校時分にも分からなかったことは、やはり今でもわからない。女優と政治家とのあいだにできた不義の子、という評判[ウワサ]だったが、ミドリは肯定も否定もしなかった。
 たしかなことは、ミドリはいつもひとりでいたということだけ。
 おねえさまとピアノのことだけ考えていればいい自分とは、視点も行動力も違う。卒業以来、おのづから距離が開いた理由は、そのあたりにあるのかな、と、リエは漠然と考えていた。
 運ばれてきたのは赤ワインだった。
 リエは白のほうが好きなのだが、「おねえさまの好きな味」を知るのも悪くない。もっとも、それらは悪いどころか、とてもいいことばかりなのだが。
 音頭はミドリがとった。
「じゃあ、再会に、乾杯」
「乾杯」「乾杯」
 そのワインは、甘美なことこのうえなかったけれど、すこしだけ苦かった。

 スープ。オードブル。……。
 料理につれて、話も弾む。
 いちばんしゃべっていたのはマリだった。
 LA[ロス]での生活。ダンナのこと。子育てのこと。実は2人目がお腹にいるらしいこと。
 幸せのただ中にいる様子だった。
 ミドリは黙って料理をつついてた。
 話を向けると、すこしはしゃべてはくれた。
 ミッション系の女子大を出たあと、フリーのライターをやっていると言った。
「浮き草稼業だからね。プータローと同じだよ」
 家族と暮らしていないのに一人暮らしではないということは……。
「あれ、こないだは広告代理店の人と暮らしてるって言ってたじゃない。その前はコピーライターで、その前は映画の助監督さんで、その前は……」
「昔は昔。今は今。いまは、いまのオトコ。いちおう同業かな、雑誌の編集だから」
「いいオトコ?」
「最低。だって、妻子持ちだもん」
「またぁ?!。そのビョーキ、はやく直したほうがいいわよ」
「大きなお世話。あたしが病気なんじゃなくて、いつわりの愛に生きてきた相手が悪いだけ」
 マリとの間には、リエとよりも、やりとりがあるようだった。ミドリの様子をリエがあまり知らないのを、マリは意外に思っているようだ。
「ふたりとも、どれくらい会ってるの?」
「全然。まったく。久しぶり」
「全然……って、ふたりとも、ずっと東京だったんでしょう?」
「いろいろ忙しくてね」
 忙しいったって、連絡をもらえれば、喜んで会ったのに。リエはミドリのほうを見たが、ミドリの表情は読めなかった。
「じゃあ、ええと」
「7年ぶり」
「うそぉ。信じらんない」
「うそじゃないよ。それだけ経ったんだ。だれかさんは結婚までしてるじゃん」
「そういう意味じゃなくて、どうして会ってないの?」
「会う必要がないからよ」
「そんな……ケンカでもしたの?」
「はっっ、まさか。冗談よしてよ」
「じゃあ、どうして」
「毎日顔を合わせてれば、情[じょう]が深くなるってものでもないでしょ。心配しなさんな。会っても会わなくても、あたしがリエやマリのこと想ってることに変わりないから」
「そういうもの?」
「そーいうもの」
 こういうところ、ミドリはやっぱり変わってるな、とリエは思う。
 近況話の順番は、リエにも回ってきた。
「こないだのコンクール、残念だったね」
「やだ。国内の大会なのに、なんでマリが知ってるの?」
「だって、わざわざ日本の音楽雑誌、見てるもん。知ってる人間の名前が載るんだから、これはもう、目が離せないわよ」
「準グランプリ。準優勝。第2位。いくつめだっけ?、国内のコンクールでリエが盾もらうのは。そろそろカップが欲しいよね」
「う……。ミドリのいぢわる」
「エントリーされるだけでもたいへんだ、ってのは分かるけど。そろそろ海外へのキップがほしい、ね」
 ミドリにはズバリ核心を突かれた。
「そうね。でも、あたしはピアノが弾ければどこでもいいわ」
「結婚式場や、場末のキャバレーでも?」
 さすがにリエのフォークとナイフが止まった。
「ミドリ!!。なんてこと言うのよ!!」
 ムキになっているマリを、冗談よ、と、ミドリが受けている。
「だいじょうぶよ、リエは才能あるわ。あたしたちが保証するわよ」
「ありがと、マリ。でも、こればっかりは、ね……」
「気にしなさんな。あたしはリエのピアノの音、好きだから。脳の血管が詰まりかけてる審査員[ジジイ]どもには、すでに聞く耳がないだけの話よ」
「ミドリったら、あいかわらずカゲキ」
まったくそのとおりだ、とリエも思った。
「リエ」
「なに、ミドリ」
「あいかわらず、ナオミおねえさまに囲われてるのね」
「か、囲われてるだなんて」
 ミドリの即物的なものいいに、リエは赤面する。
「住み込みでお手伝いさんをしているだけよ」
「じゃあ、さっきの早川信販の、大株主優待[プラチナ]・カードは、何?。いちおうリエの名義だったみたいだけど」
「あ、あれは、おねえさまに押しつけられたの。今夜一緒できないから、あたしの分身をつれてってね、って」
「あ、そ」
 おねえさまらしい、といってミドリは沈黙した。
 ほんとうは、おねえさまも同席してくれるはずだったのだ。すでに父親の片腕、いや、両腕くらいのビジネスをこなしているナオミである。しょうがないこととはいえ、急な仕事で来られなくなったのは、やはり残念だ、とリエは思った。
「きょうは早川先輩に会えるかと思ったんだけど、残念だわ。でもね、実は先月、アメリカで先輩と会ったのよ」
「え、本当?」
「先月、LAのパーティーで。ホントに驚いたわ。さすがは早川コンツェルンって感じよね」
「それ、進出企業のトップの集まりだったってヤツじゃなかった?、たしか」
「うん。でもさすが早川先輩だわ。あたしは父親についてっただけなのに、先輩は“企業の人”として来てたのよねー。ああ、なんだか人種が違うわぁ」
 マリとミドリの会話を、リエは黙って聞いていた。
 おねえさまが先月マリと会っていることは、マリの手紙からも、おねえさまの口からも、聞いていた。
 そして、マリの手紙に書かれていなかったことも、おねえさまはこと細かに教えてくれた。……向こうでマリに夜伽をさせたことも、一部始終、全部。
別れ際「リエのこと忘れない」って言ってたのは、どこの誰だったかしら。
 それが異性[オトコ]と結婚し、同性[オンナ]と浮気する。
 その行為がどういう意味を持つか。
 マリにはマリの価値観があり、自分[リエ]には自分[リエ]の価値観がある、と言えばそれまでだけど。
 友情と愛情は別なのだから。遊びと愛情の表現は違うのだから。
 −−あの子はオマエに似てるから、つい手がでちゃうのよね。でもアノ時の顔は、オマエのほうがずっとかわいいわね、やっぱり−−
 おねえさまが帰国した晩は、そんなことをささやかれながら、愛してもらった。数日の別離と、嫉妬が、この上なく刺激的だった。
 肌を重ねてみれば、言っていることの真偽は分かる。おねえさまの心の中に、自分だけが住んでいられるのも、いまの間だけかもしれない。
 ……将来[さき]のことなど考えてもしょうがないのだけれど。
 いつまでもこのままではいられないだろう。おねえさまの人生と、リエの人生が、いつまでも重なっているという保証はない。いまのリエには、きたるべき破局の影におびえながらも、現在[いま]のしあわせに酔っているしかなかった。
 マリやミドリには、彼女たち自身の人生がある。でも、リエには、リエ自身のこれからなんて、見当もつかなかった。
 おねえさまと一緒にいられれば、それでいい。他はなにもいらないから……。
 リエは、何かを押し込めるように、食べて、飲んで、話した。

