平成二十二年三月十九日より九州博多地方を巡教(布教の説法)で回る機会があり、二十一日午後には巡教が終わったので、大牟田市の友人を訪ねる前に西鉄の柳川駅で下車して、天叟寺様を尋ねた。ここ天叟寺は、宋雲院殿のご主人・高橋紹運公の菩提寺である。大正十二年関東大震災が起こった時、宋雲院殿の墓所は上野の地にあり、広徳寺墓所と共に焼けてしまった。その後、墓所である広徳寺が練馬へ移転するにあたり、宋雲院殿の墓も練馬へ移された。その折お遺骨は柳川の天叟寺様へ返され、三百五十年ぶりに夫婦が合葬されたのである。四百年忌法要にあたり、天叟寺様に法要の導師をお願いに伺った。閑栖様とお会いし、宋雲院殿のお位牌を見せて戴いた。宋雲院殿と紹運公とが並んで書かれている。仏壇の前に出して回向をした。続いて裏にある墓所へ行き、三百五十年ぶりに夫婦合葬された墓所をお参りした。
資料によると天叟寺様は、臨済宗妙心寺派の寺院で、高橋紹運公菩提寺として知られている。寛永年間の三代立花忠茂が高橋紹運の菩提を弔うために建立したのが始まりとされ、開山は俊嶺宗逸、寺号は当初は桂林寺と称していた。天正四(1586)年、九州平定をもくろみ北上した島津義久の軍勢に対し、高橋紹運は岩屋城に籠もり奮戦するが、同年七月二十七日、ついに岩屋城は陥落し紹運以下七百余名の将兵は壮烈な最期を遂げた。この時の戦没者の位牌が天叟寺に置かれており、毎年紹運公の供養とともに法要が営まれている。」とある。
次ぎに「お花」へ向かった。ここは、立花家四代目・鑑虎(一六九七年)が、四方堀を廻らした総面積約七千坪のこの地域に、集景亭という邸を構えて、遊息の所とした。そしてこの地域が「花畠」という地名であったことから、柳川の人々はここを「お花」と呼んできた。創設当時の庭は、現在の建物、庭園の大部分は、明治四十二、三年にわたって十四代ェ治氏によって新築されたもの。当時大建築が流行した西洋館、大広間、そして園遊会場を備える、明治建築を代表する物の一つに数えられている。仙台、敦前尾模したと言われる園地は、二百八十本の松を配し、冬期には五百羽に及ぶ野鴨の群来で有名である。昭和五十三年、国の名勝に指定された。(お花のしおりより)タクシーにて西鉄柳川駅へ出た。
柳川を後にして西鉄特急電車で大牟田へ向かった。よく揺れる電車だ。本はとうてい読めない程揺れる。大牟田市は三池立花藩・つまり立花宗茂公の弟、直次が治めていた土地なので、なにか関係する旧跡があるのではないかと思って、以前より尋ねてみたかった所だ。友人のS氏に「三池立花家」のことを調べてもらったがよく分からず、彼と晩食をとりながら翌日尋ねるところを検討した。それらしき菩提寺がありそうだ。
翌二十二日、毎朝行っている散歩に出かける前に、ホテルのフロントで尋ねてみた。「三池藩の菩提寺のお寺は分かりますか?。」するとすぐにパソコンで検索してくれた。出てきたのは、真言宗の菩提寺という寺だった。「ご当地の三池藩主を弔うために建てたお寺です。」と伝えて再度調べてもらった。その間に市内の観光案内地図を渡されたので見ていたら、「紹運寺・三池藩主墓地」という字が目に入った。
紹運なら三池立花藩主及び立花宗茂公の父親の名前の寺であろう。そこに行けば父親の墓がお参りできるではないか。フロントで聞いたかすかな希望を持ってひとまず散歩に出かけた。
朝食後、S氏が車にて迎えに来てくれた。紹運寺という寺へ先ず行こう。と話すとそこなら知っていると彼は言う。近くに?龍梅で有名な普光寺があるので行ったことがあると言うのである。早速向かった。三池藩の屋敷跡が近くにあるとホテルのフロントの方は言うが、それらしき建物は見えなかった。大牟田市内を一望できる高台にある普光寺に着いた。地図では普光寺の奥に紹運公の墓があるように見える。しかしここは紹運寺ではない。ここは天台宗の寺である。
