宋雲院TOPページへ
 宋雲院の歴史  立花藩の江戸屋敷
 宋雲院殿および立花宗茂公について  宋雲院にある立花家のゆかりのもの
 立花家関係ゆかりの地を訪ねて  おわりに
 宋雲院殿および立花宗茂公について
3ページ
 
宋雲院殿肖像画
 
広徳寺にある墓石
左 宋雲院殿   右 宗茂公
 
高橋紹運公 肖像
 
立花宗茂公 肖像
 
戦国時代の北部九州の
主な軍事拠点
 
 
 宋雲院殿についてはあまり資料がないので、吉永正春著「戦国九州の女たち」を参考にさせて頂いた。宋雲院殿は、豊後(大分県)の戦国大名、大友宗麟の武将斉藤兵部少輔鎮実の妹(一説には娘)である。鎮実は武勇のほまれ高く、そのころ大友家臣の侍大将として、多くの戦場で武功を立てた勇将であった。一方、高橋紹運の実家は豊後国東の吉弘氏である。吉弘家は大友氏の一族で、父鑑理は同地の屋山城主であり、大友三老の一人であった。戦陣の合間を見て高橋紹運(弥七郎)が兄の鎮実に会ったとき、かねて約束の婚儀を実行し、鎮実の妹を妻に迎えたいと申し出た。しかし弥七郎が出陣中に、彼女はその頃流行していた痘瘡(天然痘)にかかり、今では、アバタ顔の見苦しい姿になってしまい、とても嫁にやるわけにはいかなくなったのだ。その為、鎮実の方から婚儀の辞退したのである。
 これを聞いた弥七郎は、驚いて鎮実を見て「これは思いもよらぬことを聞きました。私が妹御を妻にと所望したのは、彼女の優しさであって、決して容色の美しさではありません。いま不幸にして彼女の顔が変わってしまったと言っても、その資性は少しも変わっていないと信じます。どうして違約などできましょうか」ときっぱり言って、この婚儀をとり行い、彼女を妻に迎えた。
 ふたりが結婚した時期は不明だが、長子千熊丸(後の立花宗茂)の誕生が永禄十(1567)年十一月十八日であるので、結婚時、弥七郎十九歳、夫人は十六,七歳であったと推算される。
 宗茂(統虎)は、織田信長が天下取りに名乗りを上げる直前の永禄十(1567)年にうまれ、伊達政宗や真田幸村と同い年である。十五歳で元服を迎え、名前を千熊丸から統虎に改める。
この統虎を立花家の一人娘のァ千代の婿養子に迎えることになる。紹運夫婦は、最初この話があったとき、高橋家にとっては大事な跡取りである統虎を他家に養子に出すなど、とんでもない話と断っていた。しかし、“大友家の魂”とまで言われた忠誠ひとすじの立花道雪から膝を曲げての懇望とあって、紹運は否とは言えなかったのであろう。
 こうして統虎は立花家への養子入りが決まり、紹運公は、別れの盃を交わしたとき「今後わしを親と思ってはならぬ、武士の習いとして敵味方にでもなろうものなら、わしを討ちとるがよい。道雪殿は未練がましい振る舞いは嫌われるから、もし、そちがわしを前にして不覚を取り、道雪殿から離縁される様なことがあったら、二度とこの城に帰ってきてはならない。その時は潔く自害せよ」と述べて、統虎(宗茂)に備前長光の剣を与えた。天正九(1581)年八月、統虎は十二年間過ごした岩屋城を去ることになった。道雪の一人娘・ァ千代は、七歳で立花城の城主であった為、男勝りの気丈な娘であった。こうして宗茂は立花家の跡取りとなり、ァ千代と結婚した。
 当時、大友家の筑前(福岡県北西部)に於ける重要拠点は道雪の守る立花城、紹運が武将を務めた岩屋城、宝満城(ともに太宰府市)だったが、天正十三(1585)年九月に道雪病没。大友家の衰退に拍車がかかるなか、翌天正十四年七月には、島津軍に包囲された紹運が、自刃に追い込まれてしまう。この時宋雲院殿は共に自害することを紹運に願い出るが、「子供たちのために生きよ。我亡き後の処置は直次(宗茂の弟)に相談せよ。」と言い残した。山中に避難していた宋雲院殿や娘たち、そして直次夫婦は捉えられて、肥後南関(熊本県玉名郡南関町)に監禁された。このとき宋雲院殿は三十六,七歳と言われる。このとき宗茂は立花城におり粘って秀吉の援軍を待った。援軍の到着により岩屋城、宝満城を取り戻し、島津軍を降伏させた。短期間に行ったことが秀吉より高い評価を得て、柳河に十三万二千石を獲得し、天下人に認められた。大名としての地位を確立し、一躍武士としての名前を世にとどろかせた。