 食事が終わって。
 マリはタクシーでホテルに帰った。
 リエも車[むかえ]を呼ぶつもりでいると、ミドリが電車で帰るから、じゃあね、と言った。
「駅まで乗ってかない?」
「いい。夜風にあたりたいの」
「そんなこと言ったって、もう遅いわよ」
「まだ宵の口だよ」
「ごちそうさま。じゃあね」
「じゃあねって……まってよ、ミドリ」
 さっさと歩み去るミドリを、リエも追う。
「待ってよ。せっかく7年ぶりに会ったのに、これでさよならなんて」
「ねえ、リエ。ひとつ聞きたいんだけど」
「何?」
「あのお店選んだの、ナオミおねえさま?」
「そうよ」
「なるほどね……」
「なるほどね、って、何が?」
「リエ。いいこと教えてあげようか」
「なによ」
「松濤町のあのレストランから、あたしが帰ろうとするとね、渋谷駅に出るわけ。途中に何があると思う?」
「何って……東急文化村?。道玄坂のヤマハ?」
 ミドリが笑い出した。大声で、高らかに。涙が出てくるくらい、たっぷりと。
「あーおかしい。ホント、リエのアタマの中には、ピアノとおねえさまのことしかない、ってわけね」
「だから、何よ」
「このへんはね、ラブホテルがいっぱいあるの。今夜は友達との浮気を理由に、たっぷりおねえさまに可愛がってもらえるわよ、リエ」
「ミドリ!!」
「それとも、ホントにあたしと遊んでく?。あたしがあんたのこと好きだったの、よく知ってるでしょう?」
「そんなこと言われた……」
 リエのくちびるは、いきなりミドリに奪われた。
「ごちそうさま。これくらいは許されるよね。じゃ、ね。あんたは幸せの中で暮らすのよ」
 直截な愛情表現は、おねえさまと同じ味がした。
 リエはその場に立ち尽くしたまま、ミドリを見送るしかなかった。
 友情と愛情は別なのだから。遊びと愛情の表現は違うのだから。
 さっき自分でそう考えたばかりだったのに。
 食べ過ぎたかもしれない。
 クリーム・ソースが胃にもたれるのを感じた。