紹運公を祀るなら禅宗の寺であろう。近くを通った方に聞いたら、行きすぎていた。山を下りてみると「曹洞宗紹運寺」と門表に書かれていた寺があった。大きな桜は今まさに満開である。門の前には掃除をする青年がいた。門を入ると庭掃除をされている僧がおられたので、話を聞いてみた。「私の寺は立花宗茂公の母親の菩提寺で、東京から来た宋雲院と言います。母親は東京で亡くなっておられますのでご存じではないでしょうね。」すると「母親は居たのでしょうが全然分かりません」との返事であった。存在すらあまり気にしていないようであった。「では紹運公のお墓をお参りしたいのですが。」と墓所を訪ねたら、道を挟んで反対側の少し山を登ったところにあるとのこと。早速登って行った。あまり手入れもされてなく、草が生い茂っていた。年に一度立花家の現当主がお参りに来られることを聞いたので、その時は綺麗にされるのであろう。墓石には「安寧寺殿天叟紹運大居士 天正十四年丙戌年七月念七日 高橋前興兵衛源朝臣鎭種」と書かれていた。お参りをして回向をしたが、妙なことに法名が異なる。高橋紹運公の菩提寺・柳川の天叟寺様では、「天叟寺殿」となっているが、ここは「安寧寺殿」となっており、以前は安寧寺と言っていたのであろうか。このことをここの寺に尋ねてみようと思ったが、先ほど掃除をしているときに、この後法事があると言われていたので、そのままここを離れることにした。
大牟田市教育委員会による案内板には、「初代直次・五代貫長以下十代種温まで歴代藩主の墓は、東京下谷広徳寺に墓地がある。」と書かれていた。現在広徳寺様の檀徒に、「立花家」があるが、この三池藩の系統のようである。天気も良く、風もなく三月にしては暖かい。ウグイスも気持ちよさそうにさえずっている。大牟田市を後にしてバイパスを通って柳川市へ向かった。
柳川市は立花家十一万石の城下町である。四十分ほどで着いたが最初の目的地、三柱神社が見つからない。前日伺った天叟寺様の近くにいるので再度伺って尋ねることにした。奥様は再度私が現れたので少し驚いた表情であった。三柱神社は通りすぎており、神社は柳川駅の北側に位置する。今日は休日のため川下りのお客の呼び込みが多い。舟に乗らないので呼び込みの方に断って通過し神社の駐車場へ入った。暖かな良い天気だ。広い参道が百メートルはあろうか、幅が三十メートルもあろうか。案内板を読んでみると、春の行事として「流鏑馬」を行うようだ。広さに納得して突き当たりを左に曲がると本殿が見えてきた。ここは戸次(立花)道雪・ァ千代(道雪の娘・宗茂の妻)・立花宗茂の三人を祀っている。平成十七年六月に火災により拝殿、廻廊が全焼したが、本殿は延焼が免れた。ただ今再建中である。
福厳寺へ向かう。山門前で車を降りて境内へ入る。だいぶ以前に参ったことがあるので二度目になる。「梅岳山福厳寺」といい黄檗宗の寺である。もとは曹洞宗の寺であったが、立花家四代鑑虎のとき、黄檗宗になった。境内には立花家の歴代の墓所がある。広い境内には誰も見られず、がらんとしていた。本堂に参ってから左手へ回る。ここに関東大震災以後に、以前伺ったときには、下谷広徳寺より運んだ墓石があったので、それを見たく思った。立花家歴代の墓石が並んでいるが、この反対側に以前広徳寺から改葬された墓石があったはずだが見あたらない。奥には墓所があるようだが鍵が掛かっているので入れない。寺務所へ行ってみたが誰もおられないので、帰ろうと思ったとき、住職さんらしい作務衣を着た方が自転車に乗って帰ってこられた。東京の宋雲院と名乗ってから、東京から改葬された墓石をお参りしたい旨を頼んだら、快く承諾して頂き墓所へ案内して下さった。二段ほど高いところに近代の立花家の墓所があり、その一段下がったところに八碁ほどの墓所がある。両方とも新たに改葬されている。三碁に「下谷宋雲院より改葬」という字があることを確認した。「この宋雲院が私の所です。」とご住職に話すが要領を得られない。下谷広徳寺からの改葬された墓石のことを伺ったがやはりご住職には分からないとのこと。何故ここにあるのかもお分かりではなかったようである。関東大震災で広徳寺の墓所が火災で焼けてしまい、その後区画整理があり墓所は練馬へ改葬することになり、立花家関係は柳川の縁のある寺へ改葬されたのである。これまでに至る経緯をお話ししてここを辞した。
