宋雲院TOPページへ
 宋雲院の歴史  立花藩の江戸屋敷
 宋雲院殿および立花宗茂公について  宋雲院にある立花家のゆかりのもの
 立花家関係ゆかりの地を訪ねて  おわりに
 宋雲院にある立花家のゆかりのもの
6ページ
 
宋雲院本堂前扉
立花家祇園守紋
 
立花鑑良公の石碑
 
 宋雲院本堂の仏壇前の扉には立花家の「祇園守紋」が描かれている。これは「祇園社」(明治時代の神仏分離令以降は八坂神社と呼ばれている)の守札がデザインのもとになっている。立花家の伝承では、宗茂が夢の中で祇園神から守札をいただいたことを機にこれを家紋にしたと言われている。
 法要の時に使用している、向かって左側にある大きな鐘には、「為浄満院殿 寄付 柳河臣」と書かれている。浄満院殿は八代「立花鑑通」の子、鑑門であり、三十三歳で亡くなっている。大きい鐘は立花家臣からの寄付によるものであり、未だ使用に耐えているので、ありがたく思う。
 また、庭には石碑がある。そこには「十三代、立花鑑ェの子、鑑良」のことが書かれている。鑑良は幼名を主太郎といい、安政四(1857)年、柳河で生まれた。明治五年十二月に静岡遊学中に熱病に罹り、翌年一月に亡くなる。享年十七歳であった。広徳寺に葬られている。大変優秀な方だったので行跡が書き残されて、宋雲院の庭に設置されている。碑文の全文を載せてみた。石が欠けており、文字が読めないところは○印にした。
「從○○○徳公諱鑑良幼名主太郎馨徳其謚從四位立花公鑑ェ長子也安政四年文○七日生於奮封筑後柳河主母関氏文久元年往江部居下谷邸嫡母田安氏養為子三年從田安氏歸柳河明治四年先是列国諸侯奉還封士更任知藩事至是皆免使徒居東京九月公従立花公至東京十一月加冠叙従五位五年二月游學静岡六年正月七日卒於静岡容舎十二月歸葬于下谷廣徳寺享年十七公幼仁孝愛人其歸柳河也年甫七歳置傳保近習醫員産豎二十餘名公待之有禮或告病○日公輙間左右云某病何如左右以○恙對則喜童豎嬉戯誤仆地公煦々目撫視之尤○言人之過近臣陪膳或夫容公為不知以掩其過立花公庭詞極厳及公稍長文政科皆立日課公率諸弟日夜○業孜々若不及焉甞患○○人○不愈毎冬月尤○血○淋漓脛無完膚而○??馳馬亳無難色人或止之不聴曰若父命何常命左右右讀野乗毎其及忠孝節義之談俛首聴之往々至於流涕也公於書學不甚留意而○力○勁自然有法待臣多有蔵其書者試覆其印識以示人人皆認為名家筆矣又善銃技射○雁於百歩外軌能命中侍臣皆不能及焉公為人美姿容毎朔節或代立花公出見群臣風采凛然動止如成人人皆歓美焉閭里田野聞公賢伺其出遊父老相携夾 路出拝膽望咨瑳有埀涕者焉及其徒東京時年十六概然曰東京紛華之會非動學之地也○游静岡受歐學於某氏従游者二人使其同受業飲食衣眼之需皆自辨之毫無納袴氣習居一年学業日進其初罹疾也不省為悪症猶在学舎不癈課業数日病勢俄劇出就容舎旬有除日而逝矣立花公甞識勝参議素重其為人公亦慕其名常往請其教執禮甚恭参議大器之及其卒深悼惜之曰斯人而天奪之寿人生之不可侍若此乎公卒之三年舊臣在柳河者傳保以下三十餘人謀表於公墓使余為之文鳴呼公之在世也余以駑劣?近左右○其眷遇十有餘年解衣衣我分食食我今也公逝矣老奴禎然尚禎息人間豈忍表其墓哉雖然不可使公之善行泯没無傳也○呑泣?叙其行實若此八年正月柳河志賀喬朮述」
  以上
参考文献

 「立花家記」柳川市発行
 「図録・立花宗茂展」
 「朝日カルチャーシリーズ・名将の決断」40号
 「歴史街道」PHP研究所
 「西日本人物誌13立花宗茂」西日本新聞社
 「上野・浅草歴史散歩」台東区発行
 「戦国九州の女たち」吉永正春著
 「小説 立花宗茂 上下」童門冬二著
 西日本人物誌「立花宗茂」川村哲夫著

 
 宋雲院にある立花家のゆかりのもの
6ページ
Copyright(C) 2003 Sanritsusyoukai all rights reserved.
S