B “蜜月まで何マイル?”より


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『ルフィが…目ぇ開けねぇんだ、チョッパー。』
 まるでこの世の終わりでも来たかのような、どこか思い詰めた気配の濃い、真っ青な顔色になって船医殿に訴えかけた剣豪であり、
『ええっっ!』
 それは大変だっと、一緒になって真っ青になりかけて、だが、
『…ゾロ?』
 もしもし? と。そこは冷静に我に返る。この愛らしい船医くん。時々少々臆病で、それは易々とパニック状態に陥りもするが、だからといって、底抜けに慌て者だったり粗忽者だったりする訳ではない。というか、いつもいつも言葉少なに冷静で、どっしりと落ち着いている筈なゾロがこんな様子だったからつい釣られたものの、
『いつものお昼寝なんだろ?』
 寝不足だったから深く深く寝入ってしまっているだけなんじゃないのかと、しごく穏当な解釈を持って来た彼だった。だが、
「この匂いとその帽子。この条件下でこの様子ってのは、確かに訝
おかしいわ、うん。」
 ゾロの疑念へナミも同調するように怪訝そうな顔をして見せる。まだ今一つ飲み込めないらしいウソップが、
「何でだよ、ナミ。」
 キョトンとした顔で訊くと、
「ばっかねぇ、忘れたの? あの帽子はルフィの宝物なのよ? ゾロとの痴話ゲンカの種にだってなるくらいにね。」
 ドーンと24フォントくらいの3Dタイプ・角ゴシック体の効果音を背負って言い切るナミであり、
「…おい。
(怒)
 あはははは、ウチは少ない方なのでは…。
(笑)そうまで大切なものをうっちゃっていたというのは、成程、十分に奇異なことだ。剣豪曰く、寝ぼけ半分でいてもしっかりと手を添えていて、滅多なことでは離さないそうなのだからして。
「それに、こうまで目一杯に香ってる蜂蜜入りシフォンケーキの匂いに、まるきり無反応だっていうのも訝しいわ。…昨夜、そんなに寝てないの?」
「何で俺に訊く。」
 やはりむっとした顔になるゾロだったが、この男臭くて迫力も半端ではない海賊剣士のきつい睥睨に怖じけもせずに、ナミは言葉を重ねた。
「この際よ。邪推は無し。どうなの?」
 彼女だとて途轍もない事態に飲み込まれているルフィが心配で、なればこそ言葉の通り…彼らの甘い夜の過ごし方やら何やかやを揶揄するかのような、詰まらない邪推なぞ抜きの、本気で真剣な訊きようなのだ。そんな気配を察して、ゾロは微かに溜息を洩らす。
「よく寝てたよ。夕食にプラムワインが出てたろうが。あれ飲んだせいで、部屋に帰りつく前にもう寝ちまってたさ。」
 ルフィはアルコールがダメなお子様体質で、だが、あまり明らさまにそれを考慮してある構われ方をされるとご機嫌が斜めに傾
かしぐことがある。そういうところもまた"お子様"な、結構ややこしい船長さんなのだ。そんな事情から、昨夜の晩餐には他のクルーたちには料理に合わせた白の少しばかりくっきりした飲み口のワインを、そしてルフィと船医殿には、仄かに甘い、梅酒のサイダー割りが出されていたのだが。
「そっか。じゃあ、寝足りてた筈なのよね。」
 なのに、チョッパーが最初に嗅がせた気つけ用の刺激臭にも丸きり反応を示さない。寝不足から熟睡しているだけだろうという推量は、どうやら当てはまらないようだ。そこへ、今までこの医務室に不在だったサンジがやっと現れて、
「ほら出来たぞ。これの匂いを嗅ぎゃあ一発だぜ。」
 銀のトレイに載せられて、恭しくもキッチンから運ばれたのは、岩塩とガーリックと香草をきかせてそれは香ばしく焼かれた、大きな骨つき肉のこんがりローストだった。彼もまた、ルフィが寝不足というのはあり得なかろうという考察があっさりと浮かんだため、ならばと、この魅惑の"気つけ薬"を作りにかかった訳だが、
「ほ〜ら、ルフィ。お前の大好物だぞぉ?」
 手慣れた優美なお作法のもと、切り分け用の長いナイフとフォークとで手際よくスライスされるロースト肉の塊りは、表面の香ばしいカリリと焼かれた部分が削がれると、ふわりと浮かんだほのかな湯気をまといつけて、柔らかに仕上がったミディアムレアの切り口がお目見えする。極上にして絶妙な焼き加減の赤身肉。上質の脂が適度に入った"サシ"の部分が程よく蕩
とろけていて、フォークで軽く押さえただけで、じわり…と旨みたっぷりの肉汁がしたたりあふれて来るから…くぅ〜〜〜っ、たまらんっ!おいおい
「ほらほら。どんだけ食っても良いんだぞ? ルフィ?」
 こんな場合でもおざなりにはしない。しっかりクレソンとプチトマトが添えられている真白な皿に盛り付けられたローストの切り身。それを眠れる船長殿のすぐ鼻先にまで近づけて、ふわりふわりと揺らめかせ、絶品な香りを送ってみたが………、