柳河城へ向かう。地図で場所を確認したら、柳川高校の西側にそれはあるようだ。道路上に石碑のみが残されているのであろうか。目をこらして北側を見ていたら見つかった。「柳河城趾」と書かれた石碑があった。柳川高校の左手が小高い丘になっており、その奥は中学校のグラウンドになっている。部活をしているのであろう、野球部のかけ声が二重三重に聞こえる。ここ柳河高校は野球も強いし、テニスの松岡修造の出身校でもありテニスも盛んであると聞いている。小高い丘に登るとそこは野球場のような広さがあり、転々と城の土台の石が残っている。北側に案内板がある。明治三年撮影の柳河城天守閣の写真があり、平城であることが分かる。「戦国時代には難攻不落の名城として知られた」と書かれている。説明によると、「柳河」は鎌倉時代からみえる地名で、蒲池の国人に当たる蒲池鑑盛が永禄年中(1558~1569)に柳河に築城したといわれている。戦国時代の柳河城は度々の攻城戦に耐えた名城として知られ、龍造寺家晴の守る柳河城を戸次(立花)道雪も攻めあぐねたと伝えられる。天正十五(1587)年、豊臣秀吉の九州兵手に際して、その功を認められた立花宗茂は、南筑後三郡を与えられ、柳河に城地をうつし、本格的の城郭施美にとりかかった。しかし、宗茂は関ヶ原の戦いにおいて西軍にくみしたため、僅かに十三年で改易され、宗茂の城郭整備事業はその後入城した田中吉政によってひきつがれた。已後、柳河城は柳河藩立花家十一万石の居城として明治維新を迎えることとなった。明治五(1872)年一月、天下の名城とうたわれた柳河城も失火により焼失、石垣も海岸堤防の補強に使用されるなど現在は柳城中学校の校庭の一隅に小浜と石垣の一部を残すのみとなっている。
写真を撮り終わったところで時計を見たら、昼が近くなってきているので、柳川名物鰻を食べることにしたが、お彼岸のお中日の休日で、どこも昼時と重なりかなりの人で一杯である。「若松屋」にて食事をする順番の名前を書いて待つことにした。店の前は川下りの舟が着くところでもあり、天気も良くて人があふれている。岸辺の柳が緩やかに揺れていて、暖かい風が心地よい。待つこと四十分。声が掛かったので二階へ上がる。仲居さんに鰻重を注文すると、「暫く時間が掛かりますので、これを見てきてください」とチラシを受け取った。「柳川伝承さげもん」のチラシである。奥の部屋に行くと、綺麗な雛飾りと天井から下げられた「さげもん」があった。
チラシによると、「柳川伝承さげもんは、柳河城内の御殿女中が着物の残り布で、子供のおもちゃや琴爪入れを作ったのが始まり。そのうちに、それらを下げて楽しむようになり、今に至っている。」この店のおばあさんが丁度おられて、説明をしてくださった。「これらは私の孫が双子でしたが、その子のお祝いに揃えたり頂いたりしたものです。その双子の孫も今は高校生です」と、笑みを浮かべて話された。「さげもん」は娘や孫の幸せを願う母の思いが込められているようだ。席へ戻ると程なくして鰻重が運ばれてきた。東京で食べるのと少し異なる。鰻とご飯が別々にある。鰻は皮が少し固かったがうまかった。