   −2−「白のアリシア」

「ああ、ダメ、ダメ。やめて、やめて」
 きょうも鍵盤が重かった。何回やっても、教授からはNGしか出ない。
「どうしたら、そんなに重く鳴るんだね。シューマンの『飛翔』が、だ。潜水艦の進水式をやってるんじゃないんだよ」
 車イスに乗った教授が、鍵盤の前に来た。リエの横で、数小節弾いてみる。
「こう、軽く、羽毛がただようようにいかないかな」
「すいません」
「……きょうはこのくらいにしておこうか」
 教授は小児マヒのまま、ずっと車イスの生活だったそうだ。友達と遊べず音楽と遊んでたから、こういう仕事についたと言っていた。
 いまの渋い中年ぶりならば、30年前はさぞかし美青年だったろうに。キャラクター性も十分、演奏だけで食べていけたはずである。
 それがなぜ学校にひっこんでしまったのか。人前に出るのがイヤだから、と教授自身は言っていたが、コンクールで不正が行われた結果、日の目をみられなかったから、というのが学内でのうわさだった。
 それはともかく、彼はピアノの腕前・耳の良さ・教育者としての人格については、十二分に資格を満たしている。リエには最高の師だった。
「簡単な曲だから、気分転換にどうかと思ったんだがね。君はいつもショパンばかりだから」
 幻想即興曲。黒鍵エチュード。革命。いくつもの夜想曲。
 おっとりとした見かけによらず、苛烈きわまりない曲を激情豊かに表現するのが、リエはうまかった。
 夜想曲やワルツの類も悪くない。情感ゆたかに、しっとりした音を紡ぎ上げることができる。
 が、しかし。
 陽光あふれる野原で、子供たちがたわむれるような曲は、大の苦手だった。ましてや、大空に翼広げてはばたく曲なんて!!。
 いまのリエにはどう表現していいものやら、見当もつかなかった。
「好みがあるのは人間しょうがないことだが、プロならば、いつでもどこでも、なんでも情感豊かに表現できなければならないよ」
「すいません」
「まあ、がんばってもらうしかないね」
「はい」
 ところで、と教授は話題を変えた。
「論文[しらべもの]のほうは順調かな?」
「はい」
「小松崎君も趣味がいいね。20世紀最大の天才、レオンハルト・アッシェンバッハをテーマに選ぶとは」
 −−レオンハルト・アッシェンバッハ(1923年〜1956年)。俗に、レオン。
 モーツァルトの再来と言われた天才。ピアニスト・指揮者・作曲家、そしてレジスタンスとして有名である。反ナチ活動家・反共産主義活動家として、常に音楽を武器として、短い生涯のすべてを自由を守るために捧げた。
 オーストリア・ザルツブルグで生まれ、育つ。幼少時より“天才”“モーツァルトの再来”と言われ、世界的注目を得る。
 父フランツも作曲家だった。反ナチ活動の結果、1932年、母エレオノーラともども当局に逮捕、処刑される。 以降、レオンはナチの監視下で軟禁状態にあった。ナチの宣伝活動参加を拒否しつづけたためである。
 第二次大戦勃発直後、スイスに亡命。戦後、ザルツブルグに戻るまで、四面楚歌のスイスで活動する。
 ナチスドイツ下のオーストリア国民の心の支えであったばかりか、大戦中のスイス中立政策堅持、戦後の新生オーストリアの共産化阻止にも多大な影響を与える。
 東西冷戦のただ中では、反共産主義活動に身をおく。ハンガリー動乱にて、自由のために命を落とす。享年33才。生涯独身だった。
 代表作は交響曲「オーストリア交響曲」、ピアノソナタ「白のアリシア」など。とくに「オーストリア交響曲」の第四楽章は、反ナチの抵抗歌「アルペンローゼ」として有名−−
「現代音楽史の中でも、異彩を放つ彼だ。かなり絞らないと時間切れになるよ」
「はい。彼のスイス時代前半…大戦初期の作品と、その成立背景について調べてます」
「スイス時代のレオンバッハ。……いいかもしれないね」
「何がです?」
「ちょうど、彼が実らない恋をしていた時代だ。いい勉強になるだろう、小松崎くんもお年頃だし」
「いやですわ。あたし、恋愛だなんて」
「そうかね?。神をも敵に回せる覚悟。すべてを相手に差し出す決意。身を切るような嫉妬・焦燥。繰り返す充足と不安。……君の攻撃的な打鍵と、移入過多な感情表現は、このあたりに起因すると思ったんだがね」
 教授は、リエがどんな恋をしているか、もちろん知らない。ましてや、リエが同性愛者とは。
 しかし、音は雄弁にリエの内面を伝えていたようだ。というより、教授はリエの声でない叫びを聞き取っていた、ということか。
「……かもしれませんね。恋愛……というわけではありませんが、対人関係で少々、ありましたから」
「そうか。私生活に関することだから、一般論しか言わないが」
 教授はリエの目を見て言った。
「誰のため、何のために鍵盤をたたくのか。それを忘れてはいけないよ。常に、それを忘れずに弾きなさい」
 慈愛に満ちた、それでいて恐いまなざしだった。

