5
翌日のクリスマス・イブ。ルフィは早速メールで呼び出され、サンジが滞在中のホテルへと招かれた。安っぽいあからさまなクリスマス・デコレーションなぞ一切ないシックなロビーには、冬らしいムーディなインストールメンタルが穏やかに流れていて。世間の雑踏から隔絶されたような此処は、相変わらずの一流ホテルの、しかもインペリアル・スィートルーム。身ひとつでやって来ても満ち足りたままに過ごせるよう、完璧な設備とサービスが待ち構えている空間だ。そういう意味合いからの選択らしいところは相変わらずだが、手荷物が増えているのが以前とは違う。脱いだコートを預け、その間にざっと見回した部屋のあちこちに、さりげなく置かれた私物、愛用品というのが増えていて、それはすなわち…さすがに今は生きることへの執着が出て来た彼なのだろうということをルフィへも悟らせた。ソファーの背に引っ掛けられた室内着。手に取って、そこに馴染んだ匂いと暖かさに何故だかホッとする。
「サンジって"アラバスタ"って名前だったのか?」
ルームサービスへの領収書レシートだろう、テーブルのうえに伝票があって、そこにそんな名前が走り書きされている。
「違うよ。今、専属で経営管理を担当してる財団の名前だ。そろそろ本名も使って良いんだが、何か慣れなくてな。」
「変なの。」
くすくすと笑うルフィの髪を、傍へと寄った懐かしい温かさの手がくしゃりと掻き混ぜた。しつけの良い、しなやかな指。馴染みの良い感触に、ルフィの側でも嬉しそうに微笑って見せる。
「ところで…お前、奴とはどうなんだ?」
「どうって?」
用意されていたらしいケーキとオレンジジュース。ソファーに掛けたルフィの前へそれらを並べたサンジは、
「俺に誤間化しを言うかな、こいつは。あれほど…日本より親兄弟より固執してたお兄さんだろうがよ。」
そうと言って煙草に火を点ける。
「………。」
暗に何が言いたい彼か、こちらも実はすぐさま察しがついていて。
「どうって…別に変わりはないさ。ゾロは相変わらず、男臭くてカッコ良くって。やさしく頼もしくって、でも、怒る時はきっちり怒って、凄げぇ怖いんだぜ?」
ルフィは屈託なさげに微笑ってそうと答えたが、
「それは前にもさんざん聞いた。その素敵なお兄さんと、何か進展はあったのかと訊いてるんだよ、俺は。」
サンジの表情は動かない。顔の半分近くを覆う金の髪。だが、その陰からもじっと見据えられているのは明らかで。容赦なく…という観のある言及に、
「ゾロの事は凄っごく好きだけど、でも男同士だもんな。どうなるもんでもないさ。」
けろりと言って、
「良いんだ、俺、ずっと"弟分"で。」
笑って見せるルフィだ。だが、
「それで良いのか? ホントに。奴に彼女でも出来たらどうすんだ。」
「………。」
恐らくは換気システムもしっかり整っているのだろう。サンジの指先、くゆっている煙草の紫煙の匂いはそれほどには籠もっていない。けれど、何か…妙に温かで離れがたい匂いがするのに気がついた。煙草の独特な香りがしたせいで際立った、これまで気がつかなかった匂い。顎を引いて視線を落としたルフィのその頬に、大きめのシャツの襟が触れた。半ば強引に"お下がり"として譲ってもらって、お気に入りの普段着にと着回しているゾロのシャツ。これを着て寛いでいる姿がかっこよくって。ふざけて膝に上った時の、このシャツ越しの胸元の温かさが心地よくって。それで勝手に自分の私物扱いにして着ていたら、苦笑混じりに"やる"と言われたオフホワイトのシャツ。ちゃんと洗っているのに、仄かな残り香が染みていたらしくて。そして、その温みが…何故だかルフィの喉を強ばらせる。
「どうした?」
胸が痛い。まぶたが熱い。どうしてだろう。大好きな匂いなのに。甘えて、甘やかされて。毎日、とっても楽しいのに。なんで、こんなに鼻の奥がツンツンするんだろう。何か言おうと、せめて微笑おうとした口許が強こわばって引き吊る。悲しいこと、辛いことへ引き摺り込まれそうで、抵抗しようとすればするほど…微笑おうとすればするほど、口許が歪んで上手く開かない。
「………辛いから見ないでいようって、気づかない振りしてようって思ってたのに。