柳川を離れて次に太宰府へ向かう。高速へ入るのに一時間ほど掛かった。九州道の太宰府で下り、太宰府天満宮を目指すが、人と車が多くてなかなか進まない。駐車場も混んでいるが何とか入れた。五百円の駐車料金を払って、西門より入る。天満宮は受験シーズンなので若い方が多く参拝していた。我々も参拝して程なく戻り、近くにある「岩屋城本丸跡」と「高橋紹運墓」の場所を駐車場の係りの方に尋ねると、「右手の山の麓にあるので、右へ出て赤い橋を渡り山を登ればすぐ見つかる。」とのことで出発した。赤い橋を過ぎるとすぐ山道になり、車の通行もなく程なくして右手に「岩屋城趾」の看板が見つかった。その先で車を止めて、始めに高橋紹運公の墓所へ参る。岩屋城趾の看板と反対側「高橋紹運墓」の立て札があり、道を下りて五十メートルほど行くと、左手に土饅頭が見えてきた。柵の中へ入ると、土饅頭の前には花と線香が供えられていた。左手に「紹運公の墓」の文字が見え、ここが二の丸の跡であることが分かった。この土饅頭の下に紹運公が葬られている。つまり宋雲院 殿のご主人に当たる方の墓である。お経を読んで回向をした。
柳川の天叟寺様によると、ここが本当の墓になるとのことを話されていた。今回のゆかりの地を訪ねる一番の目的のところが参れたのでホッとした。来た道を戻り、「岩屋城趾」の看板を通って少し登ると視界が開けてきた。眼下には太宰府市が一望出来る。天満宮もすぐそこに見える。よくもこんなに高いところに築城したものだ。「鳴呼 壮烈 岩屋城」と書かれた大きな石碑が目に入った。島津軍との交戦の末、高橋紹運公以下七百名が壮烈な戦死を遂げたところである。今は静かに石碑のみが残っている。暫く辺りを見回して、紹運公がここで亡くなったのであるが、どんなにか無念であったろうかと思いを馳せた。
説明板によると、「岩屋城は四王寺山の南端に築かれた山城である。大友一族の一万田弾正忠の弟は、筑後の名門である高橋家に入り鑑種を名乗り、筑前での拠点として宝満城を築いたが、岩屋城はこの宝満城の支城として築かれた。永禄九年、鑑種は毛利氏や秋月氏に呼応して大友家に謀反をおこし豊前小倉に移されたが、大友宗麟は吉弘鑑理の次男である鎭種(高橋紹運)を高橋家に入れて、岩屋・宝満城を守高橋家を再興させた。天正十四(1586)年、島津義久が九州平定をいとして大軍を北上させ、紹運の守岩屋城を取り囲む。これに先立って宗茂は紹運に立花城への退去を勧めたと言われるが、紹運は宗茂の弟直次(統増)らを宝満城に入れ、決戦に臨んだ。一説によると島津軍五万の大軍に対して、城方はわずか七百余名と伝えられ、十四日間におよぶ激闘のすえ、岩屋城は陥落し、紹運以下七百余名の将兵はことごとく玉砕するという壮烈な最期をとげた。」とある。紹運公の最期の場所を忍びここを後にした。
これで一回目の探訪記を終える。思った以上に縁のあるところが回れたのも大牟田市の友人のお陰であった。福岡空港まで送っていただき彼と別れた。
四月八、九日が二度目の巡教も九州になっていたので、前回行けなかったところを巡ってみた。八日の巡教先で昼食を戴いた後、地元のお寺さんに今日の宿泊地へ送って戴いた。途中、立花山の麓を通ってもらった。立花城は下からは確認できないが、立花口を入ったところに「梅岳寺」があるので寄ってもらった。車を降りて案内板を読んでいたら、立花道雪の墓があることを確認した。ここに道雪とその母「養孝院」の墓が祀られている。しかし外からではそれらしき墓は見えないので、玄関のブザーを押すと、若い僧が出て来られたので、東京から来た宋雲院を名乗ったが、「宋雲院殿」のことは分からないようだ。お墓に案内してくださった。本堂の裏手へ回ると、柵で囲まれた一角にお墓があった。入り口に「立花道雪公墓所」と書かれた石碑があり、鍵を開けて下さり中に入った。三つ並んだ墓があり、右側が道雪公の墓のようだ。大悲呪を読んで回向をした。
案内板によると梅岳寺は「立花山麓にある曹洞宗の古刹で、立花城の城主戸次(後の立花)道雪とその母の養孝院の墓所がある。天正十三(1585)年に道雪が筑後北野の陣で病死すると、高橋紹運らはその遺骸を守って立花山に帰り、母の墓所のある養孝院に葬った。法名は「福厳寺殿梅岳道雪大居士」という。この法名にちなんで立花山梅岳寺と改められた。この梅岳寺は宗茂が柳河の地に移る際に立花家の香華所として、ともに移され、後の福厳寺となるが、道雪とその母の墓はそのまま立花城下に残された。」とあった。