 ミドリの言ったことは正鵠を射ている。
 はっきり言って、リエは「囲われて」いる。
 たてまえの上では、住み込みのお手伝いさんだが。実態は、パトローネが抱えてるピアニストのタマゴであり、パトローネの夜の玩具である。
 もちろん、リエにしてみれば、これ以上は望むべくもない環境であることは、言うまでもない。
 早川邸に置いてあるグランドピアノは、ヤマハではない。スタンウェイの年代物だ。
 高価だ貴重品だと言うまえに、SP版でしか会えない、過去の欧州の偉人たちと「同じ道具」を使える、ということに、リエは最高のありがたみを感じていた。
 そう、たとえば。
 レジスタンスとしてあちこちを転々したレオンハルトが、どんなピアノを弾いたにしろ、すくなくとも、ヤマハを弾いたはずがないからだ。
「白のアリシア」
 発表は1940年2月、レオンハルト16才。
 亡命中のスイス・ベルンで、失恋した相手に捧げた曲だという。
 その娘はレオンとは幼なじみだったが、再会したときにはレオンのこと、きれいさっぱり忘れていて、しかも別の男と切っても切れない関係を作り上げていて。
 ナチの刺客に追いかけ回されているという状況下で、どうしたらこんなに平安に満ちた曲が作れるのか。
 鉤十字の前にすべてが押し潰されていくなかで、なぜこんなにしっかりと音符を刻むことができるのか。
 大切なものが次々とキャタピラの下に踏み潰されていく時代に、見返りのかけらもないというのに、ひたすら愛を注ぐなんて!!。陽光のように。春の雨のように。
 けして自分を振り向いてくれないひとに、なぜ、こんなに暖かい旋律を贈れるのか。不協和音[イヤミ]の一つもないなんて、信じられない。
 まるで、天使かマリア様にでも捧げるかのような……。
 弾いてみれば、よく分かる。“弾く”ということは、作曲者の思考と同じものを自分の脳内に複製[コピー]するということだから。
 弾くたびに思い知らされる。この曲は、“純愛”だと。
 でも、男性が純愛を貫いたということ自体、リエには信じられない。愛があろうとなかろうと精子をばらまくだけの生き物に、そんなことができるのだろうか。
 16才といえば、奇しくもリエの初恋が砕け散った年齢[とし]と同じだ。あのとき、自分にこんな曲が作れただろうか。
 人を好きになるということは、キレイゴトだけじゃ済まない。リエだってそれはよく分かっている。だのに、どうしたら、こんなキレイゴトのかたまりのような曲が作れるんだろう。
 リエには分からない。
 天才は凡人を超越してるから、と言ってしまえばそれまでだが。
 タメイキだ。
 ミドリなら、何と言うだろうか。
 ミドリなら、分かるだろう。
 追いかけても手に入らないものを追っている気持ちは。絶対に自分のものにならないと知ってなお、想い続けるということが、どんなものか。
 残念ながら、それをミドリに聞く資格は、自分にはない。
 ミドリには悪いけど、ミドリじゃなかった。ミドリじゃダメだった。
 はじめて会ったその瞬間から、おねえさまとはつながっていた。赤い糸で。たとえそれが血に染まった茨の蔓だったとしても。
 そして、あたしは幸運にも至高の宝玉を手にすることができた。
 できた、と信じてた。
 でも、それは錯覚だったのかもしれない。
 いつからだろう。
 手にした宝玉は砂団子に変わり、乾燥とともに指のあいだからこぼれ落ちてゆく。
 すべてこぼれ落ちたとき、手の中には何が残るのだろう。
 そのときになれば分かるだろうけれど。リエは分かりたくなかった。
「リエ、またその曲なの?」
 リエの苦悩の元凶が、背後に立っていた。
「あ、おねえさま。おかえりなさい」
「おまえ、ここんとこ、そればっかりね」
「え、ええ」
「いつから、こんな地味で辛気くさい曲ばかり弾くようになったのかしら。以前[まえ]はもっと華のある曲が多かったのに。おまえには似合わなくてよ」
「あ、はい。ごめんなさい」
「べつに謝らなくてもいいわ。リエが弾きたいように弾いていいんだから、このピアノは」
「はい」
「なんたって、他に弾く人いないんだし」
 そう言って、ナオミが無造作に鍵[キー]のひとつに指を落とした。
「リエ。今夜は空いてるわね。つきあってちょうだい」
「はい、おねえさま」