  「……………。」

 やはりルフィはぴくりとも動かないから、
「……………。」
「………いや、だからお前の腕がどうのって問題じゃないんだって。」
「元気出せ、サンジ。」
 そ、そうだぞ。壁に額をくっつけたまま、肩を落として"どよ〜ん"と落ち込んでる場合じゃないぞ、シェフ殿。
「これでも駄目となると…。」
 これはますます尋常ではない。もはや万策尽きたかと…、

  「判ったわ。」

 おおう、びっくりしたっ。何ですか、ナミさんたら、いきなり。
「何がだ?」
「原因が分かったのか?」
 ただ一人だけ、先に納得しているナミの様子へ、あとの面子たちが注目して来たが、
「そうじゃなくて。…あのね、最後の手段を使わせてあげる。」
「???」
 使わせてあげると言われても。真っ直ぐに視線を向けられて、だが、ますます訳が判らず、合点がいかないという片眉上げ顔になっている剣豪へ、
「10分間だけ、あたしたち此処から席を外すから。あんたにしか出来ない方法で呼びかけてみて。」
 ナミは至ってクールな真顔で言い切った。
「…それって。」
「照れてる場合じゃないわよ? コトは一刻を争う…のかも知れない。そうでしょ? チョッパー。」
 話を振られて船医殿も頷いた。
「うん。脳梗塞って言ってな、頭の中の細かい血管だとかに何かしらの障害が起こってのことなら、早く処置をしなきゃ命が危ないぞ?」
 恐らくはナミもそんな知識があったからこそ、つまらない回り道や揚げ足取りなぞ一切挟まない、きびきびとした話の進め方をしていたのだろう。くどいようだが全員が本気で心配しているのだ、今は。決して、冷やかしやおちょくりからの発想や発言ではない。畳み込むような勢いと有無をも言わせぬという迫力を孕んだナミの言に加えて、任せたぞという含みを乗せた、皆からの真摯な眼差しを向けられて、
「…判った。何とか、頑張って…みる。」
 剣豪殿もまた…自分がしなければならないことへの重責をひしひしと感じつつ、くっきりと頷いて見せたのであった。


 で。
「………。」
 皆が出て行った部屋は、空気の色が見えそうなほど急に静かになってしまって。不意に、耳につくほどのものとして聞こえ出した波の音に背中を押されるように、
「…。」
 意を決してベッドへと近寄ると、昏々と眠り続ける見慣れた童顔を覗き込む。こんな状況で…昼間の室内で見つめるというのはそうそうないことなせいか、それとも尋常ではない眠りに捕まっている彼だからか、どこかよそよそしい寝顔に見えた。いつもなら、夜中であれ昼寝であれ、眠ることさえ幸せそうに食
んでいる彼なのに。そして、そんな屈託のない"日頃"をよくよく知っていたればこそ、今の違和感を敏感に察知出来たゾロでもあった訳だが、
「…。」
 まさかこんな、他の皆様方から"只今睦み合ってます"と意識される只中での…というような、妙な案配に運ぼうとは思いもしなかったものだから、そこはやっぱり少なくはない抵抗がある。人前で公然といちゃいちゃ出来るほどの強心臓ではないし、一応のたしなみというか羞恥心というかもある。それにそれに、感情にせよ触れ合いにせよ、自分たちだけの大切なものだからこそ、他人に見せびらかしたりひけらかしたりするものではないという感覚もある。だが、
「………。」
 そういった何かにこだわっている場合ではない。一刻を争うのだと、先程自分へと投げかけられたナミの台詞を思い出す。真っ直ぐ天井を向いて横になった彼の、その顔の両脇、癖のない黒髪の裾が散っているシーツの上へと手を突くと、
「………。」
 覆いかぶさって…そっと唇を重ねてみることにする。間近になる甘い匂い。甘いものが好きだからか、自身からもどこかさらさらとした蜜のような匂いのする少年で。その香りが彼自身の温みを帯びて肌身に伝わって来るほどまで近くに寄って。いつもなら、ここで、含羞
はにかみながらも嬉しそうに、それはやわらかに微笑ってくれるのだがと、どこか寂しいものを覚えながらもそっと唇を触れさせる。閉じている時は意外に小さくて柔らかなその部分は、温かさは同じではあったが、気のせいか日頃より張りがなく、
「…ルフィ?」
 軽く触れたまま、名前を呼んだが、
「………。」
 変化はない。規則正しい寝息が刻まれているばかりだ。
「…っ。」
 戸惑ったりおたついたりしている場合ではない。そのまま頭と背中の下へと雄々しい腕を差し込んで、体が軽く浮くほどに、懐ろの中、大切そうに抱き込むと、うっすらと触れ合わさっている唇の隙間を突くような、先程とは格段に深さの違う口づけをする。その角度を互い違いに噛み合わせ、咬みつくように喰らいついて、
"…ルフィ。"
 直接の声は出せないが、祈るように念じるように呼びかける。愛しい存在、大切な少年。どうか届けと一心に。………すると、
「………ん。」
 小さな小さな声がして、眉を微かに震わせたから、
「ルフィ?」
 すかさずという勢いで声をかける。瞼も動かず、表情も何ら変わらぬままであったが、
「…鍵。」
 小さな声での呟きが唇から零れた。
「鍵?」
 声や吐息でさえ影響が出かねないほどの壊れ物を扱うように、そっとそっと訊き返すと、寝言に独特の、曖昧な力のなさで繰り返す。
「…鍵がないって、言うんだ。かぎ、ないと…開かないか、ら…。」



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