梅岳寺の僧にお礼を言ってそこを辞した。そして今日の宿まで送って戴いた。立花口より五分ほどの所であった。送って戴いたお寺様にお礼を言ってひとまず部屋に入った。晩食にするまでにはまだ時間があるので、タクシーを呼んで再度立花口へ向かうことにした。先ほど訪れた梅岳寺の前で車を降りて、ここより立花城に登ることにした。程なくして立花城の案内板が目に入る。これより千二百メートルと書いてある。覚悟を決めて登り口へ入る。天気は良く、ウグイスやその他の野鳥が心地よい声でさえずっている。木が階段状に組んであり一歩一歩足を進める。ハーハーと息が荒くなる。あと八百メートルの標識がある。鬱蒼とした木々の下を歩くのは久しぶりだ。四年ほど前に尾瀬に行ったがそれ以来だろうか。だいぶ空が開けてきた。「石垣跡」の看板があるがそれらしき石垣の跡が見えない。どうもこの看板はどこからか抜かれてきたのであろう。それは放り出されたように置いてあった。「大手門跡」を抜けたら急に視界が開けた。とうとう頂上に到着だ。そんなに広くはないが、ここに立花城があったのか?。右手へ十メーターほど行くともう崖になってしまう。そこに「立花山山頂 367M」と書かれた木版がある。それ程高くはないが、博多湾が一望出来る。先月行った、志賀島も右手にはっきり見える。中海の中道、そして渡ってきた鉄橋、博多へ通じる国道も手に取るように見える。この城にァ千代は七才で女城主になったのか、眺めも良く、気持ちよかっただろうと今ならそう思えるが、ァ千代が居たときは戦国時代だ、そんな悠長なことは言ってはおられなかっただろう。
「立花宗茂と柳河」をネットで調べてみると「立花城の歴史は建武元(1334)年、足利尊氏の家臣として仕えた大友定宗の子、大友貞載が博多湾進出の拠点として同湾を望む立花山に城を築いたことに始まる。以後貞載はこの地名である「立花」姓を名乗り権勢を振るい、立花城は「筑前の要塞」として重要拠点となる。永禄八(1565)年、同十一年に立花城主の立花鑑載が主家の大友家の謀反をおこすと、戸次(立花)道雪は臼杵鑑速、吉弘鑑理らとともに、今度は毛利氏の手に落ちていた立花城を攻め、城方を報復させる。これらの功により、道雪は元亀二(1571)年に大友宗麟により立花城の城督に任じられた。その後、道雪の跡を継いだ宗茂が柳河城に移ると、立花城には小早川氏が入城し、次いで黒田氏が入城する。しかし、慶長六(1601)年に稲岡城が築かれると、立花城は廃城となった。立花城の石垣は福岡城の城壁に利用され、現在立花山には僅かながら城の石垣跡が点在する。」
山上で城跡の空気を満喫したので下りようとしたところ、ここの山をよく縦走しているという方にお会いした。度々ここへは来られるようで、石垣跡へ、そして古井戸跡へも案内して下さった。下りは時間も掛からずに下山できた。そして宿に戻り翌日の法話の準備をした。
翌日九日、朝九時半に迎えのタクシーが来た。運転手に立花家のことを尋ねてみたらあまり詳しくはないようだったが、「私の先祖の名前が付いた商店街が東京にあります」と言われたので運転手のネームプレートを見てみたら、「佐竹清隆」と書いてあった。「佐竹商店街のことですね」と私が言いますと、「そうです」と言われた。今も佐竹商店街は台東区に残っており、私が「江戸時代に立花藩の上屋敷がありましたが、その隣に佐竹藩の屋敷がありました。」と話したら、この話で盛り上がり、現在の様子を伝え、時間が立つのを忘れるほどだった。あっという間に今日の巡教先のお寺に着いた。
以上で福岡での探訪は終わった。今回宋雲院開基・宋雲院殿の四百年忌にあたり、福岡県の立花家ゆかりの地を巡ることが出来た。各地で今もなお、立花家を守り続ける多くの方がいることに、改めて心打たれる思いがした。 |