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 宋雲院の歴史  立花藩の江戸屋敷
 宋雲院殿および立花宗茂公について  宋雲院にある立花家のゆかりのもの
 立花家関係ゆかりの地を訪ねて  おわりに
 立花藩の江戸屋敷
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 江戸時代には各藩は江戸屋敷をもっていた。立花藩にも上屋敷、中屋敷、下屋敷があり、それらを尋ねてみることにした。台東区より発行されている「上野・浅草歴史散歩」(重ね地図で歴史を尋ねる)が参考になった。これは、薄い透明なビニールに江戸時代(安政三年製、1856)の地図が印刷されており、
 
 
西町太郎稲荷
 
中屋敷跡
 
太郎稲荷大明神
 
太郎稲荷の豆まき(下屋敷跡)
 
 
それを現在の地図に重ね合わすことが出来る。これを見ると、上屋敷は現在の台東区東上野一丁目一番から二十八番までの十二番から十九番を除いた部分が相当している。一丁目の三分の二を有している。かなり広い地所であったようだ。中屋敷は台東区小島及び三筋の一部になっている。上屋敷ほど広くはないが江戸古地図には大きな池が描かれている。そして下屋敷は台東区入谷二丁目と千束二丁目に掛かって敷地があった。

いずれにも敷地内には現在は道路がいくつも引かれているが、現在の地図上で広さが分かるようだ。早速自転車に乗って出かけてみた。初めに上屋敷跡へ向かった。知人より聞いていた「太郎稲荷」へ先ず行った。上屋敷の中にあったものだが、以前あったところより今の所へ移動したとのこと。「西町太郎稲荷神社」と書かれた赤い旗が左右に掛かっていた。「太郎稲荷」は東上野一丁目二十三番二号にあった。今は三月に初午の行事を一度だけ行っているとのこと。地元の方もここのあたりは立花家の跡地であることはよく知っているようだ。今では春日通りに面するところは商店が建ち並び、もちろん昔を偲ぶものは何も残っていない。
「立花家記」によると、上屋敷の総面積は、一万三一三二坪二合(約四万三三三五平方メートル)であった。屋敷図が今も残っており、その構造を見ることが出来る。屋敷地はほぼ長方形で東西方向に長く、西方を堀で囲まれている。「表御門」は南側のやや西寄りにある。また「裏御門」が西側中程にあり、南側東よりには「猿楽門」東側にも「東御門」がある。「表御門」を入り東へ進むと、表御殿の「式台」「御玄関」へとたどり着く。表御殿は中庭を中心に建物が取り囲むような構造になっている。中庭の西側には「御書院」「御広間」「小座敷」があり、東側には、「御時計間」「御鏡間」「御客間」など、北側には「御進物役所」「坊主役所」などがあり、広くて書ききれないほどの部屋がある。
上屋敷の中で眼を見張るのは東側に「如意亭」という庭園があった。「如意亭図」が残されており、池の周りに松や柳が植えられており、桜やツツジ、カキツバタもあったようだ。四季それぞれに趣のある花が咲き誇ったことと思われる。また上屋敷には井戸が十一カ所あり、その内五カ所が掘り抜き井戸で、清浄な水を得ることが出来たようで、この井戸によって、上屋敷の飲み水などは賄われたようだ。
この庭園を題材に「如意亭八景同十二景」という漢詩が詠まれている。この漢詩によると、池の水には流れがあり、水車も備えられていたようである。園内に配置された岩には、夜になると灯火が掛けられ、夜に眺めてもまた風情があった。また、園内からは神田の家並みや湯島聖堂、寛永寺、江戸城などが眺めることができ、遠くは富士山や箱根の山々を望むことができたようである。

 中屋敷跡へ向かった。途中で佐竹家の屋敷跡を通った。「佐竹」と言う名前だけが佐竹商店街となって残っている。去年、福岡でタクシーの運転手の名が「佐竹」さんであったこと、そして車中で話をしたことを思い出した。五分もしないで中屋敷跡辺りへ着いた。江戸古地図では、南側は町人の家が接近しており、あまり広くはなさそうだが、中央に大きな池が書かれている。その場所辺りは丁度交差点になっていた。

 次に下屋敷跡へ向かった。カッパ橋の道具街を抜けて行くと程なく金竜小学校のグランド北側に着いた。江戸古地図には敷地内に「太郎稲荷」の文字がある。その辺りを探してみたがそれらしきものが見あたらないので、近くの方に聞いてみたら、すぐ先を右に曲がったところにあるという。「太郎稲荷」はあった。「太郎稲荷大明神」と書かれた赤い旗が掛かっていた。住所は台東区入谷二丁目十九番一号にある。以前、ここら辺りは「光月町」と言っていた。「光月町太郎稲荷」とも言われる。「旧町名由来案内」版が近くにあったので読んでみたら、「太郎稲荷神社は、薪堀川沿いにある立花家の下屋敷にあった。生い茂る樹木の奥に社殿があり、参詣する人で賑わっていた。現在は、地元の人々により祀られ、祭礼などが行われている。」帰ってから地元の町会長様に電話で聞いてみたところ、太郎稲荷の前で、二月三日に豆まきを行っている。また、昔は「太郎講」があり、たいそう賑わったらしいが、今は行われていないとのことだった。

 「太郎稲荷」について「立花家記」によると、享和三(1803)年、二月中旬ころから、江戸の町で大ブームとなり柳川藩下屋敷の鎮守である太郎稲荷の御利益があるという噂で、江戸とその近在から老いも若きも群集して参詣するようになった。年が明けるとさらにエスカレートして、太郎稲荷の参詣者で道が渋滞起こるまでになったそうだ。しかしながら、二年間ほどそのような状態が続いたがその後は、一時の熱狂はさめてしまい衰退してしまったようである。
 その後、慶応三(1867)年から明治元年にかけて再び参詣が始まり、参詣者を当て込んで飲食店が建ち並んだようである。この流行も翌年には終息している。昭和期に入って二社あった太郎稲荷は北側の一社のみになり、かつて大流行した太郎稲荷も、明治末頃になると訪れる人もまばらになってしまったようである。
 一方、上屋敷の太郎稲荷は大正十二年の関東大震災で被災し、昭和五年、下谷西町(現東京都台東区東上野一丁目)の区画整理にあたり、太郎稲荷は移転することになった。当時の西町南部会は、新たな社殿を至急建設すること、また町内繁栄の一策として一般の人が参詣出来ることなどを立花家へ請願している。立花家では要望を入れ社殿造営に取りかかり、新たな社殿が完成している。現在でも地域住民の信仰をあつめ、大切に維持管理されている。

 
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