 御声[おさそい]がかったのは、ミドリたちに会って以来、久しぶりだった。
 おねえさまが忙しいという理由の他に、もうひとつ理由がある。
 半年前、ナオミは結婚した。
 夫の名はタツヤさんと言う。
 実家は日本有数の商社で、政界・経済界に知人が多く、皇族を親戚に持ち、30才[みそじ]前にして、小さいながらも商社の社長である。東大在学中に起こした会社だそうだ。
 彼が早川家へ婿養子に入ったのは、実家同士のパワーバランスのためか、彼が彼の父親にライバル意識を燃やすためかは分からない。
 とにかく、見合いから挙式まで、2週間とかからない電撃結婚だった。
「家同士が取り決めた、契約よ。彼が必要なんじゃなくて、彼の持ってるモノが必要なの。愛?。そんなものどこにもなくてよ。必要があって?」
 計算、野心、利潤、野望、支配、権力……。
 それらがどれだけ魅力的なことなのか、リエには分からない。分かっていることは、昼間のナオミはリエの知らない世界で生きているということだけだ。それが、夜に割り込んできただけ、なのかもしれない。
「この娘[こ]、あたしの言うことならなんでも聞くのよ。ほら、リエ、ご挨拶なさい」
 とっておきのオモチャを他人に見せて自慢するように、リエはタツヤさんに紹介された。
 タツヤさんは、おねえさまと同じ人種だった。肌を重ねればよく分かる。彼も与える側ではなく、奪う側にいる人間だった。
 以来、おねえさまと二人きり、ということは滅多になくなった。
 逆に、「仕事の話があるから、おまえは出ていきなさい」と、行為の途中でベッドから追い出されることもあった。
 愛をささやきあうのではなく、陰謀と謀略をささやきあう二人。
 何にせよ、深い絆でむすばれてゆく二人を側で見ているのは、リエにはつらいことだった。
 自分はナオミにとって、玩具でしかない。いずれは、お払い箱になると分かっているけれど。
 自分のすべてはおねえさまに捧げると誓ったのだから。髪の毛の一本、血の一滴まで、おねえさまのものなのだから。
 同性愛は神を冒す大罪である。地の底までもナオミについてゆく覚悟は、とうにできている。
 おそれるものはなにもない。ただひとつ、「おまえはもういらない」と、おねえさまに言われることだけを除いて。
 今夜もタツヤさんを加えた3Pだった。
 行為が済んだあと、自室でひとり枕を濡らしながら、リエは思う。
 やはり「白のアリシア」は当分ムリだ、と。



   −3− 選 択

 その日、リエがナオミのオフィスを訪れたのは、まったくの偶然だった。
 学校を早めに切り上げて、帰りに寄っただけの話だ。いっしょに帰れるとは思ってなかった。夕食でも一緒に、と思っただけである。
 紫と桃色のランに、カスミソウの花束。昼間、学校でもらったものだ。
 アリサちゃんが持ってきてくれたのだ。
 大学卒業後、即結婚というパターンがほとんどの母校出身者のなかで、例外的にOLをやっている。
 オフィスは丸の内だが、取引先がこの近所にあるそうだ。ちょくちょく寄っては、顔を見せてくれる。リエのことを“おねえさま”ではなく、ホンモノの姉のように思っているからだろう。
 この年齢[とし]の女性[オンナ]で外回りに出られる、ということを考えると、ずいぶんがんばっているにちがいない。
 お局様、セクハラ上司、心ときめかせている男性の先輩、使えない新人、すぐに壊れる(壊す?)OA機器、etc。
 アリサとの会話は、リエにとって完全に異世界の物語だった。アリサにしてみれば、リエのいる世界のほうがよっぽど異世界なのだろうけれど。
「お花なんて全然わかんないんだけど。でも、手ぶらじゃなんだし。センパイってこーゆーの、好きでしょう?」
 と言って、ほっぺをポリポリとかいている様は、在学中とちっとも変わらない。
 だからその日は、ありあまるアリサのエネルギーに感化されて、リエも積極的になっていたのだろう。
 早川家の使用人だと受け付け嬢も知っているから、ほとんどフリーパスだった。
 最上階のナオミの部屋につくまでは、ひさしぶりにドキドキしていた。
 ドアは完全に閉まっていなかった。
 電話の最中らしい。ボソボソとナオミの声が、断続的に聞こえてくる。
 そっとのぞくと、窓の外を見ながら、受話器を持っているおねえさまの背中が見えた。
「……いいこと。なんとしても、手に入れるのよ。……なに悠長なこと言ってるの。札束で顔をはたいても良し。過激派の標的になってもらっても良し。女を抱かせてから脅すも良し。……決まってるじゃない。何年わたしの下で働いてるの、おまえは。つまらない情をかけるんじゃなくてよ」
 リエの知らないおねえさまが、そこにいた。
 とてもうれしそうな顔をして、とても恐ろしいことを言うおねえさま。
 クスクスと笑ってさえいる。
 でも、とっても、らしい。
 リエにはついていけない世界にいるおねえさま。
 手を伸ばしても届かない。
 もどりたくても、あの頃にはもう、もどれない。学校という閉鎖社会のなかで、おねえさまを独占できたあの頃には。
 想像するのと、現実に目撃してしまうのとでは、やはりインパクトが違った。
 分かってはいたことだけど。
 おねえさまは、自分と違う世界にいる……。
 ドアが完全に閉まっていなかったこと。紫と桃色のランに、カスミソウの花束が廊下に置いてあったこと。
 ナオミがそれに気が付くのは、深夜帰宅する前のことだった。