忘れていればうまく行くって思ってたのに。」
「…ルフィ?」
テーブルの白い陶器の灰皿に置かれた紙巻き煙草。糸のような細い紫煙がその先から立ちのぼる。いつも傍らにあったもの。煙草を吸わないゾロとの同居が始まってからは縁がなくなったもの。
『もうっ! そこらに灰がこぼれるから歩き回って吸うのはやめろよなっ!』
『へいへい。』
ホントは滅多にそんな行儀の悪いことはしなかったサンジで。後々じっくり思い出してみると、長いお留守番の後ばかりに限って、ルフィの手を焼かせるような"おイタ"をし倒した彼だった。甘えるのが苦手な彼らしい、手を焼かせて構われることでの甘え方。そして、それが…偉そうに大人ぶれるのがルフィの側でも何だか嬉しかったっけ。
『…あ、ここに居た。電話だよ。』
『良く分かったな。』
『だって、煙草の匂いがしたもん♪』
何も言わなくても言われなくても、察しがついたり気を回せたりした。けどでも、きっとその大部分は、わざとサンジの側から隙を見せたり手を差し伸べてくれていたればこそのものだったのだろうと、今になって気がついた。とっても大人でやさしくて、まだまだ子供な自分より一回りも二回りも大きな懐ろの中へ、いつもいつもやわらかく包み込んでくれていて。
「サンジ、前と一緒で何でも知ってて、何も言わないでも判ってくれるから。
なんか…無かったことにしとこうって思ってたこと、そうじゃないんだろって見透かされてるみたいで。」
しごく簡単に至れり尽くせりをこなせる、察しのいい眸。逆に言えば、稚拙な誤間化しの利かない鋭い眸。
「………。」
気にしてないよと言いながら、ホントは気にしてる…というのは良くある話で。背中を向けて気がついてない振りをするのは、背後に"有る"と判っているから。そんな想いなんて無いと意識することで、そこに"有る"と認めている矛盾。
「いつかはそうなるんだよな。恋人とか好きな人とか、ただの従兄弟なんかより大切な人が出来てさ…。」
ぐしっと目許を手の甲で擦って、
「俺、もう限界かも知んない。このままゾロの傍にいたら、心がズタズタになっちゃうかも知れないよう。」
ずっと不安で、でも、ずっと我慢してた。口に出せば認めることになり、認めればいつか…遠からず現実のものとなりそうで。あれほど不安定だった筈な七年間をそれと気づかせずにいてくれた、いつもいつも守ってくれていた、慰めてくれていた、限りなくやさしい腕が目の前にあったことが引き金になったか、涙の滲んだ声は微妙に高まっていて、
「…ほら。」
傍らまで寄って、そっと広げられた腕に素直に惹き寄せられて、そのまま凭れるように身をゆだねた。そっと包み込まれると、懐かしい香りと温もりに自然とため息が零れる。まるで親の懐ろへと戻ったような、心地いい安心感に満たされた。大好きなゾロと再会出来てあんなに嬉しかったのに、いつしかそれが段々と辛くなった。ただの従兄弟同士でただの居候。そんなような曖昧な立場。それどころか、やさしい彼の時間や生活を束縛して、徒に困らせているばかりな存在なのかも。サンジと一緒に居た時の方が安らかで平穏だったかもと、そんなことまで時々考えるようになってもいた。
「………。」
そんな後ろ向きな彼では無かった筈だのに…それだけ怖い思いをしていたのだろう。息を殺すように啜り泣いている小さな背中。こんな泣き方をする子ではなかったのにと、それもまたサンジにはほろ苦い。白い灰を長く延ばして、いつの間にやら火も消えている灰皿の煙草。見るともなく、それをぼんやりと視野に収めていたサンジだったが、
「…このまま俺と一緒に来るか?」
「………。」
顔を上げられない。そんなこと出来っこない。けれど…即座に断れないのは何故だろう。居心地のいい場所。何でも察してくれるやさしい温み。ナミという伴侶が出来た彼ではあるが、それでも何もかも心得ていての気遣いを沢山そそいで、大切にしてくれるだろうことは間違いない。それに…一番好きな人から拒まれるという究極の痛みからは、確実に遠ざかることが出来る。
「…俺…。」
ルフィが小さな声を放ちかかったその時だ。
「そんなことは許さない。」