 天正十三(1590)年、宗茂二十四歳のとき、秀吉の小田原攻め(北条氏征伐)後の陣中見舞いで小田原へ行く。この功により徳川四天王といわれる。また、慶長三((1598)年に、加藤清正が韓国ウルサン城で孤立したときに、わずか千人の兵士による夜襲で、一万の敵を翻弄し救援に成功した。秀吉の没後、豊臣政権は内部から崩壊し初め、天下取りへの野望をあらわにした徳川家康と秀吉の家臣、石田三成の対立が激しくなり、慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いとなった。この時宗茂は、家臣を集めて対応を協議した。前評判では実力、声望ともに家康が有利である東軍(家康側)に着くべきか、あるいは柳河城にこもって局外中立を保つべきか、家臣の意見を一通り聞き終わると、宗茂は「家のためを思って、みなの言い分、ありがたく聞いた。しかし、私は勝負にはこだわらない。きょうの私があるのは、亡き秀吉公のおかげ、私は義に従い秀頼公に味方したい。」と言った。宗茂にとって重んじるべきことは、身の安全ではなく、武士としてあるべき生き方を貫くことであったのであろう。損得勘定を超えたところで立花家の方針は決まった。西軍の総大将毛利輝元の指示により、東軍について、大津城の京極高次を攻撃した。ところが高次を攻撃したが、関ヶ原の戦いで西軍は敗北、やむなく柳河へ撤退した宗茂は柳河城へ籠もった。加藤清正の説得により、ついに宗茂は降伏し、宗茂の処分は領地没収、天下無双といわれた勇士は浪人となり、徳川の世が始まった。
 慶長七(1602)年、宗茂の妻、ァ千代が亡くなる。宗茂三十六歳のときだった。慶長十一(1606)年、宗茂の身を案じた家康から江戸城へ呼び出され、罪が許されたので、家臣を数人連れて上京、二代秀忠公に拝謁する。そして、五千石の御書院番頭(将軍家の親衛隊長)に登用され、ひたむきな働きぶりが評価された。この頃より立花江戸屋敷の造営も始まり、宋雲院殿も江戸に移ったことと思われる。
 慶長十五(1610)年、福島・棚倉に移り二万石を与えられる。
 慶長十六(1611)年、四月二十七日、宋雲院殿亡くなる。墓所は下谷広徳寺内(現在は練馬)。
 慶長二十(1615)年、二度にわたる大阪夏の陣、冬の陣では家康の息子である秀忠の軍事顧問役に任されている。
 元和六(1620)年、家康没後、柳河十万九千石を与えられ、宗茂は大名を復活する。奇跡の返り咲きとなった。秀忠の言葉に「かつて僻村の小領に封じられていたが、それに対して恨みもせず、怒りもせず、ただ義命に安んじていたことは、まことに満足に思っている。それ故にこの度柳河の旧府を授けるから、ますます武備を修めよ」と言われた。かつて家をつぶした忠義心が、今度はお家復興の決め手となった。ときに宗茂五十四歳、柳河を後にしてから二十年の月日が流れた。
 翌年、江戸に戻り秀忠の御談伴衆として献身することになる。
御談伴衆とは、信任の厚い者のみに許された将軍の相談役である。外様大名である宗茂にこの任があたえられたことは、異例のことであった。
 寛永九1632)年、秀忠が死去し、三代将軍・家光の時代になっても、宗茂の地位は揺るがない。島原の乱では、家光が鎮圧に手間取ったとき、寛永十五1638)年、七十二歳の宗茂に直々に出馬命令を出した。老体をおして出陣した宗茂は、総大将の松平信綱と共に、一揆勢がこもる原城の攻略に着手した。戦後さすがの宗茂も老齢には勝てず、島原の乱以後は家督を養嗣子・立花忠茂(宗茂の弟・直次の四男)に家督を譲って隠居。寛永十九(1642)年、宗茂は病没した。裏切りや陰謀にいとまがない戦国の世にあって、最後まで自らの道理に生きた快男児は、その人生の幕を閉じたのだった。
 
 宋雲院殿および立花宗茂公について
3ページ
Copyright(C) 2003 Sanritsusyoukai all rights reserved.