 教授が驚いたのはムリもない。帰ったはずのリエが目の前にいたから。
「どうしたんだね、小松崎く」
「今度のコンクールで弾く曲についてなんですけれど」
 提出書類に書かれた曲名を見て、教授はしげしげとリエの顔を見た。
「これで、いいのかね?」
「はい」
「……ほんとうに、この曲でいいんだね」
「ええ。おねがいします」
「リスト。ラベル。サティ。モーツァルト。ドビッシュー。ラフマニノフ。シューベルト。ベートーベン。バッハ一族……。星の数ほど人も曲もある。どうしてショパンなんだね」
「十八番[とくい]ですから」
「てっきりレオンの曲だと思ったんだがね。このごろ熱心にやっていたから」
「人物としては興味ありますが、彼の曲は……今のあたしには完全には分かりかねます」
「そうかね?」
「とにかく、決めたんです。得意で押し切ります。おそらく、もう、次の機会はないでしょう。後悔したく、ないんです」
 リエの年齢からして、もう、いつノミネートから外されてもおかしくない。はっきりいって、いまだにお呼びがかかるのは、一般的には珍しい状態といえる。まあ、“無冠の帝王”は、ヤラレ役には最適なのかもしれないが。
「いちばん弾いているのはベートーベンじゃなかったかね?、君の場合は」
「たしかにベートーベンはよくやりました。高校時代から……」
 ちょっとだけ、リエは遠い目をした。
 家庭教師。
 おねえさまとの出会い。
 学園生活。
 それから。
 ベートーベンはいろんな思い出に直結する。直結しすぎる。
「やはりショパンでいきたいんです」
「しかし……ショパンにしたって、他にいくらだって曲はあるだろうに」
「これが弾きたいんです。どうしても」
「君は、こうと決めたら言うことをきかないからねえ……」
 教授は苦笑しながら、書類にサインした。
「ショパンの『別れ』とは、ね。何かあったのかね?」
「なにもありません」
 そう言うリエの顔になにが書いてあるか、教授はなにも言わなかった。

 一通の封書がナオミのもとに届いたのは、翌日の夕方だった。
 差出人の名は、ない。
 ナオミがペーパーナイフを使えばよかったと気付いたのは、ちぎるように開封した直後だった。
 中には、写真が一枚だけ入っていた。
 いつ誰にあげた写真か、覚えがあった。
 セーラー服を着た自分が微笑んでいる。
 その笑い方が面白くなかった。
 だから、封筒ごと暖炉に放り込んだ。
 燃え上がった炎は、あっという間に、すべてを灰と化した。
 永久[とわ]に変わらないものなどない。
 思い出などいらない。
 確かな現実だけが必要なのだ。
 その晩、ナオミは夫の寝所で過ごした。