聞き間違えようのない低い声がして、え?と顔を上げた少年の視野の中、隣室へと続く刳り貫きになった戸口に立っていたのは、
「…ゾロ?」
まだ昼間で、就業時間中で。此処に居るはずのない人物だ。だのに何で此処に…とビックリしている様子に構わず、大股に傍まで来て腕を伸ばし、やや乱暴に肩口を掴む。ぐいと引っ張って振り向かせ、軽々と両腕で抱き上げて自分の腕の中へ、少年の小さな身体を奪い返す。一瞬のことではなかったが、その間中、まるで時間が止まってしまったかのように体が動かず。抱え上げられたその瞬間、ハッと我に返った途端に、胸がどきどきと強く脈打ち出したのを、頬や耳が熱くなるのを、まざまざと感じたルフィだ。ただただ安心し切っていられるサンジの懐ろとは明らかに違う、全身がこのまま沸騰して蕩けてしまいそうになる匂いと温み。
「7年だ。毎年思い出すほど、ずっとずっと片思いしてたんだぜ? やっと本人を捕まえたのに…。」
夢心地なままな耳元へ届いた声は、どこか思い詰めたような焦れた響きを滲ませていて。何が何だか分からずに、呆気に取られたままなルフィに代わるように、
「捕まえたのに?」
先を続けなというノリで応じたのは、新しい煙草へと火を点けたサンジである。そんな彼をきつく睨んで、
「…お前。」
仕組んだなというゾロからの眼差しを敢あえて受け止め、
「ああ、そうだ。俺はルフィじゃなく"お前さん"にちょっかいを出しに来たんだよ。」
此処に、こうまでタイミングよく呼んでおいたのも、当然彼の仕業。後で訊いたら、商談の打ち合わせに来てくれと、ゾロの上司からの言伝てを受けてやって来ていたゾロだったというから…業界ではそこまで大者だったのだ、サンジは。ほんのつい先程、ルフィより少しばかり先に来ていた彼で、ルフィ来訪のチャイムの音に、隣りの部屋へ"こっちの部屋で待ってな"と追いやっておき、こちらの会話のどこで飛び出してくるか、ある意味、試していたサンジであったらしい。
「ルフィからのメールなんかから、全然進展していないことはあっさり窺えてたからな。どうしたもんかとずっと考えてた。」
やわらかな表情のまま、はんなりと微笑っているサンジだが、眸に帯びた光だけは鋭くて、
「このままあんたの傍に置いといて、どんどん傷ついていくばかりなようなら、力づくででも連れて行こうと思ってた。」
ゾロの懐ろの随分と深みへ取り込まれたまま、依然として何だか翻弄されたような顔でいる愛しい子の黒髪をそっと撫でる。まるで…父親というより母親のそれを思わせる、たいそう甘やかな表情。
「この半年の間、全く気がつかなかったのか? この子がどれほど気を遣い、我慢し続けていたのか。相手に遠慮なんかせずに甘えたおして、困らせるくらいの我儘が言えて、本気で"嫌いだ"って罵れるような喧嘩も出来て。それで初めて"家族"だろうが。」
「………。」
彼からの指摘に、返せるだけの言葉が見つからなかった。例えに出された中のどれにも覚えがない。そして、言われてみれば…そうまで大人しい、卒のないルフィというのはあまりにも"彼らしく"ない。それが判る自分である以上、不甲斐ない話だが認めざるを得ない。懸命だった彼に比して、随分うっかりと、はたまたぼんやりと、ちゃんと踏み込もうとせぬままに接していた自分であるとだ。
「ただ、この子はあんたが一番好きなんだ。それをまずは何とかしてやりたくてな。」
ゾロを鋭く射貫かんばかりに見やっていたサンジの眸がふわりと和む。気に入らない相手だが、愛しいこの子にとっては大切なのなら已を得まいかというような、仄かな妥協のこもった表情。
「幸い、脈はあるって判っていたし。それで、この子を7年忘れなかったってことを、わざわざ突々きに来たって訳だ。それにどういう意味があるのか、あっさりと忘れてもらったり圧し殺されたりしちゃあ、やはり7年想ってたルフィが可哀想だ。」
7年間。昨日からこっち、彼が口にし続けていたその言葉の意味が、今やっと判ったゾロである。
「大事にしないと許さない。」
逃れることを許さないとする強い眸に、こちらもまた揺るぎない眸が応じていた。
「ああ。言われるまでもないさ。」
TOP/NEXT→**
|