   −4− 14番目のソナタ

 コンクールの日は、大雪だった。年は明け、暦の上では春ということになっていたのだが。
 リエが雲隠れして、たっぷり3ケ月は経っていた。
「あら、ミド……リ?!」「ナオミおねえ……さま?!」
「奇遇ね、こんなところで」
 ミドリには、ナオミの毛皮コートがふぁふぁのもこもこなのが、イヤミに思えた。自分の化繊のフロックコートは、溶けかけた雪粒でくたびれて見えたから。
 脱いでしまえば関係ないことだが、気に障った。
 ミドリは白のパンツルックで、ナオミは血のような赤のワンピースだった。
「たまたま、無料招待[タダ]券もらったんで、来てみたんですけど」
「そう。あたしも、そうなの」
 ふたりの座席番号は異様に若かった。
 ホールの中央、アリーナで前から2列目。最前列はマスコミ&作業スタッフ専用だから、事実上の最前列である。
 ふたりの番号は連続していた。
「どういうつもりかしらね。わたしたちを一緒に御招待、なんて」
「あたしに聞かれても困ります」
「おまえなら知ってると思ったんだけど」
「何をです?」
「家出した子イヌがどこにいるか」
「知りません。うちに“も”いませんよ。もっともウチはマンションですから、イヌは飼えませんけど」
「そう。てっきり、どっかのドロボウネコがくわえこんだかと思ってたんだけど」
「飼い主がきちんとつないでおかなかった咎[とが]を、こっちに転嫁されても困ります」
「言ってくれるわね」
「言いたくはありませんけどね」
 気まずい沈黙があった。
「それでも少しは、お捜しになったようですね」
「何のこと?」
「あたし“も”車イスの教授に会いましたから」
「……」
「リエの居場所、あたしに“も”教えてもらえませんでしたけどね」
「いちいち“も”を強調するわね」
「ええ。あたしが調べた先々に、なぜか、どなたかいらっしゃっているんですよね」
「そう。誰かしら、ね」
 館内の暖房にはムラがあるようだ。ひんやりとしたものがあたりに漂った。
「おまえが愛人[オトコ]とでもいた夜に、リエが訪れたんじゃなくて?」
「おねえさまこそ。火遊びの現場をリエに見られたんじゃないんですか?」
 揶揄[やゆ]なのか、非難なのか。とにかく、ナオミにはめずらしい、直裁なイヤミだとミドリは思った。
「招待チケット[こんなもの]を送って寄こすんだから、元気にはしてるんでしょうね、きっと」
「そうですね」
「プログラムの順番は最後。来てますかね、リエは」
「来るでしょうよ。来なかったら、二度と早川家の敷居はまたがせない。いいえ、ピアノで生活できなくしてあげるわ」
 どことなくナオミがイラついていることは、ミドリにもうかがえた。
 知っててミドリは訊いた。
 リエの演題はショパンの「別離」。
 誰に聴かせたいのかは、一目瞭然である。
 とはいうものの、ミドリにとってリエとナオミの破局は素直に喜べなかった。ミドリに乗り換えてくれる保証はないからだ。
「最後[トリ]ってことは、いちおうは本命でしょうかね」
「いちばん目の細かいフルイかもしれなくてよ」
 ナオミには、素直にリエの応援ができなかった。
 リエが優勝するということは、すなわち、「別離」などという曲を、最大限に表現できたということだ。それが誰に向けられたものかは、ナオミだって知っている。
 早川家の人間は、得ること・奪うことには慣れていたが、失うことには慣れていない。
 ここ数カ月のイライラの原因はそのあたりにあるとナオミは漠然と考えていた。
 と、そこへ元気な声が降ってきた。
「あ、ミドリせんぱいとナオミ大せんぱいだ。ちは!!」
 アリサだった。
 まあ、元気な格好ね、とナオミは言った。
 ジーンズにスタジャン、イヤーマッフル!!。
 そりゃ、たしかに音楽会[コンサート]だけどねぇ。恐れ入ったミドリである。
「元気してた?」
「ミドリせんぱいこそ。もちろんです……って言いたいところなんですけど……」
 アリサの顔が曇る。
「リエせんぱいったら、ここんとこ、ちっとも会ってくれないんですよ。きっと秘密の特訓ってヤツなんでしょうけど」
 ミドリもナオミも、ははは、としか言いようがなかった。世の中、知らないほうが幸せなことが、なんと多いことだろう。
 ほどなく予告のブザーが鳴った。
 客席の照明が落ちて、幕が上がる。ステージに集まるライト。あいさつと開会宣言。
 一人。二人。三人……。
 さっさと寝てしまったアリサを除いて、ふたりには時間の経過が止まったように感じられた。せっかくのいずれ劣らぬ名演奏など、どうでも良かったから。
 
 ステージから見下ろす客席は、まるで夜の海のようだ。真っ暗な中、静かなざわめきが、寄せては返す。
 リエはステージ中央で一礼する。
 アリサちゃんの寝顔はかわいかった。
 ミドリがいた。
 おねえさまがいた。
 おねえさまと目が合った。
 おねえさまと視線がからんだのは、ほんの一瞬だった。
 舞台の上と下。
 陸と海。
 近いようで、遠い。
 そこには、越えられない一線が横たわっていた。
 ミドリの視線、おねえさまの視線を背に感じながら、リエは鍵盤の前に座った。
 −−誰のため、なんのために弾く?−−
 演奏開始直前の静寂。
 すべてが凍結した瞬間。
 リエは解答[こたえ]を見いだした。

 最初の打鍵と同時に、場内にざわめきが走った。
 ショパンの「別れ」ではなかった。
 楽聖ベートーベン、14番目のピアノソナタ。
 「月光」
 リエ自身、忘れていた、いや、封じ込めていた旋律だった。
 砕け散った初恋。
 おねえさまとの出会い。
 はじめて愛し合った夜。
 おねえさまの真の姿を知った、別荘での夜。
 一緒に暮らした愛の日々。
「月光」
 リエの、言葉にならない叫びを載せるには、これしかなかった。
「白のアリシア」でも、ましてや「別れ」でもない。
 伝えたいメッセージは、「遠くで見守っています」でも「さようなら」でもないのだから。
 すべての想いを託して、リエは演奏する。
 曲よ、伝えて。
 あの人にだけ届けばいいから。
 ただ一言、
「愛しています!!」
 と。

 開始直後ざわついた場内は、すぐに静かになった。
 異様な雰囲気にアリサは目をさまし、リエの演奏であることを知ると、あわてて聴き入った。
 ミドリは演奏のあいだじゅう、リエをにらみつけていた。
 ナオミは、ずっと目を閉じていた。
 水を打ったような場内を満たすもの。
 それはピアノの音ではなかった。
 夜の静寂を包む、淡い白銀の光だった。

 最後の音符が叩かれ、弦の残響が減衰し、止まった。
 すべてが終わった。
 一瞬遅れて我に返った場内は、拍手と歓声だけになる。
 いつになったら終わるのか、見当もつかなかった。
 賞賛の嵐のなかで、すべてが終わったとリエは思った。
 いま生きていることが、まだ魂が肉体のなかにあることが、とても不思議に思えた。おのれのすべてがピアノの音になったのだから。
 司会進行の男性にうながされて、ようやくリエはイスを離れた。
 一礼して、花束を受け取らねばならない。
 
 拍手と歓声はまだ続いている。
「それ、貸していただけるかしら」
 花束を持ってきた女性から、ナオミは返事をまたずに奪い取ると、ステージの真下に来た。
「いい演奏だったわ」
「おねえさま……」
 はじめはおどろき、すぐに顔中を喜びで一杯にしたリエが、ステージの上にいた。
 ナオミはにっこりと笑い、リエに花束を手渡す……のではなく、リエの伸ばした手をつかむと、力いっぱい舞台から引きずり下ろした。
 小さな悲鳴と、大きな転倒音。
 リエは思いきり床に叩きつけられた。
 それまで続いていた拍手は、どよめきに変わった。
 腰を押さえてうめくリエの手をつかみ、ナオミは強引に立たせた。
 襟首をつかみ、リエの頬を平手で打った。
 打った。打った。打った。
 リエの口内が切れたのだろう。口の端から、赤いしずくがつたわり、落ちる。
 ナオミの瞳のなかにリエが、リエの瞳のなかにナオミがいた。
 ふたりはしっかりと抱き合った。
「バカな子ね」
「おねえさまこそ」
 紅く汚れたリエの顎を、ナオミは右手の人差し指で上に向かせると、リエのくちびるに自分のそれを重ねた。
 鉄の味がするキスは、苦く、そして甘かった。

 早川邸では、今夜もピアノの音がする。
 弾いている者も、聴いている者も、それでいいと思っている。
 結局、リエはまたしても大賞[グランプリ]をのがした。
 どれだけすばらしい演奏をしたとて、違う曲を弾いたのだ。特別賞をもらってしまった事でさえ、異例中の異例である。
 これが、リエのもらった最後の盾となった。
 コンクールへのお呼びは二度とかからなかった。
 あれだけスキャンダラスなことをしでかしたのだから、当然の結果である。
 ナオミはナオミで、仕事[ビジネス]のいくつかや夫を失ったが、気にしてはいない。
 そんなもの。
 弾いている者も、聴いている者も、それでいいと思っている。
 誰のために、何のためにピアノを弾く?。
 楽聖ベートーベン、14番目のピアノソナタ。
「月光」
 それが解答[こたえ]だったのだから。



    −終−

あとがき

 音楽家名、曲名(通称名)は、ほとんどが実在します。全音ピアノピースにあるよん(弾いてみる?)。
 が、しかし。
 レオンハルト・アッシェンバッハだけは架空の人物です。したがって、彼の曲も実在しません。
 彼は赤石路代「アルペンローゼ」(小学館)という少女マンガに登場します。
「実らぬ初恋を生涯つらぬいた、男性の、夭折の天才ピアニスト・音楽家」ならば、誰だって良かったんですが、史実でアテがなかった(勉強不足?)からです。
 一部、「アルロゼ」と違うところがあります。
 戦後の彼の人生についての記述。これは、勝手に付加しました。アルロゼ原作および赤石路代本人の同人誌では、1945年までしか記述がないからです。
「アルロゼ」の原作連載時期・TVアニメ放映の時期は「エスカレーション」の発売された3年間(84〜87年)とほぼ重なっていました。他作品[よそ]のキャラクターを連れてきたことについての、いいわけにさせていただきます。
 何のことはない、「白のアリシア」をリエに弾かせてみたかっただけ、だったりして。

 これを発表した時点(94年12月)で、すでにエスカレーションは10年前の作品。
「10周年を記念して、同人誌を出すから、10年後の彼女たちを書いてくれ」と頼まれて。
 で。後日談を書きました。
 美籾にとっては、いつまでも彼女たちは中学生なんで。
 やりにくかったですねー。

「アルペンローゼ」アニメ版は「ゼータガンダム」の裏番組でした。
 というより、「エスカレーション」を見る方々の多くは、ちゃお掲載の少女マンガなんざ、ご存知なかったようで。
「くりいむレモンの派生作品なのにHがない?」
「もとネタが分からんっ!!」
「…異色」
 と、絶句されてしまいました。

 あれから7年。原作Part2から17年。
 01年07月、リメイクされました。
 リエが攻め?
 …。
「別物として」好きです。

 1984年。昭和59年。
 当時、1万円は聖徳太子。500円玉は出たばかり(きまぐれオレンジロード)。ファミコンだって赤と白の8bit。テレホンカードもワープロも普及前。日航123便もチャレンジャーも墜ちてない。チェルノブイリだって大島三原山だって吹っ飛んでない。地下鉄に冷房車はなかった。“国電”は103系だけ。ウォークマンは電池が2本必要。レコード屋はCDではなくレコードを売ってました。

 エスカレーション(くりいむレモンPart2&6)。
 いまはむかしの物語。
 昭和の時代のおとぎばなし。

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